首と手のひらリボン

 私という存在を一言で表すなら、それは至って「普通」という言葉が合うだろう。都内にある小さな一軒家で、両親にたっぷり愛情を注がれながら、私はすくすくと育った。学校も勉強も友達関係だって、特筆することも無いほど平凡と過ごしてきたし、私の将来はきっと「安定」で塗り固められた面白みのないものになるんだろうな、と頭に浮かんでしまう。
 そんなことを考えながら、私は自室の窓から眺めていた青空から目を反らし、ふぅとひとつ息をついた。気持ちのいいくらい、今日はいい天気だ。日曜日だというのに、何も予定がない。退屈だった。何もしていない現状の自分にどことなく胸がざわつくような感覚がして、私はそれを紛らわすかのようにベッドに正面からダイブした。そのまま枕元に無造作に置いてあったパンフレットを手にしてなんとなく眺めてみる。それは春から通う高校の入学パンフレットだ。表紙面には、洒落た文字で「私立夢ノ咲学院」と書かれている。都内でもかなり有名な私立校だ。
 この学校は芸術方面にかなり特化した特殊な学院で、なかでも一際目立つのはなんといってもアイドル科だろう。まあ、数ある学科のなかで私が通うのはそんな特殊なものではない、「普通科」だ。こんな凄い学院に通うというのに、こんなところにきてまで「普通」だと流石に失笑が漏れる。私はどこまでも、何もないなと実感した。将来の夢もない、私は普通な自分に退屈だった。夢ノ咲学院で、何か夢中になれるようなものを見つけられればとは思っているけど、果たしてどうなるのかな。
 先のことで思考をぐるぐる巡らせていると、コンコン、と控えめなノックが聞こえてきた。私は自分の母だろうと判断し、お母さん?とだらしなく寝っ転がったまま答えた。返事に答えるように開かれた扉の先にいた人物は母ではなかった。私は目を丸くする。


「翠!?なんでうちに…」

「ちょっとなまえに相談したいことがあって寄ったんだけど…。なんでまだパジャマなの?もう昼なのに…」

「だっだって今日は、何も予定なかったし、日曜日だし…」


 翠が目の前に現れて私は一気に身体を起こし、身を隠すように自分で自分を抱きしめた。油断した、急に家に来るなんて聞いてない。恥ずかしさで顔が熱くなる。せめて一言連絡してくれる?とだけ伝えると、翠はくりっとした大きな瞳を伏せがちにして、だるそうにめんどくさいなぁと小さくぼやいた。そんな表情すらも絵になるくらい、彼は美形だから憎たらしい。ああ、なんで何にも身支度が整ってないだらしない姿で日曜日を弄んでいた時に、突拍子もなく訪ねてくるんだろう。いくらなんでも勝手が良すぎるぞ。でも、そうなるのも無理はないのかもしれない。
 この少年、高峯翠と私は小学校からの幼馴染で、親同士もかなり仲がいいから、こんな風にお互いの家を行き来するのも、昔からやってきたことだから遠慮がない。現に悪びれもなさそうに、パジャマ姿の私をみても気にも留めないような態度だ。いくら幼馴染だからといって、私は恥じらいというものを持ち合わせているのに。
 翠は私の部屋のテーブルの前にちょこんと座ると、いつも以上に鬱々とした表情で深いため息を吐いた。なんかいつもとなんとなく違う様子の翠が心配になって、翠の隣に腰掛ける。


「大丈夫?翠」

「大丈夫なわけあるかよ…ああ鬱だ…もう嫌だ、死にたい」

「もしかして相談って、アイドル科に間違って合格したこと?」


 アイドルというワードを出すと翠は益々眉間にしわを寄せて大袈裟なため息を吐いた。これは想像以上に重傷だ。元々、私と翠の進路は同じで、春から翠と一緒に夢ノ咲学院の普通科に通うはずだった。がしかし、翠の入学申請書はあろうことか全く見当違いの、しかもアイドル科を選択してしまっていたらしく、受験終了後の翠の顔面蒼白は忘れられない。加えて合格までするなんて、もはや言葉も出なかった。そもそも、なんで入学先の学科を間違えられるんだろうか…。翠は変なところで抜けている。試験会場だって、同じ普通科を試験するはずなのに、翠から聞いていた会場と、私が向かう会場が違っていたので、そこで違和感に気付くべきだったのかもしれない。どっちにしろ手遅れだけれど。
 小学校も中学校も、そして高校も翠と一緒に通えるんだってわくわくしていたのに。なんて本音は、今にも死んでしまいそうなオーラを放つ翠には到底言えそうにない。一番しんどいのは彼自身だ。私は落ち込む翠の背中を優しく撫でる。彼が言う相談内容が、4月からアイドル科に通うということなら、私には翠が納得いく解決策なんてなにも応えてあげられそうにないんだけどな。出来ることは精一杯励ましてあげることだけ。


「はあ…アイドルなんて大仰なもの、絶対絶対むり…。ねえなまえ、俺どうすればいいのかな…」

「もう、大丈夫だよ翠!翠はすごくカッコいいんだから、やる気出せば人気のアイドルになれるよ」

「なりたくてこうなったんじゃねぇのに…。なんでアイドル科…?本来なら俺はなまえと一緒に普通科に通うはずで…?あああもう今すぐ地球のどこかに逃亡したい」

「翠、なっちゃったものはどうしようもないよ。もう今更学校を変えたりなんて出来ないと思うし…。翠が頑張って適応していくしかないよ」

「頑張るなんてできない…。もうやだ、俺絶対やってけない…」


 口を開けばネガティブなことばかり。落ち着くまではずっとこの調子だろうな。どうしたものかと肩を竦めると、翠は私のほうを見ながら絶望したような顔をして、呆れられた、相談に乗ってもらいたかっただけなのに、鬱だ死にたいなどとぶつぶつ呟きだす。ああ、また更なる負のループの中に入ってしまった。ここまで鬱々とする翠もなかなか稀に見れたものじゃない。本当に本当に嫌なんだろうな、アイドル科の入学が決まったことが。しょぼくれた翠をなんとか元気にしてあげたいと思う気持ちは強いけど、今回の件はかなり複雑なので、なんて声をかけてあげればいいかわからない。ゆるキャラでも差し出せばその場しのぎで喜ぶ翠が見られるかもしれないけど。けれど、翠が落ち込んでいるように、。私は翠がアイドル科に通うと決まったことがとても嫌だった。いやもしかしたら翠以上かもしれない。
 顔面蒼白でアイドル科を受けていた、と翠から告げられた時は、息が詰まってしまうくらい心臓がどくりと嫌な音を立てたものだ。だけど、翠はこんなんだが顔は文句なしの美形だし、身長だって高くてかなりモテるタイプ。見た目だけならアイドルとしての素質は十分だ。それに、やろうと思えば意外とやれるような人だし、ようはやる気の問題。まあ、こんな嫌々言っている翠に、自分からアイドルやるっていう日が来るかはわからないが…。
 何を考えてもどうすることもできない現状なのに、急に翠が何か閃いたかのように、俯いていた顔をあげ懇願するような眼差しを向けて、私の手を包み込むように握りしめた。びっくりした、けど。翠の手大きいなとか、やっぱり何度見てもカッコいい顔してるなとか、睫毛長いな、とか、こんなことで頭がすぐいっぱいになる私もどうかしている。
 それにしても、あんなにネガティブモードだった翠の唐突の切り替えが甚だ疑問だった。一体どうしたというのだろう。


「なまえ、俺たち幼馴染だよね?」

「えっ…う、うん?なに、急に」

「俺のことすっごく心配してくれてるでしょ?ねぇお願い、放課後毎日俺の事迎えに来て」

「は、はい!?」


 予想だにしていない言葉に目が飛び出そうになる。入学してから、放課後毎回、普通科からアイドル科まで翠のこと迎えに行かなくちゃいけないの?それは


「無理だよ!」

「えっ…なんで…なまえ俺の事そんなに嫌なの…」

「そっそうじゃなくてさ、翠はこれからアイドルの卵として夢ノ咲学院アイドル科に通うことになるでしょ?アイドル科の校舎は、アイドル、アイドルの卵しかいない場所なんだから、そこの校舎まで普通科の私が行ったら、校門前で突き返されちゃうよ」

「えぇ…じゃあ校門から少し離れた場所で待っててくれたらいいよ」

「なんでそんな…」

「ねえ、だめ?」


 小首を傾げながらそんな風におねだりされると流石に揺らぎそうになる。現実的に考えて、普通科の私がアイドル科の校舎に近づくのは御法度。隠れて待ち合わせをする行為は良くないことだ。不本意でも、アイドルになる未来が待っているかもしれない翠に、私がこれまで通り介入していくことは可能なの?レッスンだけじゃなくて、もしかしたら部活だって始めるかも。それでも私は、翠を待ち続けないといけないのか?考えれば浮かび上がる問題はいくらでもある。でも、こうやって手を握られて、必死に見つめながらお願いしている翠に私はどうしても、情が揺らいでしまった。そして勢いのまま頷いてしまっていた。翠は水を得た魚のように一気に明るくなって、やった、と嬉しそうに呟いた。さっきまでの翠の様子が嘘のようだった。



「……もう、翠は私がいないと、だめなんだから」



 世話の焼ける幼馴染だ。でも私は、翠に頼られるのは喜びだと感じている。今も昔もずっと、私がいないとどうしようもないんだって、私に縋って頼るんだ。鬱だと嘆く翠の姿も、堪らなく愛しい。仕方ないなぁって言って、喜んだ顔の翠を見るのが大好きなの。私がいないとだめな翠が、大好きなの。なにも取り柄のない私の、唯一のもの。翠の存在はやっぱり大きくて。それは彼も同様に思っていることなんだって感じると、幸せな気持ちになる。


「なまえ…ありがとう。約束だからね」


 普通の私と、アイドルになる翠。春になって学校が変わっても、私と翠を繋ぐものはきっと変わらないだろうと、そう思った。
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