密林の記者

#05.悲しい願い


 ヨダンと結婚して、セックスして、妊娠した。セックスは割とどこでも基本は同じなのだなぁと、ヨダンとの初夜でパトリシアはそんなことを考えながらヨダンの下で喘いでいた。この集落のやりかたというものはあるようで、情事前に何やら年長の祈祷師がやってきて、良く分からない呪文のようなものをひとしきり呟いて去っていったおかげで、最初こそはきまずかったものの、悪くはなかった。日を追うごとに大きくなっていくお腹を、ハッティナを始め集落の人たちに拝まれるのにも慣れた。
「子どもはね、精霊様から授かるものなの。母体から生まれることなく死んでしまう子も珍しくはないから、母子ともに無事でありますように、そして新たな生命が生まれ、繁栄しますように――そんな願いを込めて、皆妊婦を拝むのよ」
 ハッティナがそのように教えてくれた。そこまで理解するのに長時間ハッティナを拘束したが、ハッティナは何でも知っているし、優しく気長に教えてくれるので、パトリシアは分からないことがあるといつでもハッティナに尋ねた。懐妊してからは、なおさらハッティナと言葉を交わすことが増えた。
「母親になるって、不思議な気分ね。私がこれから、この子を育てていくのよね」
 ある日、そんな不安を口にすると、ハッティナが優しい笑顔で答えた。
「私たち皆で育てるのよ。子どもは村の宝だわ」
 ここでは、子どもはとても大切に大切に育てるのだ。パトリシアは自分が妊娠してから、ようやくそれを知った。なかなか大人になれないから、生まれるだけでも奇跡のようなことなのだろう。そんな奇跡のような出来事の中で、お腹の子は特に何事もなく、ごくごく順調に育っていった。
 そうして半年が過ぎたある日、パトリシアを激しい腹痛が襲った。これが陣痛というものか。息は荒くなるし、脂汗も出ている。パトリシアの様子を察して、ハッティナがてきぱきとあれこれ指示を出し、パトリシアをベッドのようなところに寝かせた。流石、先輩は違う。
「パティ、思い切り息を吸って、吸って……吐いて」
「痛い痛い痛い痛い!」
 痛い。痛くてたまらない。死んでしまいそうだ。涙が出そうだなんて表現は生ぬるい。股が裂けるようだ。金切声を上げながらも、パトリシアはハッティナが何やら呪文らしきものを唱えるのを聞き逃さなかった。すかさず「やめて!」と叫んだ。
「嫌よ、そんなヤバンなことをされながら産むなんて、ごめんだわ!」
 そんなパトリシアに、ハッティナは初めて怒りに満ちた表情を向けた。
「パティ。『ヤバン』っていうのがどういう意味なのかも、あなたがどういう気持ちで『ヤバン』と言っているのかも分からないけど、このままでは母子ともに死ぬわよ。それでもいいの!?」
「だって、そんなこと言ったって、そんなことされるくらいなら、死んだ方がマシだものっ!」
「パティ……。お願いよ、そんなことを言わないで。死んだ方がいいだなんて言われたら、ヨダンに合わせる顔がないわ。私は少しでも、あなたの苦しみを取り除きたいのよ」
 ハッティナの力強い腕と、柔らかく豊かな胸に包まれ、パトリシアはなんだか申し訳ない気持ちになった。
「ハッティナ。子どもは、ちゃんと産むわ。私も死んだりなんかしない。だからそんな顔をしないで。私だって、ヨダンやハッティナを苦しめるつもりなんかないのよ。でも、分かって。あなたたちのつかう術を私は知らなかったし、知らないものはとても怖いわ。だから……」
「分かったわ。でもこれだけは知っておいて。術者も、私たちも、あなたの身体と、あなたの子どものことをとても心配している。あなたたちの無事を願っているのだと」
 それは今だけではなく、パトリシアが懐妊した時からずっと、たくさん、めいっぱい伝わってきたから知っている。パトリシアは、知っていることに対して目を瞑るなどできなかった。
「私は何も見ない。何も聞かない。喋らない。だからその間にお願いね」
「パティ」
 本当はどうしようもないくらいに嫌悪感があるけれど、子どものためにはそうも言っていられない。それに、パトリシアはハッティナのことが好きなのだ。これ以上悲しそうに怒るハッティナを見るのは、もっと嫌だった。
 そうして何かが自分の中から出てきた。元気のいい泣き声が耳に飛び込む。
「生まれたわ、パティ、男の子よ」
「おお……」
 パトリシアは生まれて間もない、小さな赤ん坊を抱いた。
「あ……」
 まだ目が開いてなくて、頼りない姿――この子をこれから大きくしていくのだ。何も見えない、言葉も喋れない赤ん坊を見ていると、この子がいずれハッティナやパトリシアのように喋るのが不思議でならなかった。
「かわいい」
「ええ」
「この親子に精霊様の祝福を授けん」
「ありがとう」
 母子ともに助かったのは、まじないのおかげなのかもしれない。パトリシアは今まで散々野蛮と罵ってきたことを今になって恥じた。
 綺麗に洗った赤ん坊を抱いて、パトリシアはヨダンと面会した。
「かわいいわね」
 本当に、母親になったのだ。子どもに人差し指を握られながら、ヨダンはやさしい目をして言った。
「この子は立派な戦士になるぞ。母さんを守るんだ。俺と一緒にな」
「ヨダンのような強い戦士に鍛えられるんだもの、この子も強くなるわね」
「楽しみだな、この子の見る世界が」
 幸せそうなヨダンと、小さな生命を見ていると、パトリシアも幸せな気持ちになった。

 しかし、そんな幸福で平穏な日は長くは続かなかった。
 赤ん坊が活発に行動し始めた頃、子育てで目まぐるしいのとは違った慌ただしさを集落内に覚えた。パトリシアには、村の男たちが武装しているように見える。ヨダンも例外ではない。
「ヨダン、どうしたの?」
「侵入者だ。我々に攻撃する意思があると見える」
「えっ」
 侵入者――その言葉に違和感を抱いた。ミアリー大陸にはこの集落以外にもいくつかの集落があるのだろうか。広い大陸だ、何の不思議もない。だが、もしかすると大陸の外からの来客の可能性もある。
 パトリシアには悪い予感しかしなかった。だがそれは、パトリシアが戦いなど経験したことがないから、そのような不安を覚えるだけなのだと思っていた。
 程なくして集落へと戻ってきた戦士たちは、半数以上が大きな怪我をしていた。辛うじて死者は出ていないようである。それもどうにか、術者たちのまじないによって取り持っているといった風に見える。その日のうちに戻ってきた辺り、「敵」はすぐそこまで来ているようだ。
「くそ、奴ら強すぎる!」
「刃物が刺さらない! これじゃあどうしようもないぞ……」
 ただ事ではない。きっととても大きな事件が起きている。そしてパトリシアもその事件に巻き込まれつつあるのだ。その事実に、そして「刃物が刺さらない」という言葉に、パトリシアのジャーナリストの血が久方ぶりに騒いだ。
「ねぇ、どういうこと? 詳しく聞かせて」
 もしかしたら、集落の外からやってきたパトリシアが力になれるかもしれない。
「だから、硬い服を着た人たちが大勢やってきたんだ。武器を引っさげて」
「硬い服?」
「そう。太陽の光を跳ね返す、とても硬い服だ」
 太陽の光を跳ね返す、とても硬い服――記憶の糸を手繰り寄せると、思い当たるものがあった。
 ――もしかして、鉄のことを言っているのかしら。だとしたら、ここに来ているのは……。
「どれくらいの数がいた?」
「たくさんだ。この集落の人を全員集めたよりも、もっといたさ!」
 集落の人口は三十人にも満たない。ここでの生命維持には妥当な人数と思われる。それよりももっと――相手の数は、パトリシアには想像がつかなかった。
「そう。ありがとう」
 パトリシアが肌にひしひしと感じていた悪い予感とは、このことなのだろうか。
 パトリシアはいてもたってもいられなくなり、集落を飛び出した。集落を出てはいけないと注意されてはいたが、今はそのようなことを言っている場合ではない。それにもしパトリシアの想像が正しければ、パトリシアの言葉が通じるかもしれない。言葉さえ分かれば、話し合えるかもしれない。最悪の事態を避けられるかもしれない――本当に小さな小さな希望ではあるが、今のパトリシアにはそれに賭けるより他なかった。

 草をかき分けて「彼ら」のいる場所を目指していると、男たちの声が聞こえた。しかも、断片的にパトリシアにも理解できそうだ。パトリシアは聞き耳を立てた。
「あれから奴ら、来る気配がありませんね」
「油断するなよ。辺境に住む蛮族だ、何をするか分からんぞ」
「はっ、申し訳ありません」
 彼らはパトリシアの知っている場所から来ている。予感は確信に変わった。
 その時、兵の一人がパトリシアに気付いた。
「何者だ!」
 槍の先を向けられ、パトリシアは咄嗟に両手を挙げ、動きを止めた。いや、動けなくなったと表現した方が正しいだろう。今こそ何か言わなければならないのに、言葉が出てこない。冷や汗がこめかみから顎へと伝う。唾を呑み込むのが精いっぱいである。
「何者だと言っている!」
 パトリシアは空気を吸えるだけ吸い、声を絞り出した。
「こっ、ここで遭難してたジャーナリストよ。敵じゃないわ。だからその槍をしまって」
「われわれの言葉が分かるのか?」
「当たり前でしょう?」
 兵士が槍を引く。パトリシアは安堵の溜息を吐きながら、ゆっくりと手を下ろした。
「ね、隊長はどなた? 少し話したいことが――」
「パティ!? パティがどうしてここに? いや、無事でよかった」
 突然、パトリシアの言葉を、聞き覚えのある声が遮った。声の方を見ると、そこにパトリシアのフィアンセの姿があった。
「ルカ……!」
「なんだ、知り合いか?」
「はっ。三年前に行方不明になった婚約者であります。隊長、私に話をさせてください」
「許可する」
 なるほど、隊長は今まさにパトリシアと会話をしていた人物だったらしい。しかしルカがここにいるとは思わなかった。これは好機かもしれない。パトリシアは静かに考えを巡らせた。自分が感情的なのは知っていたから、どうにか気持ちを落ち付けなければならない。かってのフィアンセに再び会えたことが、どんなに嬉しくとも。
 隊長に許可を得たルカは、パトリシアに駆け寄り、パトリシアをきつく抱きしめた。
「パティ……無事でよかったよ。どうして少しも連絡をよこさなかったんだい?」
 パトリシアも、色々なものがこみあげてきて、うまく言葉が出てこなかった。
「私も、私だって、連絡しようとしたのよ。でも通信機が壊れていたの、どうしようもないでしょう。それよりルカ、あなたこそどうしてここへ……?」
「俺、君が行方不明だって聞いて、とても心配したんだ。でも帰ってこなくて、ミアリー大陸だから探しようもなくて……でも何かすれば気がまぎれると思って、軍に志願した。なにより、もしかしたらここに遠征になるかもしれないと思ったから。でも、こんなところで君に会えるなんて……本当に良かったよ、パティ。さあ、もう安心だ。一緒に帰ろう。ここはもう直戦場になる」
 パトリシアはルカのその一言を聞き逃さなかった。眉をひそめてルカを見上げ、ルカに聞き返す。
「ルカ、今何て――」
「だから一緒に帰ろうって」
「その後よ。ここが戦場になるって、今そう言ったわよね? あなたたちは軍を率いて、ここを襲いに来たの?」
「そういうわけじゃないけど、先住民が攻撃してきたんだ、応戦しないわけにはいかないだろう?」
 言葉が通じないから、しかも互いに見たことのない武器を持っていたから、すでに戦闘態勢に入っていたのだ。パトリシアに説得することはできないのだろうか。まだあきらめるには早い。自分だけ戻るわけにはいかないのだ。
 パトリシアは慌ててルカから離れた。
「待って、ルカ。私が彼らを説得するわ。代表者を連れてくる。通訳もする。だから、だから皆に武器を隠させて。あれは皆を不用意に警戒させてしまうわ」
「説得する? 通訳? 君は三年間、先住民の研究でもしていたのかい?」
「そうとも言えるのかしら……いいえ、一緒に暮らしていたわ。彼らが遭難していた私を助けてくれたの。とても親切で、温かい人たちなのよ。それに私、あなたとはもう帰れない」
「どういうことだい?」
 ルカが眉根を寄せる。
「もう二度と故郷には帰れないと思っていたから、ここで結婚して……子どももいるの」
 ルカを目の前にして、罪悪感は確かにあった。ルカのことも確かに愛している。だが今は、生まれた子どもが愛おしい。
「なんだって……? 君は俺という婚約者がありながら、野蛮人なんかと結婚したというのか」
 自分が何度も彼らに浴びせた言葉が、今はとても嫌いだった。不愉快で、頭痛と吐き気がするほどに、酷い言葉だ。パトリシアは込み上げてくる怒りを押しとどめることなく、ルカに吐き出した。
「野蛮人ですって? もう一度言ってみなさい、彼らを侮辱したら私が許さないわよ!」
「俺の方こそ、君を許せない! 俺のことなんか忘れて、俺が苦しんでる間ひとりで幸せになっていたんだな! 君も野蛮人のひとりだったのか!」
「なぜそうなるの? 私が野蛮人ですって!? ふざけるのも大概にして! 野蛮人は、武器を持ってぞろぞろとここに来た、礼儀知らずのあなたたちの方じゃない! 知りもしないくせに、彼らを見下すのはやめて!!」
 パトリシアはミアリー大陸に留まっていた分伸びた髪を振り乱し、その場から逃げるように去った。
「パティ!」
 ルカの声が聞こえる。振り返ることはできなかった。もう彼とは分かり合えないから。何が自分と彼を分けたのだろうか。やはりこの仕事なのだろうか。ルカが一言、パトリシアを引き留めてくれさえすれば、パトリシアもルカも、こんなに悲しい運命を辿らずに済んだかもしれない。だが、パトリシアの背を押してくれるようなルカだからこそ、愛したのだ。それがこのような事態を招くなどとは、皮肉な話である。
 パトリシアが集落に向かい走っていると、ヨダンが集落の外にいたらしく、パトリシアを見るや否や駆け寄ってきた。
「パティ! どこへ行っていたんだ、心配したんだぞ!」
「ヨダン!」
 パトリシアは勢い余って、ヨダンの逞しい胸に飛び込んだ。
「ごめんなさい、私には止められなかった。私が感情的になってしまったばっかりに」
「どうしたんだ。落ち着け。深呼吸をするんだ。ちゃんと順を追って話せ。ゆっくりでいい」
「ありがとう。でも、多分ゆっくりしてはいられないわ」
 パトリシアは、ミアリー大陸に上陸した者たちのことを話した。ヨダンはパトリシアに疑いの目を向けた。次第にその表情は険しさを増していく。それも仕方のないことだ。
「パティ、一つ聞く。お前は奴らの仲間ではないのだな?」
「ええ、そうよ」
 ヨダンはパトリシアの目をじっと見た。その鋭い眼光に怯みかけたが、パトリシアもしっかりとヨダンの黒い目を見た。満足したのか、ヨダンは息を吐くと表情を少しだけ和らげた。
「大丈夫だ、パティも息子も俺が守る。正しい戦士は負けない、だから大丈夫だ」
「ええ、ありがとう」
 ヨダンは笑っている。それでも、パトリシアの中にくすぶる悪い予感を拭い去ることはできなかった。パトリシアはヨダンの力強い手を握った。
「ヨダン、死なないで。お願いよ」
「ああ」
「私、折角あなたとの子どももできて、今とっても幸せなのよ。だから私たちを残していかないで。……お願いよ」
「分かっている。心配するな」
「ええ……」
 信じている。ヨダンのことは信じている。けれどこの大陸は、紋章術を考慮しても、パトリシアの故郷よりも少なくとも百年は遅れている。それに、単純な戦力とて向こうの方が上だ。
 きっと負ける。考えたくはないが、きっとそうなる。
 声が聞こえる。鉄の部隊の声。ルカたちが来た。パトリシアを殺しに。子どもを抱きかかえたパトリシアは、腕に力を込めた。生き残らなければ。生き残って、彼らの蛮行を記録する。それをなんとしても、本国に届けるのだ。真実を知れば、世論はきっとパトリシアに味方してくれるだろう。今のパトリシアには、それしかできることが思いつかなかった。
 草陰から戦場となった集落を覗く。すでにたくさんの死体が転がっていた。集落の戦士のものだ。だが戦士たちも強い。鉄の隊を次々に倒していた。パトリシアが見たのは、自らも血を流しながら、しっかりと地に足をつけて戦っているヨダンの後姿だった。
 しかし、そのヨダンも倒れてしまった。ヨダンが死んだ。見えた。見てしまった。ルカの声もした。断末魔が聞こえた。ルカも死んだ。パトリシアは声を上げずに泣いた。涙が止まらなかった。
 本当は声を上げて、思い切り泣きたい。けれど、今は子どもを守らなければならない。生まれて間もない生命を守らなければならない。涙も嗚咽も震えも止まらないけれど、生きなければならない。
 パトリシアは、震えながら身をひそめた。子どもにも恐怖は伝わっているのだろう。だが、不思議と腕の中の子どもは声を上げなかった。それどころか、身動きひとつ取らなかった。今はその方が都合がいい。見つかっては、親子ともども生命はないのだから。ヨダンのためにも、死ねない。
 ――もう少しの辛抱だからね。
 その時、悪寒が背筋を走った。何者かと目が合った気がした。
「見つけた、裏切者」
 見つかった。声を上げようと息を吸い込む。その前に、激痛が全身を襲った。
 大きく脈打つ。自分の鼓動を感じる。痛い。熱くて、痛かった。身体じゅうが熱くて、赤ん坊の体温は分からなかった。

【密林の記者 完】



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