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「ねぇ、私、帰らないと」
「いーけど、オマエちゃんと家まで歩けんの?」
 そう尋ねつつも私をその腕に抱き込んだままの灰谷くんが、僅かに眉を顰めてみせた。その表情には、私を警棒でめった打ちにした時の様な険しさは無い。
「近いから。平気だって……」
 まだカサカサしてしまう喉から、がさつく声で答える私の前髪を灰谷くんの手が撫で付けた。
「確かに家は近いけど。オマエいつもろくに歩けないじゃん」
 笑いを含んだような声で言う灰谷くんがそう言って、私を離して起き上がる。
 手早く衣類を身に付けた灰谷くんが、今度は私の衣類をぽんぽんっとこちらへ軽く放ってくる。投げつけられる訳ではなくて、放って届けてくれているような仕草を重ねた灰谷くんは、私の衣類を全てこちらへ届けてくれてから部屋を出て行ってしまった。
 この部屋に灰谷くんが居ないうちに服を着たい私は、気怠い体を起こして身なりを整えていく。灰谷くんによって皮膚に残された警棒の太さのみみず腫れが服の繊維に擦れるたびにひりひりと痛んだから、腰の違和感に気づかなかったんだ。
 服装を整えて、乱れた髪を手櫛で整える。バッグの中に入っている携帯電話で時刻を確かめたくて、手を伸ばした。
 折り畳みの携帯電話を手にし、パカンっと音を立ててそれを開き、画面に映ったアナログ時計を確認していると、灰谷くんが部屋に戻ってきた。
「……誰?」
 こちらへと真っ直ぐに歩みを進める灰谷くんが、短く尋ねて手を伸ばしたのは私の携帯電話。
 ただ時計を確認していただけの私が灰谷くんからの質問には答える相手の名前などなく、きょとんとしてしまった。そんな私の間抜け顔を、灰谷くんが覗き込んだ。
「なに、黙ってンだよ、ナマエ……」
「え、と。今。何時か気になって」
 なんだか不機嫌に聞き取れた灰谷くんの声に、多少びくつきながらも手の中の携帯電話を彼へと差し向ける。別にだれかと連絡を取り合っていたわけではない事を、わかって欲しくてアナログ時計が見える画面を灰谷くんに見せた。
「あんまり遅くなると、お母さんがうるさいから」
「まだそんな……いちいち?……親の言う事聞いてンだ」
「……うん」
「俺と一緒に居るの、バレたらまたうるさく言われる?」
「うん」
「……はは♡大学生になっても、ナマエは変わんねーな」
「そんな事、ないよっ」
 また私を馬鹿にした様に笑う灰谷くんが、私の携帯電話を取り上げて持って行っちゃう。
 彼の言葉を否定しながら、灰谷くんを追ってベッドから立ち上がったんだけど、骨盤が上手く立たなくてぐらりと揺れる。足を踏ん張ってしっかりと膝を伸ばす事が難しく、床に崩れ落ちそうになった私を灰谷くんが掴んで引き上げた。
「こういうとこも、ほんと、変わんなくて安心したワ♡」
「……灰谷くっ…」
「ん?」
 思わず、彼からの言いつけよりも、長年の癖の方が顔を覗かせて苗字呼びしてしまった私を、蘭がギロリと睨んだ。
「……蘭」
「んー?」
 名前で呼び直す私を抱き寄せた蘭が、背中を丸めて顔を近づけてくる。
「ケータイ、返して」
「時間なら見ただろ」
「親に、少し遅くなるってメールするからっ……」
「少しー?」
 おでことおでこがくっついちゃいそうな程、間近に顔を寄せた蘭の綺麗な薄紫色した瞳に、対応に困って眉尻を下げた私が映り込む。
「す、こし」
「ふふ♡いーよ。少し遅くなるけど、オマエん家の手前まで送ってくから」
 珍しく素直に私のお願いを聞いてくれた蘭は、私が母にメールを打つ様をすぐそこで一緒に小さな携帯電話の画面を覗き込んでいた。

 約束通りに蘭は私の家の真ん前ではなく、だいぶ手前まで送ってくれた翌日。
 三限目が終わって大学のキャンパスを歩いていると、校門の方でなんだか妙な騒ぎになっているのを友人づてに耳にした。それは、カリスマモデルのロン毛のイケメンが我が校の学生を迎えにきているというものだ。
 『カリスマ』『ロン毛』『イケメン』という単語に嫌な予感がするのは、私の地元にはカリスマ兄弟として恐れられいた灰谷兄弟がいるからだ。この三つの単語が当てはまるといえば、灰谷蘭も当てはまる。モデルではないけれど、モデルさんの様な長身でもあるから故に、この嫌な予感がどうか思い違いでありますように!と祈りながら校門へと向かった。

「えー、行こうよ♡」
「だって全然来なくない?」
「……」
「ウチの学生しか知らないような超穴場だよ?」

 騒動となっているらしい校門を遠くに視界に入れられるところまで来て、その嫌な予感が的中していた事を知る。確かに校門のところに出来ている人だかりの中で、頭ひとつ飛び抜けている長身の人の横顔は蘭のものだった。
 おそらくウチの学生であろう集団に囲まれている彼は、周囲を囲って話しかけてくる人へ言葉を返す事なく、携帯電話を弄っている様子。
 この目の前の状況をどう解釈してどう行動すれば良いかを思案している最中の私の鞄の中で携帯電話が震え出す。まさかという気持ちで取り出した携帯電話は着信ではなくメールの受信を知らせていた。そのディスプレイを確認したところで唖然としてしまった私の目が認識した文字は、目の前の人だかりの渦中から送信されたものだった。
 メールを返信するまでもなく、その人だかりへ足を進めてゆく。すると人だかりの向こうの蘭と目が合った。瞬時に蘭が長い脚で大きな一歩を踏み出すから、彼を囲んでいた輪が崩れる。
「ナマエ、今帰り?」
 先程、メールで学校が終わる時間を尋ねてくる程、明らかに私を待ち伏せをしていた蘭が声をかけてくるのだけど、彼を囲っていた周囲に圧倒されてしまいそのまま素通りしようとする私へと蘭の手が伸びる。
 また周囲で騒めくのが解り、多くの視線がこちらに降り注ぐ。やっぱり今ここに出てくるんじゃなかったなと、後悔し始めた私の肩を蘭が抱き寄せて足早に歩き出す。
「今日ガッコ来てないとか、すれ違ったかと思って焦ったワ〜。大学ってガッコ終わる時間みんな一緒じゃねーんだろー?」
「時間割はみんなそれぞれだから」
「ふぅん♡」
「すごい噂になってるから、校門で待ち伏せはもーやめてほしい」
「なに?オマエ、俺と待ち合わせしてくれンの?親に怒られんじゃねー?」
「地元じゃなくて、ガッコの最寄駅……とか、は?」
「はー?ナマエのくせに、俺にこの辺まで来いって?」
「……ごめんなさい」
 咎められる様な彼の物言いに、癖で謝罪の言葉を口にしてしまう私を見下ろす蘭の目尻がさらに下がる。
 また揶揄われる気がして身構えた私の肩を抱いていた蘭の手が肩から離れ、私の後頭部をぽんぽんっと撫でた。らしくない彼の言動に、ドギマギしてしまう私はぱちりと目を瞬いてしまう。
「仕方ねーなー。ったく、ナマエの我儘聞いてやる蘭ちゃんに感謝しろー?」
 続いて口にされた蘭の言葉にも驚いてしまう私の肩へと、蘭の掌が戻る。そして、背中を丸めた蘭が首を傾けて私の耳元へと唇を寄せてくるから、私の体は反射的に首を竦めてしまうわけで、その一連の流れを目にした蘭がクスクスと笑い出す。
 耳元を震わせる蘭の笑い声が擽ったい。
「ありがとうのちゅー♡はー?」
 ひとしきり笑った後に蘭が耳元で囁いた問いかけに、目を見開いてしまった私を横目で覗き込んだ蘭がまたクスクスと笑い出す。
 揶揄われているのが解っていても、表情に出てしまう自分が悔しいのだけど、また蘭が私の後頭部をあやす様な手つきで撫で付けるから余計な事を言わぬ様に唇をきゅっと引き結んだ。

 蘭がどうして校門の前で待っていたのかを尋ねたのだけど、彼の目的をその形の整った唇から得る事はできなかった。突然の待ち伏せからの、彼の同行。私の都合なんてお構いなしな灰谷蘭らしいといえばらしいのだが、私にも予定がある。
「ねぇ、もしかして蘭もこのまま来るつもり……かなぁ?……なーんて」
「んー?」
 学校の最寄駅から地下鉄に乗り、私達の地元よりもだいぶ手前の駅でホームへ降り立った私の隣に灰谷蘭。自然な流れで学校の校門から着いてくる彼は、私を待ち伏せしていただけであり、私はこれからバイト先のママに頼まれた買い物をしてバイト先へと向かわないとならない。
 ママと蘭は仲良しだけれども、蘭がママの店で働いていたのはもうだいぶ前の話である。
 ホームから改札口へと向かう為にエスカレーターへと乗った私の一つ後ろの段に蘭が乗る。階段一段分私の方が高い位置に立っているから、見上げる程背の高い蘭の顔が近くに来た。
「なーに、オマエ……俺に着いて来られると困る事でもあンのー?」
 耳元で尋ねられた声音に若干の怒を感じ取った私が僅かに振り向くと、蘭の片腕が私の腹へと回る。こういう急で過度なスキンシップは、心臓に悪いからやめて欲しい。
 間近に見えた淡い菫色の瞳は、ゆっくりと細められて笑みの形をとった。そして、ちゅっと微かな音を立てて頬に落とされる口付け。擽ったくて、すぐに離れていった唇が恋しくなる。
 蘭の口元を目で追ってしまった私の腹を、彼の掌が撫でた。
「別にっ……ママの、頼まれてる買い物、行くだけ、だからっ」
「ふぅん♡ほんっと人使い荒いよなー。あのひと」
 蘭がすぐそこで喋るから、彼の吐く吐息すら耳元にあたる。彼が吐き出す空気が触れる箇所が、熱くて仕方のない私の耳は、きっと今日も真っ赤だ。
 エスカレーターでくっついてくる蘭を連れて改札口を抜けてたどり着いたのは百貨店の食料品売り場。バイト先の店のオツカイを頼まれた店舗を巡り、先々で受け取った紙袋をそれぞれ蘭の手に奪われてゆく。
「オマエもさー、なんでもそう安請け負するから……俺が居なかったら持ちきれなかったろー?」
 私の非を咎めるような言葉を連ねる蘭だけど、彼の声音は上機嫌に柔らかく響く。実際に目にする蘭の表情も柔らかく、その長い脚で空気を捌く動作ですら優雅に速度を落としてくる。控えめに言っても今の蘭はとても上機嫌だ。数秒後には空気も気分もガラリと変わる蘭だから、この彼の調子を維持したい私は口にすべき言葉を選ぶ。
「そうだね。蘭がいてくれるから、だね……」
「……なんだよ、今日はいやに素直じゃん」
 選んで口にした言葉の選択を間違えたみたい。ぱちりと目を瞬いた蘭へ、瞬時に向けた謝罪の言葉。
「ごめんなさいっ」
「今日このまま店出ンの?」
「……うん」
「迎え行くから、また」
「……うん」
 蘭の言葉は可能な限り肯定すべきが教訓でもあるので、彼の提案を私はそのまま受け入れた。目の前の彼の機嫌を損ねる事なく、平穏無事に今日をやり過ごす為に。

 いくつもの紙袋をその手にぶら下げた蘭の隣を歩いてゆく地元の道。繁華街の細い路地を進んで、バイト先のあるビルのエレベーターの前まで来て蘭が足を止める。
 ママからのオツカイで両手が塞がっている蘭の隣で、エレベーターのボタンへと手を伸ばした。やがて開いた扉の向こうに現れた狭い空間。そこに足を踏み出す蘭に続いて私もエレベーターの箱の中へと乗り込み、こちらの壁のボタンへも手を伸ばす。
 何度も蘭にキスをされたこの狭い箱の中は、エレベーター外の空間とは別の空間を切り出していて、妙に胸が騒つく。決して狭いところが苦手なわけではないが、蘭と二人っきりでこの箱の中に存在する事は、蘭に首を絞められているわけではないのに息が苦しくなる。
 目眩すら起こしそうになり奥歯を噛み締めた私を見下ろす灰谷くんが、その綺麗に整った眉と眉の間に皺を刻んだ。
「オマエ、顔真っ青じゃねーか……」
 こちらを見ながらそう言った灰谷くんの向こうで、エレベーターのドアが静かに開いた。
 冷や汗が滲む指先でエレベーターのボタンを押す私は、その場でふるふると首を振り、何ともないと主張するだけで精一杯。冷たい冷や汗が滴となり、背中をだらだらといく筋も伝わっていくのを感じた。

 灰谷くんに続いてエレベーターから降りると徐々に苦しさも緩和する。細い廊下を通って店のドアの真ん前まで着く頃には噴き出るようだった冷や汗が止まり、嫌な冷たさだけが背中に残っていた。
 ほんの少し開いていた店のドアを引いて大きく開くと、カウンターの手前の席で煙草を吸うママが回転する椅子ごとこちらへ向いた。私と共にやってきたこの人を見た瞬間に、ママの表情は大輪の花の如く華やかに咲く。
「あらまー、蘭ちゃん。ご無沙汰じゃない」
「おはよう、ママさーぁ、ナマエに頼みすぎだから」
「あらやだ。それで蘭ちゃん呼ばれたの?んふふ♡女の子の尻に敷かれてたほーが、ほら……いろいろ上手くいくでしょー♡」
「はいはい。これ、ここでいー?」
 咥え煙草のまま蘭に纏わりつく着物姿のママの脇に立ち、蘭はカウンターの上に紙袋を並べてゆく。
「そこ置いておけばナマエちゃんが後やってくれるから大丈夫。蘭ちゃんが顔見せてくれないうちにね、もうこの店切り盛りしてるのは私じゃなくてナマエちゃんなんだから。良い子紹介してくれてほんと助かったわー♡」
「じゃあ、ナマエの事そろそろ俺に返してよ」
「嫌よ。ねぇ、ナマエちゃん?」
 やっぱり私を自分の所有物かのような物言いをする蘭と、嫌々と首を左右に振り同意を求めるママが一斉に私を見る。
 なんて返答を返しても埒があかない事だけ、想像がついた。下手な事を口にしてしまえば、蘭とママの間で小競り合いも起きかねない。となれば、私に出来ることなんてこの場は曖昧に濁して仕事に専念する事だけである。
 蘭が運んでくれた紙袋の中身を取り出して、一つ一つ適切な所へとしまってゆく。空っぽになった紙袋は丁寧に折り筋に沿って畳んで重ね、束にして片付ける。そんな作業を終えて、ママ特製のぬか漬けのぬかをひっくり返してからお店の掃除を始めた私を蘭とママが視線で追う。
 店のトイレを掃除してフロアに戻ってきた頃には、蘭とママが二人で肩を並べてカウンターの席に座り、ママのボトルのお酒を飲んでいるようだった。

 それから今日のお通しの味見をしてから出掛けて行った蘭は、私がバイトを上がる時間にママの店へと再び顔を出す。私がまだ高校生だった頃にママの言いつけで毎回迎えに来てくれていた蘭の事を知っているお客さんが、蘭の顔を見た途端に私を呼ぶ。囃し立てるような騒めきの中で、カウンターの中を一通り片付けてから帰り支度をしてフロアに出る。いつもの常連のお客さん達に囲まれて上機嫌なママがにこにこ笑顔で蘭と私を見送ってくれた。
 また蘭と二人になってしまったら息が詰まりそうなエレベーターには、扉が開いた時にはすでに人が乗っていて安心してしまった私を蘭が静かに見下ろしていた。

 ◆

 学校の校門前ではなく学校の最寄駅で待ち合わせがしたい。という私のお願いを聞いてくれた蘭は、約束の時間にはもう待ち合わせの場所に居た。遠目に見てもすぐに灰谷蘭だと分かるその姿を見つけて、驚いてしまったのは誰にも秘密にしておこうと思う。
 私を見つけてこちらへと長い足を踏み出した蘭と、蘭の方へと向かって足を進める私との距離は、蘭の足が長すぎるせいですぐに縮まり重なった。
「急にどうしたの?」
 突然蘭からの誘いが届いたのは今日の昼休みの事。
「いいから、行くぞ」
 その一言で私からの問い掛けをよけた蘭に手を引かれてやって来たのは原宿。表参道の交差点を渡り細い路地に入ると、ゆっくりと蘭が足を進めていった先にある外観もオシャレな美容室だった。
 
 
 
 

 
 


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