01
気がついた時には、革張りの黒いソファーの上で横になっていた。
妙に重たい身体を起こすと被っていた毛布がずり落ちる。目を動かして周囲を確認すると、そこは全く見覚えのない部屋だった。
私がいる二人掛けのソファーの他に、ローテーブルと一人掛けのソファーが二つ。隅っこに観葉植物がある以外は何もないような、つまらない空間だった。人が住む部屋にしては小ざっぱりしていて、生活感がない。というか、ここは所謂“応接室”というやつではないか。前にドラマで観た金融会社の応接室もこんな感じだった。
ソファーの前にあるローテーブルの上には、未開封のペットボトルのお茶が一本。『喉が渇いていたら飲みなさい』と手書きのメモが添えられていた。なんて怪しい。
一先ずソファーから降りようと腰元にある毛布をどける。その時、私は初めて自分が今着ている服がサイズの合っていないぶかぶかの牛柄のTシャツ一枚であることに気が付いた。ダッサ、何この服。私はこんなダサい部屋着持ってない。
柔らかいカーペットの床に音を立てずに足をつけて立ち上がる。ぶかぶかの牛柄Tシャツはワンピースのようになっていた。
ローテーブルの上にあるペットボトルの蓋を開けて口をつける。毒は入っていないようだ。
ペットボトルを持ったまま窓へ近付く。下がっていたロールスクリーンを勝手に巻き上げると外は日が沈みかけていた。下の方にある通りに目をやる。人も車も多い。周りの様子を見る限り住宅街というより繁華街のようだ。外を眺めながら、私はここが街中に建てられた少なくとも三階以上の高さを持つ建物であることを知った。
何気なく円を広げると途中で一人引っ掛かる。次いで隠す気のない足音が聞こえてきた。その音は段々と近づいてきて、予想通り背後からドアが開く音がした。
「目覚めはどうだ?」
男性の声が耳に届く。円を広げていたことで彼も私が起きているとすぐに気が付いたようだ。振り向くとそこには上下牛柄の迷彩服に耳がついた牛柄の帽子を被るという常軌を逸した格好をした男性が立っていた。
……!?ちょっと待って、ペアルックじゃん。彼の姿を上から下までじっくり観察した後、私は自分が着ている牛柄Tシャツの裾をギュッと握り締めて絶望した。
「目覚めた時、記憶障害が出るかもしれないとネテロ会長から聞いてる。オレのことも覚えてないだろうから、まず自己紹介から始めよう」
謎の牛柄男は私の返事を待つことなく手に持っていた沢山の荷物をドサドサと置きながら淡々と話を進めた。私は彼の言うことを殆ど理解できなかった。
「オレはミザイストム。ハンターをやっている。ここはオレが所有する弁護士事務所の一つだ」
牛柄男ことミザイストムは、それだけ言うと「次は君の番だ。自己紹介を」と振ってきた。私も?と動揺しつつ小さく口を開く。久々の発声だったので何度か、あー……とか、えー……とか言って声の調子を確かめる。
「え、え〜っと………何を言えば……」
「全部を忘れたわけじゃないだろ。名前は?」
「えっ……シグネ……?」
「歳は?」
「12歳……?」
「好きな食べ物は?」
「ポテトのカリカリしたところ……?」
「特技は?」
「強いて言うなら……アヒルの鳴き声の真似かな……?」
そこまで聞くとミザイストムは「ふむ」と顎に手をやった。
その間、私は答えたことを脳内で反芻する。自分がシグネという名前で、12歳であることは分かっていたが、何故ここにいるのか、この牛柄男は何者なのか、家はどこなのか、家族はいるのか………そういった類の質問には、とてもじゃないがすぐに答えられる自信がなかった。
目の前の牛柄男はそんな私の胸中を見抜いているらしく、その手の質問はしてこなかった。代わりに「君は自分のことをどういう人間だと思う?」などと聞いてきた。
「優しいとか、怒りっぽいとか、性格の話だ」
「慈愛に満ちてます」
「なるほど………。恐らく君は自分にとって都合の良い事だけを覚えているんだろう」
「……?なんかディスってます?」
ミザイストムは私の問いかけには答えず「それより腹が減ってるだろ」と言うと沢山持ってきた荷物の中の一つを手に取った。コンビニの袋だった。
「久々の食事だからな。量よりも食べやすそうなものを選んできた」
そう言うとミザイストムはコンビニの袋からパスタサラダと野菜ジュースを取り出してローテーブルの上に、そっと置いた。そんなOLのお昼休憩じゃないんだからと思ったが、用意してもらっておいて口にはできなかった。
先程までは空腹など感じなかったが、食べ物を前にすると急激に食欲が湧いてきた。いただきます、と言って手をつける。サラダもジュースも一口ずつ味を確かめ、問題ないと判断できたので安心して食べ進めた。
「シグネ、食べながらでいいから聞いてくれ。実はあれから12年近く経った」
「…………ん?」
「まあ、この件に関しては追い追い思い出すだろう。それで今後の話なんだが」
思わず全ての動きを止めた私と違ってミザイストムの口は止まらなかった。
「君の育ての父は残念ながら四年前に亡くなった。今はハンター協会のネテロ会長が君の後見人になっている」
「そうですか……」
「ただ、会長は多忙の身でな。残念ながら君に付きっきりというわけにもいかないんだ。それで暫くの間は昔の誼でオレが代わりに君の面倒を見るから、何か困ったことがあったら言ってくれ。できる限り対応しよう」
「そうですか……」
「そしてこれが今期のハンター試験会場までの地図だ。参加の登録はもう済んでる。五日後だから早めに準備しておけよ」
「そ……えっ、ハンター試験!?」
ぎょっとして聞き返した私にミザイストムは「どうした?」と首を傾げた。どうしたはこっちの台詞だ。何故今の状況もよくわかっていない私が五日後に迫ったハンター試験に臨まなくてはならないのか。
「あの、何故私がハンター試験に?」
「何故って、自分で受けるって言ってただろ。それも忘れたのか?」
当然のように返ってきたその言葉に眉を寄せるが、それと同時に微かな記憶が蘇る。
「あ………そうだ!ハンター試験受けて一発合格してみせるって友達に言っちゃったんだ!」
ぽん、と手を打つ私を見てミザイストムは「友達?」と不思議そうに呟いた。
「君に友達がいたのか?」
「……?なんかディスってます?」
12歳なんだから友達の一人や二人、いるに決まっているだろう。顔も名前も思い出せないけど、確かにハンター試験について話した友達がいたはずである。
記憶を辿ろうとして無意識に眉を顰めた私を見て、ミザイストムは何を思ったのか「すまない」と謝ってきた。
「君は昔から大人とばかり付き合っていたから、思考や行動がかなり偏っていただろ?学校でもあまり同級生と上手くやれていないと聞いていたし、つい……」
「え……あ、いや………え?そうなの……?」
想定外の返答に動揺を隠せない私に、ミザイストムは「孤立しかけていたらしい」と追い打ちをかけてきた。この人多分私のこと嫌いだと思う。
彼の言葉を否定しようと今まで送ってきたはずの学園生活を思い出そうとするが、結局私はそれ以上何も言えなかった。学校に友達がいない記憶はなかったが、学校に友達がいる記憶もなかったからだ。
それでも確かに、私にはハンター試験の話をした友達がいたはずだ。薄っすらと思い出したその記憶だけが、今にも崩れてしまいそうな私の心を支えていた。ひょっとしたら、その子は学外で出来た友達なのかもしれない。
そもそもミザイストムの話に信憑性はあるのか、という疑問が浮かぶ。ここまで彼の振る舞いや話の内容から考えると私達は知己のようだが、私は彼のことを覚えていないのに、彼が語るシグネの人物像や交友関係を手放しで信じていいのだろうか。
私は慈愛に満ちているのに、学校に友達が一人もいないなんて、そんなまさか、まさかそんなこと……。嫌な想像を追い出すように首を振った。この件に関しては自分で思い出すまで私は何も信じない。
この友達いない問題を真剣に捉えていたのは私だけで、ミザイストムはいつの間にか「そういえば、これを君に買ってきたんだ」と次の話を進めていた。ここへ来た時に沢山持ってきていた荷物の中から、今度は子供服ブランドのショッパーバッグを手に取るとそれらをまとめてソファーの上に置く。
「君の元々の服は持ち出せなくてな。他にないから仕方がなく今はオレの服を着せてしまっているが、流石にそれじゃ外に出られないだろう。この中から好きなものを選んで着てくれ」
なんと、ミザイストムはわざわざ私のために服を買ってきてくれたらしい。ペアルックの謎が解けてすっきりしたし、彼の心遣いを嬉しく思ったが、何よりも彼がそのトンチキな格好を他者に強要するような男ではなかったことが分かって安心した。人は見かけによらない。
「12歳の女の子が着る服が分からなくてとりあえずデパートでマネキンの服をそのまま買ってきた。店員曰くこれが今の流行りらしい」
ショッパーを開いて服を漁る私に向かってそう言うとミザイストムは「気に入るものがあるといいんだが……」と少し不安そうに続けた。
ティアードキャミソール、デニムのミニスカート、袖リボンのワンピース、やけにポップなロゴのTシャツ、オフショルダーのトップスにショートパンツ……などなど、ショッパーから出てくるのはプールに行く時いつも着ていたような服ばかりだ。正直、牛柄じゃなければなんでもいい。
「それと、一つだけ頭に入れておいてほしいんだが……君の現状については限られた一部の者しか知らない。わかっているとは思うが、念能力は誰彼構わず口外していい話じゃないからな」
ミザイストムは私が片っ端から開いて放置したショッパーと服のタグを片付けながらそう言った。
「そのため君の昔の知り合いの殆どは君のことを夏休み明けに学校が始まることに絶望して以来引きこもりになった穀潰しだと思っている」
「容赦ない設定」
真剣な表情で語られた設定に思わず私も真剣な声が出る。すごい、どんな顔して会えばいいんだ。
「納得いかないとは思うが、なんせ事情が事情だったからな。全員に本当のことを説明するわけにはいかなかったんだ」
「いいですよ。知り合いの顔もその本当のこと?も別に覚えてないし」
「すまない。きっと育ての親の葬式にも顔を見せないどうしようもないクズだと思われているだろうが我慢してくれ」
「それは良くないですね……」
私の記憶が曖昧な件については、どうやら念能力が絡んでいたらしい。だと思った。
しかしミザイストムはその詳細について“そのうち思い出すだろうから”と教えてくれなかった。だが、彼と私の関係については少しだけ話してくれた。
彼が簡潔に教えてくれた過去を更に短く纏めて話すと、その昔ミザイストムが地元じゃ負け知らずのストリートチルドレンだった頃、大変世話になった相手が私の育ての父であった、というわけだった。私の育ての父はかつてハンター協会の副会長をやっていたらしく、その縁で現会長であるアイザック・ネテロ氏が私の後見人になってくれたらしい。
「一つ質問してもいいですか?」
「別に何個でも」
「結局私って、12歳でいいんですよね?」
十数年経ったとか、記憶障害とか、色々言われて若干不安になる。
私の質問にミザイストムは少しだけ考える素振りを見せたが、すぐに「そうだな」と頷いた。
「肉体年齢は12歳で止まっているし、精神年齢もその頃のままだ。君だけ時が進んでいなかったんだから、君は12歳だろう」
その『時が進んでいなかった』頃の自分のことを私は覚えていないので、何とも言えない不思議な気持ちでいっぱいになった。
それでも私は12歳で間違いない。うん、うん……と何度も頷く。
ミザイストムは気持ちの整理をつけている私を暫し黙って見守った後、ハンター試験会場までの地図を片手に、各交通機関の使い方について教えてくれた。そうだ、ハンター試験受けるんだった。忘れてた。
「あの、今更なんですけどハンター試験って子供が受けても大丈夫なんですかね?」
「そこは問題ない。年齢制限はないし、オレだって試験を受けたのは十代の頃だ。多くはないだろうが、君と同じくらいの年頃の子もいるだろう」
「ふ〜ん……」
「なんだ、不安なのか?いつも根拠のない自信に溢れている君らしくもない」
「いや、不安っていうか……緊張するっていうか………いまディスりました?」
「気楽に行けばいい。君は元々ハンター志望じゃないんだから合否なんてどうでもいいだろ」
ミザイストムは肩をすくめてそう言った。確かに、私はハンターになりたいわけじゃない。それなのにハンター試験を受けるなんて言い出したのは、多分腕試しか、罰ゲームか、なんかその場のノリだったんだと思う。全然覚えていないけど、自分のことだから何となくわかる。
「うん……、うん。気楽に頑張ります」
自分に言い聞かせるように呟いた。
よくわからないけど、とりあえず行くかハンター試験。年の近い子もいるかもしれないし、折角だからミザイストムにこれ以上ディスられないよう新しく友達を作りに行こう。
私の宣言を聞いたミザイストムは小さく笑うと頷きながら「応援してる」と言った。彼へ抱いた不信感は大分薄れていた。決して思い出したわけではないし、ちょこちょこディスってくるので腹が立つが、彼と話していると身内といるような安心感がある。
育ての父が亡くなり、後見人も多忙、他に頼れる存在がいるのかどうかもわからない私にとってミザイストムは自分を知るための重要な手がかりだった。しかし何故彼が上下牛柄というイカレた格好をしているのかだけは怖くて聞けなかった。