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ネームレス/記憶喪失/DV/暴力



 すごくすごく、頭が痛かった……んだと、思う。多分。
 まだ頭の後ろの方とおでこがぴりぴりと痛んで眩暈がするけれど、頭を起こしていられない程ではない。目が覚めた時は気持ち悪かったのだけど、今はもう吐き気がするわけでもない。至って正常。
 背中や腰に鈍い痛みがあるが、きっと打ち身のせいだろう。

「軽い記憶障害が残っているようですが、もう帰ってもらって構いません。会計の準備ができたらお声がけしますね」

 病室へとやってきたナースがそう言った途端、搬送先の病院へ駆けつけてくれた母がひどく安心したように笑った。
 私は、学校の校舎の階段から足を踏み外して落下し、その場で気絶したらしい。
 たまたま近くにいた同じクラスの男の子が保健室まで運んでくれたとの事。保健室へと運ばれて暫く様子を見ても気を失ったままだったから、救急車を呼ばれて学校からこの病院へと搬送されたんだって。これは全て、目を覚ましたさいに母と共に此処に居た、ウチの学校の養護教諭が教えてくれた。
 気絶した私を保健室まで運んで運んできてくれたクラスの男子は、灰谷くんと言うらしい。同じクラスだと先生は言っていたのだけど、その灰谷くんという名前は私には全く聞き覚えも心当たりも無くて、もちろんその男子の姿だって思い出せない。ウチのクラスに、そんな子居た?灰谷。という名字の男子なんていたっけ?
 どんなに首を捻ってみたところで、そんなのわからない。同じクラスの知らない男子へと想いを巡らせている間に、ナースが呼びにきて、私は母に付き添われて病室を後にした。

 驚愕したのはその日の夜。
 普段の放課後と変わらぬ時間に家族で夕食を取り、リビングでテレビを見て、それから順番でお風呂へと向かう。
 洗面所で制服と下着を脱ぎ、結んでいた髪を解いてから、お風呂場へ。浴室の鏡にシャワーへと手を伸ばす自分の姿が写って、その目を見開いた。
 私の身体のそこかしこには、茶色や紫色のアザがある。それは全て胴体に集中していて、服を着てしまえば解らない所にあった。
 もちろん私にはこんな怪我をした覚えなどない。階段から転げ落ちた事が原因でできたアザとも考えられないこれらは、最近できた様に見えるものと少し前にできたものやもっと古そうなものと様々だ。全く覚えのないそれらのうち、まだ色鮮やかなアザにはシャワーの湯がしみる。
「…………っ……」
 急に喉が詰まって涙が溢れてゆく。きっと、それは、まだ色鮮やかなアザに湯がしみてヒリヒリと痛み、鏡に写った信じられない自分の体が怖くなったから。だと、思う。

 私が階段から転げ落ちて救急搬送された日の翌朝。心配した母が、大事をとって休むようにと提言したのだけれど、私は休むことなく普段通りに登校した。それは、私を保健室まで運んでくれたという灰谷くんという子にお礼を伝えたかったのと、今日の時間割が好きな教科ばかりだったのと、放課後に仲の良い友人と寄り道をする約束をしていたからだ。
 教室に入ると、昨日の今日で登校してきた私をクラスのみんなが囃し立てて騒めきつつ迎え入れた。
 自分の席へと向かう途中で、今日も放課後一緒に過ごす予定の友人に声をかけられ会話するうち、私は今一番気になる事を彼女に尋ねてみた。
「ねぇ、灰谷くんってどの人?」
「……え、何言ってんの?」
 そりゃそうだ。もうすぐ制服が夏服に切り替わる頃というのにクラスメイトを把握していないなんて、我ながら呑気にも程があると思う。
「ん?だから、灰谷くん。昨日、私を助けてくれたみたいで、同じクラスって聞いたんだけど」
 養護教諭に教えてもらった情報を友人にそのまま伝えてみると、彼女の表情は一気に青ざめた。
「冗談やめてよ!灰谷蘭だよ?アンタ、なに言ってんの?え?階段から落ちて頭おかしくなった?」
「なにそれ、どういうこと?」
 驚きに目を瞬きながら友人の言葉に聞き返した私の肘を、彼女が勢いよく、痛いほどに強く掴む。
「灰谷蘭。ほら、来たけど。灰谷蘭がどれとか……マジで冗談キツイから。」
 教室のドアの方をじっと見つめる友人の視線を目で追った先には、随分と制服を着崩した、長い金髪をおさげに結った男の子が居た。この子が、灰谷くんなのだろうか。
 私を保健室まで運んだにしては、華奢に見える体つきに驚いてしまう。男子の制服を着ているから男の子に見えるだけで、もしも制服を着ていなかったらぱっと見女の子に見える程に線が細い体で、とても綺麗な顔をした人。この人が灰谷くんなんだ。
 その灰谷くんは、教室に入るや否や、真っ直ぐこちらに近づいてくる。そして私の目の前を通り抜けようとしたので、私は彼の肩にそっと触れた。
「あの、灰谷くん。昨日はどうもありがとう」
「あ?」
「重たかったでしょ?灰谷くんって、細そうなのに力持ちですごいね!」
「は?テメェがバカなのは前からだけど、頭打ってまたさらにバカになったかー?」
 灰谷くんの掌が私に向かう。骨ばった大きな掌は、私の頭を鷲掴みするように頭上にのった。その美しい容姿にそぐわない言葉を口にする灰谷くんに驚いてしまった私の頭を、しっかりと掴んだ灰谷くんが上を向かせ、間近に覗き込んでは、垂れた瞳で冷たく見下ろしてくる。灰谷くんって、容姿に似合わずこういうキャラなのかな?なんて、呑気に首を傾げてしまう私へ、さらに顔を寄せてきた灰谷くん。
 急に美人のドアップに視界を塞がれるというのは、朝っぱらからとても刺激が強くて、急に顔面に熱が集まった。きっと私の顔、真っ赤になってる。目の前の灰谷くんの唇の両端がくいっと上に向かってゆくのが見えてから、彼は顔と顔との距離を少しだけ離してから言葉を紡ぐ。
「昨日の。医者によけーな事、話してねぇだろーなー?」
「え、何かあったの?」
「はぁ?」
「私、昨日、階段から足を踏み外した時の事。あんまり覚えて無くて……」
「……テメェ、それ本気で言ってンの?」
「うん」
「…………」
 熱いままの頬で僅かにこくりと頷いた私へ、灰谷くんは不躾な視線を下す。形の整った薄い唇を引き結んだ灰谷くんの、何かを吟味するようなその視線が針の様に突き刺さる。しばらくの間私へと鋭い視線を向けていた淡い菫色の瞳は、やがて鋭さを失い穏やかな色を湛えてから、ふっと細められる。
 てっぺんを押さえられてどうする事も出来ずにいた私の頭を、灰谷くんが離した。
「あの。私、昨日の……頭の打ちどころが悪かったっていうか……記憶障害が残ってるって病院で言われて。だからかもしれないんだけど。昨日の事、全然覚えてなくて」
「ふぅん♡」
「それに、灰谷くんの事も」
「俺……?」
「昨日、保健室の先生に灰谷くんが助けてくれたって教えてもらったんだけど、全然誰だかわからなくて。同じクラスみたいなんだけど、やっぱり、アナタの事全然知らなくて……」
「は?」
「変だよね?同じクラスなのに……あの、ね?昨日は、助けてくれて、ありがとう」
 些か早口に灰谷くんへ伝えたかった感謝の気持ちを伝える私を、彼は静かに見ていた。

 ◆

 記憶障害が残っていると、彼女は確かに言った。
 昨日階段から転げ落ちた原因を医者にまるまる話されてしまったらマズイと思っていたのだけど、それはとんだ取り越し苦労だったようだ。彼女の家に顔を出せば、もう学校に向かったと言われ、慌てて教室に来てみたら、俺に対する彼女の全てが他人行儀。久しぶりに灰谷くんなんて呼ばれる状況に、思わず手が出そうになった拳を握りしめていた。
 彼女は俺を忘れている。
 校舎の階段から彼女自身を突き落としたのが俺だという事実も忘れている。
 これは、もしかしたら、この上なく好都合なのではないだろうか?忘れているから、彼女は俺に階段から突き落とされた事実を医者に話す事は出来なかったし、彼女の体に残るアザの理由を問われたとしても答えられる事など出来なかっただろう。なんせ彼女は俺を忘れているのだ。俺に関する全てを忘れていると仮定するならば、この上なく都合がいい。「誰にもいうな」と釘を刺しておけば、誰にも言わなかった彼女がこれから先もそうだとは限らない。それら全てが彼女の記憶から無くなっているのならば、彼女に口止めする必要もなく、何者かにバレる事だってないのだ。

 彼女が俺の事を「灰谷くん」と他人行儀に呼ぶ事でクラスの一部の人間が騒めいた。それは主にクラスの女子で、お節介にも彼女に口出しをしようとした女子の肩を叩いてやれば、俺を見上げて口をぱくぱくと金魚みたいに開け閉めしたそいつは、その口を噤んだ。
「どうしたの?」
 俺を恐れた彼女の友人へ、何も覚えていない彼女が問いかける。
「ううん。なんでも……」
 即座に首を左右に振ってみせた友人を彼女は咎める事もさらなる追求をする事も無く、彼女の友人から俺へとその視線を向けた。
「灰谷くんも、そんな怖い顔してどうしたの?」
「虫、ついてたから。肩……」
 居やしない生物がそこに居たかのように振る舞う俺を見て、彼女はふわりと花が舞うかのように笑った。
 彼女のこんな表情を目にしたのは、すごく久しぶりの事だった。
「すごい。流石男の子だね。私なんて昨日袖にてんとう虫が止まっただけで大騒ぎしちゃってお母さんに笑われたもの」
 こちらを見上げる彼女の瞳がきらりと煌めく。キラキラとした目で見上げてくる彼女は、俺の嘘を全て信じているのだろう。このクラスの内で彼女の瞳にだけは、俺はクラスメイト女子の肩に止まった虫を取ってやった優しい男子として映っている。喧嘩の際に顔面に向かって虫を投げつけてやる事はあっても、虫を取ってやるなんて行為は、生まれてこのかた一度も行った事なんてないのに。
 彼女が怯えて泣きながら怖がる虫ですら、俺はその傍で彼女の泣き顔を見て囃し立てているだけで手を出してやった事なんてなかった。

 暴力というのはとても簡単な手段で、一度与えてしまえばそれは益々エスカレートしていくものである。その加減はとめどない。
 初めて彼女の頬を打った時の、彼女の泣き顔を覚えてる。原因はなんだったか。テレビで見たという誰かの事を話してくる彼女のはしゃいでいる声がひどく耳障りだったから。竜胆とは違い、彼女の皮膚はすぐに破れて腫れる。だから、見えるところを打ってはならぬのだと学んだ。それ以来、俺が自らの感情に任せて振り上げたこの手や足は、主に彼女の腹と背中に向かった。
 俺と彼女にしか見えないところに、途絶える事のないアザ。こんな事したいわけではないのに、気付くと彼女を泣かせてた。
 昨日だって感情に任せて彼女を打って階段から突き落としたのは、紛れもなく俺だ。彼女が覚えてなくとも、俺の記憶にはもちろんあるしこの手にその時の感触だって残っている。彼女を泣かせるたびに、泣かしたいわけではないと、後悔の念を抱く。
 彼女を傷つけたこの手で、流れる涙を拭うと、俺に縋ってくる彼女が愛おしかった。
 本当は傷つけるんじゃなくて、大事に大事にやわらかな真綿で包む様にして、俺だけが手の届く所へ仕舞い込んでしまいたい。誰の目にも誰の手にも触れぬように。そうすれば、俺が彼女に手をあげることもなかったのに。
 一度殴ってしまえば、もう殴らないだなんて事できるわけなくて、後悔は連鎖して次の加虐を生むんだ。もう、彼女を殴りたくなんてないと願いながら、「愛しているから、誰にも言うな」と、彼女の耳元で囁く日々もこれで終わる。
 彼女が俺を覚えていなくても、俺は彼女を隅々までよく知っている。そんな彼女にもう一度取り入る事なんて、やはり赤子の手をひねる事より簡単だった。
 
 ◆

 どうして同じクラスなのに、灰谷くんを知らなかったのだろう。ちょっと口は悪いし不良みたいだけど、こんなに穏やかで優しい男の子なのに、どうしてもっと早く友達になっていなかったんだろう。
 仲良くなりたくて近づく私を、灰谷くんは嫌がりはしなかったし、灰谷くんも私と友達になってくれそうな雰囲気。
 金髪にしているのに傷んでバサバサになる事無くふわりと柔らかい髪をした灰谷くんに、おすすめのシャンプーを尋ねたら一緒にドラッグストアに行って選んでくれた。近所の美味しいパン屋さんを教えてくれたり、登下校で偶然お互いを見かけると隣を歩いた。
 私にとっては彼は恩人で、階段から落っこちて気絶した私を保健室まで運んでくれたというヒーローだ。まるで少女漫画も顔負けな出会いをしてしまった相手が、こんなに綺麗で穏やかな男の子なんだもの。夢中にならないわけがない。
 灰谷くんの言動で一喜一憂してしまうような私を、彼は穏やかな優しい目で見てくれる。それだけでも幸せなのに、私達の間には少女漫画みたいな王道な展開がその先に待ち受けていた。
「今日、二人で帰らねー?」
 昼休みの教室でそっと灰谷くんに声をかけられた。
 灰谷くんに「二人で」なんて言われてしまうと、なんだかドキドキしてしまう私は熱くなっていそうな頬を隠すのに精一杯。大きく頷く事で答えを示すのがやっとだった。
「楽しみ♡」
 綺麗な形の唇で弧を描き微笑む灰谷くんは、緩やかに首を傾げながら、柔らかな声で言う。そんな灰谷くんの仕草すら思わせぶりに見えてしまう程、彼に夢中になっている私は今日の放課後を楽しみに思う余裕などはない。
 放課後になるや否やガチガチに緊張してしまった私の手を、灰谷くんが急に掴んだ。
 びっくりしてその手を振り払ってしまいそうになったのだけど、灰谷くんの握力が意外と強くて振り解けなかった。そのまま手をぎゅって握られてしまうから、なんだか早打ちし始めた心臓もぎゅっと握られてしまいそう。
「緊張してんのー?かわいー♡」
「待って、からかわないで」
「んー?」
 やはり思わせぶりに微笑む灰谷くんの隣を、手を繋いで歩くなんて初めてだ。穏やかな午後の日差しの中で、ふわふわとゆれる金色の髪からはとてもいい匂いがするし、繋いでくれた手はきゅうっとしっかり握ってくれる。
 密かに憧れていたような少女漫画の一場面の様な現状に私の頭の方がついていけないまま、灰谷くんに連れられて行った先は公園のベンチ。手を繋いだまんま、並んで座る。こんな展開にどうしてもソワソワとしてしまう私を、灰谷くんが横から見てる。
「あのさぁ……?」
 急に灰谷くんが話しかけてきて、その場でびくりと飛び跳ねてしまいそうな勢いで、灰谷くんの方へと顔を向ける。柔らかな視線を向けてくれる淡い菫色がとても綺麗で、心臓の音がどんどん早まってゆく。
 私と灰谷くんとの視線が合わさって、見つめ合う。
 急に恥ずかしくなって熱くなる頬を隠したいのに、きゅっと握った手は離してはもらえないから、どんどん頬に熱が集まった。どうしたらいいか判らず、でも灰谷くんから視線を逸らせずにいる私を淡い菫色に映した灰谷くんの瞳がそっと細められた。
「すき」
 灰谷くんの唇が紡いだ二つの音が、確かな意味を持って私の中を駆け巡る。
 これは、私が、生まれて初めて他人から貰った気持ち。
 手の中に広げた少女漫画の紙面では何度も見た事あるそれを、灰谷くんが体現した。
「俺と、……付き合って、欲しいんだけど……」
 少しだけ照れくさそうに、でもいつも向けてくれる柔らかな声音でぽつりぽつりと言葉を繋いだ灰谷くんに、こくりと大きく頷くと繋いだ手をさらにきゅっと強く握られた。自分に舞い降りたこの状況に、自らの事ながら舞い上がってしまって、この後どうやって家に帰ったのか覚えてない。
 家の前まで、灰谷くんが手を繋いできてくれた事だけ、覚えてる。

 それからは夢見心地な毎日が続き、私は初めてのカレシに浮かれてた。灰谷くんと一緒に過ごす時間はすごく新鮮で、灰谷くんと二人でいるのが当たり前になった。
 私たちのお付き合いが始まっても、灰谷くんはいつも穏やかに私を包み込むような柔らかい視線をくれる。少しやきもちやきなところがある彼が可愛くて、「俺だけ見てて」という彼の言葉に頷き返し、お互いに「約束」と言って指切りをした。
 
 学校から家までの帰り道も二人で手を繋いで歩くのが常となり、塾に行く時間になるまで私の部屋で一緒に学校の宿題をこなすのが日課となった。
「灰谷くん、何、読んでるの?」
「んー?」
 私が苦手な科目に手間取っている間に、先に宿題を終えたらしい灰谷くんの手元に漫画本を見つけて覗き込む。すると、そこには意外すぎる絵柄が見えて目を瞬いた私に灰谷くんが身を寄せた。
「オマエも終わったの?」
「もうちょっとなんだけど……ってか、灰谷くんも少女漫画とか読むんだね」
「別に……そこにあったから」
 そこ、と彼が指さしたのは私の本棚。知らぬ間に私の漫画を読んでいたらしい灰谷くんの手元には、私のお気に入りの少女漫画の七巻が握られていた。
 首を傾げてその表紙を覗き込む私の手首を灰谷くんの手が緩く掴む。
「でも急に七巻なんて話がわからなくない……?」
 そう尋ねながら本の表紙から、灰谷くんへと視線を向けると灰谷くんもこちらを見ていて自然と重なった視線が絡まり、綺麗な顔が近づいてくる。突然の事に目を見開いてしまう私とは対照的に、灰谷くんの目はゆっくりと閉じられて長いまつ毛が伏せられた。むにっと唇に柔らかな感触が当たって、ファーストキスを奪われる。目を見開いたまま全身を硬直させた私の目の前で、長いまつ毛を揺らして白い瞼が持ち上がり、淡い菫色が姿をあらわした。
「目ぇ、閉じて」
 灰谷くんの吐く息がぶつかる程に近くに寄ったまま指摘され、慌てて瞼を閉じる。再び唇へ当てられた柔らかな感触を、私が忘れる事はないだろう。

 家から塾へと向かう道のりを灰谷くんが手を繋いで共に歩いてくれる事もしばしばあった。
 私の塾が終わる時間は灰谷くんはまだ塾の時間らしくて、灰谷くんは遅くまで大変だなぁなんて、思っていたのだけど、どうしてかその日は私が塾から帰る途中に灰谷くんを見た。
 彼は、ちょっと柄が悪そうな集団の中に居た。年上に見える人達に囲まれていて、近づきづらい雰囲気の中に居る灰谷くんはここに居る私には気づかない。けれども、偶然灰谷くんを見かける事が出来たのが嬉しくて、彼から視線を反らす事が出来なかった。
「ガキがなーに見てんだァ?」
 灰谷くんの近くにいた男の人がこちらを向く。集団の中に居た灰谷くんが私に気づいて、私に呼びかけた人と会話をしている様子が見えた。
「このガキ、蘭のオンナ?」
「ちょ、コイツには手ぇ出すなって。見た通り、マジでお子ちゃまだから、さー……」
 灰谷くんと周りの人がこちらに近づいてくる。
 彼らの話題に上がっている人物って、まさか、私の事?
「なーに、してンの?」
「一緒にあーそーぶー?」
 灰谷くんのお友達に対して失礼でしかないのだけど、関わりたくないし触れられたくないような男の人の手が伸びてきて、思わず後ずさる。
「だからさ、こんなガキには用ねぇだろー?」
 言いながら私とその人達との間に割って入ったのは灰谷くんで、やっぱり彼らの話題に上がっていたのが私の事なんだと認識ができた。いつも以上に言葉遣いの悪い灰谷くんに自分がそんな言われ方してるなんて、信じられない。灰谷くんの言い様に気が動転してしまった私の真ん前で、今度は灰谷くん達の口論が始まってしまう。
 背後に置いた私を庇うように立つ灰谷くんの向こうから、彼と言い争う人の手が伸びて来て、その手を灰谷くんが掴んだ。
「調子乗ってんな、コラァ!」
 怒声をあげた男の人が灰谷くんに殴りかかったのを皮切りに、複数の男の人が灰谷くんへと襲いかかる。目の前で始まった乱闘に腰を抜かしてしまった私は、ぺたんっとその場に尻餅をついてしまったのだけど、私に背中を向けて拳や蹴りを繰り出す灰谷くんがその場を動く事は無かった。
 驚きと恐怖で目を閉じる事を忘れてしまった私の目の前で繰り広げられているこれは、蘭の日常。
 六星コミュニティに関わる仲間との間での小競り合いだって、彼にとっては日常茶飯事で、自分より年上で身体も大きな男にだって、蘭は負けない。私に向ける暴力は手加減しても、私を守る暴力は手加減しない蘭を、私は知っている。
 私が六星コミュニティの大人に絡まれて、蘭に守られるのはこれが二度目だ。

 ただ呆然と、蘭が自分よりも身体の大きな男の人を伸してゆくのを見ていた。
 そう。私はあの時もこうして、見ていた。
 蘭の背中を、見ていた。

 自分よりも年上の男を何人も伸したのだから、流石の蘭も肩で息をする程に呼吸を乱していた。
 こちらへ振り向いて膝を折る蘭は、やはり少女漫画に出てくるヒーローさながら。ヒロインを守るイケメンみたい。
「平気?」
 尋ねられて頷いた私を見た彼は、ほうっと小さく息を吐いてから垂れ目がちな目尻をさらに下に向けて微笑んだ。
 蘭から差し出された手を取り、立ち上がった私を彼は緩く抱きしめる。蘭の匂いと煙草の匂いが混ざった彼の服が私の鼻を塞ぐ。懐かしい匂いに鼻の奥がつんっとして、ぐすりとしゃくりあげた私の後頭部を大きな掌がそっと優しく撫でてくれる。この懐かしい手つきは、最近またずっと与えられていたものなんだけど、その調子で撫でられてしまうと、私の涙腺は崩壊してどんどん涙が溢れてくる。
「怖かったなー?もう、平気だから、泣きやめ〜?」
 あやすような手つきでぽんぽんっと背中を軽く叩く蘭の掌。溢れて流れる涙を拭う唇が優しいから、よけいに涙が溢れてくる。泣きやめるわけなんてないじゃない。
 もうだいぶ前に痛みもひいて見えなくなる程に薄くなった蘭に殴られてできたアザが、痛い。
「もーだいじょーぶだから泣くなー?」
「……っ……ら、ん」
「……?」
 思わず名前で呼んでしまった私を見下ろす蘭の目がぱちりと瞬いた。
「……くん……わ、私も、さっきのヒトたちみたいに名前で呼びたい……」
「ん。ふふ♡いーよ」
 誤魔化すように後付けだ言葉を間に受けたらしい蘭が微笑む。私の記憶が戻ったなんて、蘭に知られちゃいけない。だって蘭はそれを知ったら、また私を打つでしょう?
「名前、呼んでよ」
 涙に濡れた目尻に唇を当てて、蘭が言う。
「蘭くん」
 強請られるまま、そう口にする。すると、蘭は僅かに唇を尖らせてみせた。
「呼び捨てじゃなくていーの?」
「……いーの。恥ずかしい、から」
 この会話をするのも2回めで、前と同じ事を告げた私に蘭は前と同じようにちゅうっと音を立てて口付けた。
「かわいい♡」
 なんだか嬉しそうに見える蘭を目の前に、蘭の事をまだ蘭と呼びたくない私がいた。蘭と呼んでしまえば、また蘭の大きな掌が降ってくる気がしていたんだ。

 一度失っていた記憶を取り戻しても、それを蘭には伝えず、それがバレる事もなく、順調に蘭とのお付き合いは続いている。蘭に打たれて階段から突き落とされて以来、蘭に暴力をふるわれる事はないのだけど、蘭の束縛は以前に比べてどんどん激しくなるばかりだ。
 学校なんてたまにしか来なかった蘭が毎日登校してくるから、帰り道は必然的に蘭と一緒。放課後は蘭と二人で過ごすし、学校が休みの日も、家の予定が無い日は蘭が会いたがるから、蘭といる。蘭と居ても前みたいに打たれたり蹴られたりとかする事は無くて、だけど、蘭の言う事に従わないとまた打たれる気がしてしまう。
 また、蘭に打たれるのが怖い。打たれたくない。
「ねぇ、蘭くん。今日も、帰りウチ来る?」
「ん。一緒に宿題して漫画読もー」
「じゃ、なくて。ね?」
「……ん?」
 首を傾げてみせた蘭の制服の袖をくいくいっと引いて背伸びをすると、また身長が伸びた背を少し丸めて私に顔を近づけてくれる。内緒話をするかのように蘭の耳元へと唇を寄せた。ふんわり香る蘭のシャンプーの匂いが鼻先をくすぐる。
「今日、オカーサン出かけててウチに誰もいないから……」
 私が一度蘭の記憶を無くしてから、私に手を出してこなくなった蘭にそう告げた。蘭に打たれて階段から突き落とされた時にできたアザも消え、私の肌に蘭から受けた暴力の痕跡はもう何も見えなくなった。
 これで何も知らないフリを続けたまま、蘭に抱いてもらえると思った私がずっと伺っていたタイミングが今日だったりする。蘭がその気にならなければそれまでではあるが、蘭をその気にさせる自信が無いわけではない。
 蘭は知らないけれど、私は蘭を知っている私だ。
 以前、私を傷つけぬように自重していた蘭を知っているし、ここ最近の蘭がまたタイミングを測っている事にも、蘭には何も言わないだけで気づいてはいる。
 私の囁き声を耳に留めた蘭は、「んふ♡」っとまた意味ありげな笑みをこぼしてから私の腰にそっと触れた。
「二人っきりとか超きんちょーするー♡」
 ふざけたような口調でへらりとした表情をして蘭が言うけれど、彼が本当に緊張しているのはその淡い菫色が僅かに揺れている事が証明していた。
「蘭くんが緊張しちゃったら、私、どーしていいかわかんないよ?」
 不安気な風を装ってカマトトぶる私の頬にちゅうっと蘭が口付けて、腰に触れた掌が制服の上を滑ってゆく。
「だいじょーぶ。俺に、ぎゅーってしてればいーから」
 こそこそと内緒話を続ける蘭が、私の耳元でそう囁いて迎えた放課後。
 手を繋いで歩く蘭の口数はいつもより少なくて、やっぱり蘭も緊張しているんだなっていうのが手に取るようにわかって、蘭に嘘をついている私は胸が苦しくなる。
 でも、本当の事は言わない。忘れてしまったと伝えた記憶が戻っているだなんて、蘭には言わない。だって、記憶を失った私には蘭は手をあげない。どうしてかわからないけれど、蘭に打たれずに済むのなら打たれたくない。
「ね。蘭くん」
「ん……?」
「すき」
「ふふ♡俺もすき」
 ウチについてもなんだか口数が少ない蘭は、ぎゅううっと手を握ってくる側からなんだか苦しげに眉を顰めてる。
「蘭くんにね、ぎゅーしたい」
 甘えた声で強請れば、繋いだ手を引っ張られた。ぽすんっと蘭の胸に私の顔面がぶつかる。
「俺もぎゅーしたい」
 その言葉と同時に蘭の腕が私の背中へと周り、言葉の通りにぎゅーっと抱きしめられた。いつもより早い蘭の心臓の音が聞こえて、私は二度目となるハジメテを蘭へと捧げた。私が知っているどんな蘭よりも丁寧に大切に、私の隅々まで触れてくる蘭に、愛される。
 この愛を手放したくないから、私は誰にも言わない。蘭にも、もちろん。言わないのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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