6
結局蘭の行きつけの美容院で蘭がいつものトリートメントを施してもらっている間に、私は蘭からのオーダー通りに髪の毛の色も形も整えられてしまった。
原宿のカリスマ美容師というヒトの腕と、蘭の人並みずば抜けたセンスのおかげで、人並みの自信を胸に真っ直ぐ立てるような容姿にしてもらえたのだと思う。
また髪の艶に磨きのかかった蘭に連れられて美容室を出てから、蘭の言うところの『知り合いのパーティー』とやらに連れて来られてしまったのだけど、不思議とさほど場違い感を感じる事なく馴染めてしまっているのはこの髪の毛が要因の一つなのだろう。
彼の言った『パーティー』という言葉にまず首を傾げてしまったのは、会場とされる場所がお洋服屋さんだったから。蘭の隣で静かに周囲を窺っていると、このお洋服屋さんの開店を祝うパーティである事がだんだんと解ってきた。独立してこのお店をオープンさせたのが、蘭の言った彼の『知り合い』という方の事らしい。
その様な場に何故私なんかまで連れて来たのか甚だ疑問でしかないのだけど、蘭の行動は拒否せず受け入れられる範囲は受け入れる事が私の生きる術であるが故に、静かに蘭に付随していた。そうしているうちに、この店内で一際存在感のある人からの視線を感じて、蘭の背に隠れたところ。その存在感のある人が私に視線を向けたままで、蘭に声をかけた事が始まり。
「蘭くんの彼女借りていい?」
「どーしよっかなー♡」
すぐそこで会話する二人の話の内容は、聞き耳を立てずとも私にも聞こえてくる。
私を蘭の彼女と勘違いをしている人へ、毎度の如く蘭はそれを否定せずに私を揶揄ってくる。今現在進行形で行われている蘭とこの人の会話の渦中の人も、もしかしたら自分の事かもしれない恐怖に気づいて、思わず蘭の服の袖を掴んでしまった。
借りる?彼女を借りるってどう言う事?私、蘭からこの人に借りられるの?
是とも非とも答えない蘭は含み笑いを湛えたままで、蘭も視線だけを私へとよこした。
「ナマエ、いっておいで」
そして、私を名指しして蘭が命じる。
蘭の言葉を受け止めて不安でいっぱいとなった私が、訳がわからぬ命令に縋るような目で見上げても、蘭の意図なんて、彼の目からは汲み取れない。
穏やかな笑みを含んだ蘭が、ゆっくりと私の手から彼の服の袖を離させた。
「この店の新作着せてくれるって。……なーに、オマエ。俺に試着室までついて来いっつ〜のー?」
人を小馬鹿にしたような言い方をするくせに、蘭の表情はやはり穏やかだ。穏やかすぎて怖い程に穏やかだ。
「新作……?」
「そー。この人はこの店のオーナーで、デザイナー。オマエでも知ってるだろー?……」
事態が飲み込めない私に蘭が説明してくれたのを要約すると、私でも知っていた位有名なブランドでデザイナーをされていた方が、独立してここに店舗を構えたとの事。その店のオーナー兼デザイナーであり、蘭の『知り合い』である彼が、この店の新作のお洋服を私に試着させて蘭に見せたいと言うのだ。
「ナマエ。ほら、おいで」
蘭の口から訳を聞いても乗り気になんてなれないのだけど、蘭は強引に私の腰を抱く。
そしてそのまま蘭に連れられて、試着室へと連れて来られてしまった。そこでお店のスタッフらしき人に押し付けられたのはハンガーにかかったドレスで、私の腰を抱いたままの蘭が一緒に試着室へ入ってくるから、私は慌ててしまう。
彼の行動がさも当然のような表情をしている蘭は、私の慌て様をマジマジと見下ろした。まっすぐに降り注ぐ視線が痛い。
「ね、蘭。これに着替えるなら、その……ほら……蘭が、ここに居ると、私……」
「今更恥ずかしがってんなってー。着せてやるから……」
言いながら勝手に私の服を脱がそうと試みる蘭の手首を、ありったけの勇気を振り絞ってそっと握る。そんな暴挙に出てしまった私の手元は僅かにカタカタと震えてしまうわけで、それを目にした蘭の頬は綻ぶ。
また馬鹿にされる気がして身構えた私を、その腕にぎゅうっと蘭が抱きしめた。ほんのりと舞っていた美容室のシャンプーの匂いが判らなくなる位、苦しい程に重たい蘭の香りに包まれたのは一瞬の出来事で、すぐに長い腕は解かれて、トリートメントされてきたばかりの艶髪がサラリと揺れる。
「ふふ♡じゃー、そこで待っててやるから早く着て来ーい」
呆気に取られてしまう程あっさりと、蘭は試着室を出て行った。
蘭の残り香が舞う中に一人取り残された私の手中には、この店の新作のドレスがあり、これに今すぐに着替えないとならないというプレッシャーがのし掛かる。私が着慣れている様な格好とはだいぶかけ離れたデザインのドレスに袖を通す事は戸惑われるのだけど、そこで待っていると言った蘭が気掛かり過ぎる私が起こすべき行動は一つだけ。
奥歯を噛み締めて小さく喉を鳴らして唾を飲み込んでから、さっきまで蘭の前で震えてしまっていた手先で着替えを急ぐ事。ただそれだけである。
兎に角急いで着替えを済ませ、目の前の鏡に映る自分姿をまじまじと見た。まるでドレスに着られているような散々な姿に、口の中が乾く。こんな様を見せれば、蘭も納得して、私には分不相応なこのドレスを揶揄い脱ぐように言うだろう。
静かにそっと試着室の扉を開く。僅かに開いたドアの隙間から、蘭の姿を探して視線を巡らすと、意外すぎる程すぐ近くに蘭がいた。
「……蘭、私やっぱり」
「着れた?」
ドアの隙間から覗く私に気づいた蘭がこちらへと歩み寄る。細くしなやかな指先がドアの隙間を捉えて、ゆっくりと隙間の空間を広げてゆく。ドレスの良さを打ち消すような酷い格好をしている私を視野に入れた蘭が、私の頭のてっぺんから爪先へと視線を滑らせた。
蘭の行きつけの美容室で綺麗にしてもらった髪の毛から、分相応なドレスを通って私の足首へと下りていった蘭の目線は、私の背後にある鏡へと向く。そこには私の後ろ姿が写っているはずで、決して姿勢が良いとは言えない私の醜い後ろ姿を蘭が捉えた。猫背気味になところも、お世辞にもスタイルが良いとは言えないところも、気にした事がない訳ではないけれど、人生で今ほど気にした時なんてない。
「ふぅん♡」
なんだか妙に上機嫌に頬を緩めてゆく蘭を見上げ、続くだろう彼の揶揄いの言葉に身構えて息を呑む私の前で、蘭はそれ以上何も言う事なく、彼は羽織っていたジャケットを脱いだ。突然の意味不明な蘭の行動に目を瞬く私の肩へと、蘭のジャケットが掛けられる。まだ人肌に温かい布地はサラリと肌に馴染む軽い素材で、蘭が纏う重たい香水の匂いが私を閉じ込める。
「背中、結構開くから……とりあえずソレ羽織ってろ〜」
そう告げた蘭が、私が脱いだばかりの服を取り上げて、パッと見ですぐに読むことが出来ないようなオシャレなロゴがプリントされた紙袋へと私の服を軽く畳んで放り込んでゆく。
「待って蘭……」
彼が勝手な事をするのはいつもの事ながら、小さな抗議の声をあげようとしたのだけど、私の抗議に関しては聞く耳を持たぬ蘭が私が着て来た服を詰め込んだ紙袋を手にして行ってしまった。
蘭の背中を慌てて追いかけると、すぐそこで蘭が立ち止まる。急に立ち止まった蘭に驚いてしまう、どんくさい私は、顔面から彼の背中にぶつかりそうになって慌てて足を止めたのだけど、この身はつんのめってつまづいた。結果として、蘭にぶつかるなんて情けないありさま。
「なーに、してんだか」
「蘭が、急に……止まるから……」
「ふーん。俺のせい?」
「そうじゃなくて……別に、その……」
「おいで」
こちらを振り向いた蘭の眉間に寄る皺に慄きこの場を取り繕いたい私の肘を掴んだ蘭が、ぐいっと私の体を引く。その反動でよろけてしまった体を蘭が抱き寄せた。
「たらたらしてんなって」
大きな不満が滲むような口ぶりの蘭の声が、重たく私にのし掛かる。
「ご、めっ……」
蘭の上着を羽織らされた体が苦しくなって、口に慣れた謝罪の言葉ですら吃ってしまう私の背中を蘭の大きな掌が押した。
「なに飲む?シャンパンでい?甘いのもらう?」
立て続けに蘭が尋ねてきて、私の顔を覗き込むから、蘭の長いグラデーションの髪がさらさらと揺れる。滑らかな艶が淡いオレンジ色を反射して、蘭の髪の金色に強さを持たせた。
同じく金色に輝く液体の入った細く華奢なフルートグラスを蘭が掲げる。彼の口にした私への問いかけなど無かったかの様に、蘭が持つグラスへとそっと手を伸ばせば蘭は何も言わずに私の手へとグラスを受け渡した。向こうが透けて見える金色した液体の中で、細かな泡が下から上への上り詰めてぱちぱちと弾けてゆくのももちろん不可抗力。私が蘭に従うのもそれと同じ自然な事だ。
蘭の言う通りにしていれば大丈夫。
蘭の隣で静かに佇み、蘭に渡されたグラスを手に持ち、蘭の言葉に頷き、蘭を囲う彼の知り合いに静かな笑みだけを向けていた。慣れない格好で慣れない空間で慣れない事に殉じている私の肩を覆う蘭のジャケットの素材は軽いのにとても重たく、私をひどく疲弊させた。
もう、社交辞令程度に口にした酒量で酔うほど、やわではないのだが、急に平衡感覚を失ったのは一瞬の事。ふらりとよろけた体は、蘭が体を支えているから倒れ込む事はなかったのだけど、私のこの小さな異変を目の当たりにしたこの周囲は騒つく。灰谷蘭のツレがたちくらみを起こしたという些細な出来事が、光の速さで伝達されていったのだ。蘭の脇で静かに存在していただけの私へ注目が集まる。そうだ灰谷蘭とはそういうモノだった。
不本意ながらも『灰谷蘭の女子高生』だなんて異名を付けられた頃を思い出す。
「気をつけろー。酔っ払っちゃった?」
ふふふ♡と頬を緩めて笑う蘭が、私の前髪を撫で付ける。蘭からの問いかけへの返答に困ってしまう私の髪をその長い指に絡めながら、蘭が周囲の人達と言葉を交わしてゆくのをぼんやりと眺めていた。