お名前変換

高校受験


 息子の東京での入試日が目前に迫って来て、いつもよりも彼が机に向かう姿を見る様になって久しい。冬休みが終わってからは、だいぶ受験勉強にも身が入っているようだ。東京で、蘭と竜胆くんのところにお世話になった冬休みの経験が彼にとってどのようなものだったかはわからないけれど、なんだか少し大きくなったように見えるのはきっと私の気のせいではない。
「ね。やっぱナマエも行こうよ」
「らんちゃん、もうひとりで平気でしょ?竜胆くんも居るんだし」
「そりゃ、竜胆がいれば迷子にはなんねーけど」
 向こうに行くと優しい叔父さんがなんだかんだ車で送り迎えをしてくれるそうで、今度の入試も竜胆くんが学校まで送り迎えをしてくれる事になっていたはずだ。高校入試の日は前日から蘭と竜胆くんが住んでるマンションに泊めてもらって、息子の志望校まで竜胆くんが送迎をしてくれると、蘭が電話で言っていた。
 竜胆くんが一緒なら息子も心強いだろうと、蘭と竜胆くんの行為に甘えている私は、息子の高校入試に付き添うつもりは毛頭ない。
 クリスマスのあの一晩を経ても、尚も変わらず毎日の様にあの時間帯に電話をかけてきて「愛してる」と繰り返すだけの蘭の顔を見るのが怖かった。
 
 蘭の事だから、東京では若くて可愛い女の子が相手をしてくれるだろうし、昔、蘭の思いも寄らないところで彼の前から姿を消したような私だから、彼の中で変な蟠りが残っているのだろう。たまたま遠くにいるものだから、簡単に手が届く距離に居ないことを良い事に、暇潰しに揶揄いたいのかもしれない。
 顔を見なければ、蘭の揶揄いにも当たり障りのない相槌くらい打っていられる。息子と蘭との繋がりはあれど、このまま私と蘭の繋がりなんて表面上の連絡網と化す日もいずれやってくる。次に会う機会があるとしたら、息子の結婚式だなんていうおめでたい席かもしれない。
 息子の結婚式か。私、ちゃんと祝ってあげられるかな。らんちゃんに、置いてかないで。とか、思っちゃうな。
「ねー、ナマエ?」
「んー?」
「確かに向こうには竜胆も親父も居るんだけどさ、俺、ナマエと一緒がいい。だめ?」
 小首を傾げてこちらを見る息子のその表情が、あまりにも昔の蘭にそっくりで目を見張ってしまった。
「落ちたら東京行く機会なんか全然無くなるし、一緒にいこーよ。ね?」
 彼の言い分はご尤もで、この先息子と二人で出掛けるなんて機会自体が減っていくであろう事は嫌でも予想がつく。だから、一つだけ条件を添えて息子のおねだりに頷いてしまったのだ。
「でも、お父さんのとこには行かないよ?」
「もちろん♡親父からもらった金で新幹線の指定席二枚買ってい?学校の近くでホテルとってよ」
 同行を了承するやいなや、誕生日に蘭に買ってもったらしいタブレットを操作し始める息子の手元を見守って買った切符でやって来た東京。
 息子の試験前日の夜に乗った新幹線の中でも、私のスマホは蘭からの着信を知らせたが、出なかった。車内だし隣には息子が居るし、蘭も明日が息子の試験日だと知っているし、出られるわけないじゃない。

 晴天に恵まれても息子の試験には何の関係もないのだけど、とてもよく晴れた空の下で、中学の制服を着込んだ息子を見送った。今朝起きてからずっと、とても緊張した様子の息子を気に病みながら、ホテルの部屋に戻り、意味もなくソワソワとしてしまう。私がソワソワなんてしたって彼の試験結果は変わらないのに、気持ちは全く落ち着かない。蘭から着信があって咄嗟に取ってしまったのは、そんな時だった。
「昨日は忙しかった?」
「らんちゃんと新幹線乗ってたから」
「ナマエと行くから迎えはいらないって言われて竜胆超凹んでんだけど」
「竜胆くんに邪魔してごめんねって言っておいて」
「で?今どこ?」
「ホテルの、部屋」
「どこの?」
「学校の近くだけど」
「ふうん。近くなったら電話するから」
「やだ、会わないよ」
「アイツの試験終わるまでそこでヤキモキしてても仕方ねーだろ。オマエが好きそうなカフェが近くにあるから、出ておいで」
「蘭ちゃ……」
「支度して」
 私の返事なんて聞かない蘭は、要件だけ告げて通話を切った。続いてピコンっとスマホが音を鳴らしたのは、蘭からカフェの情報が届いたから。
 急に蘭に「支度して」なんて言われても、蘭の隣を歩けるような服なんて持ってない。いやもう、その発想自体がどうかしている。クリスマスプレゼントと蘭が押し付けていったリップを塗り直してしまうなんて、本当どうかしている。
 蘭には会わないはずで、息子にも「お父さんのところには行かない」という条件を提示したその口は、蘭が選んだピンクで色付いた。
 そうこうしているうちに再び蘭が私のスマホを鳴らして、ホテルから出てくる様に誘う。私が路上に出たところで、黒塗りの高級車から蘭が降りて来た。フルスモークのいかにもな車の、革張りのシートに座るよう促されて、静かに従った私の隣に蘭が乗り込み、扉が閉まった。
 そこから少し走った先の角を曲がって停車した車から蘭と連れ立って降りると、確かにかわいらしい店構えの素敵なカフェがそこにあった。

 私の向かい側の席で長い足を組んで、繊細なティーポットから甘い匂いのする紅茶をカップに注ぐ蘭は、この店内で一番浮いていた。女性客ばかりの店内に、いかにも堅気では無さそうなスーツを着た七三分けの男が馴染むはずなんてない。
 違和感しかないその体を丸めて可愛らしい装いのカップに口を付けた蘭は、白い湯気と共に甘い匂いを上らす赤い液体を喉に下して、こちらを真っ直ぐに見た。
「やっぱりいいね、そのリップ」
 やわらかな声音で紡ぐ社交辞令に礼を述べて、蘭が頼んだケーキにフォークを入れる。一口大に切り分けて口の中に放ったそれは、口当たりがふんわりとして、頬張った中はしっとりとしていて美味しい。
 蘭か選んで私に与えるものはなんでも美味しい。昔から、蘭の周りは美味しくて素敵なもので溢れている。そんな素敵な空間で美味しいケーキを挟んで、蘭が口を開く。
「会いたかった」
「ホテルはらんちゃんに聞いたの?」
「急にウチに泊まらねぇって言い出したと思ったら、今度はナマエと来るって言うからさ。その流れで」
「そう」
「アイツには何も言ってねーよ」
 蘭が言うその「何も」が、ナニを表すのかなんて、怖くて聞けなかった。
 蘭の左手の薬指には、昔私達がお揃いで嵌めていたペアリングが今日も嵌っている。どういうつもりで彼が今それを身に付けているのかも、怖くて聞けなかった。
 蘭が毎晩スマホ越しに寄越してくる「愛してる」を、どういうつもりで私に言っているのかも、怖くて聞けなかった。
「今日の結果はいつ解る?」
「いつだろ……」
「まぁ、アイツが把握してれば間違いないか。オマエは、自分のオトコの事でもぼんやりしているな」
「そんな事ないし、あの子はオトコとかじゃなくて、息子だよ」
「じゃあ、そろそろ俺をオマエのオトコにする気になった?」
「私なんかより……蘭ちゃんに似合う人は、たくさんいるでしょう?」
「……まぁ?」
 カップをゆったりとソーサに置くその仕草すらも洗練されていて素敵だ。
「だから、やっぱり私は蘭ちゃんに並べないよ。あの頃とはもう全然違うの、解ってるでしょ?」
「そりゃ15年も経てば……俺も歳を食ったし、オマエのご両親に正直に話せる仕事もしてないし。オマエも気づいてんだろ?」
 蘭は言い切ってからスーツの襟から伸びる喉に彫られたタトゥーを指差す。私が見て見ぬふりをしてきたそれを指し示されて、蘭にはこれ以上曖昧にするつもりは無いのだと知る。
「そんなタトゥーだらけのオトコ、趣味じゃない」
「大事な大事な一人息子に世界一かっけータトゥーを語り継いでる女が、よく言うワ」
「浮気ばっかりして約束破ってばっかりする人もイヤ」
「もう、そんな余裕も体力もねぇし」
「恐喝まがいな事して気を引こうとするし」
「元々そういう性分でな」
「私の飲み物もケーキも勝手に頼んじゃうし」
「美味かったろ?」
「私、ほら……もう、見るからにおばさんになったし」
「ヒアルロン酸とかボトックスとか打たねぇで、なーんも手ぇ入れてないとこがかわいーんだよ」
「そうやって、かわいいってばっか言うし」
「意地張ってねーで認めろよ」
「なにをよ?」
「俺のこと今でも好きだって」
「……」
「俺は、今でもオマエを愛してる。言ったろ?ずっと探してたって」
「蘭ちゃ……」
「ふとした時にあの時のナマエ可愛かったなって思い出してた女がさ、夢じゃなくてここに居るんだから。もう一度口説くだろ、普通」
「そんな事ない」
「それを決めるのはオマエじゃなくて、俺な」
「横暴……」
「なぁ、ナマエ。もう一度俺をオマエのオトコにして」
「……」
 いつも私を丸め込んでゆく蘭の言葉に返すべき音を探している私の目の前で、スマホが着信を知らせて鳴り出す。発信者である息子の名前は蘭の目にも入ったようで、彼は苦笑まじりに「時間切れだな」と、呟いた。

 一言断ってからスマホを片手に席を立ち、店の外に出て息子と話していると、少しして蘭が店から出て来た。電話で話す私の肩へ、店内に置いてきてしまったコートを蘭がかけた。
「私も今外に居るから、ホテルに戻るね。ロビーで待ち合わせしよう」
 私の提案を承諾した息子からの通話が切れて、スマホをコートのポケットにしまってからコートに袖を通した私の隣を、蘭が歩き出す。彼の腕は私の腰に周り、店内から持ち出して来てくれた私のバッグも蘭の手の中。
「ごちそうさま。一人で帰れるよ」
「送るよ」
「だめ。らんちゃんには、お父さんのとこには行かないって約束で来てるの」
「なんだそれは」
 ぱちりと目を瞬いた蘭が、鼻で笑ってから私のバッグをこちらに差し出した。
「テメェのオトコとの約束破ってまで俺に会いに来たって事?」
「別にっ……ん……」
 蘭からバッグを受け取り、彼の言葉に反論する私の肘を蘭が掴んだ。そして私が蘭に伝えたかった言葉達は蘭に食べられてゆく。
 ちゅうっと音を立てて私の唇を解放した蘭は、ぱっと私の肘と腰からも両手を離す。
「間男は退散しますか」
 そう言って私の前を歩き出した蘭は、こちらを振り向く事なく少し先の交差点を左折した。

 ホテルに戻ると、既に息子はロビーに居た。
「おつかれさま。どうだった?」
「いい感じかも!」
 そう言う彼の表情には今朝とは打って変わって、今日の空の様に晴々しい。
「すごいね」
「部屋戻って着替えて出掛けよう。ナマエを連れて行きたいとこ、いっぱいあるんだ」
 腕を絡めて強請ってくる彼は、ゆっくりとエレベーターホールに向かって歩き出す。あんなに小さかった息子が、私の身長に追いついて、追い越して、いつの間にかまた身長差かが開いたみたい。まだまだ蘭みたいに大きくなりそうな息子と並んで足を進めた。
 
 

 
 
 
 
 


NEXT

TOP