僕の名前を呼んで、ここにいると証明して

少し古びたタイルの洗い場のある昭和な台所には蛇口から勢いよく出る水の音だけがその場に広がっていた。突然軽快なチャイムが鳴る。時間はもう夜中の12時を回ろうとしていて、来客にしては随分と非常識だ。給湯器の横にかけてあるタオルで手の水気を取り、玄関へと向かった。玄関にある外灯のスイッチを入れると立て付けの悪い引き戸に映ったのは見知った人物の影だった。
「こんな夜遅くにどうしたんですか、萩原さん」
「……急にごめんね、真尋ちゃん」
寒いですから中へどうぞ、と家の中へ萩原さんを招き入れようとしたが萩原さんは玄関から動こうとせずただじっと下を向いたままだ。その表情は少し長めの前髪に遮られてよく見えない。萩原さん、と問いかけようとしたところで萩原さんは口を開いた。
「俺の、名前を呼んでくんない?」
いつもの明るく爽やかな様子は欠片もなく、弱々しく呟かれた言葉になんて返したらいいのかわからず私は困惑してしまう。どこか縋るように細められた目元には涙が浮かんでいるように見えた。あの萩原さんが今にも泣いてしまいそう顔を見たのは初めてで。ゆっくりと手を伸ばし、涙が出ているわけでもない萩原さんの目元を人差し指で優しく撫で付けた。

あぁ、そうか今日は11月7日だ。

「……研二さん」
「うん」
「大丈夫、研二さんは生きてますよ」
「…ッ」
「大丈夫、大丈夫です」
そのまま静かに萩原さんの背中に両手を回して正面から抱きしめ、一定のリズムでトントンと優しくたたく。少し落ち着きを取り戻した萩原さんの動きはどこかぎこちなかったが優しく抱き締め返してくれた。私の肩に頭を預け、深く息を吐く萩原さんに内心ほっとする。
「……ありがとう、真尋ちゃん。ごめんな、かっこ悪い所見せたよな」
「いいえ。落ち着いたようで良かったです。せっかくですからお茶でも飲まれていきますか?」
「うん、真尋ちゃんが良ければ」
「今の萩原さんを一人にはできませんから」
立て付けの悪い引き戸をしっかりと閉めてもらい、来客用のスリッパを出す。さっきの弱々しい雰囲気から気が抜けたようにゆるっと笑う萩原さんからスーツの上着を預かる。

「俺やっぱり真尋ちゃんが好きだな」

いつもの調子を取り戻した萩原さんがポツリと小声で呟いた言葉を私は聞き取ることはできなかった。