つごもり3
 

(名前、教えればよかったなぁ)

それは翳の中で二度目の思考だった。

一度目はパーティーのあったその日に、着の身着のまま追い出され御園家の冷たい門を前に立ち尽くしたとき。不思議と追い出されたことに悲しみや苛立ちというのは沸かなかったが、それだけが翳の心を占めていた。

しかし、追い出される際せめて自分で稼いだ分のお金や勉強道具は持って行きたかったが、あんなに激昂する陽光に、息子を守ろうと敵意剥き出しにしてくる養父たちにそんな事言える訳もなかった。

今の季節は夏に差し掛かる目前だ。ベージュのチノパンに縦ボーダーのモノクロのシャツを1枚着ただけの翳に、もう少し時期が早ければ春の夜はとても体に応えただろう。

二度目の思考はそんな春と夏の間の夜、時たま吹く風は涼しく暑過ぎない過ごしやすい気候、翳はつい行く当てなく、自分がアルバイトとして働くショップがある繁華街まで来てしまった。
その繁華街のど真ん中で人混みに紛れていたときだった。

これからの生計を立てていくのにまず一番に考えないといけないのはそんな事ではないのに翳の頭には雨ノ森しかいなかった。

名前も知らない自分の名前を求めて、キスまでした男。
雨ノ森はあのパーティーの後、半ば無理やり追い出されるように帰らされていたが大丈夫だったろうか。
携帯も持っていない、持っていても連絡先すら知らない翳にそれを確かめる術もない。御園家という橋が無ければ自分と雨ノ森は元々住む世界が違うのだと実感するだけだった。

何も持たないベータの翳に、アルファである大財閥の御曹司にもう一度会って名前を告げるなんて、砂漠で一粒の小石を見つける並みに無理で滑稽な話だった。

なにも生まない後悔ばかりをしてしまう翳は、もう何度も何度もずっと人混みの中でため息を吐いていた。することも無く、歩行者の邪魔にならないスペースでぼーっと立ち止まっているだけ。

「ねえねえ、君!すごい綺麗だね!今、1人?ちょっと時間ある?」

そんなところに、僕はこんな者ですと安価そうなスーツを身にまとった、少しばかり小綺麗な身なりではあるものの、怪しさ全開の30から40くらいの年齢の男が名刺を差し出して声をかけて来た。
普段ならそう言ったキャッチやスカウトは目もくれず無視する翳だが、この日は特に行く当てもなにかする気力もない為、

(…雨ノ森を忘れるのに、ちょうどいい…)

男…もとい、名刺に載った名前は「佐東(さとう)」。佐東の話をいかにも興味ないです、と言った風な白けた目はしていたが、翳は聞くことにしたのだった。





「…追い出した?」

雨ノ森はパーティーがあった次の週の月曜、すぐに学年の違う、雨ノ森のファンクラブの隊員である以外なにも接点のない陽光の元へ訪れた。
生徒会長をしている雨ノ森が、特定の生徒に話しかける事の影響など考えなくても分かるものだがそんな配慮をする余裕も雨ノ森には無かった。

雨ノ森が陽光に尋ねたいことはただ一点だけだったが陽光は雨ノ森が教室へついてすぐ、尋ねなくても簡単に自分からあのパーティーの事の顛末をペラペラと喋り出したのだ。


はい!雨ノ森先輩を誑かそうとしたあの淫乱男は追い出しましたぁ。
あいつは、僕の家の養子で血の繋がらない兄だったんですけどぉ、僕の振りして雨ノ森先輩を手に入れようとするとんでもない奴だったんです!
よくも雨ノ森先輩にあんな真似…先輩も、すっごく不愉快でしたよねえ?僕が代わりに謝ります…あの、お詫びと言ってはなんですが…よかったらまた、うちに遊びに来てくださいませんかぁ?


雨ノ森にとって陽光の言葉は汚く淀んだ川みたいなものだった。あの光景を見て誰が無理やり雨ノ森が翳に誘惑されていると思うのだろう。嘘と媚びが入り混じるドブ川が目の前で流れているーー、
雨ノ森は沸騰した怒りを抑えることなど出来ず、近くにあった机を力のまま蹴飛ばした。机は大袈裟に音を立て中身の教材をぶち撒けながら他の机を巻き込んで倒れて行く。

ただでさえ、生徒会長という自分は注目される。まして今日は珍しくも自分からファンクラブの会員の元を訪れ、感情に身を任せたまま物に八つ当たり、生徒会長としてあるまじき行為に教室にいる人間みんなが雨ノ森に視線を向けていた。

「…っ、チッ」

それにすら苛立って、雨ノ森は舌打ちひとつして陽光のクラスから出て行った。

(誑かす?淫乱?…ふざけるな)

それでも怒りの収まらない雨ノ森は近くのコンクリートの壁を拳を固く握って思いっきり殴りつけた。頑丈な作りのそれは雨ノ森の手を傷つけるだけに終わったが、痛みで少し雨ノ森は冷静になれた。

「…俺が、あいつを手に入れたかったんだ」

雨ノ森が翳を見つけた、あのパーティー。

雨ノ森財閥の将来を担う最有力後継者と評される兄が本来なら出席するはずだったが生憎あの日、兄は体調を崩してしまったのだ。同じアルファでも雨ノ森と雨ノ森の兄の能力の差や周りの期待の差はとても大きく、雨ノ森はいつもコンプレックスを抱いていた。
そんな兄の代わりに、弟の自分が出席したパーティーなど居心地いいものでもなく、適当に抜け出そうと思っていた矢先に、雨ノ森は翳を見つけたのだった。

最初は見覚えのある生徒がいるな、という認識だった。
しかし大人びた笑顔を顔面に貼り付けて容量良く、集まってくる著名人や名の知れた企業の幹部や長と会話をする姿に雨ノ森はとても違和感を感じた。

あの生徒…御園陽光はあんな、器量のいい生徒ではなかった気がする。ただそれだけの違和感だったが雨ノ森はそれから興味を抱いてしばらく観察していた。

(やはり、)

あの男は御園陽光ではない。
観察した結果、その結論に行き着いた。
地上に天使が舞い降りたなんて陳腐な謳い文句すら彼にはぴったりの言葉で、凛とした姿勢に品のある仕草、時折見せる儚げな表情。雨ノ森は目を離せなかった。

元々御園陽光と関わりがあった訳では無かったが、それでも雨ノ森の記憶では月に一度のファンクラブの生徒らとの交流会の時、彼が自分を好いているあまりファンクラブのルールを破ることが何度かあった。自分のオメガ性を利用して他のアルファ性やベータ性の生徒を使い制裁を加えているという噂も少なくなかった。
それにはファンクラブの会長である生徒も専ら陽光を問題視していた。
そんな男と顔だけはそっくりな人間が、パーティーにやって来て出来の良い陽光を演じている、その理由に興味が湧いたのだ。

そして直接、喋れば喋るほどポロポロ剥がれる“陽光”の仮面の皮。やはり決定的だったのは、恋人ではないのにカマをかけたらまんまと恋人同士であるかのように振舞い、雨ノ森の名前を間違えたところだ。
いくら演技して声を寄せようと、しなを作ろうと、学校での陽光を知っている雨ノ森からすれば全く似ていなかった。

(…名前が知りたい)

陽光ではないのなら、君は一体何者なんだ。

「…ーー、ーーー」

言いかけた名前は、雨ノ森の耳には届かなかった。
そして彼が御園家を追い出されたと言うなら、彼に行きつく手がかりは無に等しい。

「会長?!大丈夫ですか?!」

へなへなとその場に力無くしゃがみこめばギャラリーたちが寄ってきて俺が僕がと雨ノ森を介抱する。

「…大丈夫じゃないな」

好奇心や興味だけで、人に口付けなんてするものか。

実を言うと、雨ノ森と翳がキスをしたのは陽光に見られてしまったあの一回だけではなかった。鬱陶しくベタベタと雨ノ森にボディタッチをして他の客人など目にも入らない陽光をなんとか撒いてやっと見つけた翳がいた部屋。
彼は雨ノ森が見つけた時、机にもたれて眠っていた。あまりの寝顔の美しさに、思わず吸い寄せられるみたいにキスをしてしまったのだ。結果、彼を起こす事となってしまったが。

雨ノ森は翳を一目見たあの瞬間から、好きになっていたのだ。似た顔をした陽光には全く興味すら湧かなかったと言うのに。

(もう一度会いたい)

だが、名前ひとつ知らない彼に会う術はもう無い。

雨ノ森はもう二度と会えない翳に恋焦がれながらこれから先3年、ぼやけた景色の世界で一人で生きていく事となる。





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