共犯

 じんわりと染み込むように、障子の向こうから光が迫ってくる。今日もまた、無益な朝がやって来た。
 寝起きの頭は霧に包まれたようにぼやけていて、変な感じだ。おまけに全身がぬるま湯に浸かっているような倦怠感まである。そんな意識が覚醒へと近付くにつれて、私はどんどん果てのない絶望へと呑み込まれていく。しばらくしたら、朝を告げる鳥の鳴き声がして、一斉に本丸の空気が動き始めるのだろう。無数の足音が私の生活に土足で侵入してきてから、もう数ヶ月の時が過ぎていた。
 上体を起こして、目覚まし時計を確認すると、針は早朝三時を指していた。朝早くから修行へ行かれる山伏さまや、目覚めの良い太郎太刀さまでさえ、まだ眠っておられる時間帯。そのことに気付いたとき、私の意識は瞬く間に覚醒へと導かれた。

 それは犯行と呼ぶには浅はかであったが、かといって悪戯とするには些か悪質でもあった。こんな覚悟を決めるくらいなら、さっさと腹を括ってしまえばいいものを、やはり私はどこまでも生き汚く往生際が悪いのだなと、心底自分に失望した。それでも私の足は止まらない。すっかり着慣れてしまった装束の小袖が大きく振られた。本丸の門前に置いてある、仰々しいあの絡繰。空間と空間を繋ぐ転移装置。あれさえあれば、私は。ああ、いま、とても悪いことを考えている。
 あと少し、と手を伸ばす。サンダルすら履いていない足裏に尖った石が食い込んだ。その痛みに、ぴり、と目の前で電撃が迸ったかのように思えた。

「主」

 その痛みは警告だったのだろう。背後から掛かった声により、私の犯行は未遂に終わってしまった。
 振り返ると、私を呼び止めた声の主が朗らかに笑っていた。それは、自分の審神者が今まさに本丸からの脱走を図ろうとしていたなどとは夢にも思っていない表情であった。

「……石切丸さま」
「こんな早朝にどうしたんだい?」
「石切丸さまは、どうしてここに……?」
「丁度、朝の祈祷を始めようかと思っていたところだよ」

 大太刀である彼は機動力に劣りがあった。彼との鬼ごっこであれば、逃げ切れる可能性も僅かにだが存在するだろう。それでも、私はこの場から動こうとはしなかった。迷子のように呆然と立ち尽くす私の姿を、彼がどう捉えたのかは分からない。ただ優しく、彼は私の手を握った。存外冷たいその手に、心筋が撫でられたような奇妙な心地がした。この方は、私よりもよほど温かみのあるお人なのに。

「おや、身体が冷えているね、早く本丸に戻ろう」

 私より冷えた手を持つ彼は、そう言って導くように私の手を引いて歩きはじめた。その頃にはここを逃げようだなんて愚かな考えはすっかり消え去っていた。

「あの、夢を、見てしまって」

 それで、ここに、散歩に。そうやって、拙い言葉で言い訳を紡いでいく。表面上は涼しい顔を繕いながらも、内心はそれが不自然に聞こえないかどうか気が気でなかった。石切丸さまはただ黙って私の言葉に耳を傾けていた。黎明の微かな光に照らされた彼は荘厳な雰囲気を纏っていて、それを見ていると、途端に己と言う存在が恥ずかしくなる。
 どれだけ初期刀と距離が近くとも、小さな短刀たちを弟のように思えども、彼らは神様で私よりも遥かに年上なことに変わりはない。担当である政府の役人にも言われたことがある。私はこの本丸の主としてあまりにも無自覚的である、と。私はいつもそうだった。彼らの本質に触れるたび、その腕に縋りつきたいような、それか顔を覆って逃げ出したくなるような、そんな相反する感情を抱くのだ。
 要するに、私には彼らの主たる責任も、自覚も、何もかもが足りていなかった。

「それなら、主が安心して眠れるように祈祷しようか」

 それはかみさまの声だった。その言葉に、私がどれだけ首を絞められているのか、やはり彼は知りもしないのだろう。

 何もかもを見透かされているような感覚に身を竦ませながら、私は必死に取り繕う。ここにいる私は装束を着た彼らの審神者である。セーラー服を着て学校帰りに友人と寄り道をして帰っていたような女ではない。もう、なくなってしまった。

「行こうか、主」

 穏やかな波を保った声があるべき方向へと導いてくれる。少なくとも私は、そう信じていた。そのまま、彼は私の手を片時も離さず歩いていく。
 道すがら、何を祈ろうかと尋ねた彼に対して、私は、なんと返したのだったか。最低なことばかり願ってしまう私を、どうかお許しくださいと、そう言おうとしたのかもしれない。きっと口が裂けても言えやしないのだろうが。
 


 ──日の出とともに山伏さまが修行に出られる足音が聞こえた。それを合図に、本丸の空気が動き出す。
 今日もまた、審神者としての目覚めがやってきた。

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