お名前変換

灰谷蘭の女の話

 私は蘭くんとここで共同生活を送る以前に、一度だけイザナにここへ連れて来られた事がある。それはいつもなら獅音からの誘いよりも私を優先するはずのイザナが珍しく獅音の誘いに乗った日。その時私はイザナの部屋に居た。
 イザナが急に予定を変更して、獅音の誘いに乗った事が、とても腹立たしかったからよく覚えている。しかも蘭くんの彼女が志望校に合格した祝いだなんて。私もイザナも、全く関係無いじゃないか。
「やだよ、私。帰るって」
「祝い事だ。付き合えよ」
 そう言うイザナに半ば強引にヘルメットを被され、イザナのバイクの後ろに乗せられて、六本木まで連行された日。そこにはいつも余計な事ばかり煩い獅音の女も居て、遊びに誘ってくる。しかも蘭くんの彼女も一緒にと、言い出す始末。そんなの冗談じゃない。
 しつこく誘ってくる獅音の女に、イザナが「コイツはバイトだから無理」と断って事なきを得たのだが、私はその時初めて姿を見た蘭くんの彼女が、前々から嫌いだった。
 親の金で何不自由なく生活して高校に通い、親の金で大学にも行くであろう蘭くんの彼女は、蘭くんの中学の時の同級生だと獅音の女がべらべらと喋っていた。獅音の女からその話をされる前から、イザナの周りでいろんな子に手を出していた蘭くんが、いつも同じ女子高生を連れていると噂になったのは去年の事。
 蘭くんの彼女は女子高生。
 私だってまともな親さえいれば、今頃きっと何の不自由もなく女子高生やってた。
 そう、私が灰谷蘭の女が嫌いというのは、都内の一等地で何不自由なく暮らす様な親ガチャに大成功した女への、ただの嫉妬だった。

 蘭くんとの共同生活が始まった翌日。お昼過ぎに起き出してきた蘭くんに、「なんか飯作って」と声をかけられた。あの灰谷蘭にそんな事言われると思っていなかった私は、とりあえず頷き、何を作れば良いかを尋ねたのだけど、蘭くんからは的を得た様な回答を得る事は出来なかった。
 とりあえずこの家のキッチンの冷蔵庫や棚の中を覗いてみると、調味料や調理道具が想像よりも充実している事に驚く。だからといって急に料理をしろと言われて、はいそうですかと出来る訳も無い。結局、蘭くんに材料費として手渡された金でコンビニ弁当を買ってきた私を見て、彼は深い溜息を吐き出して言った。
「なに。オマエ、料理できねーの?」
 ちょっと人を小馬鹿にした様な言い方をする蘭くんだが、私自身についてを尋ねられるという行為自体が嬉しくて勿体ぶった回答をしてしまう。
「そう言う訳じゃないけど……」
「ふぅん」
 私の照れ隠しには興味無さそうに頷いた蘭くんは、コンビニ弁当に手をつけるつもりは無い様子。
「食べたい物があるなら自分で作ればいいじゃない」
 なんだか少しだけ悔しくなって棘のある言い方をしてしまった。
「俺、料理なんかできねーもん」
「じゃあ、あの彼女でも呼べばいいじゃん。っつーか、もう別れた?あの、蘭くんの女子高生」
「ナマエはもう女子大生やってるよ」
「へぇ。女子大生やってるんだー」
「じゃね?」
 なんだか他人事のように言ってる蘭くんに、ピンときた。
「もしかして、あんま会ってないの?」
「鑑別所出て来てすぐ、みんなでオマエの事探し回ってたから、まだ会ってねーよ。……ちゃんと」
「あはは。ウケる。蘭くん、自分の女放っておいて私の事探してたの?」
 私が茶化す様に言うと、途端に蘭くんの眉間に皺が寄る。
「うるせー。黙ってろ。出かけてくるけど、オマエは竜胆の部屋から出てくんなよ」
 不機嫌にそう言い残して出掛けて行った蘭くんが帰って来た時、彼の手中にはあの灰谷蘭の女子高生だったあの子が居た。
 リビングに居たところ、玄関から大きな物音がして、蘭くんが帰ってきた事を認識する。おかえりなさい!を伝えたくて、玄関の方に顔を向けたのだけど、それは場違いだった様だ。蘭くんがが泣いてる彼女を引き連れて帰って来たんだもの。私がそこに居る事に気付いた蘭くんが、こちらを睨み付けながら無理に彼女を引っ張る。
「や。蘭。やめて、痛いよっ……」
 蘭くんに引っ張られるよりも前から啜り泣いていた様な彼女を乱暴に押しやり、蘭くんの部屋へ連れ込み、ばたんっと大きな音を立てて部屋のドアが閉められる。物が薙ぎ倒される様な大きな音が響いて、床を震わすほどの打撃音が続く。
 信じられない状況下で、私は竜胆の部屋に駆け込んだ。



 
 竜胆の部屋の扉を閉めてもなお、蘭くんの部屋から聞こえる打撃音も彼女の泣き声も耳に入ってくる。
「なによ、これ……」
 明らかにあの女が蘭くんから暴力を奮われているようにしか聞こえない音が、響き渡る。フローリングの床が打撃音に続いて微かに揺れて、彼女の泣き声に悲鳴が混じった声が聞こえてくる。
 当たり前にイザナに暴力なんて奮われたことのない私はこの空間が怖くなり、不安になる。人として、蘭くんの彼女の安否が心配にはなるけれど、竜胆の部屋を出る勇気なんて私にはない。正直なところ、あの女がどうなろうと私の知ったこっちゃない。
 竜胆の部屋で竜胆のベッドに上がり、竜胆の布団を頭の上から被って恐怖の空間をやり過ごした。
 暫くそうしていると、床に響いていた打撃音がやみ、悲鳴が啜り泣きに代わり、啜り泣く声が喘ぎ声に変わった。
 なによ、結局、愛されてるんじゃない。心配して損した。
 やはり私はあの女が嫌いだ。
 そう、これは都内の一等地で何不自由なく暮らす女への、ただの嫉妬。
 イザナじゃなくて、蘭くんが死ねば良かったのに。そうすれば今この時イザナに愛されているのは私で、彼の死を呪って他人を妬んで生きるのは私じゃなく、あの女だ。

 蘭くんと暮らしているはずの竜胆は、あれから本当に家を空けたまま一瞬たりとも帰って来てはいないようだった。
 竜胆はどうしているのかを蘭くんに尋ねてみると、女のとこに転がり込んでるという回答を得た。
「竜胆の事は気にしなくていーから。ってかさ、オマエは仕事とかどーすんの?知り合いに、ナンカ聞いてやろっか?」
「え、と……」
「アパレルとか飲食ならツテあっけど」
 確かにいつまでも職も家も無く、竜胆の部屋を占領しているわけにもいかない。蘭くんのせいで職も家も失った訳ではあるが、私が蘭くんの好意に甘えていつまでもここで何もせずにただ生きていられる程に、世間は甘くない事は解っている。
 それでも急に蘭くんにそんな現実的な事を言われてしまえば戸惑ってしまうもので、そんな私の戸惑いは蘭くんの目にもきっと明らかなのだろう。私を目にする蘭くんの表情が曇ったのも見て取れた。
 迷惑。と、蘭くんは口にはしないし、表立って態度で現す事も無いけれど、そういう感情を他人に向けられる事に慣れてしまった私はそれを無意識下で汲み取った。
「オマエはなんかやりたい事とかねーの?」
「時給良ければ、別になんでも……」
「トシ誤魔化さないとならない仕事はもーナシな」
「……うん」
「仕事決めたらすぐに出てけなんて言わねーし。ある程度金貯めるまで竜胆の部屋に居てもいーから。焦ってまた変なことスンな」
「うん」
「出かけてくる。部屋の掃除と、ゴミ出し。あとクリーニング届くから受け取って」
「うん。行ってらっしゃい」
「あぁ」
 蘭くんは大切にこまめに手入れしている、きっと蘭くんのお気に入りであろう靴を下駄箱から取り出して出かけて行った。イザナなら絶対に選ばないような靴だ。

 蘭くんと暮らすようになって、私は料理を覚えた。
 それは蘭くんの為というよりは、蘭くんが料理が上手くできない私を小馬鹿にしたからだ。やってみれば意外と楽しくて、蘭くんの食の好みも掴めてきた気がする。
 キッチンのカウンター越しに出来立てのほくほくの朝ごはん口にした蘭くんは、料理に対してのダメ出しも小言も無く食べ進めながら、ふと思い出したように口を開いた。
「そういや、知り合いの店でオマエの事使ってもらえるかも。今日アポ取ったから遅れず行けよ」
「今日?急すぎない?」
「どーせ暇だろ」
 蘭くんの言う事は確かで、竜胆の部屋で蘭くんの世話を受けて暮らすニートの私には予定など何も無い。
 食べ終えた食器と共に蘭くんから渡されたのは、シンプルすぎて逆に解りづらい地図が記されたショップカード。ひょろりとした筆記体で、select shopと書かれているからきっと服屋なんだろうと予想した。
「ねー、蘭くん。この地図全然わかんないんだけど」
「そう?」
「遅れないように、お店まで一緒に来てよ」
「無理。予定あっから」
 すんなりと、思っていた以上にそっけなく蘭くんに拒否されてしまった。面倒見の良い蘭くんにしては珍しい。そんな即答せずに、少しくらい蘭くんの予定を調整してくれたって良いじゃない。ここに来てから蘭くんに甘やかされて世話してもらってから、どうしても我儘になってしまったような自分に、この時の私はまだ気づいていなかった。




 
 蘭くんが紹介してくれた服屋のオーナーと店内で面談をした日。家に帰ってくると、玄関に女モノの靴があった。きっちりと揃えられたパンプスは、以前一度目にした事がある『らしさ』が垣間見えるもので、私が出かけている間に蘭君の彼女がここを訪れた事に腹立たしさを感じた。
 今もこの家のどこかに滞在しているだろうあの女のパンプスの隣へ、自分が脱いだヒールを並べて置いた。
 より玄関に近い竜胆の部屋には入らずに、蘭くんの部屋のドアの前を通ってリビングへと向かう。蘭くんの部屋から人の声が僅かに聞こえるから、蘭くんも彼女も蘭くんの部屋に居るのだろう。
 鉢合わせして嫌がらせでもやりたい私は、敢えて竜胆の部屋には戻らずにリビングの大きなテレビを眺めて過ごす。蘭くんが予定があると言って、私を彼の紹介する店まで連れて行く事を断った理由があの女である事が、無性に腹立たしくて仕方がなかったんだ。

 暫くして、蘭くんの部屋のドアが開いた。
 部屋から先に出て来たのは蘭くんで、テレビの音から私がリビングに居る事に気付いたらしい蘭くんがこちらに視線を寄越した。
 蘭くんの視線を感じて、私はまっすぐにそちらを見る。蘭くんと、目があった。それなのに、蘭くんはすぐに私から視線を外してこちらに背を向けた。まるで私なんてそこに居なかったかの様に、蘭くんは私をなきものとして扱ったのだ。
 出てきた部屋の前でリビングへ背を向けた蘭くんが、壁となり蘭くんの彼女も部屋から出て来た姿は見えない。蘭くんの体が邪魔で見えない彼女の背後から抱きつく様にして、蘭くんが玄関の方へと彼女を導いてゆく。
「蘭、重いって」
「マーキングしてるんだからいーの」
「なによそれ……」
「俺の匂いナマエにつくじゃん」
「そうかな?ね、ここでいーよ。ひとりで行ける」
「いーから、送ってく」
「ん、でも店のお買い物も頼まれてるから」
「なら尚更荷物持ちいるだろ」
「平気だよ」
「アノ人も人使い荒いからいろいろ頼まれてんだろ」
「まぁね。でも、ママも忙しいから」
「そういうポーズのとりかたも上手いだろー?」
 彼らはべたべたしながら玄関でも会話し、そして、玄関の扉が開いて閉まる音。彼女のパンプスの隣に私が並べて置いたヒールに対して、声をあげない彼女を送って蘭くんが出て行った。
 彼らの会話は私にとってはひどく耳障りな表現をふんだんに含んでいて、それもひどく腹立たしい。
 これは、この港区で何不自由なく育ち親の金で大学に行っている親ガチャに成功した女への嫉妬であって、灰谷蘭の女への嫉妬ではない。私は黒川イザナの女。私に向ける蘭くんの態度が、何よりもそれを物語っているではないか。
 イザナの居ないこの世は妬ましい事ばかりで溢れかえっている。


TOP NEXT