つごもり4
 

雨ノ森が学園を卒業して早3年が経った。大体の生徒らは卒業後、エスカレーター式に同じグループが運営する大学へ進学することが多いが雨ノ森はそうしなかった。

卒業後、外部の専門学校へ進学を決めるとすぐにイギリスへ留学、そこで語学や経営など様々な分野を学んでから、雨ノ森財閥の抱える一企業のイギリス支社でおよそ1年働いて日本へ戻ってきた。

まだ齢二十歳かそこらで営業成績のよくなかったイギリス支社を支え成果を残した手腕を見込んで雨ノ森の父が呼び戻したのだ。

「久しぶりだな、知嘉。見ないうちに逞しくなった」
「…それはどうも、ありがとうございます」

寝る間を惜しんで勉強と仕事に時間を費やしても、久しぶりの実家に戻り少し老けた両親に多忙なはずなのに弟を出迎えてくれた兄。こんな暖かい歓迎で出迎えてもらっても、尚雨ノ森の心は晴れなかった。

「お前に任せたい会社があるんだ。…今のお前ならきっとその会社を再び軌道に乗せてくれるだろう」
「……頑張ります」

雨ノ森がイギリスでがむしゃらにやって来たのは名前を知ることも出来ずに別れた男を忘れる為だった。
心がぽっかりと抜き取られたようなこの喪失感を覚えてからちょうど4度目の夏を迎える。未だに時間は雨ノ森のぽっかりあいた心を埋めてはくれない。


帰国したばかりで悪いが、と雨ノ森は息を吐く間も無く父に任された会社の仮責任者の元へと向かう。正式な就任はまだだが、先に少し挨拶しておこうと早速家を出たのだ。

2時間ほど経って運転手に連れられやって来たのは予め聞いていた会社の所在地とは全く別の場所にある廃駅だった。怪訝な顔をする雨ノ森に、運転手はここにその会社の代表がいらっしゃるそうで、と苦笑いで言った。

駅前で降ろしてもらい、雨ノ森は仮責任者を探す。廃駅なのにボロボロと言うわけでもなく、レトロな雰囲気を残したそこに複数の人気があるのは感じていた。





「ーーーど、どうしてここにいるんだっ」

その声に雨ノ森の心臓は大きく跳ねた。
駅舎に入ってすぐ、雨ノ森がいる場所から線路を二本挟んですぐ向こうに、黒髪の男と、その前に立つ威風堂々とした雰囲気の女を囲むようにカメラや音響、照明を抱えた人らが多く集っていた。

どうやら声の主は黒髪の男の方らしい。雨ノ森からは高く通った鼻筋に、ゆらゆら頼りなさげに動くぱっちりとした瞳の片側しか見えないが、雨ノ森はそれでも自分の目を疑った。

「わたし…っ!待ってるから!あなたがくれたこれをずっと着けて、待ってるから!」

ぎゅっと胸元に光る銀色の雫のチャームのネックレスを握り、白のスカートをひらひら風に任せる女は瞳に露を溜めてそう言った。

「ぜ、絶対、帰ってくるよ!だからまってて、」

黒髪の男はそれに吃りながら返事をする。
とても頼りなさげな声だった。


「ーーカーット!!だめだめカスミくん!なにその演技、ヤル気あるの?!」

大きな声をあげてその男女のやり取りを止めるのはキャンプ用の折りたたみ椅子に座った大柄の男。

彼らは現在、雨ノ森が新しく任された企業の商品のCM撮影中だった。
主に小物やアクセサリーを幅広く扱うブランドだが、値段が高いわりにはデザインが若者向けだったり、いろいろ迷走中の会社だ。このCM撮影も迷走のうちの一つである。

「カスミくん困るよお。このCMのメインはアヤノちゃんだから、アヤノちゃんの演技を君なんかの大根演技で邪魔しないで?君の演技は棒読みになってんだよ!心がこもってないし!100点は期待してないから、せめて70点80点くらいは取ってよ!このままじゃ赤点!降板だって視野に入れるからね!」
「すみません!もう一度お願いします!」
「いちいち頭下げなくていいよもお。カスミくんのつむじは見飽きたし〜。はい、切り替えてじゃあもっかいね。過去にプレゼントしたネックレスをつけて見送りに来たアヤノちゃんと、遠い異国へ旅立つ元カレの君!もっと哀愁感頼むよ〜ホント〜」

厳しいアドバイスを出す監督の男にその場で深く腰から頭を下げるカスミと呼ばれる黒髪の男。
隣にいる何度目かのNGにうんざりした様子の女は最近アイドルから女優に転身した織田アヤノだ。カスミはアヤノにも深く頭を下げて詫びる。
そしてそんなアヤノをスタッフ陣が固まる脇で、デレデレとした表情で眺める脂ののった男がいた。この男こそが雨ノ森がわざわざ車で2時間かけ会いにきた人物である、仮責任者だ。彼は仕事もしないで織田アヤノ目当てにこの撮影を見に来ていた。

しかし雨ノ森の視線は世間から人気の織田アヤノより、カスミという男に釘付けだった。

(そんな、まさか。本当に?ーそんなはずは、)

ぐるぐると雨ノ森の心の中の懐中時計が高速で針を過去に戻して行く。

一旦メイク直しますと何人かの女性スタッフがメイク道具を持って演者の二人に駆け寄る。その時に、横顔しか見えなかったカスミが、頭を傾けこちらを向いた。

「、っ」

声にならない声をあげたのは一体どちらか。
ばちり、と雨ノ森とカスミの視線がぶつかった瞬間、雨ノ森の中の懐中時計の針は止まってあの日、御園家主催のパーティーで翳と口付けを交わしたあの日に戻り、かちかちと秒針が動いて再び時を刻む。さぁっと霧がかっていた雨ノ森の視界は晴れて色が鮮明に見えた。

あの頃とは髪の色も違う、身長も伸びている、だが雨ノ森は彼が翳だと気づいたし翳もまた雨ノ森に気がついた。

現在、女優の織田アヤノと、雨ノ森が数日後には代表を務める会社の商品のCM撮影に挑んでいるカスミは、雨ノ森が会いたくてやまなかった、名を知りたくてやまなかった翳だったのだ。

「じゃあ、もういちどいくよ!よーい、アクション!」

化粧直しをしていたスタッフもすぐにはけ、すぐに監督の掛け声がかかる。ハッとしたように翳はアヤノに顔を向けると、すぐに役に入った。


「…どうして、ここにいんの」

先程と同じ台詞。しかし雰囲気がまるで違った。
緊張と勢いしかなかった先程までの翳は姿を消して、アヤノを諭すような、喜びを仄めかせるような甘く切ない声でしっとりそう問う。それはカスミがアヤノに向けてではなく、翳が雨ノ森に向けたものだった。

「っ、ーー」
「わたし…!待ってるから!ーー」






撮影が無事に終わり、翳は監督をはじめスタッフたちや共演の織田アヤノに挨拶を終えるとすぐに廃駅を飛び出し、この3年、心の支えにしていた人を探す。

「…っあ、!」

その人はすぐに見つかって、駅の壁にスーツ姿でもたれかかっていた。

「あ、雨ノ森…!」
「…おつかれさま。カスミ?」

走っていたため、少し息を切らしていた翳は雨ノ森に駆け寄る。撮影中、監督に何度も叫ばれていた名前を雨ノ森は呼んだ。

「な、なんで、本当にここに?」
「…少し、用事で」

雨ノ森は仮責任者に会いに来た、というのは伏せた。ずっと会いたいと求めていた翳に会えたのだから、今はそれ以上に他に優先することは何もない。

「俳優、になったのか?」
「ああ。駆け出しだけどね。長くなるけど、聞いてくれる?」

同じく壁にもたれた翳は黒のスキニーにシンプルな白Tを着ており、両手の親指だけを左右のスキニーのポケットに引っ掛けて、足元を見ながら語り出した。

「ーー俺、あんたとキスしたあの日。あのまま追い出されたんだ」

何も持たされず、着の身着のまま追い出され、冷たい門の前に立ち尽くしたこと。
ひたすら雨ノ森のことだけを考えて、気がつけば繁華街まで来てしまっていたこと。
佐東と名乗る怪しい男にスカウトされ、3年前にモデルとして芸能界入りしたことを翳はゆっくり自分の言葉で雨ノ森に説明した。

「スカウトされた時も、芸能界とか全然興味無かったし、自分をカメラで撮られるって、慣れてなくて不安だったけど、もし俺が雑誌やテレビとかに名前が載るくらい有名になれば、いつかあんたに俺の名前が届くんじゃないかって思った」

“芸能界、興味ない?君ならゼッタイ売れるよ”
翳の脳裏に浮かぶのはこの世界に入るキッカケをくれた佐東の言葉。
売れるとどうなるの、有名になるとどうなるの、と知りたがりな幼稚園児みたく佐東を質問攻めにしたのは翳の記憶に深く残っている。

「…あれから、あんたに何度も名前教えれば良かった、ってかなり後悔したから…。
いつか俺が有名になってあんたがテレビの前で俺の名前を知った時、吃驚するだろうな、って…その妄想だけがあの時から今までの、俺の原動力だったよ。だからこの撮影はあんたに見られるかもしれないって意気込んでて、すごい緊張した」
「…最後の演技、よかった」
「はは、ありがとう。監督も褒めてくれた。…はぁ〜、でも、俺の作戦は大失敗だよ」

瞼を下ろし雲ひとつない青空を仰ぐ翳。真夏の太陽はサンサンと2人に日を差した。

「…俺の名前、翳。漢字で書くと、難しい方のカゲ」

くるりと首を雨ノ森に向けて笑う翳。
その顔には陽光を装っていた頃の面影は微塵もなく、正真正銘の等身大で笑う翳だった。
陽光から翳は家から追い出したとだけしか聞いていなかった雨ノ森はこの3年、会えなかった間に翳は自分の居場所を見つけれたのだなと、本当によかったと、心底安心した。

「ーーかすみ」
「ふ、なに」
「翳、かすみ、翳」
「なんだよもう」

求めてやまなかった、口にしたくても出来なかったその名を譫言みたく雨ノ森は何度も呼んだ。そしてずっと呼ばれたかった、耳に残る低い優しい声をずっと聞きたかった翳も満更ではない様子で笑った。

「…とりあえず、連絡先交換しよう。あと今住んでる家と…あ、所属事務所どこか。それに今、恋人がいるかいないかも。それに今日、この後の予定は?ないならーー」
「はははっ、ひとつずつ教えるって」

焦ったようにスマートフォンを取り出し翳に詰め寄る雨ノ森。雲みたいに掴めない彼をもう二度と見失いたくないのだ。
その思惑を知ってか知らずか、ミステリアスで寡黙なイケメンと事務所に売り出されている翳はあどけない表情でまた笑った。

その顔にもう影は差していない。





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