密林の記者

#04.婚礼の儀


 パトリシアがミアリー大陸に来て、一年近くが経過した。知らない言語に半強制的に接していたパトリシアは、完璧とは言えないが、それなりの会話ができるようになっていた。その辺の井戸端会議がどんな内容なのかもそこはかとなく理解できたし、自分の気持ちもそれなりに言えるようになった。
「パティ、パティ」
 誰かがパトリシアを呼んでいる。パトリシアは声のする方へ顔を向けた。
「はーい」
「おお、ここにおったか」
 パトリシアを呼んでいたのは族長だった。族長は人のよさそうな笑みを張り付けていた。
「ちょっと話したいことがあるんだが、いいかね?」
「はい。なんでしょう?」
「ヨダンがなぁ、パティと契りたいと言うのだ」
「契りたい? それはつまり、どういうことですか?」
「同じ家で寝泊まりして、あなたがヨダンの子を産むのだ。つまり……息子があなたと結婚したいと言うのだ。頼めないかな」
「ケッコン?」
「そうだ」
「……はい?」
 その後の族長との会話で、「ケッコン」がパトリシアの知る「結婚」と同じ意味なのだということは分かった。

 パトリシアは眉間にしわを寄せ、鼻息荒く腰かけた。
「どうしたの、パティ?」
「ハッティナ。あのね、村長さんがね、私に結婚の話を持ちかけてきたのよ」
「結婚! パティ、ここで暮らすの?」
「まだそんなの決めてないわよ。できたら帰りたいって今でも思ってるもの。大体、どうしてそんな話になるのよ。そしてどうしてヨダンがその話を自分で持ってこないの?」
「だって、そんなことしたら失礼じゃない」
「そっちの方が失礼だわ!」
「あなたが暮らしてきた場所ではそうなのかもしれないわね」
「あ……」
「あなたがどこの誰かも分からないのに、族長が自らその話を持ちかけたってことは、ヨダンがよっぽど族長のこと熱心に説得したんじゃないかしら。よかったじゃない、そんなに好きになってもらえて」
 どこまで考えてみたところで、想像にすぎない。だがハッティナの言う通りなのだろうと、パティは素直にそう思えた。パティの怒りを表現していた眉が垂れ下がった。
「やっぱり、結婚なんて考えられないわ。無理よ」
「そうなの? 村長にはそう言ったの?」
「いいえ。本人と話がしたいって伝えたわ」
「だったら、ヨダンと納得のいくまで話してみなさいよ、ね?」
 現時点で理解も納得もできないのだから、それが必要だろう。パトリシアは小さく頷いた。
「うん」

 ハッティナはパトリシアを家に置いて出て行った。出ていくときに「ヨダンを呼んでくるから」と言っていたので、パトリシアはここで待たなければならないのだろう。なんだか落ち着かない気持ちで、パトリシアは家の中を行ったり来たりしていた。
 すると、ほどなくして男の声がした。ヨダンだ。ハッティナの姿はなかった。
「ヨダン」
「パティ、俺と話がしたいって言ってたって聞いたから」
「ええ、ありがとう」
「いや。答えは保留だって?」
「あの時は、突然でびっくりしたから……」
「今は? 答え、出てるのか?」
「はっきり言うわ。私、あなたとは結婚できない」
 唇に力を籠めて、ヨダンを見上げた。ヨダンは特に気にしていない様子だ。
「どうして?」
「だって私、故郷に将来を約束した人がいるもの」
 パトリシアはルカの笑顔を思い浮かべた。
「私がここから帰ったら結婚するって約束だから」
 ヨダンは、意地が悪いところもあるけれど、優しくていい人だ。それはパトリシアも知っていた。言葉が一切分からないパトリシアに、ハッティナと一緒になって根気強く言葉を教えてくれたからだ。何も知らない赤ん坊同然の――身体が大きい分、赤ん坊よりもよほど手のかかるパトリシア相手に、様々なことを教えてくれた。
 だが、パトリシアにとっては故郷も、ルカとの約束も、忘れがたいものだった。
 そんなパトリシアの様子に、ヨダンは軽く息を吐いた。
「パティ、君がここに来てからもう一年だ。その間に、将来を約束したとかいう男が一度でも君のところに来たのか? それに君は、故郷に帰れるというのか? もし君が故郷に帰る方法があったり、俺たちが君の故郷を知っているのならば、精一杯その手伝いをする。君が帰りたがっていることは知っているからな。でも君が帰る手段は今のところないのだろう? 手がかりだってありはしないのだろう? そしたら、ここで暮らすことを考えなきゃならない」
 ヨダンの言っていることを全て理解できたわけではない。だが、ヨダンがパトリシアの心配をしてくれていることは分かった。ヨダンは「それに」と続ける。
「ハッティナは人妻だ。いつまでもハッティナの許へ置いてはおけない。それに、君がここで幸せになるのも一つの選択じゃないか? その男を想うのは勝手だが、それでは君はいつまでも幸せになれないんじゃないか?」
「それでも、私は……」
「無理に答えを出す必要はないよ。ただ、俺ももう妻帯していてもおかしくない年だし、族長の息子というのもあって、結婚を急かされている。そこに君が現れた。俺は君のことを好きになったから、君と結婚するのもいいと思ったんだ。君が今すぐにでも故郷に帰るというのなら、俺は他の人に求婚するさ。だけどもし、君がここにずっと住むしかないとか、住もうと思っているのなら、考えてほしい」
「ヨダン」
 パトリシアがヨダンの顔を見上げると、ヨダンは白い歯を見せて微笑んでいた。
「大丈夫、答えは急がないさ」
「ありがとう、ヨダン」
 今はヨダンの優しさに甘えることにしよう。パトリシアはそう思った。

 パトリシアは、この集落に流れ着いてから一年の間、帰りたいとは思っていたが、だんだんとその希望が虚しく思えるようになった。ヨダンは「今のところ」などと言ってパトリシアを気遣ってくれたが、きっともう帰れないのだ。故郷のルカと連絡を取ることもできないし、どのようにすれば帰れるかも分からない。ここが故郷から見てどの位置なのか、ここがミアリー大陸のどのあたりに位置するのか、それすらも分からないから、帰りようがないのだ。だからパトリシアは、ここに腰を据えることを考えなければならないのだろう。それはパトリシアも薄々感づいていた。ただ、向き合いたくなかった。
 郷に入らば郷に従えという言葉もある。そのためにヨダンと結婚するようなことがあっても、ルカなら許してくれるだろう。いや、もはやルカとはもう二度と会えないだろうから、ここで自分が幸せに生きる方が、ルカも喜んでくれるかもしれない。ヨダンを好きになるかどうかは、結婚した後でも遅くはない。今、彼のことが嫌いなわけではないのだから。
「ねえ、ハッティナ」
 好意で家に住まわせてくれているハッティナに、パトリシアは意を決して切り出した。
「なに? 真剣な顔をして」
「あのね、私、ヨダンと話したいの。また、ヨダンを呼んでもらえない?」
「決めたの?」
 パトリシアは力強く頷いた。ハッティナは微笑んで「了解」と答えた。
「ちょっと待っててね。すぐに呼んでくるから」
「うん、ありがとう」
 パトリシアはその言葉通り、すぐにヨダンを連れてくると、パトリシアとヨダンが話し合った日のようにすぐに姿を消した。
「どうした、パティ?」
 パトリシアは真っ直ぐにヨダンの目を見た。言い出そうとするとなかなか言えないものだが、喉からその言葉を絞り出した。
「ヨダン、私、あなたと結婚するわ」
「パティ」
「あれから色々考えたの。それで、こうするのが一番いいって思えたから。ねえ、私をちゃんと幸せにしてくれる?」
「ああ。太陽に誓って努力する」
「そうしてちょうだい」
 そう言って、お互いに手を取り合った。

 その後、ハッティナがニヤニヤして戻ってきた。
「そっかー、パティもついに結婚、か」
「うん。ハッティナ、お世話になったわ」
 きっとどこに行っても、こういうゴシップな話が盛り上がるのだ。パトリシアはそう確信した。
「とんでもない! まあ、例外中の例外だけど、ヨダンはああ見えて優しい男だから、きっと大丈夫よ。うまくやれる。じゃ、結婚式までに私が全部叩き込んであげるからね!」
「え? 全部って、何を?」
「決まってるじゃない。結婚したら、することが増えるわよ」
「ええー!?」
 パトリシアはそれから三日間、鬼のようなハッティナから厳しい指導を受けた。それはもう、これまでの優しさが幻に思える程度に。
 そしてパトリシアの短くて濃い花嫁修業が終わると、集落じゅうが湧きたっているのを感じた。
「まあ、教えることがもうないなんてことは言わないけど、分からないことや困ったことがあったら私を頼りなさいね。なんてったって、もとよそ者だもの。分からないことはたくさんあって当然だものね」
「あはは、ありがとう」
「さあ、じゃあ結婚式の準備をしなきゃね。表の方はもう終わってるみたいだから、手を出して」
 手を差し出すと、手の甲に赤いインクのようなものを付けた筆が奔った。花のような、葉のような模様を描いているようだ。くすぐったいが、我慢だ。
「よし、手は終わったわ。さあパティ、服を脱いで」
「え」
「あなたずっとその服を着ていたけれど、結婚式は大事な儀式だから、ちゃんとした格好で出るのよ」
「そのちゃんとした格好が、半裸?」
「そうよ」
「逆に失礼じゃない? は、恥ずかしいし……」
「どうして恥ずかしいの? あなたのいたところでは、胸は隠すものだったの? 女の胸は子を育む大地の象徴なのに」
 なるほど、この地では乳房に対する崇拝があるようだ。恥ずかしいが、それがここの生き方ならば仕方がないだろう。パトリシアは言われた通りに服を脱いだ。
「よし、じゃあ髪上げるわね」
 ハッティナは言った通りにパトリシアの髪を上げてまとめた。そして今度はパトリシアの顔に先ほどの筆を滑らせた。
 手に描いたようなものを描いているのだろうか。見えないのでよく分からないが。額と、頬と、顎に何かを描かれたことは分かった。
 ハッティナは筆を置き、パトリシアにはよく分からない言葉を口にした。
「今、なんて言ったの?」
「仕上げのおまじないよ。はい、できたわ。これで皆の前に出ても恥ずかしくないわね。ちょっと色が白すぎるかも知れないけど、いいでしょ。パティ、とっても綺麗よ」
「ありがとう」
 鏡があればいいのに、とパトリシアは思った。

 結婚の儀式は、村の人間をすべて集めて行われた。広場らしき場所の中央で火が焚かれている。火の側には鳴り物で全身を飾った老父がいた。老父は占い師かなにかのようで、なにがしかの儀式には顔を出すようである。
 まず、村の人たちが何かを唱え始める。何を言っているのかパトリシアにはさっぱり分からなかった。彼らにとって特別な言葉なのだろう。パトリシアはヨダンに導かれ、老父に近づいた。
 老父は何かを唱えながら激しく動いていた。老父が動くたびに、鳴り物が音を立てる。そして老父が大きく声を張り上げると、老父の背後の炎が激しく燃え盛った。
「きゃっ」
 驚いて小さく叫び声を上げると、ヨダンがパトリシアの手を強く握った。パティは気を取り直して老父を見た。老父はにこやかな表情をしている。
「ここにお主らの婚姻をみとめよう。いかなる厄災が降りかかろうとも、いかなる試練を迎えようとも、お主らが離れることはないだろう。精霊様の祝福である」
「ありがとうございます」
 ヨダンが恭しく頭を下げた。パティもそれに倣い、頭を下げる。すると、村人たちがわっと歓声を上げた。どうやらこれでいいらしい。
 それから宴が始まった。いつもよりも多くの食事が広場に並んでいる。いつもは一色ほどしかないのだが、目の前には新鮮な果物が色とりどりであった。しかし村人たちは果物よりも踊る方に夢中なようである。
「皆、陽気な人たちなのね」
「ああ。普段はこんな風に踊ったりしないから、嬉しいんだ」
 ヨダンは柔らかなほほえみをたたえつつ、うりを頬張った。
「俺はな、パティ。パティがここに流れ着いてから今日まで、まさかパティと結婚するだなんて思わなかったよ」
「それを言えば、私もよ。ヨダンとどころか、ここに腰を落ち着けることになるだなんて思ってもみなかったわ」
 ヨダンはうりをすべて口の中へ放りこむと、立ち上がってパティに手を差し出した。
「さあ、パティも踊ろう!」
「えっ、でも私、踊り方なんて分からないわ」
「大丈夫、難しくなんかない。楽しめばいいんだ」
「きゃっ!」
 パトリシアは慌ててヨダンの首に抱きついた。というのも、ヨダンがいきなりパトリシアを抱き上げたのだ。突然のことでパトリシアはたじたじだったが、ヨダンはとても嬉しそうだった。
「おっ、新婚さんのお出ましだ!」
 村の人たちがはやし立てるのも恥ずかしかったが、ヨダンがとても嬉しそうだったので、パトリシアはヨダンに免じて一緒に踊ってあげることにした。



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