お名前変換

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 学校帰りにまっすぐバイト先の店へと向かうと、開店前のお店でママのマイボトルで水割りを作りながらひとりで飲んでいたらしいママが、上機嫌に私を出迎えた。
「あら、ナマエちゃんヘアスタイル変えたのね。良いわ。可愛いじゃない」
 大きな目をパチリと瞬いたママは、ふふふ♡と盛大にほっぺたを緩ませて笑う。そういえば、蘭の行きつけの美容室に一緒に行ってから店に来たのは今日が初めてだ。
 普段のママは、私にはお世辞ともなんとも聞き分けきれないような事ばかりを店で口にしているようなのを耳にする事が多いのだけど、彼女の今の声音と表情からは本気で良いと言ってくれているであろう事が感じられた。私相手にお世辞を言う道理なんてない彼女が、良いと言ってくれるなら本当に蘭の行きつけの美容院の技術は確かなものなのだろう。
 とても軽い口調と態度で、カリスマ美容師だからとかなんとか言っていた気もするけれど、その腕は確かだという事だ。
「……ありがとうございます。おはようございます」
 ママの言葉へのお礼を述べてから、いつもの挨拶の言葉を口にしてまだ照明が半分しか点灯されていない店内を進む。ママに褒めてもらった髪をポニーテールに括り仕事ができる身支度を整えた私へ、ママは空になったグラスを渡してくる。
「ちょっと出掛けてくるから、あとよろしくね。開店の頃には戻るわ」
 そう言ってにっこりと笑った彼女は、携帯電話だけ着物の帯にぐいっとねじ込んで、そのまま店の出入り口の方へと向かってゆく。
「行ってらっしゃいませ」
 シャンとしたママの後ろ姿へ声をかけると、店のドアが開いてすぐに閉じた音が届いた。
 ママが飲んでいたカウンターを片付けて、洗い物を始める。まだ誰も出勤してこないウチに開店に向けて集中したいので、急いで仕事にとりかかる。店の掃除を終えて、ママ特製のぬか漬けのぬかを掻き回し、明日のお通しの仕込みを済ませてから今日のお通しの準備を進めていると店のドアが開く音がする。
 開店の時間まではまだ暫くあるし、ママが店に戻るのは今日の彼女の雰囲気だとおそらく開店の時間が過ぎた頃な予感しかしない私が、手元から顔を上げた所にやってきたのは、店のアルバイトの女の子だった。
「おはよー。ナマエちゃん前髪切った?あ、髪も染めた?その色いいじゃん。どこのサロン?」
 目が合った途端に立て続けにいくつもの質問を投げつけられて、戸惑ってしまう私とカウンターを挟んで向かい合う彼女は、蘭のせいで前のバイト先を辞めた私がこの店で働かせてもらう事になった時には既にここで働いていたベテランスタッフのお姉さんである。今更人見知りをしてしまうような間柄ではないのだけど、急にいくつも問いを重ねられてしまい、何からどう答えれば良いのか判らなくなってしまった。この様に、人とのコミュニケーションが苦手な私が口篭ってしまう様を彼女の前で披露する事になるのは何度目だろうか。
「はは♡ごめん、ナニ切ってんのソレ?」
「ぁ……長芋を」
 カウンターに両手をついて私の手元を覗き込んできた彼女に尋ねられ、今まさに包丁で切り込んでいる野菜の名前を口にしてこの場を取り繕うつもりが、全く取り繕えてない空気感に苛まれる。
「それぬるってするイモだよね?」
「……はい」
「今日のお通し?」
「そ、です」
「へー、楽しみ♡で、どこのサロン行ってんの?私もそのうちその色してもいー?」
「構わないんですが……お店の名前わかんなくて」
「予約の電話番号だけでもいーよー」
「それも、わからなくて」
「マジ?あー……ネット予約とか?」
「私が予約したんじゃなくて、一緒に連れて行ってもらっただけだから判らなくて……」
「そっかー。店、どこにあるの?」
「えっと、……原宿……」
「もしかして蘭ちゃんが行ってるとこー?原宿って言ってたよね⁉︎」
 店のママに負けない程の美人に眩い笑顔で尋ねられて、こくりと小さく頷いた。
「いいなー。原宿のカリスマ美容師ってだけでさ、蘭ちゃんにお店聞いても全然教えてくれないんだよね」
 自分の手元へと視線を落として、包丁を操る私へ彼女は言う。
 なんて言葉を返したら良いか迷ってしまった所で、店のドアが開いて数人の女の子達が一緒に出勤してきた。第三者の登場に、場の空気もガラリと変わる。
 カウンター越しに美容室の話を私に振ってきた彼女は、今度は違う話題を口にし始めるから、場の空気を読みながら適当な相槌を返して作業を進めていった。
 
 開店の頃には戻ると言って出掛けて行ったママが、再び店のドアを開くより前に開店の時間が訪れ、ママよりも先にいらっしゃった常連のお客さんが「まーた、みんなに任せて遊び行ってるの」なんて言って囃し立てた。
 結局ママが店に帰ってきたのは、店が開店してから暫く過ぎてからで、流石と言うべきかちゃっかりと外でお客さんを捕まえて連れてきたものだと思っていたの。
 だけど、洗い物をする手元から視線を上げて見たママの隣には、お客様では無さそうな長身の男の姿があった。それは、灰谷蘭という何を考えているかわからない表情をした男の姿。
「店の中だと色味の雰囲気だいぶ変わるか」
「あら、蘭ちゃん。私は可愛いと思うけど?」
「……まぁ、な」
「なによ、褒められて嬉しいなら嬉しいってちゃんと言いなさいな。蘭ちゃんのそういうとこ、……」
「はいはい。ほら、ママは、もーここ座って……」
 いつもより酒に酔って見えるママを宥める仕草ですら、蘭に限ってはそれだけで不思議とサマになる。
 カウンターの席へとママを座らせて、その隣へと蘭が腰を下ろした。
 作業をする手を止めて、濡れた手元を拭い、ママのお酒の準備をする。グラスと氷をママと蘭が並んで座った前へ運んで行くと、蘭がこちらに手を差し出した。ママ用のグラスを蘭へ手渡せば、蘭は手慣れた手つきでママの水割りを作り始める。
 蘭の隣でママが「私のお酒は蘭ちゃんにあげないわよ」なんて言い出すものだから、ママの旦那さんの札がぶら下がるボトルをそっとママから見える位置に置いてやる。
 この店で顔を合わせる度に、ママには内緒って言いながら蘭に自分の酒を飲ませている彼のものなら問題ないだろう。きっと今ママの旦那さんがここに居たら、蘭にママを宥めさせながら蘭には自分の酒を飲ませている姿が目に浮かぶもの。そんなママの旦那さんのご来店は今日は無く、私の勤務時間が過ぎる頃になって、ママがカウンターから席を立つ。
「あらやだ。もーこんな時間。ウチの大事なナマエちゃなんだから、お家の前までちゃんと送り届けなさいよ」
 言いながら蘭の肩をぱしっと叩いたママへ、蘭が僅かに眉を寄せたのは一瞬の出来事。すぐに、何事もなかったかのような和かな笑みをその頬に貼り付けて、周囲のお客さんと会話を始める。ママには言い包められちゃう蘭を横目に見ながら、カウンターの中へと入ってきたママと入れ替わる。
 帰りの支度を済ませてホールに出ると、すぐに蘭がやってきて私の背中を軽く押した。


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