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黒川イザナの女の話

 イザナが死んでも日が暮れれば明日が来る訳で、自ら死ねる勇気のない私は今日も竜胆の部屋で生きている。竜胆臭かったはずのこの部屋にも、もう竜胆臭さは名残すらなく、私はこの上なくとても快適に灰谷家で過ごしていた。
 ここにさえ居れば蘭くんが全てを世話して援助してくれるから、死にたい私が生きる為に困る事はなにも無い。
 まるで私が竜胆と入れ替わったかの様に慈悲深く接してくれる蘭くんは、竜胆に対しては振り下ろした拳を私に振り下ろす事は無い。それは、私が黒川イザナの女だからなのだろう。
 自分の女にも見境なく暴力を振るう蘭くんに、殴られた事のない女の価値。それがイザナ亡き今の、私の存在価値だと履き違えていた哀れな女を笑ってほしい。ねぇ、イザナ。アンタはどんな顔して笑ってた?

 なんだか上機嫌に帰ってきた蘭くんの手には、繊細な筆記体で記されたロゴのある紙袋がぶら下がっていた。リビングに居た私を玄関先まで呼びつけた彼は、その紙袋を私に手渡す。
「なに、これ?」
「ケーキ買ってきた。食うだろー?」
「食べる!」
「こないだ紹介した店で来週から使ってもらえるって連絡来たから、オマエの仕事決まった祝いなー」
「ほんと?やった!」
 蘭くんの紹介で行った服屋のショップスタッフに採用されたらしい事を知り、テンションも上がっちゃう私を見下ろす蘭くんが穏やかな笑みを見せた。
「好きなの食えよ。コーヒーも淹れて」
「おっけー」
 蘭くんから受け取った紙袋を大切に大切にキッチンへと運ぶ。コーヒーの用意をしながら紙袋から真っ白な箱を慎重に取り出して、キッチンの作業台の上に置いた。まっすぐに貼られたお店のロゴのシールを剥がして、箱の蓋を開けてみると、色鮮やかで可愛らしいケーキが三つ並ぶ脇にシックな色したモンブランが一つ。いつも苺が乗ったショートケーキしか買って来ないイザナとは大きく違う蘭くんのケーキの選択にパチリと目を瞬いてしまった私を、カウンター越しに蘭くんが覗いてきた。
「俺、モンブランな。オマエもその中から好きなの選べー?」
「全部美味しそうだから迷っちゃう」
 モンブランというからには、このモンブランは蘭くん用なんだろう。一つだけ色味の違うけれど、一つだけいやに 品格を醸し出す繊細なケーキを、そっとお皿の上に乗せてからまた覗き込むは箱の中。
 三つ残ったケーキはどれも美味しそう。本気で迷ってしまう私の頭上を、蘭くんの指先がつついた。
「選べねーの?」
「そんな簡単に選べないよ。全部美味しそうだもん」
「じゃあ、そのタルトは取っておいて」
 様々なフルーツが盛り盛りに乗っかったタルトを指差して蘭くんか言った。
「これも蘭くんが食べるの?」
 モンブランを乗せた横にタルトは乗らないお皿を選んでしまったから、お皿を変えるかもう一枚準備するか考えあぐねつつ尋ねたんだけど、蘭くんは静かに首を左右に振った。
「いや。ソレはナマエの好物だから明日でも寄ればーって言おうと思って」
「へー……」
 あの彼女の名を蘭くんが口にするから、蘭くんが指し示したタルトは選び難くなってしまった。
 あの女が好きなヤツだから取っておいてと言われてから、敢えてソレを選んでみせる程には、私の心もまだひん曲がってはいなかったみたい。
「じゃあ、こっちのにする」
 蘭くんか彼女の為にキープしたケーキの隣に並んでいるケーキを指差すと、また蘭くんは頬を綻ばせて綺麗な笑みを見せた。

 お皿にケーキをのせてフォークを添えたものをカウンターに置くと、蘭くんがそれをリビングのテーブルへと運んでゆく。淹れたてのコーヒーのカップも置くと、ケーキ同様に蘭くんがテーブルへと運んでくれた。
 彼の定位置でコーヒーを飲み始めた蘭くんが、蘭くんの脇でケーキを食べ始めた私の髪を、一房掴んで引っ張った。急な出来事に驚いてしまった私は、不覚にも蘭くんのその仕草にドキッとしてしまったりして。
「いきなり、なに?」
 わざとちょっと強めな口調で指摘してみせたが、蘭くんはそんな事は全く気にせずに、彼が掴んだ私の髪をしっかりと掴んだままその手を傷んだ毛先まで滑らせた。
 フォークを握りしめたまま見上げた蘭くんの横顔に、目を奪われる。

 私の髪の毛先までを辿った蘭くんの指先は、すぐに離れてゆく。
「いや、だいぶ傷んでんなって思ってさ」
 彼から返ってきた言葉から、毛質を見ていた事を理解しても、なんだか胸が早打ちし始めるのは収まらない。
「余計なお世話……」
「オマエも来いよ。ついでに、その汚ねぇ髪をなんとかしてもらえ」
 私の心のうちの些細な変化なんて知る由のない蘭くんは、ケーキを食べ進める合間にそう言った。
 酷く聞こえるその物言いに、反論すべく口を開いたのだけど、いつもならぽんっと飛び出す蘭くんへの憎まれ口が口から飛び出して来ない現状に、私自身が驚いてしまう。
 そんな私を気に止める事なんてしない蘭くんは、大きな口でモンブランを食べ切ると空になった皿とカップをそのままに席を立つ。
「出かけるぞ」
 リビングからの去り際に一声かけた蘭くんは、こちらを振り向くなんて事はせずに蘭くんの部屋の扉の向こうに消えた。
 蘭くんがお祝いにと買ってきてくれたケーキは、すごくすごく美味しかったのだけど、蘭くんが部屋に入ってしまってから口に運んだ分はただただ甘いだけだった。

 出かけると言う蘭くんは、私も連れて出かけないと気がおさまらなかったらしい。乗り気ではない外出に難色を示す私を、蘭くんが半ば強引に連行した先は原宿。
 イザナならば絶対行きたがらない様なこの土地を、蘭くんの半歩後ろを小走りで追いかけた。ついて来いと言う割に、マイペースに足を進める蘭くんだから、私と身長も脚の長さも大きな違いのないイザナとは違ってついて行くだけでも一苦労。細い路地が多く、土地勘なんてまるで無い原宿で迷子になんてなりたくない私は、雛鳥の如く蘭くんの後をピッタリと離れぬように、小走りになりながらも列を成して足を進めた。
 蘭くんがやってきたのは、ヘアサロン。蘭くんに続いて店の入り口を潜った私は、蘭くんと仲良さそうな美容師さんに案内されて蘭くんの隣の席に座らされる。
 そして、蘭くんと美容師さんが会話している様子を目の前の鏡越しに伺い見る私の髪を、蘭くんとしゃべる美容師さんが見てくる。雑誌を何冊か私に預けた美容師さんは、蘭くんとまた一言言葉を交わしてから席を離れて行った。
「ねー、蘭くん。なにするの?」
「整えんの。」
「私、髪切りたく……」
「いーから、静かに座ってろ」
 眉を顰めて心底迷惑そうな表情をして言い放った蘭くんは、携帯電話をいじり始める。これ以上話しかけても埒が開かない気がして、ファッション誌を開いた。ペラペラと紙面を捲っていると、美容師さんがやって来て私の髪に触れる。細い櫛で髪を取り分けられてゆく間も、美容師は私に何も語らない。なんか変。
 ぺらぺらと雑誌のページを捲る作業を続けていると、美容師さんがもう一人やって来て私の髪にカラー剤を塗り付け始めた。私へ色味も何も確認される事なく進んでゆく作業は、二人がかりで進められ、隣の席の蘭くんの前には湯気をのぼらせるコーヒーが運ばれてくる。
 静かに携帯電話を弄りながらコーヒーを飲む蘭くんへ視線を向けても、急に髪を染められ始めて不安しかない私の事なんて彼は見向きもしない。
 私は、蘭くんから意図的に無視されている気がした。

 私の髪にカラー材が塗り付け終わった頃に、蘭くんは一番仲良さそうな美容師さんと共に席を立つ。全ての意識を蘭くん集中させて、彼の動向を気にしている私にとって、それはそれは一大事。
 よく解らないままここに連れてこられ、蘭くんとはお話するけれど私の事はスルーする美容師に髪を染められてる最中。頼みの蘭くんの姿が見えなくなるなんで、ちょっと不安すぎて居ても立っても居られなってしまう。このままひとり、ここに放置されたらたまったものではないし、蘭くんが何処かへ行ってしまったらどうしよう!という気持ちが先走って慌ててしまう。
 カラー剤に埋もれた私の髪をまとめてラップで包んだ美容師さんが、そんな私の形相を見かねたのか「蘭くんならシャンプー台だよ」と呆れたような声音で教えてくれた。恥ずかしすぎて顔から火が出そう。やだ、死にたい。

 そんな些細な事で「死にたい」なんて思えちゃう程、私の日常はもう、灰谷蘭で埋もれていた。


 私になんの確認もする事なく髪を染めて長さを整えた美容師さんは、蘭くんの指示で動いていたようだ。
 蘭くん髪のトリートメントとブローが終わる頃には、私の髪も綺麗に染められて傷んだ毛先も落とされていた。蘭くんの言葉の通り、整えられた私の髪は、蘭くんに負けないほどにつやつやしている。
 蘭くんが決めたのか美容師さんのオススメなのかは定かでは無いが、私の髪に施されたカラーは自分でもびっくりする位に私を垢抜けさせた。だからこそ、この仕上がりに文句の言い様もないわけで、隣の席に座る蘭くんをチラリと見ると彼は満足そうに微笑んでいた。
 蘭くんに連れられてサロンを後にし、颯爽と歩いてゆく蘭くんの背中を追う。置いていかれないようにと小走りでついてゆく先で、急に蘭くんが立ち止まった。
「晩飯買って帰るか。オマエも食うだろ?」
 そんな蘭くんの急な問いかけに私が答えるのを待つ事なく、蘭くんはお店に入ってゆく。慌てて蘭くんを追うと、お店の人と和やかに会話している蘭くんが居た。

 ◆
 
 それから蘭くんと暮らす灰谷家へと帰り、美味しそうな匂いを漂わす袋を私に預けて蘭くんは自分の部屋へと入ってゆく。
 蘭くんから預かったお料理をキッチンへと運び、二人分の食器を準備する。私が竜胆の部屋で暮らすようになってから、蘭くんがテイクアウトしてきた食べ物をテイクアウトしてきたそのままの容器で出した結果、蘭くんに「味気ない事すんなー?」と叱られた事がある。そんな風にイザナに言われた事なんてなかったのに、蘭くんの前ではもうイザナならどうだなんて関係ない。イザナはもういない。2枚並べた皿の上には、蘭くんの好みに寄せて盛り付けた料理がのっている。
 カウンターに皿を二つ並べて置き、向かうのは蘭くんの部屋の前。
「蘭くん」
「今行く」
 ドア越しに名前を呼ぶと、短い言葉が返ってきた。
 再びキッチンのカウンターへと戻り、口の空いた酒の瓶と二人分のグラスを並べて置く。切らすなと蘭くんに言われているロックアイスを冷凍庫から取り出して、グラスの中へ落としていると、蘭くんがやってきた。
 外から帰ってきたらすぐに着替える事が多い蘭くんだから、きっと部屋着に着替えているのだろうと思っていたのだけど、私の予想は外れたみたい。確かに先程共に外出した時に着ていた服は着ていなかったけれど、蘭くんは部屋着には着替えていなかった。
「また出掛けるの?」
「ん」
 小さく頷く蘭くんは、静かにカウンターへと足を進める。そしてカウンターの上に私が並べた皿を覗き、心なしか頬を綻ばせてハイチェアに腰掛けた。
 カウンターに置いた酒瓶へと蘭くんの手が伸びてきて、私がロックアイスを落としたグラスへ茶色い液体が注がれる。並んでいる二つのグラスに酒を注いだ蘭くんは、注がれた量が見るからに少ない方のグラスを自分の手元に連れ去る。
「今度はどこ行くの?」
「そのへん。ナマエの迎えもあるし」
 蘭くんと会話しながらカウンターの向こうに周り、蘭くんのすぐそばまで来ると、くるりと回転するハイチェアの座席部分を蘭くんがこちらへと向けてくれた。
「ほんと、よくバックれずに続けてるよね、お迎え」
 蘭くんが向けてくれた椅子に腰を下ろしながら言うと、彼は椅子から手を離してカウンターへと向かう。
「まーなー」
 満更でもないような様子で言った彼は、私が盛り付けた皿をほんの少しだけ手前に寄せた。そして、箸を手に取り食べ始める。蘭くんの箸使いはとても丁寧で美しい。食べ物を綺麗に食べる。蘭くんは私たちみたいな育ち方をしていない事が一目でわかるような食べ方をするのだ。私も蘭くんのそれを真似てみようとしても私にその箸の持ち方はできない。利き手なのにぎこちなくなってしまって、全然食べ物が掴めないから、今日もまた一瞬でそれを諦めた。
 蘭くんが注いでくれた酒を飲みながら、食べ進めてゆく。私より食べるペースが少し早い蘭くんの皿はもう少しで空っぽ。氷が少し溶けて琥珀色になったグラスの中身を飲み干した蘭くんは、更に酒を注ぐような素振りは見せない。これを食べ切ったら、すぐにでも出掛けるつもりなのだろうか。
「ねー。たまにはお迎えサボろうよ」
「……ん、だよ。急に」
 私の提案に、蘭くんは訝しげに眉を顰めた。
「なんでそんな律儀にカノジョのお迎え行ってんの?あの子も家そのへんなんでしょ?別に地元歩かせンだし別にいーじゃん。しかも蘭くん達とタメとか、もうガキじゃないんだしさー」
「まぁ、な……」
 私の言い分に蘭くんは反論をしない。しかも、今の、私に同意したよね。
 隣に座る蘭くんの横顔をチラチラと見やり、彼の表情を窺いながら酒の入ったグラスを煽った。喉を上下させて酒を飲み込んでから、蘭くんが買ってくれた夕飯を口へと運んでゆく。
 そんな私の横でハイチェアから立ち上がった蘭くんが空の食器をカウンターの奥へと寄せる。そのまま足を踏み出した蘭くんの手首を掴んだ私を、彼は不思議そうな表情をして見下ろした。
「ね、蘭くん。シようよ」
「なにを?」
「セックス」
「は?オマエさ〜……構って欲しいなら、もっと面白い冗談言えよ」
 深いため息混じりでそう言う蘭くんは、私の提案を本当に冗談だと思ってる?
「別に冗談とかじゃ……」
「冗談じゃねーンなら、オマエもそろそろそういうの言ってイイ奴とダメな奴の違いくら……」
 またお兄ちゃん面してお説教を始めようとする蘭くんの手首を掴んだまま、カウンターのお料理に背を向けてくるりと回るハイチェアごと蘭くんの方へと向いた。
「アンタ、灰谷蘭でしょっ!?察しなさいよ!」
 私の物言いに、蘭くんはお説教をやめて口を噤む。綺麗な形をした唇を引き結び、私を見下ろす蘭くんに表情はない。
 これは、いつものポーカーフェイスとも違い、今までイザナの隣に居た時も竜胆の部屋で暮らすようになっても、見た事無かった蘭くんの顔だ。私の意とする事を察しているのすらも定かでは無い、そんな顔。
 蘭くんがそのような表情をしたのはほんの数秒だったかもしれないし一秒にも満たなかったのかもしれないけれど、急に居心地が悪くなってしまった私の肩を蘭くんが掴んだ。
 そして、ふわりと蘭くんのシャンプーの香りを纏う空気が私に近づく。背中を丸めて顔を寄せて来た蘭くんが、抑揚が全く無い低い声で「おいで」と言った。

 灰谷家のリビングの大きなソファで、蘭くんに組み敷かれる。
「ここで?」
「竜胆のベッドは勘弁」
 私の問いかけにそう返した蘭くんは、蘭くんの部屋で私を抱く事も勘弁して欲しいのだろう。イザナや獅音と談笑したソファに背中を預けて、蘭くんを見た。こちらを見下ろす蘭くんと視線が重なり、イザナの瞳の色より色味が薄い紫色に見慣れない髪の毛をした私が映っている。
 蘭くんの掌は、イザナの手より大きくてイザナの手より冷たい。蘭くんの唇はイザナの唇より薄くて、蘭くんの髪の毛はイザナの髪より柔らかい。あんなに広く大きく感じていたイザナの背中より、蘭くんの背中の方がずっとずっと広かった。
 イザナじゃない男に抱かれる事は初めてではない。蘭くんが迎えに来てくれるまでは、それが日常だったはずなのに、蘭くんが来てくれたからそれが日常では無くなってしまった。
 死にたいとばかり思っていたのに、蘭くんの隣で生きていきたいと願ってしまった私の首を、蘭くんの大きな掌が覆った。首にそう掌には徐々に圧力が加えられて呼吸が苦しくなる。
「……っ…………くっ……ぅ……」
 首を絞められるなんて経験のない私でも、この先に待つのが死である可能性を知っている。
 死ぬの?私、蘭くんに首を絞められて、死ぬの?死ぬの?イザナみたいに、死ぬの?私が死ぬの?
「らっ……く、ん……」
 私の首を両手で包んで圧力をかけてくる蘭くんの手首を掴んだ。うまく掴めたかどうかは定かではないが、踠いた手に当たった二本のそれをしっかりとこの手に握ったのだ。途端に緩まる蘭くんの掌からの圧力。止まりそうだった呼吸が通る。息を吸える。息を吐ける。息を吐ければ肺は空気を吸い込んで、私は呼吸を続ける。
「悪い、間違えた」
 ぽつりと呟いた蘭くんが私の上から退いた。ソファから降りた蘭くんは、そのまままっすぐ彼の部屋へと向かってゆく。
 大きなソファの上に身を起こすと、着衣を乱した自分の姿が大きな窓ガラスに映った。真っ暗な空と六本木の夜景を背負って窓ガラスに映る私は、まだ見慣れる髪の色と髪型をしていて、それに既視感を覚えて目を見張る。
 これは、あの子だ。
 私が蘭くんの掌の向こうにイザナを見たように、彼もまたそう。
 イザナが柔らかな口調で表した、蘭くんの彼女の姿。
 ばかみたい。
 
 黒川イザナという男は、口を吐い出るのは誰かのための優しい嘘ばっかりで、いつも前だけを見据えてその背にあまりにも多くのものを背負いすぎたから、私はもうあの人の背中すらも思い出せないのだ。
 


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