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梅雨の日の放課後

しとしとと雨が降り注ぐ中、指定された店に着いたことをスマホアプリで知らせ、店内へと足を踏み入れるとすぐに見つかる親父の姿。こんなクソ田舎では目立つその容姿は、彼女には絶対見られたくないものだ。急なリスケにも嫌な顔ひとつせず、文句の一つも寄越さずに順応してくれる可愛い恋人を、こんなクソ親父なんかの目に触れさせてたまるものか。
店のロゴの入ったマグカップでコーヒーを飲んでいる親父は、ノートPCに向かってなんかやってる。背後から近づくとすぐに気付かれて、こちらに振り向いた。
濡れた傘と引き換えに「好きなモン買ってこ〜い」っと、渡された黒いクレジットカードには、RAN HAITANIと記されている。ハイタニって言うんだ。クレジットカードの名義を読んで初めて知った実の親父のフルネーム。その苗字は馴染みのないもの。
ナマエが親父を蘭ちゃんと呼ぶからそんな様な名前してんだろうとは想像していたけれど、俺と名前が丸被りしている事も今初めて知った。
俺、親父と全く同じ名前だったんだ。
親父の名義のカードで買ったドリンクを受け取り、店内を進んでゆく。向かう先は、やはりノートPCと向き合ってる親父の背中。ピンっとした張りと光沢のある高そうなスーツの後ろ姿に、普通の会社員ならなかなか許してもらえなさそうな色した髪。
子供の頃に父親が居ない事を尋ねた俺に、親父の武勇伝を語ったナマエ。ナマエが語る親父は強くてカッコよくて、こんなクソジジイなんかじゃなかった。
親父に買ってもらった最新のiPhoneのクリアケースにも入ってるナマエと六波羅単代の第弐席のプリクラのかっけータトゥーの入ったイキった男が、こんな胡散臭いオッサンになっちまってるのは正直いただけない。しかもうぜーし。マジクソだし。
親父の座る席まで戻ると、こちらに視線すら向ける事なく無言で掌差し出してくる。そこに親父のカードを乗せると、またノールックでカードをしまった。
「座れよ」
親父に促されて向かい側に座ると、ぽんぽんぽんっと立て続けにスマホに通知が届いた。
「お前の頭のレベルわかんねーから、立地と雰囲気でいくつかピックアップしたから。」
通知からメッセージアプリを開いてみると、親父から届いたのは高校の名前とURL。
それを見ながら、ストローに口をつける。リンクをタップして開くと高校のサイトが開いた。
「親父が調べたの?」
「部下に調べさせた。俺がそんな暇そうに見えるか?」
「見える。二時過ぎにはこっち着いてるみたいだったし」
「商談終わりに新幹線乗ったからな。おかげで良い気分転換になって仕事も捗った」
「仕事してたんだ?」
「オマエは俺を何だと思ってる」
「悪い、大人……?」
「それは、あながち間違っちゃいねーな」
ははっと鼻で笑う親父と、iPhoneに飛んできた東京の学校の情報とを交互に見た俺に、親父は言う。
「自分の頭で無理の無さそうなトコを幾つか決めて、夏休みに見に来いよ。足代出すから、ナマエ連れて来い。」
「……え…」
「学校見るなら俺じゃなくてナマエとのが良いだろ。」
「そりゃ、まぁ。もちろん。」
「行きたい高校あるから一緒に来てって、ちゃんとナマエに伝えろ。金の事は心配しなくて良いし、お前もナマエに気を使って我慢すんのやめて良い。」
「気を使ってなんか……」
「お前はいつまでナマエの男のフリしてやるつもりだ?」
「別にそんな事してねーし。」
ぱたんっと音を立てて端末のディスプレイを閉じた親父は、傍らから可愛らしいデザインの紙袋を取り出して、ノートPCの上に置いた。
「これ、ナマエに。それから、これも。」
今度はスーツの内ポケットから茶封筒を取り出して、紙袋に差し込む。
「なにこれ?」
「ナマエが好きそうな焼き菓子と、ナマエが受取拒否した書類」
「自分で渡せよ」
「なに?ナマエに会わせてくれんの?」
「俺同伴でだけど?」
「上等」
「ナマエの仕事終わるまでここで宿題やってい?」
「真面目か」
「いや。親父も仕事しろよ」
宿題進めていく最中つまづいてしまったところがあって、仕事している大人である親父に尋ねてみた。
いつもわからないところを聞けばヒントをくれたり一緒に調べてくれるナマエだから、そのノリで聞いてみただけなんだけど、親父は眉を顰めて心底嫌そうな顔して俺を見る。
「俺、だいたいガッコ行ってねーから勉強の事は聞くな」
「は?中三の宿題だけど、これ…」
「中坊ん時は年少入ってた。何してパクられたか聞きてえ?」
俺を揶揄う様に口角を上げるこの男は、やっぱり信用しちゃいけないのかもしれない。
◆
駅前に居るから仕事が終わったら迎えに来て欲しいという息子からのメッセージをスマホが受信していた。
それに今終わったから行くと返信したものの、既読にはなるがなかなか返事は来ない。
急に迎えに来てなんて、なにかトラブルに巻き込まれたか、はたまた息子が何かやらかしたか。ただ単に雨だから甘えたかっただけなら良いのだけど。
そわそわしてしまう気持ちを抱えながら駅のロータリーに車を停めて、息子に電話した。
すぐに出た彼に居場所を告げると、今行くという言葉を残して通話は途切れた。少ししてから助手席の扉が開いて息子が顔を覗かせた後に、後部座席の扉が開く音。彼の友達も一緒なんて聞いてなくて、驚いてそちらへと顔を向けた私は、ここに居るはずのない人間を見た。
「らんちゃん!」
声を張り息子の名を呼んだ私に、彼と同じ名のその人はニコリと笑みを浮かべた。
「なんで、一緒に居るのよ?」
助手席に座って濡れた傘の処理をしている息子の肘を掴むと、困った様な顔してこちらを見てくる。
彼が春休みに東京へ遊びに行ってから、蘭と連絡を取っているのは知っていたし、先月の蘭の誕生日にだって一緒に居た。父親を知らずに十四年も生きてきた彼が、やっと得た父親と触れ合うのは否定したくないけれど、母親の私に隠れて会うのとかは本当にやめて欲しい。
「ちょっと、進路相談。親父と」
「前も言ったけどさ…高校は行こうよ」
以前、ウチの経済事情から、高校には進学せずに自分も働く言い出した事もある息子へそう告げた。すると、返ってきた言葉は、思いもよらないものだった。
「俺、…行きたい高校ができそう。」
「ほんと!?」
「東京の学校行きたい。親父が一緒に調べてくれてそれで…」
「無理だよ、東京の学校なんて。ウチからチャリで行ける公立じゃなきゃ行かせられない」
「そ、だよな……」
「蘭が何言ったか知らないけど、無理だよ」
「ん……親父、やっぱり…俺……」
私の無理に納得した息子が、後部座席で長い足を斜めにして組んで一部始終を見ていた蘭に振り返る。
「ナマエ、はいこれ」
蘭は偉そうに狭い軽自動車のシートに体を沈ませたまま、私へと茶封筒を差し出した。
「なにこれ」
「オマエが受取拒否した書類と、俺が裏から作らせた口座のキャッシュカード。らんの養育費20年分と、ナマエに相場の倍程度の慰謝料をそれぞれの名義に入金してある。」
そんな蘭の言葉を聞いてしまえば、その茶封筒は絶対受け取ってはならないものである事が理解できた。
蘭はやはり私と彼を、金で解決しないと気が済まないようだ。去年の秋に再会してしまってから散々断ってきた養育費も慰謝料も、この茶封筒に触れでもしたら私が受け取った事にされてしまう。
「らんはこの金で自分の行きたい学校に行けるし、ナマエだって仕事掛け持ちして働かなくたってご両親養っていけるだろ?」
私が一向に受け取らない茶封筒を、蘭は一度車のシートの上に置く。
「らんも、よくやったな。自分の言葉でちゃんとナマエに言えたじゃねーか」
蘭に言われて、ハッと気づいたのは息子の事。彼には生まれる前から家の事や私の事情をずーっとずっと、押し付けてる。
彼が私の意向に従わず、自分の事を自分で決断して伝えてきたのは、これが私達の人生で初めてだ。
「らんちゃん。東京の高校行きたいの?」
「……う、ん。まだどこって決められてるわけじゃないんだけど、夏休みにナマエに一緒に学校見てもらって決めたいし……地元の高校の説明会も今度一緒に行くじゃん?他も見てみたいなって」
考えながら喋っているような息子は、やはり私の表情を窺うようにチラチラと視線を彷徨わせる。必死に空気読もうとしてるのが伝わってきて、胸の内がざわざわした。
「そっか……そしたら夏休み、東京行く?今年は私もボーナス出そうだよ」
「すごいじゃんナマエ」
「うん。だから、夏休みはらんちゃんの行きたい学校の説明会に合わせて東京遊び行こ?」
「行く。ナマエはどこ行きたい?」
私の顔色を窺う事をやめずに私の肯定botになる息子。不意に後部座席の扉が開いた。蘭がドアから出て傘をさす。
「また連絡する」という一言を残して、閉じられた後部座席の扉。シートの上にはあの茶封筒。
慌てて運転席から飛び出した私は、しとしと降り注ぐ雨の中蘭の背中を追いかける。
「蘭ちゃん、待って!」
進める足を止めてこちらを振り向く蘭は、傘も持たずに飛び出した私に傘を差しかけてくるから、彼自身が濡れてしまう。
「濡れるよ?」
「蘭ちゃんのが濡れてる」
「じゃあもっとこっち来て」
長い腕が私の背に周り、彼の方へと背中を押されて一歩近づく。
「らんちゃんの、進路相談ありがとう」
「どういたしまして」
「でも、お願いだから私かららんちゃんを奪わないで」
「そんな事しねぇよ。」
「お金払ったからって、らんちゃんがアナタのものになるわけじゃないよ?」
「そんなの望んでねーし。アイツを産んでここまで育ててきたのはオマエだけど、オマエがらんの未来を奪っちゃいけねぇ…」
「私はそんな事しない!」
「蘭には出来る限りの選択肢を与えてやるべきだ。……オマエは、なんであの時俺に黙って…」
「なによそれ、今更父親ぶらないてよね?」
「父親なんだからぶらせろよ。俺の子なんだから…まぁ今はそれはいい。今は蘭のしたいようにさせて、オマエも忙しいんだろうけどもう少し蘭の話聞いてやれ」
「蘭ちゃん?」
「それから、俺に勉強の事は聞かないよーに躾けといて」
「らんちゃんに?」
「そ。方程式とか聞かれても、わかんねーもん」
「宿題みてくれたんだ」
「なにもしてねーよ。俺はらんを見てただけ。車まで送るよ。」
そうして蘭ちゃんは傘を差し掛けたまま私を運転席のドアの前まで導き、扉を開く。蘭ちゃんの傘の下から運転席へと乗り込むと、蘭ちゃんが扉を閉めた。
「ナマエ?親父なんか言ってた?」
助手席から不安そうに揺れる薄紫がこちらを覗き込み、またさらにあの人に似てきたその瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「方程式はわかんないから聞かないでって」
「なんだよそれは…」
「さぁ?……らんちゃんは、おとーさん…すき?」
「嫌いじゃ無い、かな…」
少しだけはにかむような表情して言った彼の視線は窓の向こうへと向かい、そこには彼に似たあの人が穏やかな表情で佇んでいた。