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携帯電話のディスプレイに出てきた非通知設定という5文字には、もう見慣れてしまった。
ここニ週間くらい。毎日ではない。時間帯は決まって夜。私の仕事が終わり自宅に戻るまでの帰宅中にかかってくる事が多い。
あまりにしつこいから何か理由があるのかもしれないと思い、先週に一度だけ出た事がある。着信を受けた非通知からの電話は無言。それ以来は怖くなって、非通知設定と表示されたら一度も出ていない。
非通知からの電話以外は、別に誰かに追いかけられるとか、後をつけられるとかなにか怖い事があるわけでもなくて、こんな事位で警察に相談するのもなんだかなぁ。と感じて放置していたのだけど。
警察はおろか、田舎に住む家族にも、東京で出来た友達にも、職場の同僚にも、付き合い始めて間もない彼氏にも誰にも相談する事をしなかった自分を悔やむ事になるなんて、全く想像すらしてなかった。
目を覚ますと、薄暗い中に居た。暗さに目が慣れてきて辺りを見回すと、来たことない知らない部屋。
センスの良い調度品に囲まれた生活感なんて皆無な、お洒落な雑誌の誌面のような部屋。ううん。私、この部屋見た事ある。こないだ美容室で捲っていた雑誌にあった家具が並んでいる。薄明かりを作り出す間接照明も、こういう部屋に住みたいと美容師さんと話していた雑誌の通りだ。
横になっていたベッドから体を起こすと、急に頭がぐらりと揺れて少しばかり嘔吐きを感じて頭を倒した。具合悪いのかもしれない事に気づいて、全く自覚がなかった体調不良について思いを巡らす。そしてこの場所がどこで、どうして私がここにいるこかを思い出す。
私はいつもの時間に仕事を上がって、いつもなら非通知の電話が来るかもしれない時間帯だからポケットの中の携帯電話へと意識を向けながら、いつもの帰り道を歩いていて。それで。
急に後ろから誰かに肩を捕まれてびっくりして、口元をいい匂いのするふんわりとした肌触りの良い何かで覆われて、それから。それからの記憶がない。
「どうして」
ポツリと呟いてから、異様に喉が渇いている事に気付いた。
そっと頭を揺らさないように慎重に体を起こしてゆくと、体の気持ち悪さはあるが先程のような吐き気は起こらなかった。
なんだか重だるい体を動かして、床へと降り立つ。
壁伝いに歩いてみると、壁に電気のスイッチを見つけた。いくつかあるスイッチのどれをどうすれば明るくなるのかがわからないが、カチカチと一つづついじってみると部屋の天井に埋まったダウンライトが全て灯って薄暗かった部屋を明るくする事に成功した。
見た感じ築の浅いオシャレなワンルームのマンションのようだ。ギリギリ手が届くような壁の高い所に小さな窓が並んでいて外を窺える。この部屋に時計は無いが、窓の外は暗いから夜なのだろうか。
小さなキッチンに冷蔵庫を見つけて恐る恐る開けてみると、中には飲み物とコンビニスイーツが入っている。それらのラインナップを見て、違和感を感じた。だって、その冷蔵庫の中にあるのは私の好きな物だけで、コンビニスイーツに至っては複数社の商品が並んでいる。わざわざ複数の店舗を周らないと、冷蔵庫の中に並べて置くなんて事できない。
ここはどこでどうして自分がここに居るのか。どうしてこの冷蔵庫には私の好きな物が揃えられているのか。どうしてこの部屋は美容室で見ていたあの雑誌の誌面に酷似しているのか。自分の置かれている今は、現実なのか。
不思議な事ばかりが起こっているこの部屋のドアが気になって、玄関へと向かう。すると、なんだか不自然に見えた扉がガチャリと音を立てて開かれた。そこから入ってきたのは、長身の髪の長い男の人。その人は扉の方へと振り返り再び扉から僅かに金属音が響いて扉が施錠されたのだと知る。
「そろそろ薬が切れるかと思って来てみたんだけど、もう起きてたんだなぁ」
穏やかで緩やかな間伸びしたような口調で男は話しながら、こちらへと近づいてくる。
流石に知らない男性に施錠された部屋に2人っきりなんて現状が尋常ではない事は判断できる。だけど、この男の顔があまりにも綺麗なものだから、私の判断も行動も全てがワンテンポ遅れてしまった。近づいてきた男は私の手首をそっと掴み、部屋の中へと足を進めてゆくから私も小走りでそれに付いて行かざるを得ない。
「どう? 気に入っただろ、この部屋」
男はそう言って、はにかんだようなでも華やかな笑みを浮かべてこちらを見て言う。
男の言ってる言葉の意味もこの男が何者なのかもなぜ自分がここに居るのかのかも、なんにも解らない私はまじまじとこの綺麗な顔を見上げるしかできない。垂れ目がちな淡い菫色の澄んだ瞳には、不安気な表情した私が映っている。
「あの……私、家に帰らないと……」
なにかがおかしい。目の前の男にそう告げると、……彼はふふふっと吐息を零して穏やかに笑んでから言った。
「君の家は今日からここ。ナマエの事は俺がしっかり守ってあげるから安心して?」
名乗ってもいない私の名前を当然のように呼ぶ男は、私の手首を離してその手を私の頭の上に乗せて、ぽんぽんと撫でた。男の言動に身を固くし首を竦める私。それを目にした男の表情は途端に強張り頭上に乗ったその手が私の頭を鷲掴みした。
がしっと頭上を捕まれた事なんて生まれて初めてで、思わず目を見張った私の頭をぐいっと上に向かせた男は、その淡い菫色の綺麗な瞳でこちらを覗き込んでくる。
「この俺がここまでしてやってんのに、なんで避けようとしてんの?」
淡々とした口調で言う男は、ハの字の眉の間に僅かに皺を刻んだ。
「す! すみません。私、帰りまっ……!」
この男からもこの場所からも逃げないと! と未だにぼんやりとした頭の中で判断した途端に、男が私の頭をそのまま握り潰してくるような勢いでその指先に力を込めた。ミシっと頭蓋骨が軋むような音がして、恐怖にかられて無意識ながらも体が小刻みに震え始める。カタカタと私の上下の奥歯と奥歯がぶつかる音が僅かに響く。
「さっきの話、聞いてた? ナマエの家は今日からここ。オマエの好みに揃えるの、大変だったんだからなー」
怯える私とは対照的に男は楽しそうに喋り出した。先程まで男の眉間に寄せられた皺も伸び、口元には微笑みまでたたえている。私の頭は彼に鷲掴みされたままではあるが、ミシミシと骨が軋むほどに込められていた指先の力も和らいでいた。それでもこの違和感だらけのこの部屋と、容姿も言動も独特なこの男が怖くて控えめに尋ねた。
「あの。どうして、帰っちゃいけないの……?」
「どうしてって……」
男は垂れ目がちな大きな目をぱちぱちと瞬いてから私にその綺麗な顔を寄せて間近に見てくる。何故か視線を逸らす事を憚れるような澄んだ瞳に魅入られて、目を逸らす事ができない。
「あぶねーだろ。個人が特定できるようなゴミの出し方。ポストの鍵も甘いから郵便物だって取られたい放題。女の一人暮らしだってのがわかりやすい洗濯物をベランダに出すわ、仕事のある日はいつも同じ行動。挙げ句の果てに半月ほど前から変な男に周りをちょろちょろされて。俺が仕事帰りのオマエを誘拐してきてここに連れ込んでも、警戒心も薄くどうして帰っちゃいけないのか聞いてくる。危なねーの他にオマエのこと表す言葉あるか〜? チョロすぎとか? んー……頭緩すぎーとか?」
至近距離で真っ直ぐに見つめられながら、なんだかとても酷くて怖い事を言われた。誘拐してきてって、私、いつの間に誘拐されたの?
思わぬ事実に驚き、頭を掴んでくる男から逃げようと身を竦めた。
「やだ、離して!」
大きな声で叫び、この部屋からこの男から逃げ出そうと試みた私の頭を掴んだ手を男はぐんっと床へ向かって振り落とす。私の体はいとも簡単に床へと投げつけられた。フローリングの床へと膝や腰を打ち付けて倒れ込んだ私は、そこから起きて立ちあがろうとしたのだけど、男の足が私の肩を蹴り倒してきてバランスを崩し、尻餅をついてしまった。へたりと床に座り込んだまま、長身の髪の長い男を見上げる。黒と金のグラデーションの髪が部屋の照明を反射し、男の顔は灯の死角となり影を濃くしていて、その表情は逆光となってよく見えない。男は黒い細身のボトムのポケットから、黒く細い棒を取り出してそれを私へ向かって振り下ろした。びっと風を切る音がして男が振ったその棒が私を目掛けて伸びてくる。何が何だか分からず、突然の事に驚いて瞬きをすると目の前に構えられていた黒い棒は警棒。テレビとかで見た事のある、お巡りさんが手にするアレだった。
どうしてこの男がそんなものを持っていて、それを私に向けているのか解らない。この人、私の事はしっかり守ってやるとか意味わかんない事言っていたわりに、私へと武器を向けている時点で既に情緒がまともではないのだろうと想像した。彼をへたに逆撫ですると、もしかしたら命が危ないかもしれない。再びの恐怖にまた体は小刻みに震え始める。
「震えちゃって、かわいー♡」
こちらを見下ろして穏やかな笑みを浮かべるこの男は、私へと向かって伸ばして構えた警棒の先で私の肩をとんっと押しやる。それだけでも、床に座ったままで上体を後ろに向かってバランスを崩してしまう非力な私には、武器を手にしたこの男に太刀打ちできる術はない。
「やめて! くださっ……」
私は恐怖に身を震わせながら、床の上を僅かに後ずさる事で精一杯だ。後ずさる分だけ男は歩みを進めてきて、逆光で読み取る事のできなかった男の表情は怯え切った私とは対照的に、穏やかな笑みさえ浮かべていきいきと警棒を構えている。少し押しやられただけでも体は倒れそうになるし押された肩は痛かった。あの警棒で叩かれるような事があればきっと痛いだけでは済まされないだろう。
おうちに、帰して。と、涙ながらに警棒を構えたまま間合いを詰めてくる男を見上げた。
「オマエん家はここだって言ってんだろぉ? ちゃんと俺が守ってやるから、馬鹿なマネすんじゃねーぞ」
緩やかな口調で言った彼は構えた警棒を勢いよく振り下ろす。鋭く空気を切る音が響いて、ガンっと大きな音を立てて私の足へと打ち下ろさられた警棒は弧を描いて今度は腕を打つ。
「っい゛ぃ゛……っだぁ……っひぃっ…」
骨に響く痛みに呻く私に立て続けに振り下ろされる警棒は空気を切って腕や腰、脇腹へと容赦なく打ち付けられて、立て続けに襲ってくる痛みにびくんびくんと震える体を跳ねさせて耐える。
「……やめっ…うぐぅ……ゔ…っく」
体を床に丸めて打ち付けてくる警棒に耐えきれずに私が意識を手放すまで、部屋に響く打撃音が止まる事は無かった。