帷の側から逃げるように去った後、幻海との修業中にも関わらず幽助の頭の中は帷のことでいっぱいだった。これがこの寺に来て二、三日辺りの出来事なら、ただ目の前の修業についていくことに精一杯で、帷について考える余裕などなかっただろうが、一週間近くにもなるとそれなりにゆとりが出てくる。
 脳内で帷とのやり取りを何度も振り返りながら、幽助は「そんなマズいことは言ってねーよな」と自身に言い聞かせた。そもそもあの時の帷は、悲しんでいたのか怒っていたのか。自分の発言の何が気に障ったのか。帷が勝手に機嫌を損ねただけだったとしてもスッキリしない。何もわからないが、なんとなく顔を合わせづらかった。
 いつもなら嬉しいはずの食事の時間も今は気が重たくて仕方がない。そんな時こそ時計の針は早く進むもので、早朝からの苦しい修業はあっという間に終わり、とうとう朝食の時間になった。 
 まさか自分にこんな繊細な一面があるとは思わなかった、と参ったように頭をガシガシ掻きながら幽助が廊下を進んでいると丁度通り掛かった部屋の襖が開いて帷が出てきた。幽助がギクッとして立ち止まると同時に「あら」と帷も気が付く。
 無視をするわけにもいかず、何と声をかけようかと幽助が迷っていると帷はにやりと笑った。
「お疲れ様です。なんと、今日の朝食は梅ご飯なんですよ。嬉しいでしょ?」
 などと言い出した。梅ご飯が嫌いな者などこの世に存在するはずがないと信じ切っているような声色だった。いつも通りすぎるその姿に、幽助は拍子抜けする。
「オメー、もう大丈夫なのか」
「何がですか」
「いやほら、霊界の……生き返る云々の……」
「レイカイノ、イキカエル……?」
 きょとんとする帷を前にして、暫しの沈黙の後、幽助はようやく“こいつ鳥頭だ!”と察した。この女、完全に忘れている。
 頬を引き攣らせる幽助の様子など気に留めず、鳥頭の帷は「言われなくても、ちゃ〜んと大盛りにしてあげますからね!」と謎の有能アピールをして去っていった。これが妖怪――と幽助は恐れ慄いた。



「あの子はね、人の話なんざすぐ忘れんだよ」
「身をもって知ったわ」
 先に茶の間へ戻っていた幻海の言葉に幽助は深く頷いた。二人の視線の先では帷が飯櫃から例の梅ご飯をよそっている。
「色々聞く割に、話した内容は殆ど忘れてんだ。他人に関心がないんだろうね」
 幻海は慣れた様子でそう語った。でも殆どのことに興味がない分、好きになったものや大切に感じた相手へのこだわりは強い――と心の中で続ける。梅ご飯への執着はすごい。
 帷は、誰が相手でも笑みを湛えて話ができる愛想の良さがある反面、関心のない相手に直接「別に興味はない」と平気で言い放つ無神経さを持っている。ずっとそれで許されてきたからだ。今更改善されるようなものではないし、その気もない。
「ばーさん、よく一緒に住めるな」
「別に、あの子はああいう子だって分かってたら何も思わないよ。言うことも一応素直に聞くし、悪い奴ではないからね」
 淡々と続ける幻海だったが、帷へ向ける目はいつもよりほんの少しだけ優しいものだった。幽助が「ふーん」と適当な相槌を打つと「お待たせしました〜!」という明るい声と共に茶碗を持った帷が土間から上がってきた。
「はい、どーぞ」
「おお……、ありがとな」
 宣言通りこれでもかと大盛りにされた梅ご飯の茶碗を受け取りながら幽助は「まあ、悪い奴じゃねーよな」と思った。

***

 食事を終えた後の片付けは基本的に帷の仕事であった。これは幽助が来る前から変わっていない。
 幽助は土間へ入ると「手伝うぜ」と流し台に食器を置いた。飯櫃を拭いていた帷が顔を上げる。
「修業はどうしたんですか?」
「ばーさんが観たい番組が始まるから一旦休憩」
 思い当たるものがあるのか、帷は手を動かしたまま「ああ、あれ」と返す。
「なら休めばいいのに」
「別に皿洗うくらいなんともねーよ。それとも邪魔か?」
「いいえ、とても助かります」
「そりゃ良かった」
 幽助は軽く口角を上げたが、内心「はい邪魔です」と言われるのではないかと覚悟していたので、素直に感謝されたことを意外に思った。
 しかしよく考えてみれば、確かに帷は思ったことをそのまま口に出すような配慮の無さがあるが、裏を返せば正直者であるといえる。彼女はいつもその時感じた本当の気持ちを言っているのだと思えば、そこまで悪い感情も生まれなかった。人によるかもしれないが、幽助からすれば嘘を並べられるよりは好感が持てる。
 きっと彼女の正直すぎる言葉で傷付けられてきた者もいただろう。帷にはあまり周りと上手くやろうという気がないのかもしれない――と思考しながら手際良く後片付けを済ませる幽助の横で、当の帷は目をぱちぱちと瞬かせた。
「なんだか随分手慣れていますね」
「片付けなんざ家で散々やってるしな」
 幽助は当然のように言ったが、今時、この年頃の少年が家事に慣れているというのは帷には珍しく感じた。と言っても帷は昨今の人間の家庭事情など有坂の家のことしか知らなかったが、少なくともあの家は手伝いを何人も雇っていて、子供が炊事場に立ち入ることはなかった。
「もしかしてご飯も自分で作れるんですか?」
「簡単なもんならな。オフクロがやんねーなら自分でやるしかねーだろ」
 帷の問に幽助は自身の母親を思い浮かべているのか苦笑いをすると「うちは母ひとり子ひとりだからよ」と続けた。母親は大の酒好きで日がな一日酔っ払っている。料理をしないわけではないが、好んで作るのはだいたい酒のあてらしい。
「文句があるならテメェで何とかしろって家なんだよ。ホーニン主義ってやつ?」
 言い慣れない単語に首を傾げながらそう語った幽助は、帷から見ても精神的に自立しているように感じられた。
「じゃあ、あなたは自分のことは何でも一人でやってきたんですね」
「まー、そうかもな」
 幽助が肯定すると帷は感心した様子で言葉を紡いだ。
「それは、すごいですね。大変なことですね」
「そ、そーかぁ?」
 帷が素直な反応を見せたことで幽助はなんとも照れくさい気分になった。周囲から何かと説教をされ、手放しで褒められたことなどない彼にとって帷の反応は新鮮なものだった。
 帷の言葉は全て本心である。この土地へ移る前の彼女は箸より重いものを持ったことがなく、視線一つ送るだけで欲しい物が何もかも揃うような日々を過ごしていたため、生まれて十数年程度の幽助の生き方が余計に立派に思えた。
 あなたって偉いんですねぇ、としみじみ呟く帷に、幽助はそこまで褒められることかと疑問に思いつつも心の中で「こいつは悪い奴じゃねぇ……!」と確信した。

 幽助の手伝いもあり、片付けはあっという間に終わった。幻海の様子を窺うとテレビに集中している。
 まだ終わらないみたい、と帷が言えば幽助は「どうすっかな」と軽く伸びをした。
「じゃあ、だるまさんが転んだでもしますか」
「サシで?」
 他に選択肢はなかったのだろうか。
 色んなツッコミが頭の中を駆け巡った後、とりあえず幽助は「いきなりサシでするもんじゃねーだろ」と言って、今にも外へ飛び出しかねない帷を止めた。遊び足りなくて体力が有り余ってる小学生かこいつはと思った。制止された帷は残念そうな声を出した後、暫し考える。
「じゃあ缶蹴りしますか」
「サシで?」
 他に選択肢はなかったのだろうか。全く同じやり取りをしながら、幽助がこいつのサシで出来る遊びの基準緩すぎるだろ、と思っていると玄関の呼び鈴が鳴った。先に反応したのは帷だった。
「人が来た」
「なんだあ?」
 それはどこの家庭の玄関でも聴ける特段珍しくもなんともないブザー音だったが、この寺へ来てから初めてのことに幽助は少し驚いていた。そんな彼に、帷は「出てくるので、休んでて下さい」と言い残して玄関へ向かう。
 突然の来訪者は宅配便の配達員であった。届いたのは帷宛の荷物で、伝票に書かれた『有坂寧子』という名前を見て、帷は「寧子からだ」と嬉しそうに呟いた。


***

「おいおい!うまそーなニオイがすると思ったら餃子かよ」
 その夜、修業を終えた幽助は腹の音を盛大に響かせながら茶の間に飛び込んだ。次いで、顔を見せた幻海が「おやまあ、どうしたんだい」と言いながら食卓につく。
「朝、宅配便で寧子から冷凍の餃子が届いたんです」
「誰だよやすこ」
 馴染みのない名前に幽助が口を挟むと「私の友達です」と返ってくる。その時、幽助の頭に最初に浮かんだのは帷が腕時計を奪った友達だったが、名前からして寧子は女と思われるため別人だろう。つまり帷には幻海を含めて現時点で三人も友達がいるわけだ。自分より多いかもしれない、と幽助は若干負けた気になった。
「……いいから、早く食おーぜ!冷めちまう」
「一応言っておきますけど、幽助の分の餃子はありませんよ」
「いじめ?」
 残酷すぎる宣言に幽助は一瞬聞き間違いかと耳を疑ったが、もう一度よく食卓を確認してみると確かに餃子が乗った皿は二皿のみ、それも幻海と帷の席の前にしか置いていなかった。
「寧子は私と幻海ちゃんの分だけくれたんですよ。ほら手紙」
 そう言って帷が渡してきた手紙の字は、達筆すぎて幽助には殆ど読めなかった。飾り気の無いシンプルな便箋に綴られた文字の中で、お変わりございませんか、という部分だけが辛うじて読み取れる。それだけで幽助は堅苦しい文章を書く女だと思った。
「ということで、幽助は香りを楽しんでください」
「あんたも優しくなったね」
「悪魔かよ」
 帷に分け与えるという考えはないらしい。こいつやっぱり悪い奴だ、と幽助は悔し涙を流した。
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