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 学校終わってからバイトの時間までまだ少しあった為、私は日当たりの良いベンチで読書をしていたのは、いつもの場所で。
 穏やかな日差しが照らしていた紙面に影が落ちて、パサリとポニーテールに結っていた髪が突然解かれた。全く心当たりのない突然の出来事に、思わず瞑ってしまった瞼の裏にぼんやりと浮かんだのは、綺麗に澄んだ菫色だった。

 無理に抜き取られた髪ゴムが引っかかって、引っ張られた髪が痛い。びりりと痺れる頭皮の痛みに顔を顰めて、文庫の紙面から顔を上げた先に見えたのは、遠い記憶の中に面影のある綺麗な顔だった。
「これ、貰うな〜♡」
 私の頭から奪い取った黒い髪ゴムを掲げて、口元だけで笑む男。その淡い菫色した瞳は全く笑ってなどなく、真っ直ぐに私を射抜いた。
「は、いたに、くん……」
 中学時代になにか人を殺してしまったとかで、学校から見なくなった同級生の姿がそこにあった。
 記憶の中では明るい色をしていた髪が、黒と金のグラデーションに変わっていて、ふんわりと流されていた前髪が無くなっていた。彼のトレードマークだったオサゲ髪は変わらずだが、どうしてか、右側だけ解けている。
 解けてもふわりと揺れ動いていた印象の柔らかな髪が、すとんと艶のある質感に変わっていて、シルクのようで綺麗だなと素直に思った。
「オマエ、高校どこ行ってんの?」
 私の前に立ってこちらを見下ろす彼は、何故か解けていた片方のオサゲを、細く器用な指先で三つ編みに編んでゆく。
「高校どこ」と聞かれたのだけど、制服を見てわからなかったのだろうか?地元では比較的わかりやすい高校の制服に身を包んでいるというのに、灰谷くんはそんな当たり前な事を聞いてきた。
 返答に躊躇してしまう私を見下ろす灰谷くんは、オサゲに編み直した髪を私の頭から奪ったばかりの髪ゴムで結ぶ。
「髪、それ、巻いてんのー?」
 言いながら、灰谷くんが解けた私の髪を一房取り上げたのだけど、彼が掴んだのはコテで巻かれているわけではない。生まれた頃からの癖っ毛で髪が好き勝手な方向を向いてるだけの私の髪は、子供の頃から灰谷くんを中心とした同級生に揶揄われて泣かされていたのに、灰谷くんはもう覚えていないのだろうか。
 子供の頃から私の事を揶揄っては泣かしてきた張本人を目の前にしてしまうと、彼が私を虐めていた事なんてもう何年も前の事なのに、私は未だに上手く言葉を紡ぐ事ができない。
 パクパクと金魚の様に口を動かすが声になる事はなく、それどころか小刻みに身体が震え出してしまう。
 そんな私を、灰谷くんは目を細めて見下ろす。そして、掴んだ私の髪を力任せに引っ張った。
 ブチブチブチっと音を響かせて引っ張られた髪が抜ける。頭皮に痺れるような激痛が走り、痛みに見開いた瞳に涙が溜まって、ぼろりと大きな玉となり溢れた。
「ひぅっ……」
 噛み殺した悲鳴が喉をつき、こちらを見おろす灰谷くんの口角が上を向いてゆく。
 ぽろぽろとまた立て続けに涙が溢れても、私はこちらを見下ろす灰谷くんから、なぜだか目を離す事ができなかった。

「……、兄ちゃん?」
 人の声がして、はっと我に帰る。
 そちらへと視線を向けると、灰谷くんの弟がそこに居た。弟も灰谷くん同様に随分と面影があるが、空白の数年を経て大人っぽく成長しているように見える。
 眼球を動かして灰谷くんの弟へと視線をやった私の顎を、灰谷くんの長い指が掴んで、灰谷くんと視線を合わせさせられる。
 私の髪の毛を抜いた灰谷くんの拳が開かれて、はらはらと髪の毛が舞った。
「なーに、勝手によそ見してんの?オマエは、俺ののもんなんだからー。忘れてんじゃねーよ」
 不機嫌そうに眉を寄せた灰谷はそう言って、私の顎を離した。
「行くよ、竜胆」

 灰谷くんは、踵を返して先に進む。
 灰谷くんの弟はそんな彼の後ろを追って数歩進んでから、こちらを振り向いてヒラヒラと手を振った。
 それに気づいた灰谷くんが今度は弟を小突いて、2人の背中はどんどん遠くなって、見えなくなった。

 ◆


 中学の時も俺はナマエから髪ゴムを奪い取った事がある。
 ケンカしてたまたま髪ゴムを無くした時だった。
 
 それは今日と同じように、オサゲの片方だけ髪ゴムを無くして、片方だけ三つ編みが解けてしまったんだ。
 たまたま通りがかった教室をなんとなく覗くと、 そこにナマエがいた。
 ナマエは一人で、あの時も、確か本を読んでいた。
 俺が彼女の背後に立ってもナマエは本から目を離す事はしなかった。おどかしてやろうと、校則通りに黒い髪ゴムで髪を束ねられたその黒い髪に俺が触れても、彼女は驚きもせず、全く微動だにすらしない。
 ここに居る俺に気づかないナマエに何故か酷く気が立って、 目の前のポニーテールから黒い髪ゴムを奪い取った。
 ブチブチっと髪が切れる音と、小さく響いた悲鳴に不思議と気分が上がった。
「きゃっ…..!」
 こちらを振り向いたその目には、 やっぱり涙が浮かんでいて今にもこぼれ落ちそうに揺れている。
「これ、貰うな〜♡」
 ナマエからの返事は無く、 怯えたような目で俺を見上げてくる。
 俺を見るいつものこいつの目だ。

 ちょっとの事ですぐに泣くナマエは、小学校の時からクラスメイトの揶揄いの対象になりやすかった。
 みんなが寄ってたかってナマエを揶揄っているとこに割って入ってトドメを刺すのが大体俺。
 俺の一言で涙を溢すナマエ。
 他のヤツがナマエを泣かすのが何故か許せなくて、中学行ってもナマエを泣かすのは俺だった。
「やって、三つ編み」
 ナマエから奪った髪ゴムを手首に掛けて、 解けた髪を柔らかく掴んでナマエに差し出す。
 すると、ナマエは素直に俺の髪へと手を伸ばして、俺の髪を丁寧に編んでゆく。
「んー」
 三つ編みが仕上がってきたところで、ナマエの髪ゴムを掛けた手首を差し出すと、彼女は俺の手首に目を向けた。
「あ……ありがとう。」
 小さな声でナマエが言って、 手首に掛かった髪ゴムを外す。
 俺の手首に触れたナマエの指先が意外と暖かかったのを覚えてる。
 あれからいろいろあって学校行かなくなって、たまたま地元を竜胆と歩いてたら見かけたナマエは高校生みたいな格好して、でも今でもあの頃とおんなじ髪型していて、気づいたら体が動いてた。片方のオサゲを自ら解き手の中の髪ゴムをアスファルトへ向かって投げ捨てて、ナマエの後頭部に手を伸ばす。
 ナマエが俺を見る時のあの目が、今でも俺を見上げてきた事が嬉しくて、その髪を引きちぎってやったんだ。


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