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灰谷蘭という男の話

 生前の黒川イザナが私に友人を紹介した事なんてないのだけど、イザナが私に下僕だと言ったうちの数人においては、私の目から見れば友人の様にイザナと付き合っていたように思う。
 灰谷蘭も、そのうちの一人だ。
 気分屋の蘭くんは曲がった事が許せないイザナとよく衝突しそうになって、でも蘭くんの気分はすぐに変わってイザナに寄り添うから、獅音のようにイザナに殴られる蘭くんの姿は私の記憶には無い。
 一つ下の弟を連れ歩く蘭くんとは、変なところで気が合うのか、気難しくて面倒くさいイザナとも上手くいっていたように見えた。
 蘭くんは、イザナにとっては珍しく数少ない友人のような下僕の一人である。それは、私の目を通してみればの話だけども。

 その日、私を指名した客の顔が灰谷蘭だったから一瞬驚いてしまったのだけど、客が蘭くんだろうとそうでなかろうと、する事は一緒だ。
 指名で入った客へと向ける口上を、客に向ける口調で告げた私へ、蘭くんは言った。
「こんなとこでなにしてんの?」
 そんなの見れば解るではないか。灰谷蘭がここがどういう店か解らず来ているなんて事はないだろう。態々私に口頭で説明をさせたいなんて、悪趣味にも程がある。
 私は蘭くんの言葉には返答せず、接客を続ける事を選んだ。
「どうして横浜を出た?」
「…………」
「ずっと鶴蝶がオマエを探してた」
 だけど、イザナと一緒に居た期間、イザナの次に長い時間を共に過ごした鶴蝶の名をあげられたら話は別だ。
「……なんで、あのコが」
「イザナは鶴蝶を庇って死んだ」
「なんで、下僕のアンタ達が生きていてイザナが死ぬのよ」
「…………」
「どうしてイザナが死んで蘭くんは生きてるの?あの日、アナタ、イザナのそばでなにしてたの?」
「……」
「どうしてイザナが死んだの?アンタが死ねばよかったのに」
「あの時、イザナは……」
「鶴蝶が死ねば良かったのに」
 私がそう言った途端に、蘭くんが纏う空気が一変する。大きく目をかっぴらいて、奥歯を噛み、こちらを見据える彼の手は拳に握られて私に殴りかかろうとして、咄嗟に彼は床を強く踏み止まった。
 蘭くんのポーカーフェイスが崩れたのを見たのはこれか初めてだった。
「イザナを返してよ」
 蘭くんの拳が行き場を失い震えてた。

 それから蘭くんのポーカーフェイスはすぐにその顔に戻ってきて「オマエはここにいろ。部屋から出るな」と言った。
 プレイ時間中に、勝手に接客から離れるつもりなど毛頭ない私は蘭くんの言動に違和感しかない。首を傾げてしまった私を置いて、彼はこの部屋を出て行った。
 蘭くんが出て行って直ぐに扉の向こうが慌ただしくなる。男の怒声がいくつも響き、物が倒れる様な大きな音が何度も轟いた。
 きっとこの要因は蘭くんだろう。
 店の中には内勤の男性スタッフが複数人控えている。イザナでもあるまいし、蘭くんが複数人の成人男性を相手にタダでは済まないだろう。この件で私も店に詰められたら嫌だな。そう思いながら、この扉の向こうが静かになるのを待っていたんだけど、静かになった廊下から近づく足音は、無惨にも私の部屋の前で止まった。
 そして、静かに部屋の扉が開かれる。思わぬ人が扉を開いた人がものだから、私は思わず目を見開いてしまったのだ。
「帰ンぞ。早くしろ」
 黒く長い棒で、トレードマークの三つ編みをくるくると弄りながら扉を開け放つ蘭くんの姿には、一糸の乱れ一つ見当たらない。
「蘭くん、平気?」
 恐る恐る声をかけた私を見て彼は眉を顰めて溜め息を吐いてから、目頭に力を込めて言った。
「横浜天竺の四天王にナメた口聞いてんじゃねーよ。ほら、行くよ」
「でも……」
「オマエな。18才未満のくせに生意気に体売ってんじゃねーよ。大将に殺されンぞ」

 在来線と新幹線と地下鉄を乗り継いで、私は着の身着のまま貴重品だけが入った小さなバッグを持って六本木まで連れて来られた。横浜を飛び出した時に引いていたキャリーケースは、寮という名の小部屋の中だ。といっても、少しの衣類が入っているだけのゴミ同然の私の荷物。
 そんなゴミ同然の私を、六本木の一等地にある高級マンションの一室へと蘭くんが連れてきた。
 ここは生前のイザナと一度だけ来た事がある。蘭くん達が住んでいるマンションだ。
 その部屋へ私を連れて来た蘭くんは、マンションの部屋の中を進みある部屋の扉を勢い良く開け放った。
「竜胆ー!オマエ今日からリビングな」
「は?にーちゃんいつの間に帰って来たの!?」
「さっき。ほら、さっさと部屋空けろー?」
「なんだよ急に」
「は?竜胆。テメェ、大将の女にリビングのソファで寝ろっつーワケ?」
「大将……?……あ、……」
 部屋の中から顔を覗かせた竜胆と目があった。途端に竜胆が慌ててリビングへ出てくる。
「お、俺!しばらく留守にすっから、兄貴の事よろしく!」
 私の顔をしっかりと見てそう言った竜胆は、まるで逃げる様にそそくさと部屋へと戻りすぐにデイパックを背負って出てきた。
「じゃあね!」
 ばたばたと足音を立てて出て行く竜胆は、それからしばらく、本当に姿を見せなくなる。こうして私と蘭くんとの奇妙な共同生活が始まったのだ。

 


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