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夏休みの計画



私の初めてのお給料は、高校生の時に地元の駅前にある飲食店でのアルバイトで稼いだお給料だった。何に使ったのかはもう思い出せない。
高校生の夏休みに初めてのお給料を得る息子のお給料の使い方は、家にお金を入れることと、地元で暮らす祖父母に会いに行く事だったみたい。
「バイト代出たから、ばーちゃんとこ行ってくる」
そう言い出した彼は、愛用のタブレットで新幹線の切符を買っていた。その手つきはもう、慣れたものである。
「それは良いんだけど、らんちゃん一人で大丈夫?」
口にしてから、今更な質問だったかなと気づく。
地元にいた頃、私よりも東京との往復をしていた彼はもちろん、一人で大丈夫に決まっている。春に二人で上京してきてからは、なおさらしっかりして頼り甲斐のある息子に向ける言葉ではなかったにも関わらず、彼は笑顔で受け応える。
「もちろん。一人で大丈夫」
タブレットの画面から顔を上げて、こちらへ視線を寄越した息子がふわりとした綺麗な笑みを見せた。
「ナマエは?俺がいない間、一人暮らしになっちゃうけど大丈夫?」
手元のタブレットをテーブルの上に置き、僅かに首を傾げてみせた息子に、苦笑を向けながら「大丈夫だよ」と伝えたのだけど、彼は首を傾げたまま。
息子が産まれる前は東京で一人暮らしをしていた事もあるんだし、大丈夫じゃない訳がないと思うのに、彼はなにをそんなに危惧しているのだろうか。どちらが親だか解らないような息子の言い分におかしくなってしまって声を出して笑ってしまったところで、部屋のインターホンが鳴った。
頼んでいた通販が届いたのだろうと玄関へと向かう私の後ろを、息子もついてくる。
「はーい」
言いながら玄関の鍵を開けて扉を押し開いた先に居たのは、荷物を抱えた運送会社の制服を着た人ではなくて、光沢のあるスリーピースのスーツに身を包んだ反社会的勢力の男だった。
「蘭ちゃん……?」
「……親父?」
「らんも居たのか。ナマエは、来客が誰か確認してから開けろー?俺じゃなかったら、どーすんだよ」
「宅急便来たのかと思って……びっくりしちゃった」
「オマエな……」
蘭は呆れた様に溜息を吐き、私が大きく開け開いた玄関のドアを潜る。狭い玄関で艶々とした革靴の紐を解く蘭は私の仕事のシフトを把握している。今日のこの時間なら私が家に居ることを見越してやってきたのだろう。蘭とはなんの約束もしていなかった。
息子や竜胆くんと花火に行った晩に、昼間の時間帯にダイヤを取りに来ると言っていたけれど、今日がそれなのだろうか。蘭の目的が解らないまま、蘭をリビングへと招き入れる。
冷たい飲み物を食卓へと準備する間、これから出掛ける息子が蘭に駅まで送ってと強請っていた。
「俺は夏休みで暇なテメェと違って仕事中なんだよ」
「仕事中なら、またその辺で車待たせてんだろ?」
「まぁな」
「つーか、親父だって仕事サボってナマエんとこ来たんだから暇じゃん」
「仕事の合間に貴重な時間を縫ってなー?」
「そこまでしてナマエに何の用事があンだよ」
「ら、蘭ちゃん!今、持ってくるから。すぐ!忙しいのに寄ってもらってごめんね!ちょっと待ってて」
なにやら言い争っている彼らに声を張って告げ、慌てて自分の部屋へと向かう。蘭から預かっているダイヤのリングが収まった箱を小さな紙袋へ入れて部屋から持ち出した。
リビングにいる蘭の元へと駆け寄り、大きなダイヤのリングが入った紙袋を手渡す。
「はい。これ……わざわざ取りに来てくれてありがとう。助かっちゃった」
そのまま蘭を追い出したい私は、蘭を玄関へとお見送りすべくリビングのドアを開く。すると、息子と蘭とが視線を合わせてから私を見た。そして、息子が蘭の方へと向き直る。
「ナマエの用事済んだんなら、行こうぜ!親父」
「テメェももう高校生なんだから一人で行けるだろ」
「えー。でも駅、ちょっと遠いし心配だろ?ほら、俺、親父に似て可愛いしー?」
「駅まで乗せてもらいたいだけだろ」
「んな事ぁ、ないってー。もー行かないと。行ってきまーす!ナマエ!」
自分よりも大きな身体をした蘭を引きずる様にして、息子がリビングを出てゆく。蘭がその気になれば簡単に振り払えるだろうに、そうはせず、息子と共に蘭は玄関へと向かって行った。
仲が良いのか悪いのかよくわからない様な彼らの後ろをついて玄関へと向かった私にひらひらと手を振る蘭を、息子が引っ張って玄関から出て行く。慌ただしい足音が響くが、すぐにそれも聞こえなくなる。
蘭に何て言いながらあのダイヤを返すか悩んでいたのだけど、何も私に言うタイミングは起きぬまま。拍子抜けしてしまったのだけど、あのリングが私の手元から蘭の元へと戻った事に安心感と少しの寂しさを感じていた。
いつか記念日ダイヤのリングのプレゼントとプロポーズをされたいだなんて、まだ可愛い夢を胸に抱いていた十代頃の私の言葉が脳裏を駆け巡る。そんな頃もあったな。なんて、それは遠い昔の思い出だ。
◆
親父がウチの近くに待たせていた車の後部座席に親父に続いて乗り込み、俺と親父との間のシートに置いた小さな紙袋が気になって仕方がない。
ナマエから親父へ渡したそれは、ナマエが親父に取りに来てもらったものだと、先程の両親の会話から理解したものの、俺にはこれが何なのか解らない。最近ずっとナマエの様子がおかしい原因がこれではないかとふんだのだ。
元々呆けてるところがあるナマエがさらにぼんやりと上の空に生きているその理由が知りたかったし、そうさせているのが俺の親父であるならば、なんとかしないと。もう子供じゃないんだから、俺だってナマエの事を守りたい。
「なー、これ何?」
大事な事はなんにも教えてくれないナマエよりも、口が軽い親父に尋ねたのは好奇心が八割。あとの二割は、大切な人を守るための正義感。
「こっちはオマエにはやらねーよ」
「はー?だから何かって聞いてんじゃん。くれなんて、言ってなくねー?」
「確かに」
「だろー?」
「ナマエに贈ったら突き返されたダイヤだよ。見てもいーけど、汚ねぇ手でさわんなよ」
「は?親父、ナマエにダイヤなんて贈ったの?俺、聞いてねーんだけど」
「なんでわざわざテメェに言わなきゃなんねーんだよ」
「いや、親父じゃなくてナマエから」
「は?」
「だって、なんかそれ、そういうのプロポーズみてぇじゃん」
「プロポーズだよ」
「へ?親父、ナマエにフられたの?」
「別に、そういうんじゃねーよ」
「え。だって、親父とナマエまた付き合ってんじゃねーの?」
「いいや?」
思わずあんぐりと口を開けたまま見つめた親父は、肩をすかして僅かに首を左右に振った。
上京してきてからのナマエの感じから、また親父と付き合い始めたのかと思ってたのに、そうではないと言うのにダイヤを贈ったとか言い出すから、もう俺は何を信じていいのか解らない。
「は?」
「今更恋人なんかいらねぇって、ナマエにはだいぶ前に言われてるしな」
「え。ちょっと待てって、マジ?わ、落ち着けってー」
「いや、まずはオマエが落ち着けよ」
そう言われたって落ち着いてなんていられない俺とは対照的に落ち着き払って余裕そうな笑みまで浮かべちゃってる親父に腹が立つから、やっぱり落ち着いてなんていられなくて、マジでパニくる。
は?どゆこと?親父とヨリを戻しても、ナマエがそれで幸せならいーやって思ってた俺ってナニ?
「つかさ。親父とナマエってなんなの?ドウイウ関係?」
「俺はフィアンセのつもりだけど」
「親父の願望は聞いてねーし」
「セフレも気持ちがのれば恋人みたいなモンだろ」
「はぁあ?」
「オマエもそのうちわかるよ」
母国語ではあれどまったく理解できない事を言い出す親父に様々な感情が湧き上がるのだけど、それらを上手く消化して言葉になんてできない俺を心底馬鹿にした様な表情をして親父は言う。
わかってたまるか、そんなもの!
◆
2006年 8月24日(木)
「ねね!蘭ちゃん、見て見て!ベランダに温泉あるよ‼︎」
学校の夏休みの終わりも近づいてきた頃の日程で、蘭と計画した温泉旅行。
新宿から、見た事のない電車に乗って、すぐにうつらうつらし始めた蘭にしばしの間ずっと右の肩を貸して辿り着いた先は、テレビで見た事がある有名な温泉地だった。宿の予約も何もかもが蘭任せだったので、どんなところに連れてきてくれるのかと私は数日前から期待に胸を膨らませ、蘭に笑われてしまう程盛大にわくわくしていたのだ。
「なにこれ、すっごーい!」
本日もう何十回も口にしている台詞に、蘭はまた柔らかな笑みを浮かべた。
「ナマエほんとさっきからそればっかりなー?」
「だって、こんなの記念日とかの特別な旅行みたいじゃん」
「じゃ、初めて二人で旅行する記念日でいーだろ、もう」
「よくないよ!記念日にそんな投げやりなの嫌だもん」
「じゃー、どんな記念日が良いんだよ」
「記念日に素敵なホテルでダイヤのリングのプレゼントとか‼︎」
「はー?馬鹿ばっか言ってねーで、オマエもさっさと荷物下ろせばー?」
肩にかけた旅行鞄すらまだ下ろさずに、広いベランダが見える大きな窓に駆け寄った私が蘭の方へと振り返ると、蘭はもう荷物は畳の上に置き、座椅子の座布団の上に座っている。
はしゃいであちこち動き回って夢を語っている私が恥ずかしくなる程に蘭は落ち着いていて、すとんっと落ちている長い髪の毛を優雅に耳にかけながらこちらを見る。
「露天風呂つきの部屋、そんな珍しー?」
「お部屋に露天風呂なんて、テレビでしか見た事ないよ。見てみて、すごいよ。お風呂、これ、ひのき?」
「なーに、もう風呂入ンの?」
蘭に言われてみて、部屋の中からすぐそこに見える露天風呂をもう一度視界に入れてから再び蘭の方へと向き直る。
「え。お風呂?」
「入んねーの?」
「入るけど。でも、さっき、おっきい露天風呂がおすすめってホテルの人がっ」
「気になるなら、そっち、先入ってきてもいーけど」
「蘭ちゃんは?」
「俺は別に」
「おっきいお風呂で温泉だよ?行かないの?」
「風呂入ってる間、ナマエと離ればなれじゃん」
蘭が座っている大きな四角い座卓の方へと近づき、蘭が座る向かい側の座椅子の座布団の脇に旅行鞄を下ろすと、蘭が自らが座る横の座椅子の座布団をぽふんっと叩いた。
こっちに来いと蘭に呼ばれている気がして、鞄から手を離してぐるりと座卓の外周を回って、蘭が叩いた座椅子を目指していく。その最中に、蘭が私の行き先である座椅子を自分の方へと引っ張った。随分と蘭に寄った座椅子のふっくらとした座布団の上に、腰を下ろす。すると、蘭が私の手を掴んで緩く握ってくる。
「だからさ、そこのせっまい露天風呂一緒に入ろ」
そこの。と、蘭が顎でお部屋から見えたお風呂を示してみせた。
「えー、おっきいお風呂行こうよ」
「えー、いっしょに入ろうよ」
そこから見える小さな露天風呂ではなく、大きな露天風呂に行きたい私を真似て言ってくる蘭がクスクスと笑いながら私の手を引っ張るから、蘭の方へと倒れ込んだ私を彼が抱き止める。
「だめ?」
蘭の腕の中に収まった私の耳元に唇を寄せてきて、囁く様な甘い声で尋ねてくるから、それに返事なんてできなくなる、ふるふると首を左右に小さく振る事で答えた私の後頭部へ、蘭の大きな掌が触れた。そっと頭を撫でてくるから、心臓が跳ねる。
ばくばくばくと大きな音を立て始めた鼓動を感じながら、小さな声で「あとで、ね」と伝えると蘭の笑い声は大きくなる。
「じゃあ、浴衣着せてやるから、行ってきなよ。おっきい露天風呂」
「え。蘭は?」
「タトゥーはだめだって」
「そっか」
そういえば、チェックインする時にそんな説明もあった気がする。
「俺はここでのんびりしてるから、ナマエものんびりしておいで。浴衣もいろんな色の部屋に置いてるから、好きなの着て良かったんだろ?楽しみーって言ってたじゃん」
チェックイン時の説明で私が最も食い付いた部分を、蘭が口にする。部屋に女性用の浴衣だけ、色浴衣をいくつか用意しているから好きなのを選べると聞いたのだ。
そんな話には、もちろん食い付かずにはいられない。
蘭の腕の中でもそりと動くと、彼は私の頭から掌を離す。そっと顔を上げてみると、蘭はやっぱり穏やかな笑みを浮かべていた。
「実はそれ、すごい楽しみなの。早速浴衣、選んじゃおう」
それだけ伝えて蘭の腕の中から抜け出す。部屋を見回してみれば、色とりどりの浴衣が並べられているのを確かに見つける事ができた。
見るからに旅館の浴衣って感じの男性用のもののわきに、並べられた色浴衣を目指して足を進めてゆくと、蘭もその場から立ち上がりこちらへとやってきた。
「どれにすんの?俺が着せてやるよ」
「自分で着れるよ」
「せっかく着せてやるっつってんのにさー」
「んー……紺色のは持ってるしー、この緑はちょっと趣味じゃないから、やっぱこっちのお花……」
蘭の戯言なんて放っておいて、真剣に浴衣を選び始めた私の脇から長い腕が伸びた。それは私が今、選択しようとしている浴衣ではなくてその隣のものを掴む。
蘭が掴んだものもお花柄ではあるが、紺地に朝顔のお花の柄のちょっとレトロなデザインのものだった。
「えー、こっちのお花のはー?」
「それは透けそうだから、後で」
「後で?」
「そう、後で♡だからさっさと脱げよ、服」
畳まれていた浴衣を開きながら蘭が言う。このままでは本当に蘭に脱がされて着付けをされてしまいそうで、慌てて蘭の手元から紺色の浴衣を奪い取った。
「もう、一人で着れるって言ってるじゃん!」
蘭が選んだのは、確かに透けそうにないしっかりとした生地の濃紺の浴衣で、デザインはあんまり好みではないけれど蘭が選んでくれたものだから間違いがない気がしてくるから不思議だ。
「おっきいお風呂入ってからこれ着るんだから!」
言いながらそそくさと温泉に行く準備をする私を横目に、蘭はまたクスクスと笑っていた。