差し込む朝日に瞼の向こう側から急かされて、愛純はパッと目を覚ました。少し身じろぎをしてから、ゆっくりと上半身を起こしていく。なんだかとてもよく眠っていた気がする。瞼はなかなか一向に開こうとしないけれど、体はとても軽かった。昨晩の疲れきった重たい体とは大違いだ。そんなあまりの変化に、愛純は眉間に皺を寄せる。
(…もしかして、寝過ごした?)
愛純は、毎朝ベット横のサイドテーブルに置いている電波目覚まし時計に起こされていた。そして朝には強い方なので、アラームが鳴ったらすぐに目が覚めて、いつも無意識のうちにそれを止めて起き上がっていたた。そのため、寝過ごしたことだなんて今までには1度もない。しかし日光の明るさで起きるということは、目覚まし時計では起きなかったということだ。覚醒しきらない頭でそこまで考えて、ふと気づいた。
(朝日…?)
そうだ、あの殺風景な寝室には窓こそあるが、常にカーテンが閉め切られている。しかもそのカーテンとは、暗幕のような分厚い遮光カーテンなのだ。愛純が今までアラーム以外で目を覚まさなかったのにはこのことも関係していたのが、どうして太陽の光が寝室の中に差し込んできているのだろう?
思いつく疑問たちに背を押されるように、まだ開ききっていなかった目をこじ開けて愛純は周りを確認した。
瞬間、目を疑いたくなった。自分がいたのは、いつもの寝室ではなかったのだ。
そこは、まるで中世ヨーロッパのお城の中にある保管庫のように見えた。 黄ばんだ分厚い古書や怪しげな壺など、不思議なものが部屋中に山積みにされている。石造りの壁はところどころ欠けていて、建物の年季を感じさせた。そんな壁にはどこにも窓がなかったが、頭上を見上げてみれば高い天井に天窓があることが確認できる。とりあえず、何故日光で目が覚めたかは把握できた。だからといって、どうということではないのだが。
愛純はゆっくりと視線を頭上から室内へ戻した。
「はい…?え…っと?」
明らかに理解の範疇を超えた事態に襲われている。口からは、言葉にならない声が溢れ落ちた。ここはどこで、何があってこうなったのだろうか。頭の中がパンク寸前だった。
そうして、眼前に広がる理解不能な光景を見続けるのはもう限界だと判断し、視線を手を組んでいる太腿辺りに下げた。だが、己の手が見えるはずのところに見えたのは、明らかに自分のものではない手だった。
(ちょっと待って…!?)
生まれつき色が濃かった肌は透き通るような白色をしており、コンプレックスに思っていた、人よりも太くて短い指はすらりとした長い指へと変わっている。その手の上に見える寝巻きの袖口も、明らかに寝る前に着ていたものとは違っていた。
体がおかしい。そう気づいた時には、既に反射的にベットから飛び降りていた。部屋中にできている本の山を倒さないように気をつけつつ、先ほどから視界に入っていた大鏡の元へ向かう。
そうして鏡の前に立って己の姿を確認した瞬間、頭がショートした。完全に思考が停止する。
鏡に映っていたのは混乱したように眉を下げた、見知らぬ美しい黒髪の少女だったのだから。
可愛い系というより美人系。そんな印象を与える端整な顔立ちをした少女だった。
指通りのよさそうな艶やかな黒髪は、前髪が目に掛からないくらいで切りそろえられたショートヘアをしていた。ただ、なぜか右の横髪だけ鎖骨の下辺りまで長く伸びており、左の横髪は耳にかけられている。日本人らしく高すぎない鼻だが、その形は整っており、その下にある唇は瑞々しく可愛らしいピンク色をしていた。
そして何よりも目を引くのは、その大きい瞳だ。長いまつげの奥に見えるその瞳は、鮮やかな7つの色を持っていた。まるで虹のように輝くそれらが、色相環のように並んでいる。
そんな不思議な瞳の可憐な少女は、その顔には似合わないような険しい顔をして鏡の前から動けずにいた。
「…どういうことなの!?」
愛純は考えることをやめた頭を必死に再起動して考えてみたが、思考は全くまとまらない。何故?何が起こっているの?
永遠のように感じられたが、実際数分だったのかもしれない。鏡の前でうんうんと唸り続ける愛純の耳に、前触れもなく木が軋むような音が聞こえた。突然の物音に、反射的に振り向く。
そこにいたのは、見知らぬ長身の男性だった。彼は愛純を見て、驚いたように目を見開いている。互いの視線が絡み合い─先に口を開いたのは、男性の方だった。友好的な、それでいて探るような声色で微笑みながら愛純に問う。
「こんにちは、可愛らしい御嬢さん。失礼なことを言うようで悪いが、おぬしの顔に見覚えがないのじゃが…。制服も着てないようだしのう。おぬしはここの生徒かの?」
「え?生徒って…ここは、学校なんですか?」
明らかに、観光名所になっている中世のお城にしか見えない。
だがその返答があまりにも予想外だったのか、男性は先ほどよりも大きく目を見開き、そして勝手に口からぽろりと溢れ出た愛純の疑問に答えた。
「いかにも。ここはホグワーツ魔法学校じゃよ。御嬢さん」
鏡を見た後、最初に思い浮かんだこと。それでいて一番最初に切り捨てたありえない可能性。
『どこか別の世界にトリップしている』
まさかそんなことが本当に現実に起こりうるなんて。しかも…
(ホグワーツ魔法学校!?)
まさか、寝る前に現実逃避気味に願ったことが叶うことになると、一体誰が思うのか。ようやく現状が理解できてきた愛純は、新たなふと疑問に辿り着く。
「えっと…あの、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
ハリー・ポッターは、映画も原作も一通り嗜んだつもりだった。ある程度登場シーンのあるキャラクターなら、大体一目でわかる。だが、この男性は見覚えがないようで、それなのにどこか馴染みのある顔立ちをしていた。
男性にはこの質問もまた予想外だったのか、少し目を瞬かせた後に、静かに答える。
「ああ、儂はアルバス・ダンブルドアという。この学校で教鞭をとっているものじゃよ」
にこやかに微笑むその姿に、長い髭を揺らして笑う策士の姿が重なって見えた。
(この人が、あのダンブルドア?)
ということは、今は物語本編の時とは異なる時代らしい。しかもこの見た目だと、親世代というわけでもなさそうである。
「何か考え事をしている最中に悪いが、そろそろおぬしのことを聞いてもよいかの?」
黙り続ける愛純を訝しげに見ていたダンブルドアは、声をかけた。愛純はハッとして顔をあげてから、少し悩んで、それから声を潜めるように、言う。
「…長くて、とても信じられないような話になるかもしれませんが、よろしいでしょうか?」
了承の意を表し、ついでに困ったようにはにかんでみせた。それを受けてダンブルドアは、「では立ち話もなんだし儂の部屋にでもお呼びしようかの」と言って移動を促してくる。それに控えめに頷き、ダンブルドアの後ろについていった。
確信はない。それでもダンブルドアの容姿年齢から考えておそらく、この推測は当たっているだろう。
今はまだあのヴォルデモートがトム・リドルと名乗っているような時代なのだ。