りんどー、中型犬用の首輪買ってきて。
「兄貴、なぁ。犬種なににしたのー?」
男の声と急に開いた扉に驚き、小さくなって膝を抱えていた体をこれ以上無理って程にさらに縮こめた。
部屋の扉を開いた男は、私を見つけてから一瞬にして顔色を悪くする。そりゃそうだ。私だって、こんな状況をそっちの立ち位置で見かけたら言葉も表情も抜け落ちる。
部屋の真ん中に置かれたケージの中に裸に剥かれた女が膝を抱えて震えてる姿なんて、生きているうちでなかなか目にするものではないだろう。私だって、自分以外にこんな目に遭っている女なんて知らない。
部屋に入ってきた男は、ケージの傍らにあるソファに座って長い足を組み、また長い指でスマホを操作している人間へと向かった。それは、私の飼い主だ。
「兄貴、まさかとは思うけど。俺に買ってくるように言った中型犬用の首輪って、この子の…な、わけねーよな?」
この子って私を指さした男に、私の飼い主は穏やかな笑みを向けて頷いてみせた。
「それのだよ。つけてみようか」
飼い主はスマホをサイドテーブルの上に置いて、こちらに歩み寄る。施錠されていたケージの柵を開いて、床に膝をつき、私を手招いた。
「おいで。言うこと聞けたらもう酷い事はしねぇよ」
そう言う飼い主は、数時間前に私の目の前で私の彼氏の頭を撃ち抜き、怯える私が気絶するまで殴り付けた人だ。気がついたらこの部屋の真ん中のケージの中に素裸にされて入れられてた。恐怖に震えて泣き喚いた私に、飼い主は静かに毅然とした態度で灰谷蘭と名乗った。それから穏やかな低い声が告げた。
「オマエ、今日から俺のペットだから。飼い主の俺の言う事聞いて良い子にしてれば悪いようにはしねーよ」
この男に殴られて切れて腫れた私の唇を、飼い主はぺろりと舐めて微笑んだ。
その飼い主が、おいで。と言っている。従わなければ殴られる。でも、従ったならばこの飼い主は。
膝を抱えた体勢を崩す事はせずに、そろりそろりとケージの中に伸ばされた飼い主のその手へと近づく。
おいで。に、従い飼い主に接近する事ができた私に、飼い主の掌が触れた。大きな仕草で撫でられる。
「偉いな。オマエは…教えればすぐにできるようになる。オマエの男も、もう少し利口ならスクラップになんかされずに済んだのに」
悍ましいものの言い様に、ヒュッと喉が鳴る。私もお利口にできなければ彼氏と同じ道を辿るのだ。
恐怖に震える体に飼い主の手が触れて、私の首に先程の男が買ってきた中型犬用の首輪が取り付けられる。
首にくるりとフィットするそれは、リードに繋がれて、ケージに固定された。
「竜胆すげーわ。お前が選んだ首輪ウチのコにピッタリじゃん」
なんだか上機嫌にそう言って、首輪を持って来た男をふにゃっとした笑顔で見上げる飼い主。
「ウチのコって、マジでその子飼うつもり?リード繋いで、ケージん中で?」
「そ。せっかく拾って来てやったのに、ぷるぷる震えて目ぇうるうるさせてチワワみたいだろ?」
「いきなり殴りかかられて怖かったんじゃねーの?彼女のほっぺた腫れてんの、兄貴のせいだろ」
「…んだよ、躾だよ躾。なぁ?…って、オマエの名前付けなきゃな」
飼い主の傍らで首輪を付けられて、膝を抱えたまま座る私の髪を緩い手つきで撫でながら飼い主は私の顔を覗き込んできた。淡い紫色がしっとりと絡んで、迫り来る恐怖を思い出し息を飲んだ。
「可愛いペットって感じのがいいな。かわいーの、竜胆なんかねぇ?」
「え、と。無茶振りすぎるっしょ。あー…マリーちゃん?」
「猫じゃん。それ。俺、犬がいーんだけど」
「ハチ公?…シロ…?…っーか、オマエさ。名前なんつーの?」
飼い主の背後に立ち、こちらを見下ろす男に尋ねられた。急に話しかけられて驚いた私は慌てて身を竦ませる。答えるべきなのか、答えても良いものか。チラリと飼い主へと視線を向けると、やはりこちらへと向けられていた淡い紫色が柔らかく微笑む。
「……ナマエ…」
飼い主になんて呼ばれようと構わないのだけど、彼らの言うハチ公もシロも正直納得いかないので、素直に自分の名前を伝えた。
「オマエはナマエって呼ばれてぇ?」
飼い主の言葉に、とりあえず頷いてみせた私に飼い主は満足そうに頬を緩ます。
「ったく、変な遊びも大概にしろよ」
柔らかい表情をした飼い主の後ろで顔を顰めた男の人は呆れた様物言いをしてから、私を哀れんだ様な目で一瞥してから部屋を出て行った。
開かれたケージがまた閉じられて、飼い主が外から施錠してゆく。
再びソファに座ってスマホをいじりはじめた飼い主を、ケージの中で膝を抱えて見上げてた。私、いつまでここでこんな事させられているのだろう。
少しでも動くと、首輪から繋がるリードがケージに当たって耳障りな音を立てるのが解った。みじろぎせずそこに居るという行為をどの位の時間したのだろう。
この部屋に時計は無く、私の時間の感覚はあてになるか不安しかない現状。
「……お、…うちに、帰し…て、…くださ…い」
震える声で紡いだ私の言葉は、飼い主の耳にも届いたようだ。
スマホをいじる手は止めずに、飼い主は視線だけをこちらに向けて私を見た。
「おうちって、俺がナマエん事拾って来たあそこ?」
飼い主の言葉に大きく頷いてみせた私へと、彼は言葉を続けた。
「もう事件現場になっちまったから、入れねーよ。見る?」
そう言った飼い主は、私にスマホを差し出す。幅数センチのケージの柵と柵の隙間に鼻先を突っ込んで、飼い主が差し向けてくれたスマホの画面を食い入る様に見つめた。そこには殺人事件の記事があり、被害者は私の彼氏。犯人として指名手配されているのは、私。
目を見開き、スマホの画面から彼氏を殺した真犯人へと視線を向けた。すると、彼氏を殺した張本人である飼い主は、ふふふっと微笑んでからスマホをサイドテーブルの上に置く。
「これでも帰りたい?ここで俺の言う事聞いてれば安全だし、何の不自由もしない様にちゃーんと世話してやるよ」
飼い主からの問いかけには答えずに、視線を伏せて俯く。
「……あの、お洋服は?」
裸足の足元と膝を抱える両腕を見下ろしながら、尋ねた。
「あー…。着て散歩させてもらってるコも居るもんね」
飼い主が口にするそのコ達は、きっと生物学上も犬であるコ達の話。私の、人間の足と手元を眺めながら聴く飼い主の言葉は滑稽だ。
「でもまずは躾が先。ナマエが外を散歩させられるくらいお利口さんになったら、お洋服買ってやるよ」
この人は本当に人間の私を犬として飼うつもりでいるようだ。じわりと額に滲んだ脂汗を手の甲で拭い、血が滲む唇を噛み締めた。
「じゃあ。…あの、……その…」
額を拭った手でもう片方の手首をぎゅっと握りしめて、自分の足の指を見ながら、おどおどと唇を開いて言葉を紡いだ。聞いてみたいけれども、回答は想像できてしまい、でもその回答は到底納得できるものでない気がして、言い淀む。
「なに?なんかまだ気になんの?」
飼い主の声が近づいて来て、ふわりと揺らぐ重たい香り。ケージに近付いて来たらしい飼い主の気配を感じながらも、どうしても自分の足先から視線を動かすことはできないまま、重たい唇を開いた。
「あの…、ト…トイレ…」
「そこに敷いてやっただろ。ペットシーツ」
飼い主の示したそれがケージの中に敷かれてるのは知ってた。まさかとは思っていたけれども、やはりそのまさかだったとは。
小さく息を飲み込んだ私を、飼い主は変わらぬ微笑みを浮かべて見つめてたなんて、私は知らない。