果たしてそれは偶然か

私にとって、天祥院英智くんは常に霞みたいな存在だった。

雲の上、と言うほど果てしなく遠いわけではなかった。けど、もう少しで触れられそうなのに、伸ばした手は空を切るばかりで絶対に捉えられっこない。水滴が朝日を吸い込んでひかりを拡散するみたいに、彼はこの世と天国との間で正体のわからないまぶしさをぼやかしていた。

私のなかの英智くんは、ずうっと、そんなぼんやりした憧れだった。
その漠然としたイメージが実体を帯びたのは私たちが十三歳のときだった。母が秘書をつとめる社長さんの主宰するパーティー。身の丈に合わないレースのワンピースを私に着せて満足そうに笑う母は、妙に上機嫌だった。

十三歳。その齢で、すでに私と英智くんは決定的に違っていた。
彼は水だけを飲んでいたけど、私は社長さんが母のために特別に用意したオレンジジュースを飲んでいた。彼はこういう場での身の振り方を弁えていたけど、私は無知で萎縮していた。彼は一人で立っていたけど、私は母のそばを離れられなかった。
彼は大人で、私は子どもだった。

その日、私は英智くんとなにか話をしたはずだったのだけど、私はどうしてかそれをあんまり覚えていない。なにを話したんだっけ。思い出そうとしても、ぼやぼやした靄みたいなものに邪魔されて、頭が重たくなってくる。
ただ、いい天気で始まったパーティーだったのに、夜に差し掛かったあたりで急に土砂降りの悪天候に見舞われたことを、強くつよく覚えている。





それから五年の歳月が経った今も、私たちはおんなじだった。
英智くんは手の届かない霞みたいなひとで、私はそんな英智くんに憧れている。私たちは十八になったけど、私と英智くんのあいだに隔たる“ちがい”は相変わらずだ。

変わったことと言えば、そうだな。彼が私をお茶に誘ってくれるようになったこと、くらい。

「やぁ。待っていたよ、名前ちゃん」
「英智くん。久しぶり」

ふたりきりのお茶会。それは不定期に、なんの予告もなく開かれた。前回のは三ヶ月くらい前だったと思う。
自宅にいても、学校でも、習い事の最中でも、私は英智くんを優先することになっている。そのことに別に不満はないし、好きでもない音楽のレッスンとか、うざったい人間関係とか、そういうものから離れることができてむしろ好都合。英智くんが寄越す高級車におとなしく乗り込むと、私は揺れのない完璧な運転で彼のところまで輸送される。

部屋に通されると、天井の高さにそぐわない普通の大きさのテーブルに、ふたりぶんの紅茶が用意されていた。
お茶もお菓子も用意するのは英智くんだったけど、並んでいるお菓子には有名な高級洋菓子店のロゴが入っていて、どれも彼の好みではなさそうだった。もちろん私の好みでもない。ただ高価なだけのお菓子を食べる気になれないのは、たぶん英智くんもおなじだ。大きなプレートに並んだお菓子はいつも手付かずのままだったから。
飾りでしかないカヌレの表面を眺めながら、紅茶のカップをソーサーに置いた。

「今度の演奏会の準備は順調かい?」
「…正直あんまり自信ない、けど。英智くんがいろいろ助けてくれてるんだから、最高のものにしなくちゃ」
「ふふ、そんなに気負う必要はないよ。君は素晴らしいピアニストだ」

そのお茶会に“きまり”みたいなものはなかったが、ただの偶然にしては運が悪すぎるほどに、いつも途中で雨が降りはじめる。
文字どおり、水を差すみたいに。

雨が降ると英智くんと私の会話はおしまいになって、ティーカップに注いだお茶がなくなったら、そこでお開き。
それがお茶会の終わる合図だとわかってからは雨のことが嫌いになった。雨の日には私が私でなくなるような感覚になるから、元から好きじゃなかったけど。

今朝の天気予報では、午後から雨って言ってたっけ。今にも降り出しそうな暗いねずみ色の雲を睨みつける。
お願いだから、まだ降らないで。

窓の外を見ていた私に、英智くんがティーカップを置いて話しかけた。

「前回の発表会で君の衣装を細工した犯人はちゃんと捕まえておいたから、今回は心配いらないよ。まぁ今回のスタッフは全員…それこそ雑用の一人まで僕が管理しているから、あんなことにはならないと思うけど」
「え?あ、ありがとう?」
「おや、そんな意外そうな顔をされるなんて心外だな。約束したじゃないか」

知らない。何を言ってるの。そんな約束を交わした覚えはない。頭が真っ白になって、強ばった笑みを作るので精一杯だった。

ときどき、英智くんはよくわからないことを言った。普段からすこし特別な言い回しをするけど、そんなのとは違ってまるで知らない誰かの話をするみたいに私の話をする。
言いようのない気味悪さ、不可解さみたいなものは絶えずこころのなかで蹲っていた。だけど彼を疑うことはしたくないから、私はその気持ちをもう長いこと押し殺している。

苦しいのを紅茶で流し込んでいたら、いつのまにかカップが空になっていた。二杯目を頼んでもいいのかな。言い出せないまま時間が経ち、椅子が鳴った音で我に返る。

「今日はそろそろ終わりにしようか。僕が家まで送ってあげるよ」
「え……あ、うん。ありがとう」

終わり。
咄嗟に窓の外を見た。雨は降っていなかった。

雨雲に変わりそうな空模様を憎らしく思いながらも、車に乗ってという英智くんの言葉に従って後部座席に乗り込む。彼に従うのはいつからかとても簡単で自然なことになっていた。五年間という月日は案外とおそろしい。
ああ、でも。五年経ったけど、一緒に車に乗るのは初めてかも。
車の扉が閉じられると、隣にいる英智くんがなぜだかとんでもなく近くにいるような心地がして、さみしさのなかでも少し胸が弾む。気恥かしさを紛らわすために、窓の外を見た。

ぽつり。
不意に窓ガラスに雫が落ちて、反射した私の頬の上で滲む。伝い落ちる水滴の跡が、まるで泣いているみたいに見えた。
ぽと、ぽと。次第に増えてくる雨が窓を叩いている。空の悲しみに共鳴するみたいに風が吹いて木が揺れた。
窓ガラスに映った車内の景色がぐにゃんとゆがむ。隣に座る英智くんから感じる視線を確かめることはできない。私の表情は英智くんのそれとおなじに、斜め降りになった大粒の涙に掻き消されてわからなくなった。

雨はとうぶん止みそうにない。