古のフェリクシア

#19.終焉の青


 剣がぶつかり、はじく。もう一度正面でぶつけあい、剣越しにキリウとにらみ合う。
 やはり、強い。ディオが二度敗れた相手だ。そうでなくては困る。だがもう負けられない。こんなことのために、特別な剣を授かったわけではない。目の前にいる青い男は障害だ。ディオやフィラの目的を果たすための、ただの障壁に過ぎない。ここで敗れるわけにはいかない。
 ――紋章術。
 微かに動くキリウの口に勘付き、咄嗟に後ろへ飛びのき、剣を正面に構える。キリウから火が放たれた。火は剣を避けるように拡散する。
 ――フィラに当たってなんか、ねぇよな。
 勢いよく剣を振りつつ、フィラの様子を確認する。特になんということもなさそうだ。キリウも彼女に危害を加えるつもりはないようだし、彼女も心得ているのか、二人からしっかりと距離を取っている。
 ――だったら、心置きなくキリウの野郎をぶっ潰せるな。
 そのようなことを考えている間もなく、風が奔り、キリウが接近した。のけぞるよりも、己も前に出ることを選ぶ。剣を前に押し出しつつ、唾を吐きかけた。キリウが一瞬ためらう。その瞬間を逃さず、足元に蹴りを入れる。キリウはひっかかりはしたが、すぐに態勢を立て直した。顔に付着したディオの唾を嫌そうに拭い、すぐさま次の紋章術を繰り出してきた。今度は雷。素早くナイフをキリウに向けて投げた。雷がナイフに落ちる。眩しいものが来る前に目を閉じ、紋章剣を振り上げた。剣が何かをはじく。キリウの剣だった。
 一振りごとに、音や視界が鮮明になる。研ぎ澄まされていく。生命のやりとりをしているにもかかわらず、雑念が一つずつ消えていくようだった。もしこのような出会いでなくて、もしこのような立場でなければ、キリウという男とは良き友となり得たのだろうか。そんな気さえした。
 いつまでも続くかのように思われたその闘いに、ついに転機が訪れる。不利なのはディオだった。カマイタチが防ぎきれず、顔や二の腕、太ももに無数の切り傷ができる。その際に剣を落とした。少し遠くへ滑っていく。丸腰のディオにキリウが向かう。
 まずい。どうする。薙ぎ払うように繰り出される太刀を、体勢を低くして避け、そのままの勢いで滑り込む。キリウも体勢をくずした。その側に、ナイフが落ちていた。先ほど避雷針にしたナイフだ。ナイフを拾ってもう一度キリウに向けて投げ、グロウ・サダスを拾う。その間にキリウもこちらへ向かっていた。剣を脇から突こうとしている。ディオも振り上げる形を取りキリウに向かった。これが最後だ。ここで決まる。そんな予感がした。
 貫いた。肉を裂いたのはキリウの剣だ。キリウの剣はディオの剣をはじき、ディオの分厚い肉体を貫いた。腹。だがディオも退かなかった。ためらいも、動きを止めることもしなかった。剣を貫かせたまま歯を食いしばり、剣を突き立てる。刺さる感触。キリウが身体をひねる。喉笛を狙った剣が肩に刺さった。そのままキリウを地に縫い付け、ディオが覆いかぶさるような態勢を取った。
「私の負けだ。腹を裂かれても怯まなかったのが貴様の勝因で、それを予想していなかったのが私の敗因か」
「どうだろうな」
 出血量も、傷の量も、ディオの方がずっと多い。キリウの肩などよりも、ディオの腹の方がずっと重傷だろう。力を籠め、腹に刺さった剣を抜いた。熱い。焼けるようだ。キリウの剣からディオの血が滴りおちる。
「殺すがいい。ここで殺さなければ、私は何度でもノア様を攫い、フェリクシアで地上を制する野望を持つ」
 技巧的にはそうだろう。けれどきっと、それだけではない。ディオが強さを得たのか、キリウが残酷なまでの強さを失ったのか、それは分からない。
「そうかよ」
 キリウの剣を振りかざす。この男を見下ろしたのは、これが初めてだ。ディオの出会った中で最も強い男だった。だが――。
「ディオ」
 フィラの声。振り返ることはしなかった。
 キリウから目をそらさず、剣を持ち替え、腹部に柄を打ち込む。キリウの意識が飛んだのを確認し、グロウ・サダスを肩から引き抜いた。剣を一度振り、フィラの許へ歩み寄る。
「フィラ」
 ディオが剣を差し出す。
 フィラはナイフで指を斬りつけた。赤い血が盛り上がる。それを差し出されたグロウ・サダスの紋章に塗り付ける。そして口を開いた。
「ソッティ・チャ」
 何度も聞いた言葉だ。行く先々で、何度もディオたちを送り出した言葉。暗黒時代から太陽の聖戦を経て、時代を超え、今日までずっと伝わっていたまじない。
「オーバーソー・テー」
 誰かの願いや、誰かの祈りを込めた言葉。出会った人の無事を祈る言葉。生きている人も、死んでいった人も、この言葉で未来を託した。人の願いや祈りの籠った言葉。
「ホートゥン」
 紋章剣が眩ゆく光放つ。ディオは剣を振り上げ、禁忌の紋章に向けて振り下ろした。


★☆★☆


 鳥の鳴き声が聞こえる。フィラは即席の木の墓に白い花を供えた。そこは、フェリクシアが復活する前に石碑のあったという場所だった。今となっては、アスカルの民が信仰していたような形跡がわずかに残るのみである。
 フェリクシアは再び地底に沈んだ。しかし、もう二度と地上に姿を現すことはないだろう。フェリクシアの都市機能を司る禁忌の紋章を完全に破壊した今、フェリクシアが地上に蘇る手段は完全に失われたのだから。
 ――これで先代の、セム王の無念はケリがついたのかな。
 フェリクシアの滅びを望んだセム王。このままでは駄目だと思い、フェリクシアを滅ぼそうとしたセム王の願いは、千年の時を超え、ようやく叶えられた。
 今、この墓の下には、地上に引き上げられなかったエリスが、フェリクシアの真実と共に眠っている。ノアもここへ連れてきた。心底嫌がるかもしれないけれど、彼女の眠りたい場所が分からず、ここへ葬ることにした。
「ちゃんと終わりました。フェリクシアはもう二度と、誰も苦しめません。だから、安心してください」
 歴史の流れの中で、そういう国があったと語り継がれることだろう。人々が伝承として後世に残していくだろう。フェリクシアは、永久に伝説の存在となったのだ。
「そこにいると思うのか?」
「分からない。ううん、きっと、このお墓の下にはいないんだと思う。でも、ディオ、前に言ってたよね。死んだら最初からいないのと同じだって。そういうのは違うと思うの。私が閉じられた世界から戻ってこられたのは、タルナさんが呼んでくれたからよ。タルナさんが呼び起こしてくれたから、私は女王として目覚めることができた。いなくなるんじゃないって、在ることを信じたから、こうして話せたんだって、あの時タルナさんは言ってた」
 ディオは腑に落ちない様子だった。当のフィラも、途中から何を言っているのか分からなくなってしまったので、伝わる道理がない。
「ごめんね、言葉がまとまらなくて」
「いや」
 タルナだけではない。死してなお、真実を伝えるためだけに、魂だけになってもフィラたちの前に現れたエリスのことを考えても、そのように思えるのだ。だがそれを論理的に説明することなど、どれだけ言葉を選んでもできはしないのだろう。フィラは長く息を吐いた。
「でも本当に、たくさんの人たちが死んじゃったんだよね。大変なことだったんだよね。終わったんだよね。悲しいことは、なにもかも」
 フィラは立ち上がり、ディオを振り返った。
「私、エリスさんのこと、ちゃんと知らないの。だから、エリスさんが死んでしまったこと、エリスさんのご家族とかがいたら、分からないのね」
「そうだな。だが、フェリクシアの研究者のエリスが死んだって言えば、誰かが拾うんじゃねぇか? 知識欲だけでここまで来て、死んだ男だ。誰かはあいつのことを知ってるだろう。フェリクシアに魅せられた、エリスって男のことを」
 そうであればいい。彼の死を伝えるのは、旅人でも、風でも、渡り鳥でも、何でもいいのだ。
「そうね。そうよね」
 風が白い花弁と、銀の髪を揺らす。木々が囁く。そう、彼がいなければ終わらせることはできなかった。フェリクシアを永久に滅ぼすこともかなわなかった。巡り逢わせとでも言うべきだろう。
 たくさんの想いや願いを受け、フェリクシアという国は本当の意味で終焉を迎えたのだと、フィラはようやく思い至った。


 何日かかけて集落に戻ると、メリアがフィラを走って迎えた。
「フィラ! 良かった……。無事? 怪我はない? もう会えないと思ってたよ……」
「ごめんなさい、メリアさん」
「謝ったって仕方がないだろう、自分の身体はもっと労りなさい。痛かったでしょう」
 メリアはフィラを抱きしめた。だがその後ろに、あってはならないものを認めたらしく、すぐにフィラを離す。
「ちょっと、どういうこと? なぜあの男が、ここにいるの?」
 メリアは敵意をむき出しにして、ナイフの切っ先を〈男〉に向けた。その男を背負ったディオを振り返る。意識は戻っていたようだが、身動き一つ取らなかった。その目にはもはや生気も認められない。ただ呼吸をしているだけの、青い男だ。その男が、ここにきてようやく口を利いた。
「ほら、やっぱりこうなったではありませんか。なぜ私をここへ連れてきたのですか? 彼らに殺させるためですか?」
 久しぶりに聞いたその声に、穏やかさも力づよさも、何ひとつ感じられなかった。
「メリアさん、ごめんなさい。私がディオにお願いしたんです。ここへ連れて来たら、どんな目を向けられるかも知っていて連れてきました。もう、戦う力は持っていません。ですから、少しだけでいいから、何も聞かずにここに置かせてください。村の人たちに危害は加えません。もしそんなことになったら、私が代わりに罰を受けます。だから……」
「そんなこと言ったって」
 メリアが下唇を噛む。
「そんなこと言ったって、その男が何をしたか、忘れろって言われたって忘れられないよ。ひどいことをしたんだよ。人間じゃないみたいな、ものすごくひどいことを。ディオだって敵わないくらい強かった。一番強くて、一番残酷で、どうしようもない男じゃないか! タルナはそいつに殺されたんだよ!? それに、姿が見当たらないけど、エリスはどうしたの。あいつだって、その男に殺されたんじゃないの?」
 切っ先を向けたまま喚くメリアを気にしてか、村の人たちがぞろぞろと集まってきた。そしてそれぞれに、青い姿を見て顔色を変えた。だが誰も、彼を手にかけようとはしない。様子をうかがっているのだろう。
「エリス? フェリクシアの研究者のことなら、私がこの手で殺した」
「ほら! それでもこの男を生かすと言うの!? これ以上誰も殺さないって言える? 誰もフィラに罪をかぶって欲しいなんて思ってないんだよ。そんなこと望んでいないの」
「でも、この人を殺すことは、私が望むことではありません。私だって、この人のしたことを忘れることはできません。何があっても、忘れるわけにはいきません。でも私は、この人の死を望んでいません。分かってはもらえないと思いますが、お願いします。少しの間だけ、ここに置かせてください」
 深く頭を下げた。このような申し出、誰も納得しないだろう。ただディオだけは、文句も言わず、自然とキリウをここまで運んでくれた。フィラはキリウを生かせとも殺せとも言ったことがない。だからこれが答えなのだ。フィラとディオにとっての、フェリクシアへの答えなのだ。

 キリウは村の外れに連れて行き、薬湯を呑ませた。特に拒絶する素振りも見せなかった。だが口を開けば、死ぬことしか言わない。
「今なら私を簡単に殺すことができるのに」
 この期に及んで、なぜそんなことばかり言うのだろう。生きる理由をなくすということは、こんなにも人を変えてしまうのだろうか。それが強烈であるほどに。キリウはフィラを見上げた。
「フェリクシアが滅びた今となっては、もうなんの力もありません。なのになぜ、殺させなかったのですか? 従者も随分と甘いことをしたものですね。あの時止めを刺していれば、厄介なことにならずに済んだ」
 キリウという存在は、本当に〈青き守護者〉によって支えられていたのだろう。強くて残酷だった青い男とは別人にすら見える。
「死にたいのですか? あなたは……」
「どうでしょう。目的を果たすこともできず、これからもう二度とそんな日は来ない。私に、生きる理由は――」
 キリウはかぶりを振った。
「ノア様、あなたには私を殺すだけの理由がある。憎んでおいででしょう? そのためにここへ連れてきたのでしょう? あの時、逸るアスカルの戦士どもに私を殺させればよかったのだ。そうすれば、あなたの無念は晴らすことができたし、私もこれ以上無駄に生きるということもなかったのです」
 理由があれば殺せるのだろうか、この男を。それがフィラを突き動かすだけの力を持つのだろうか。フィラは少しの思案の後、ゆっくりと口を開いた。
「私は……私には、憎しみはありません。あなたに対して恐怖は抱いても、憎しみを抱いたことはありませんでした。でも今は、その恐怖すらありません。だから、あなたを殺すなんてことはしません。でももし、あなたが罪滅ぼしのつもりでそんなことを言っているのなら――」
 様々なことを思う。彼によって始まったこの旅は、つらく苦しいものだった。大好きな人たちの死を乗り越え、フェリクシアを滅ぼした。そうさせたのは全て、目の前にいる青い男だ。フィラへの仕打ちも忘れはしない。きっとずっと忘れられない、けれど――。
「生きていてください、私のために」
 フィラは敢えてこの言葉を選んだ。
「あなたのことを、多くの人が憎むでしょう。あなたに石を投げるかもしれません。でも、天寿を全うするその日まで、私のために生きてください。これが古に滅びた国の女王の、最後の命令です」
 そのためにここへ連れてきた。殺すためなどではない。そのためであれば、ディオを呼び止めはしなかったし、キリウの言う通り、メリアに殺させていた。だが今まで生きていたのはキリウではなかった。キリウの中にいて、女王ノアの幻想と共に存在した、古の産物。キリウの願いが同調してしまったというだけのことである。
 死を願わなかったわけではない。だが憎んでいないのもまた事実なのだ。
「ふっ、残酷な女王陛下だ。しかし、それが命令ならば、遂行するしかありませんね」
「キリウ、あなたの行く先に、良い風が吹きますように……」
「ありがとう、フィラ」
 キリウが微笑んだ。とても穏やかだった。
 キリウと出会った時のことを思い出す。穏やかな青年だと思った。それはフィラに警戒されないための穏やかさだった。ずっと何を考えているのか想像もつかなかった。それは今でも変わらない。だがもう二度と、自分と彼とが接点を持つことはないのだと、おぼろげに感じた。


 キリウと別れ、ディオと共に集落に戻る。ディオの持っていたグロウ・サダスは、長老に返した。
「様々なことが、繋がっていましたね」
 目を閉じたまま、長老は言った。縁とは不思議なものだ。様々な縁がなければ、フィラがここに来ることはなかったのだから。長老は、家の修理が大変だと笑っていた。
 壊れた長老の家から出ると、メリアが二人を待っていた。フィラに声をかけるでもなく、その顔に何も表情を浮かべずに、そこに立っていた。
 メリアは、フィラにとってお姉さんのような存在だった。幼いころに父親が他界し、母と二人だけで生きてきたフィラに、兄弟はいない。歳の近いユーリと遊んで、村の大人たちから見守られて、淋しい思いをすることはなかったけれど、もし姉がいるのであれば、メリアのような人がいいと思ったこともあった。けれど、彼女とはここでお別れだ。フィラはメリアの右手を両手で握った。
「メリアさん、今までありがとう」
「いいんだよ。あなたも、よくここまで頑張ったね」
 そこでメリアが微笑んでくれた。この微笑みが好きだ。
「いえ……」
 メリアはこれから、またあの長い道のりを経て、フォリアに戻るのだろう。勉強の途中なのに付いてきてくれたし、それにデルとバンが、彼女の帰りを待っている。心配しているかもしれない。
「デルさんとバンさんによろしく言っておいてください」
「わかった、伝えておく。あなたも気が向いたら、勉強しにおいでよ。フォリアにさ」
 皆で歓迎するからと、メリアはフィラの肩を叩いた。

 去りゆくメリアの背中を見送ってから、フィラはディオを振り返った。彼ともここでお別れだ。
「ディオ、今日までありがとう。お母さんとシオさんからの依頼は、これで終わりね」
 そう、フェリクシアが本当に滅びた今、フィラが身を隠す必要はない。フィラがここにいたいと言えば、アスカルの民は受け入れるだろう。滅びたとはいえ、フェリクシアの正当な王位継承者なのだから。キリウが戦う意思を失ったことで誰も女王ノアを欲しがる者はいなくなり、身の安全は保障されたのだ。
「私は私の道を生きていかなければならない。その道が何なのかは分からないけれど……前を向いて生きていくわ。それが皆の願いだから」
 その場所がどこかは分からないけれど、ここから始まってもいいと、フィラは思った。本当はディオともう少し一緒にいたかったけれど、彼にとってお荷物でしかない存在だったのだ、彼にはこれから、思うように生きてほしいと思う。
「そうか」
「ディオはこの後、どうするの?」
 ディオは空を仰いだ。フィラも彼に倣い空を見上げる。木々のさざめきの向こうに、雲一つない青い空が広がる。
「地元に帰る。帰ったところで居場所なんかないかもしれねぇけど、親父やお袋がしようとしたこと、したかったことは、しっかり引き継がねぇとな。もう二十年も経っちまったから、俺のことなんか忘れられてるだろうし、これからが大変だな」
「また遠い旅になるのね」
「そうだな。だが今回はしっかりとした目的がある。気長にやるさ。なあ、フィラ。もしもお前が、これから先まだ何をするのか決めていないのなら、俺と来ねぇか?」
 ディオの黄土色の目は穏やかだった。おっかない人相が気にならないくらい、穏やかなものだった。
「一緒にいても、いいの?」
「そのつもりで聞いたんだよ。俺がこれからやろうとしてること、お前ならすげぇ力になると思う。もちろん、何の見返りもなしにって訳じゃねぇ。金と食い扶持の心配は絶対にさせねぇ。どうだ、悪い話じゃないだろ?」
 ディオが口角を吊り上げる。それに応えるように、フィラも微笑んだ。
「そんな見返りなんかなくたって、ディオが来いって言うのなら、どこへでも行くわ」
「ありがとう」
 ディオの差し出した力強い大きな手を、フィラはそっと握った。


【古のフェリクシア 完】



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