ポケットの中には何もない

午前中の診察を終え、警察病院内にある食堂に向かうために小児科病棟の前を通る。どうやら今日は小児科病棟ではハロウィンの催し物をやっているようだった。
「わぁ!真尋せんせぇだ!こんにちは!」
「はい、こんにちは」
以前診察のために関わったことがある少女は元気よく近寄ってきた。お下げ髪に大きな魔女の帽子を被っていてとても可愛らしい。足を止めて膝を折り、少女の目線に合わせてやると、少女は恥ずかしそうに視線を逸らしながらその小さな両手を私の方に差し出した。
「せんせぇ、あのね……トリックオアトリート!」
トリックオアトリート。その文言に私はハッとなる。焦る私の内心を感じ取ったのか、目の前の少女の表情がイタズラっ子のようになっている。しかし白衣のポケットに手を入れると看護師から貰ったクッキーが入っていた。そういえば今朝、お土産だと受け取ってそのままポケットに入れっぱなしだったな。
「はい、どうぞ。食べすぎないようにね」
「え〜真尋せんせぇ、お菓子持ってたの!?絶対にイタズラできると思ったのに〜!」
口を尖らせながらクッキーを受け取る少女に思わず小さな笑みが漏れてしまう。だがクッキーで満足したのか、嬉しそうに笑う少女にほっとする。私はそっと立ち上がり、その柔らかい髪をゆっくり撫で付ける。

小児科病棟を抜け、当初の目的である食堂に向かうために廊下の角を曲がろうと踏み出した。するとコンクリートとはまた違った、程よく硬い胸板ににぶつかってしまった。すみません、とゆっくりと顔を上げていくと最初に黒いネクタイが目に入り、さらに視線を上に向けると今ぶつかったであろう人とサングラス越しに目が合う。
「よォ、真尋先生」
「ま、松田さん…」
病院に用があるような大怪我でもしたのだろうかとつい目の前に立つ松田さんを観察してしまう。それに気づいたのか彼はふっと笑った。
「今日はたまたま近くを通ったから、お前に会いに来たんだよ。この時間なら食堂にいると思ってよォ」
月に二、三度松田さんはわざわざ警察病院の食堂までお昼を食べに来る。連絡が来る時もあれば、アポ無しの時もある。むしろアポ無しの方が多くて困るくらいだ。廊下の向こう側にある小児科病棟から賑やかな声が聞こえ不思議に思ったのか、松田さん曲がり角から顔を出し、盛り上がる小児科病棟のハロウィンパーティーの会場を覗いた。
「あ〜…今日はハロウィンだったか」
「小児科病棟だけですよ、こんなに賑やかなのは。私もさっきお菓子かイタズラか選びました」
「で、真尋はどっちにしたんだ?」
「ポケットにクッキーが入ってたのでお菓子を渡しました」
「ふーん」
松田さんは少し思案するような仕草をすると、さっきお菓子を強請った少女と同じような、少し意地悪そうな笑みを浮かべた。
「じゃあトリックオアトリート」
まさかこんな所でハロウィンの決まり文句を聞くとは思わず、私は呆気にとられてしまう。
「えっ…松田さん仮装してないですよね」
「刑事の仮装してるだろォが」
「本職でしょうに」

「それでお菓子とイタズラどっちにすんだよ」
「えぇ……?」
お菓子はさっきの少女にあげてしまったのしか持っていないし…でもイタズラもなんだかあまりいい予感がしない。松田さんのイタズラっ子顔を見ていると、とんでもないイタズラをされてしまうのではないかと考える。
「…その」
「あ?」
「お菓子はもう無いですけど、食堂でお昼奢りますよ。これでどうですか?」
これでイタズラは回避できると得意げに返すと、松田さんは苦虫を噛み潰したような顔になる。お昼時にわざわざ来たのだし、子供に交じってお菓子が欲しいくらいにお腹が空いているのかもしれないと思ったが違うのだろうか。何も言ってくれない松田さんに困惑してしまう。はぁと大きなため息を着いた松田さんは掛けていたサングラスを外し、スーツのポケットに引っ掛けた。
「ホント、変なところで鈍くて呆れちまうな」
なにか答える前に松田さんの顔が近づき額にに柔らかいものが触れて、すぐに離れていった。
「は…」
「最初からお前にはイタズラするつもりでいたから、菓子も飯もいらねぇよ」
何が起こったのか理解できず、額に手を当てる。鏡を見なくても、自分の顔がジワジワと赤くなっているのが分かってしまう。
「こんなイタズラ、ズルすぎる…」
早く飯食わねぇと昼休み終わっちまうぞ、という松田さんの声はもう全然耳に入っていなかった。