翌日の昼過ぎ、幽助が外へ出ようと廊下を進むと玄関の方から帷の明るい声が聞こえてきた。誰かと話をしているようだったが、帷の声しか聞こえない。幻海はまだ中でテレビを観ているし、来客の知らせはなかったはずだ。
じゃあ独り言か――そう結論付けた幽助は特に気にせず歩を進めた。ゴミ捨て場で拾ったものを平気で愛用する奴だ。独り言くらい呟くだろう。幽助は帷の言動にあまり驚かなくなっていた。
「はい、はい。じゃあ、また」
そう言って少ししてから、カチャン、と受話器を置いた帷の姿を目にして、ようやく幽助は電話をかけていたのかと納得した。玄関のすぐ側に置いてある黒電話の前で遭遇した帷は、幽助の顔を見ると「お出かけですか?」と聞いてきた。
「ばーさんがテレビ観終わるまで暇だし自主トレでもするわ。お前こそ電話なんて珍しいじゃねーか」
「寧子と話していたんです。餃子を頂いたのでそのお礼を」
「ああ、オレが貰えなかったやつな」
幽助が冗談めかして言う。本当に一つも貰えなかった。
「ええ、だから寧子に言っておきましたよ。次に何かくれる時は幽助の分もお願いします、って」
「マジか」
「マジです」
にこりと微笑まれて、幽助は昨晩恨みがましく思った自分を恥じた。こいつすげえ良いやつじゃん。帷への評価はまたもひっくり返る。
「まあ、その頃あなたはいないかもしれませんけどね。あなた中々筋が良いですから、もう少しで修業も終わるんじゃないですか」
「本当かよ?んな事ばーさん言ってなかったぞ」
「そりゃあわざわざ言わないですよ」
帷は小さく肩を竦めた。
「それより、時間があるならお母さんに電話の一つでもしたらどうですか?初日に掛けてそれっきりでしょう」
「あ?そーいやそうだな」
記憶を辿ってみると確かに此処へ来た初日に「今日から暫く山ごもりするけど心配すんなよ!」と報告して以来、幽助が電話の前に立つことはなかったし、そもそも家に連絡を入れようなどと思いつきもしなかった。
「家を離れてこんなところに居るんだから、声くらい聞かせないと。お母さん、心配しますよ」
「お前時々まともなこと言うよな」
「私はいつでもまともですよ」
何故そんなことを言うんだ、と不思議そうな顔を見せつつ帷は「ごゆっくりどうぞ」と言いながらその場を離れた。
帷の予想通り修業は順調に進み、幽助はものの半月で奥義を体得することができた。彼が山に遊びに来ただけの旅行客ならそれなりに長い滞在期間だったが、修業と思うと随分短い。
幻海から修業は全て終わったと告げられた幽助が最初に発した言葉は「これでやっと帰れる」であったという。
幽助は激しい修業ですっかりボロボロになった衣服を纏ったまま、その日のうちに少ない荷物を纏め始めた。帷が慌てて餞別の品(庭に落ちていた良い感じの石)を渡しに行くと「いらねーよ」と苦笑した後「なんか書くもんあるか?」と尋ねてきたので、近場にあったペンとメモ帳を渡す。
幽助は受け取ったメモにペンで何かを短く書き記すとまたすぐ返して言った。
「これウチの住所。また山を下りる時があったら遊びに来いよ」
言われた帷は何度か目を瞬かせる。
「オメーにゃ世話になったからな。来てくれたらそれなりにもてなすぜ」
帷はその言葉を素直に嬉しく思った。
荷物を纏め終えた幽助は、幻海と帷へ手短に別れを告げると早速山道を下っていった。
行きは面倒で仕方がなかったが、いざ帰路に着くと少しだけ寂しい気持ちもある。総門が見えなくなる前に一度だけ振り向いたが、幻海はもちろん帷の姿も気配もなかった。まあ、あいつらは見送りとかしねーわな、と短い付き合いですっかり二人の性格を把握した幽助は、むしろ期待を裏切らない彼女達の様子に安心した。あの二人は今頃テレビを見ながら茶でも飲んでいるだろう。気にせず山道を下り続ける。
すると半分も進まない辺りで、前から幻海とそう変わらない年頃の老婆と自分よりやや年上くらいの少年が連れ立って歩いてくることに気が付いた。老婆と少年という組み合わせに“祖母と孫”という関係性がパッと浮かんだ。仲良さげに声を掛け合っている。柔和な雰囲気の二人だった。こちらに気がつくと揃って「こんにちは」と軽く頭を下げたので幽助も「ちわっす」と挨拶を返す。
二人はそのまま幽助が来た道を登っていった。どうやら寺へ向かっているようだ。幻海の元には時々霊絡みの相談者が来るというので、あの二人もそうだろう。幽助は特に気に留めず足を動かした。
「帰っちゃいましたね、幽助」
幽助が半月振りに山を下りていくのを玄関から見送った帷は、ついでに掃き掃除をしてから居間に戻るとつまらなそうに呟いた。テレビを見ていた幻海が振り返らずに言う。
「あんた居てほしかったのかい」
「別に。楽しくて良い人だから居てもいいかなとは思いました、けど……」
幻海は黙って言葉を待ったが、その先は出てこなかった。帷は手慰みに卓袱台の上のみかんを一つ手に取る。
「ねえ、犬とか飼いませんか?」
「いらないよ」
またも振り返らずに幻海は言った。帷は言ってみただけなので何とも思わなかった。暫く両手でみかんを揉んでみたり、お手玉のように軽く投げたりしていたが、皮を剥いて食べ始めたところで玄関の呼び鈴が鳴った。
「誰か来た」
帷は立ち上がるとみかんを摘みながら「はいはい」と玄関へ向かった。
***
幽助が山を下りてから数日が経った。すっかり選考会が始まる前の元の生活に戻っていた帷と幻海が、普段の会話の中で幽助の名を出すことはなかった。去る者は追わずの二人にとって、寺を出た者のその後など気にする必要はないからだ。
帷は彼から貰った住所をきちんと保管していたが、わざわざ遊びに行こうとは思わなかった。幽助のことは好きだが、正直に言って心には残っていなかった。これまで数え切れない程の人間や妖怪と関わってきた彼女にとって、幽助はそこまで印象的な存在ではなかったのだ。
きっともう彼に会うことはないだろう。そう思っていた帷は、幽助と思いがけない再会を遂げた。
用事のために皿屋敷市を訪れた帷は、暫くの間何をするでもなく烏の姿で空を自由に飛び回っていたが、住宅街で見慣れた屋根を見つけると迷うことなく下降した。よくある二階建ての一軒家だ。
「しーずるちゃん。あっそびーましょー」
慣れた様子で一階の窓ガラスを嘴でつつき、コツコツと音を立てる。家の中にいた静流がすぐに気が付き、窓の側までやってくると鍵を開いた。
「帷か。よく来たね」
この家に住む静流という少女は強い霊感の持ち主で、幼少より普通の人間とは違う体験を多くしてきた。話を聞いてほしい、と幻海の元を訪ねてきたのは小学六年生の時で、以来帷とも親しくしている。
静流に招かれ、窓から室内に入った帷は軽く旋回してから女子校の制服を纏った少女へと姿を変えた。
「ねえ見て。つるつるの石拾ったんですよ」
「ふーん、よかったね」
「静流ちゃんにあげましょうか?」
「いらないよ。こんなもん」
「またまた〜」
帷は石を片手に楽しそうに笑う。静流は軽く髪をかき上げながら「うるせーなお前」と優しく微笑んだ。間を置かず、やかんが鳴る。静流は右手でコンロのつまみを回して火を止めた。
「今お客さん来てんだ。カズの友達」
「カズ?」
「弟」
簡潔な説明だった。
「あんた選考会で会わなかった?一応惜しいところまで残ったらしいんだけど」
「静流ちゃんの弟?そんな子いました?」
全く心当たりのない帷の様子に、静流は小さく笑うと「似てないってよく言われる」とリビングにある棚の上の写真立てに視線をやる。つられて帷も目をやるとそこには今より少し幼い静流と共に見覚えのあるリーゼント頭の少年が写っていた。
「桑原くんじゃないですか」
帷は写真の中の姉弟に話し掛けるかのように呟いた。
「静流ちゃんの名字って桑原だったんですか?」
「そーだよ。最初に言ったはずだけど、あんたって本当にすぐ忘れるね」
そんな雑談をしながら静流は手際良く三人分のコーヒーと茶菓子を用意し終えるとトレイに乗せて弟の部屋へと向かった。帷も後に続く。
部屋に入る直前、ドアが開いて中から桑原が出てきたと思ったら彼は姉の顔を見るなり「金貸してくれ!」と叫んだ。
桑原は捲し立てるように断片的な情報と行き先を告げると、借りた旅費を握り締め、静流の後ろにいた帷には気が付かないまま家を飛び出していった。
「なんだありゃ。あのバカ行っちゃったけど、ゆっくりしてってよ」
静流は部屋に取り残された“桑原の友達”である男女二人に声をかける。彼らは静流の後から入ってきた帷を見ると「あ」と声を揃えたので、帷は彼らに向かってにこりと微笑むと制服のポケットに手を突っ込んだ。
「ご無沙汰してます。早速ですけど見てください、これ。つるつるの石ですよ」
「開口一番それかテメェは」
桑原の友達こと幽助が言った。
静流からコーヒーを受け取ったぼたんが「良い石見つけたね」と笑うと帷は「宝物にしようと思います」と言いながらその隣に腰を下ろした。
「可愛らしい子ですね」
帷がテレビの画面を見ながらそう呟いたのは役目を終えた静流が階下へ戻った後だった。画面には和装の少女が映っている。表情は暗い。その映像が懐かしいコエンマの姿に切り替わると「娘の名は雪菜。飛影の妹だ」と少女の身元を明かす。
コエンマの「では、任せたぞ」という一言で映像は途切れる。状況と内容から察するに、どうやら霊界探偵への指令のようだ。助手のぼたんが「そーだ!」と思いついたように手を叩いた。
「帷ちゃん。良かったら一緒に来てくれない?」
「お断りします」
即答だった。ぼたんがその場でひっくり返ると大袈裟なリアクションに幽助が「若手芸人かよ」と静かに突っ込む。
「よく分からないですけど嫌です。私が行ったところで何ができるんでしょう?」
「で、でもさ〜、この樽金ってやつは間違いなく人間だから、帷ちゃんが来てくれたら大分楽にコトが進みそうなんだけどね」
言いながらぼたんは映像を巻き戻す。如何にも極悪人といった風貌の男が映った。この男が“間違いなく人間”の樽金らしい。
「帷ちゃんってほら、アレじゃないか」
「アレ?」
「アレ?」
帷と幽助が声を揃えて首を傾げる。
「ほら、人をさ……」
「ああ……」
ぼたんが何を言いたいのか理解した帷は、少し間をあけてから首を横に振った。
「無理ですよ。この手のやつは大体妖怪の用心棒を雇ってますから。相手に妖怪がいるなら無理です」
画面に映っている樽金を見て言う。帷は心の中で(こいつ性格悪そ〜)と自分のことは棚に上げて思った。
「なんか全然わかんねーんだけど、どういうことだよ?」
幽助の質問に、ぼたんはすぐに答えず帷の方を見る。帷は気にせず口を開いた。
「簡単に言うとね。私、目を見た相手を思い通りにできるんですよ」
帷は桑原のために用意されたはずのコーヒーに砂糖とミルクをたっぷり注ぎながら言った。あまりにも軽く告げられたので、幽助は一瞬冗談かと思った。
「もちろん皆ってわけではないですけど、私より妖気が弱い相手には効きます。だから人間相手なら大体効きますよ」
カップ片手に続けられたその言葉の意味を理解した幽助は冷や汗をかいた。もしかしてコイツ、めちゃくちゃやべー奴なんじゃ?などと思う。
目を見ただけで大抵の人間を意のままに操れる――言葉通りなら恐ろしい力だ。そう考えると帷が人間に友好的であることは、とんでもない奇跡のように思えた。もしも彼女が乱童や朱雀のような思想の持ち主であれば人間界はとっくに支配されている。
帷は今まで幽助が霊界探偵として退治してきた妖怪達と比較すると暢気で、野心もなく、抜けた一面のある“限りなく人間に近い”存在だったが、こうした話を聞くと急に身が竦むような得体のしれない何かのようにも見えてくる。
幽助は恐る恐る帷の目を見た。先程までは、さして意識もしていなかったが、確かに彼女の目は願いを叶えてくれそうな、神秘的な何かを感じさせるものだった。
「それに私、このあと用事があるので何方にしろお付き合いできません」
話を元に戻した帷は手元にあったコーヒーを飲むかと思いきや、口を付けずにぼたんに譲った。ぼたんはちょっと困った顔をしながら「お腹たっぷたぷ」と呟いてコーヒーのカップを受け取った。
「なんだ?ゴミ漁りか?」
「いいえ。今日は歯医者さんの日なんです」
右頬に手を添えながら、帷は憂鬱そうにため息をついた。予想外の返答に戸惑ったのは幽助だけだった。
「妖怪が歯医者……?」
「妖怪だって虫歯になります」
「お前ちゃんと保険入ってんのか?そもそも身分証明とかできねーだろ」
「そんなものはお金とツテさえあればどうとでもなります」
そう言い切った帷は、制服のポケットから『有坂帷』という名が記載された保険証と診察券を取り出すと自慢気に掲げてみせた。妖怪はこうやって現代社会に紛れているのかと幽助は少々感心した。