明日もどこかで雨が降る

 「好きな人ができた」
 そう言った名前の表情を、どうしてか忘れられないでいる。



 来年度に新設されるプロデュース科のテストモデルとして夢ノ咲学院に転校してきた名前は、とてもアイドルを管理して商品として売り出せるプロデューサーにはなれそうになかった。不器用で、仕事下手で、忘れっぽい。初め晃牙が彼女に抱いた印象も、いつもどこか抜けている馬鹿な女という、中々に酷いものだった。
 しかし、女は自分が馬鹿だという自覚があるのか、いつも必死になって藻搔いていた。失敗を反省して、次に活かすために努力する、研鑽を積む。そんな女の姿勢に、晃牙は「こいつ、なかなかロックじゃね〜か」となんとも頭の悪そうな感想を抱いた。それからというもの、晃牙は困っている様子の女に出くわすと、気まぐれに手を貸した。こういうことが続いて二人の仲は親しくなり、付き合ってるの?などと人に聞かれることも増えたが、その返答はいつも変わらない。「ないない」と言って、首を横に振るだけである。
 二人の共通認識は、仲の良い異性の友達というだけだった。

 だからあの時の言葉も、誰かにこの秘密を共有したいといった、名前の単純すぎる思考の結果だったのだと思った。晃牙は「そ〜かよ」と気のない返事をした他に何の興味も示さなかったが、そんな様子の晃牙に構わず、女は相手がプロデュース科の生徒であることなどを聞いてもいないのに捲し立てた。
 しかし晃牙は、彼女が話した会ったことのないその男の情報を、今でも全て覚えている。

 月日が経って、プロデュース科が夢ノ咲学院に新設されて発展するにつれ、晃牙と名前は以前のように頻繁には会えなくなった。UNDEADはメンバー二名が既に卒業しているので、学院のカリキュラムであるプロデュース実習で晃牙がお鉢に回ることがなかったからだ。学科ごと離れてしまったから、学院内で偶然会うことも少ないし、 ESでも、事務所の隔たりが存在しないP機関に所属する彼女が、UNDEADのみをプロデュースすることは難しかった。晃牙も晃牙で、事務所の方針で仕事が少なかった春とは異なり、下積みのような仕事が増え出して忙しくなってきた頃だった。つまり、お互いが会おうとしなければ会えない人になってしまったのだ。

 だから名前から『相談があるんだけど、今どこにいる?』とLINEが入ったとき、晃牙は思わず目を瞠った。音楽室にいることを伝えると、ものの数分で女はやってきた。何の話だろうかと身構えていた晃牙とは裏腹に、女は軽く挨拶をした後物入れと化している棺桶に腰掛けて、スマホをいじりだす。

 は?なんだこいつ、何しにきたんだ?
 晃牙がそう思うのも尤もだった。暫く訳もわからず立ち尽くしていると、女はスマホの画面を晃牙に見せた。不器用でも簡単にできるヘアアレンジ15選!の文字を見て、晃牙は更に困惑した。理解できたのは名前が自分の手先の不器用さを見誤っていないことだけだ。

「ねえ、この中の髪型だったらどれがいいと思う?」
「なんでんなこと聞くんだよ」
「どれ?」
「…右上」
 質問の答え以外は聞く気がないらしい。彼女のこの性質に去年一年で散々慣れた晃牙は、すぐに諦めて答えだけを告げた。
「今日の爪かわいい?」
「お前はもうちょっと淡色な方が似合うんじゃね〜か?制服にも浮いてるしよ」
「そうかな?じゃあまた探してみる。
えーっと、あとそうだ、この香水どう思う?」
「お前、俺様が匂いの強えもん苦手なのわかってんだろ〜が」
「そんなに匂い強くないやつだから!大神が苦手なら付けないし」
 甘いけれど爽やかな、熟れた果実のような香りが、晃牙に押しつけられた名前の手首から薄く漂う。名前らしい匂いだと思った。
「…悪くねぇ。
 ……なぁ、これ何なんだよ」

 一度は下がったが、こうも連続で言われるんだったら理由を聞かねえとやってらんね〜よ。
 晃牙が責めるように付け加えた言葉で、名前の動きは固まった。途端に部室はしん、と静けさに包まれた。窓から溢れる細くあたたかい夕日の橙が、俯きがちに黙りこくった女の目元をきらきらと輝かせる。
 …いや、なんだよ、この雰囲気。触れちゃいけなかったのか?
 耐えきれず、晃牙が「やっぱりいい」と言いかけた瞬間、彼女の口がそっと開かれた。

「…告白、しようと思って」

 いい感じなんだ。ご飯とか誘われたり、二人で遊びに行ったりしてて。お互い忙しいから近場でだけど。
 内緒話をするようにぼそぼそと呟く彼女は、幸せそうにはにかんでいるものの、関係を変える行動を不安に思っているのか、瞳には憂いが残っていた。
 晃牙は自分の知らない間に発展していた現実を急に突きつけられて、気が遠くなりそうだった。そこで初めて、自分が名前に向ける感情の一端を握った気がしたが、彼の根本の優しさがそれを阻害した。
 気付きたくない。今更気付いたところでもう遅いのは分かりきっている。

「っ、どこがそんなに好きなんだよ」
 殆ど自棄になって、晃牙は彼女に問うた。
「それ、よく言われるんだけど、そんなのわかんなくない?好きになっちゃったんだもん、理由なんかないよ」
 理由なんかない。
 そうだよな、俺が今の今まで気付かなかったのも、そう思うのに理由がなかったからなのかもしれね〜よ。じゃあどうしてお前は、そいつに向ける感情をそうだと分かったんだよ。
 酷く苦々しい顔を浮かべる晃牙に、名前は気付かない。それどころか更に傷付ける言葉さえ言ってしまうのだから、晃牙の立つ瀬は無いも同然だった。


「でも、そうだな。最近忙しくて、ずっと気が急いてるような感じがするんだけど、あの人に会うと普通の時間に戻れるんだよね。何気ないことで笑えたり、ご飯食べて美味しいって思えたり、一緒にいるとそういう余裕ができるの」


 それはその日、名前が来てからの時間だった。無論、晃牙にとって、ではあるが。



「相談乗ってくれてありがとう!やっぱり男子の意見って参考になる!成功したら一番に伝えに来るからね〜!」
 手をぶんぶんと振って、嵐のように去っていった女を、晃牙は鬱屈した気持ちで見送った。

「いらねえよ」
 名前のいなくなった薄暗い部室で吐き捨てられた言葉は、暗雲漂う夜空に消えていった。



 翌日の放課後、晃牙は楽器類の片付けをしながら、窓の様子をちらと見た。雨が降っていた。室内もなんとなくじめじめして、あまり気分もよくなかった。
 湿気で楽器がダメになんないようにしね〜とな。事務室で除湿機でも借りてくるか。
 などと軽音部らしいことをぼんやり考えていると、突然、バン、という大きな音を立てて音楽室のドアが開かれた。晃牙は目を瞠ってそちらを見やるとそこには息切れした女が立っていた。
 「おめでたいニュースだよ!」

 嵐は突然やって来る。晃牙は何と言おうかと意味もなく口を開閉した後、自嘲気味に笑った。
「そんな日に雨だなんて、ついてねぇな」



 俺のアドバイス通りに、俺の気に入った髪型で、よく似合う淡いネイルをして、熟れすぎた果実のような匂いをさせた、俺の──好きな人。
 彼女は俺の知らない誰かの隣で、明日も晴れやかに笑うのだろう。

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