ロータス
 

そのお方は草原を颯爽と歩く百獣の王のような威風堂々さでそのオーラを一切惜しむことなく屋敷を移動しているから、いつも私はどれだけ遠くにいてもそのお方の存在に気付いて、不躾ながらもその姿が見えなくなるまで目で追ってしまう。

そのお方、とはこの屋敷の主人のアル・ニール・チェレブリテ様だ。

アル・ニール様はとても素晴らしい立派なお方でアル・ニール様の父上の代まで王城からお役目を頂くことなく辺境の田舎の片隅で細々と没落貴族などと呼ばれながら生活していたチェレブリテ家を、アル・ニール様は聡明な知略と手腕を持ってして傾きかけだった家を立派に建て直し今では王様から政の相談も受けるなど最も厚い信頼を受けるまでに至った。


「リエン様、集中なさってください」
「は、はい!申し訳ありません、」

私はそのアル・ニール様の妻として、慎ましやかながら気品に溢れた屋敷で暮らしていた。

現在、私は正室用として用意された部屋でアル・ニール様を支える最側近のハーディ様に貴族としての教養や勉学の教えを受けている途中だった。
集中が少し途切れた時にたまたま窓の外で移動中らしいアル・ニール様をお見かけしてそのまま見惚れてしまい、ハーディ様に窘められてしまった。

いけない、早くハーディ様に認められて、アル・ニール様の妻として相応しい人間にならなくてはいけないのに。

普通なら貴族の妻は貴族出身が当たり前だが、アル・ニール様はスレイブマーケットという奴隷市場で売れ残っていた奴隷だった私をあろうことか妻として迎え入れた。
何故奴隷だった私がアル・ニール様の妻になれたのか、その理由は単純でそれは私がオメガ性という特殊な性別だったからだ。

いくら優秀で、王様から気に入られ傾きかけていた家を立て直そうと元々没落貴族と呼ばれていたチェレブリテ家に嫁いでこようというご令嬢は居なかったかったし、アル・ニール様も唯一の条件として妻の性別にはオメガ性を求めたからだ。

アル・ニール様はアルファ性だ。オメガ性と番になって子を孕ませれば生まれてくるその子の性は必ずアルファになる。アル・ニール様が建て直したチェレブリテ家を守り繁栄させていくためにも優れた逸材の後継を産ませる為にオメガ性の妻を娶るのは絶対条件だった。

逆に言えば、オメガ性なら誰でもどこの馬の骨でも構わなかったらしい。

私は元々貧困層ではあったが庶民の出自。
でも自分がオメガなせいでヒートサイクル期はまともに働けず、加えて何かと鈍臭い人間だったから家族や村の人たちからは嫌われていた。お前の食い扶持まで稼いでやる余裕はないと私は家族にスレイブマーケットではした金と交換に売られてしまったことで奴隷の身分に下がった。

しかしアル・ニール様はこんな私を妻に娶ってくれた。
家族や村の人たちから疎まれ嫌われた私を拾ってくださったお優しい方だから、私は少しでも早くアル・ニール様のお側にいて恥ずかしくない、お役に立てる人間になりたい。

「リエン様、そろそろヒートサイクルの時期でしたね?来週あたりを目処にアル・ニール様がこちらに参りますので」

そのアル・ニール様とは三ヶ月に一度のヒートサイクルに合わせた一週間だけしか共にいれなくても。


勉強も終わり、美しい花や木々に囲まれた湖が自慢の庭を息抜きに一人で散歩する。アル・ニール様には屋敷内を自由に見てくれても構わないと前回、最後に会った時に言ってもらえたから。

この屋敷の人たちはみんないい人たちで、身分が奴隷だった私に差別の目を向けることなく丁寧に接してくれる。主人が立派な方だとその下の者たちもそれに比例しているのだろうか。みんな私と同じでアル・ニール様を尊敬し愛しているのが普段の仕事ぶりや生活で分かる。

この屋敷で生活するようになって今回で五度目のヒートサイクル。丸一年が経った。
私を選んでくれたアル・ニール様に恩返しする為にも早く子も孕みたいのに中々子を身篭れない自分が情けない。

オメガとアルファだからといって必ず妊娠するという訳でも無いらしく、これまでの四度のヒートサイクルでは私は身篭れなかった。
チェレブリテ家付きのお医者様に診てもらったが、私の体が母体となるにはあまりに栄養が足りておらずホルモンバランスもかなり不安定なのが理由だった。

まだ家族と暮らしていた頃は父親の働かない奴に飯なんて食わせるなという口癖のおかげで日に一度ご飯を食べられればいい方だったし、奴隷として売られてからはスレイブマーケットに商品として並ぶ日以外は過酷な労働を長時間強いられていた。自分の体調が万全でない心当たりなんていくらでもあった。

それでもチェレブリテ家に嫁いで美味しい温かいご飯を食べさせてもらえるようになって、健康的な生活を送れている生活を一年も続けさせて貰ったから、今度こそアル・ニール様の為にも早く子を授かりたい。

(いくらチェレブリテ家繁栄の為とはいえ元奴隷、しかも男を抱かないといけないなんて。アル・ニール様があまりに憐れだ)

番になったとはいえ私とアル・ニール様の間で愛が育まれることはなく、証拠に私のヒートサイクル期に合わせて三か月に一度しか逢瀬しない。他の日はもっぱらアル・ニール様はお仕事に勤しまれるばかりで、同じ屋敷内にいても私と共に過ごすことなんて全くない。アル・ニール様からしてみれば孕むしか能のないただの奴隷の私なんかに同情されるなんてことはひどい侮辱だろうが、だからこそ早く子を授かりたいと願う。


湖の水面と周りの草木によく映える桃色の蓮の花と葉がいくつか水面に展開しており、とても美しい。私は湖のそばの樹の木陰になっている根元に腰掛け庭の風景を眺めながらもやもやとずっと考えていた。

つう、と目尻から頬、顎を生暖かい液が流れたのを感じた。

いろいろ考え込んで思わず泣いてしまったらしい。

(なんて私は傲慢なんだろう、)

こんな人間らしい温かい生活を送らせて貰ってる上に、愛こそないかもしれないがアル・ニール様にはいつも私のためにとなにかと気を回していただいている、

そんな生活になんの不満があって私は泣くというのだ、止まらない涙を何度も手で拭い目を擦り自問した。


「なぜ泣いている」

分からない、と咄嗟に心の中で答えた。自分のことなのに、自分に聞いても答えが分からない。自分に何度したかも分からないその問いに、導き出す答えは何度でも同じ。

しかし、え、と気づく。今の問いの声は私の声ではない。
優しく思いやりに満ちた低い声。涙を拭う為に目に覆っていた手をどけると私と湖に挟まれたアル・ニール様のお姿があった。木陰に腰掛ける私に合わせて、上等なお召し物が汚れるのも構わず片膝ついて私の顔を澄んだ金糸のような髪の間からサファイアブルーの瞳をこちらに向けて見つめている。

「あ、アル・ニール様…!」
「…そのままで構わない」

アル・ニール様のお姿を確認した途端、条件反射的に足を直し地に両膝をつけ頭を下げる姿勢を取ろうとしたのをアル・ニール様に止められた。咄嗟の出来事にまたやってしまった、と奴隷だった時に躾けられた癖が体に刻み込まれているのを自己嫌悪した。

「申し訳ありません…」
「謝らなくていい。時間はこれからいくらでもあるのだからゆっくり直していけばいい」
「はい…。ありがとうございます」

アル・ニール様は私を一瞥して少し微笑むと正座の姿勢でいる私にまた問いかけた。

「それで、なぜ泣いていたんだ」

しかしその問いには何度、誰に聞かれようとも答えられない。アル・ニール様にそう聞かれて一瞬止まった涙もまた涙腺の蛇口を解放されたみたいに止め処なく溢れてきた。

「ハーディになにか嫌味でも言われたか?それとも他の者か?…答えられないのはなにか脅迫でもされているのか?」

違うのです、ハーディ様も他の使用人の皆様もとても私に良くしてくださいます。

「あ、アル・ニール様に…」
「…私か?」

とても心配そうにその端正な整えられた眉尻を下に下げ私の言葉の続きを待ってくださるアル・ニール様。

「私はアル・ニール様のお役に…早く立てるようになりたいのです」
「ふむ…」
「それなのに私は…、アル・ニール様の子を産む道具にも関わらずその役割も果たせないのがとても情けなく…」
「…ん?」

何かおかしいことでも言ってしまっただろうか。言葉遣いはハーディ様に教えられてしっかり学べていたと思っていたのに、不安になって少し口を噤んでしまう。

「…誰がお前を道具だと言ったんだ」
「い、いえ!誰にもそのような事は言われていません!し、しかし…アル・ニール様は私のヒートサイクル期にしか私とお会いになられません」
「…だから、お前は自分が道具だと?」
「はい…。だから早くアル・ニール様の御子を身籠もらねば私にはここにいる資格がありません」

今回のヒートサイクルこそ、必ずアル・ニール様の子を授かってみせる。男の子でも女の子でもアル・ニール様に似た子が欲しい。アル・ニール様に捧げるのも烏滸がましいこの愛を子にはたっぷりと注いで育てたい。

「お前は…子を孕むのが恐ろしくはないのか?私はお前をスレイブマーケットで金で買った男だぞ?お前の意思を尊重せず無理に番契約を結んだんだ、憎くはないのか」
「なぜ私がアル・ニール様を憎むなど!とんでもありません!奴隷だった私を助け出してくれて、人間らしい豊かな生活もおくらせて頂いたアル・ニール様には恩を返したくても受けた恩が大きすぎるのです。そんな素晴らしいお方を憎むなんて…あり得ないことです」
「…そうか…」

ふっ、と気を抜いたように笑って、アル・ニール様はその場で立ち上がった。風に靡く金の髪が湖の蓮と相まって水面と青空に映えて清々しくとても美しい。

「おいで」

そしてそう言ってこちらに右手を向けてくれる。その言葉にすぐ反応して立ち上がったものの、その手の意味が理解できず立ちぼうけになってしまう。

「…あまり無視してくれるな。手を繋ぎたいんだ。
私はてっきりお前が私を憎んでいると思っていたから極力会わないようにしていたのに。だがこれからは遠慮はしない」

アル・ニール様は私の左手を取ると手のひらを合わせ大きな手で私のほぼ骨と薄皮だけの手を包むように握る。
優しく温かい手つきと体温に嬉しさや喜びを感じると同時にとても驚いた。

「あ、アル・ニール様…!」
「ハーディに言ってお前の部屋を移そう。今日から寝室は私の部屋のを使うといい。食事もこれからは共に取るようにしよう」

歩き出して、一気にそう語るアル・ニール様。私は短い足をせっせと動かして左手からアル・ニール様を感じながらその後ろをついていき、蓮がいくつも花開く湖を後にした。

この日の夜、寝室はアル・ニール様の部屋のを使うといい言っていた言葉に、“アル・ニール様と一緒に”という説明が抜けていた事と、
ハーディ様にヒートサイクルの時期を見察誤りましたかねえとからかうように言われた事で、私は羞恥で顔が鬼灯みたく赤くなってしまった。





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