黎明の女王
#01.死別
青い空を白い雲が流れる。小鳥たちのさえずりが心地よい。その下に広がる緑を、二人ぶんの足が踏みつける。
「お父様、何度も申し上げますけど、私はまだ結婚なんかする気はないのよ」
ぷっくりとした唇を尖らせ鈴のなるような声で、しかし強い口調で言った女性は、色の薄い金髪を綺麗に纏めていた。髪と同じ金の睫毛の下から穢れを知らない青が覗く。その女性よりも一回りも二回りも大きな男は、日に焼けた武骨な手を女性の頭に載せた。
「ジェラノール、お前ももう二十四だ。このままでは、いつまでたっても結婚できないままだぞ。それでは父さんは、安心して死ねぬではないか」
「お父様がそう仰るのでしたら、私は結婚しないわ。だってそうしたらお父様、死ねないのでしょう? 私はね、いくらお父様のお友達の御子息といっても、あの方の妻になりたいだなんて思えないわ。だって見るからに頼りなくて、だらしなくて、男らしくないんですもの。それなのにプライドだけは一人前なのよ?」
そんな娘の強気な言葉に、父ドロアプールは愉快そうに、また少し困ったように、豪快に笑った。
「はっはっはっ、そいつは手厳しい。ならばジェラノール、お前は頼りがいがあって、しっかりしていて、男らしい、父さんのような人と結婚したいのか?」
「お父様は自意識過剰です! まあ、そうね、お父様のような殿方であれば、言うことなしだわ」
「だがな、そうでもないかもしれんぞ。何せ今日お会いするのは、父さんの友達の中でも屈指の豪傑、ダレオの息子だからな」
ジェラノールはダレオという人物を思い出していた。普段大きいと感じる父よりも大きく、いつも豪快に笑い、豪快に食べる。髭を蓄えたその姿は一見すると野獣のようだが、礼儀を重んじる紳士なのだ。確かに彼は豪傑と言って違いはないだろう。一方その息子とは、顔を合わせたことのある程度で、その時の印象が先にジェラノールが述べたそのままだったのだ。彼をダレオとは似ても似つかぬ情けない少年だとジェラノールは思っている。
しかし言葉を交わしたことがないので、ジェラノールは考え直すことにした。
「そうね、そうかもしれないわ。会う前に決めつけるなんて、ものすごく恥しいことよね。ダレオ様はとても素敵な方ですもの」
「そういうことだ。父さんが言うことではないがな」
「そうね」
そろそろ父親を安心させるべきなのかもしれない。ジェラノールは少しだけそう思った。
部屋の扉をノックして、「失礼いたします」と言って入ると、大男と細い男がすでに部屋の中にいた。
「遅くなって申し訳ございません」
「おお、ドロアにジェラ嬢! 待ちかねたぞ!」
見た目に違わず野太い声を出して駆け寄ってきたのは、ドロアプールの親友であるダレオだ。
「すまんな、ダレオ」
「良いのだ。はっはっはっ、綺麗になったもんだな、ジェラ嬢! 初めて会った時はまだ言葉も喋れん赤子だったというのに。ジェラ嬢には大層気に入られて、私も苦労したものだよ」
がっはっはと豪快に笑ってみせるダレオに、ジェラノールは苦笑いを浮かべた。
「もう、ダレオ様ったら、会う度にそのお話ばかり。今日はダレオ様ではなく、ご子息とお話に参ったんですのよ?」
「そうだったな、すまんすまん。ユルキ、こちらへ来なさい」
「はっ、はいっ」
ダレオが言うと、細い男が慌てて立ち上がり、落ち着かない様子でこちらへ歩いてきた。
「さあ、自己紹介をしなさい」
「はい」
目の前にいるのは、どう贔屓目に見ても豪傑の息子とは思えない、ひょろひょろとした体格で情けない表情を浮かべた青年であった。自信がなさそうに背を丸めている姿に、ジェラノールも思わず「しっかりしなさい!」と声を上げそうになったが、そこはぐっとこらえた。
「えと、あの、僕は、ユルキ=サヴァルです」
ジェラノールは眉をひくつかせながらも、満面の笑みで答えた。
「私はジェラノール=リーフムーンです。ユルキ様、本日はよろしくお願いいたしますわ」
「はっ、はい、僕の方こそ、よろしくお願いします」
「ははは、ジェラ嬢があまりに美しいものだから、息子も緊張しているようだ」
「嫌ですわ、ダレオ様ったらお口がお上手なんですから」
いきなり目の前の頼りない男と話すという難題を課せられたジェラノールに、ダレオが助け船を出してくれたような気がした。
「そんなことよりジェラ、ユルキくんと散歩でもしてきなさい。その方がユルキくんも、緊張がほぐれるだろう」
「そうだな。行ってくるがよい、ユルキ、ジェラ嬢」
「わ、わかりました!」
「行ってまいりますわ」
ジェラノールはユルキに手を差し伸べた。ユルキはその手を取ることなく、ジェラノールの後ろをただついてくるだけであった。
――こういう時は普通、レディをエスコートするのが紳士の役目じゃないのかしら。
庭は綺麗に整えられていた。たくさんの花が植えられており、中でも薔薇が鮮やかな赤い花を咲かせている。ダレオはドロアプールと同じで、こんなに立派な家を建て庭を整えても、殆ど帰ることはないのだ。その分、メイドが手を入れているのだろう。ダレオの境遇はドロアプールと似ていた。
「ジェ、ジェラノールさん、は、おいくつなんですか?」
「まあ、レディに年齢をお尋ねになるの?」
「も、申し訳、ございません」
「ユルキ様、もう少しリラックスなさって。私は二十四ですわ。ユルキ様は?」
「二十になります」
「あら、そうですの。でしたら――」
ジェラノールは薔薇の花弁に触れながらユルキに笑顔を向けた。
「お互いに敬語も敬称も抜きにお話ししません? お父様たちもいないんだし、肩が凝ってしまうわ」
「あ、そうですね。いや、そうだね」
「ふふ、慣れるのには少し時間がかかるかしら」
「大丈夫さ、ジェラノール。これくらい、ら、楽勝だよ」
まだ表情の硬いユルキに、どうだかね、という視線を送りつつ、ジェラノールは髪をなびかせながら歩いた。
「ジェラノールは、その、本当に綺麗だね。庭の花たちもあなたの美しさには嫉妬してしまいそうだよ」
「ありがとう。でもこそばゆいわ。あなたは気取って歯の浮くようなことを言うより、友だちに接するみたいにした方が魅力的じゃなくて?」
「な、なんだとっ!?」
突然ユルキが顔を真っ赤にして怒りだした。
「どうなさったの?」
「どうなさったの、じゃない! あなたは、あなたは僕のプライドを、きっ、傷つけたんだ! 僕はあなたのことを一人前のレディとして扱っているのに、あなたは僕を子どもみたいに扱う。こんなことをされたら、怒るに決まってるだろう!」
ユルキが何を言っているのか、ジェラノールには理解しかねた。
「一人前のレディとして扱っている、ですって?」
ジェラノールも堪りかねて、声を荒げた。
「女性のエスコートもロクにできないのに、何が子ども扱いよ! あなたみたいに父親から離れられない男性なんて、子どもも同然じゃない!」
「また言ったな! 父さん、父さん!!」
ユルキはジェラノールを庭に置き去りにして、子どものように何度も父親を呼びながら行ってしまった。ジェラノールも溜息を吐き、ゆっくり歩きながらユルキの跡を付いて行った。
「知らないわ。急に怒ってしまったんですもの」
自分の屋敷に戻る道中、何があったのかドロアプールに尋ねられた。それもそうだろう。ユルキは「父さん」と取り乱しながら戻ってくるし、ジェラノールはジェラノールで渋い顔をしていたのだから。
「大方ユルキくんのプライドを傷つけでもしたのだろう」
「プライドですって! 誇りよりもまず先に、紳士の振る舞いとか、自信を身に着けた方がよろしいんじゃないかしら、彼」
「まあまあ、誇りが土台になって自信がつく人間もいるだろう」
「彼の場合、明らかにそうは見えないから、やむなくこう言ってるんじゃない」
「そういじめてやるな。女には分からなくとも、男には大切なものなのだ。時には生命よりもな」
「そうやって意地悪なことを仰る。どうせ女の私には分かりませんよ」
ジェラノールは拗ねてみせた。しかし父親がそのように言うとは、もしかしたら父親にも、生命よりも誇りが大切なことがあったのかもしれない。いや、もしかすると今もそうなのかもしれない。
「はは、拗ねるな」
「拗ねてなんかいないわ」
そうは言ったものの、ジェラノールは唇を突き出していた。これでは明らかに拗ねていることが分かるだろうと、ジェラノールは思っていた。
そうしてのんびりと歩いて屋敷に着くと、疲れ切ったような白い髪を綺麗に纏めており、武力はあまりないような印象の、聡明さを湛えた面差しの男が立っていた。
「ドロアプール様」
「レイノールか」
レイノールはドロアプールに忠誠を誓っている、リーフムーン軍の軍師である。
リーフムーン軍は、ドロアプールがジンガー大陸東部のべニーズ地方を統一するべく立ち上げた群である。ドロアプールの志に賛同した者が志願して入ってくる。ドロアプールは大層期待されているらしく、規模はかなり大きい。
べニーズ地方は数十年の間群雄割拠で、様々に勢力を伸ばそうとしていた。ドロアプールは、そのために民が疲弊することなどあってはならないと、べニーズ地方を統一する決意を固めたのである。
レイノールの様子は、どこかおかしかった。その雰囲気から、どうやら深刻そうな話なのだろうとジェラノールは思った。
「お父様、私ダレオ様のところに忘れ物をしたみたいなの。取りに行ってきますわ」
「ああ、分かった」
ジェラノールは父から見えないところまで行くと、聞き耳を立てた。勿論、忘れ物というのは嘘だ。もしあるとすれば、ユルキへの捨て台詞だろう。
「どうした。何があった?」
「は、ドロアプール様。エレルの戦局がかんばしくありません」
「詳しく話せ」
エレルは、ベニーズ地方の南東部を指す。現在リーフムーン軍が制圧しているが、最前線であるためヒルド軍に襲われているらしい。ヒルド軍はリーフムーン軍に匹敵する勢力を擁しているとのこと。正面でぶつかり合えば、双方ともに無事では済まない。しかしヒルドは東部を拠点としており、リーフムーンとヒルドの間には、少数精鋭のカテ族がいるはずである。カテ族はどことも組まないという話であったが、敗北したという話も聞いていない。
「そこを取られると我が軍の勢いがそがれる。厄介だな……」
「ドロアプール様にはそちらへ向かっていただきたく存じます。あなた様自らが指揮を取られれば、兵たちの士気も上がります。私も同行いたしますゆえ」
「分かった。では早速行くとしよう。馬の準備を頼む」
「かしこまりました」
誰かが近づいてくる足音がした。今の流れからすると、レイノールだろう。隠れなければならない。そう思ったものの時すでに遅く、気づくとレイノールとしっかり目が合っていた。
「おや、ジェラノール様、聞いていらっしゃったのですか。お父上は中に入られましたよ」
「え、ええ、ありがとうございます」
ジェラノールには悪い予感だけしかしなかった。
父が行ってしまう。それはいつものことだ、何も変なことではない。だが、その「いつも」はただ何も心配せずに父親を送り出した。今回だけは不安が胸を締め付けるようなのだ。
ジェラノールは家に入り、ドロアプールの部屋の扉をノックした。いつも通り父親の声が入るよう促す。ジェラノールは声に従い、部屋に入った。
「もう行ってしまわれるのですか?」
「おお、ジェラか。そうだな。だが案ずることはない。父さんは必ず戻ってくる」
「そうね」
「なんだその顔は? 珍しくこの父が心配になったか。言っただろう。お前の晴れ姿を見るまでは、父さんは死なない。だから心配は無用だ」
ドロアプールは先ほどのことなどおくびにも出さなかった。実の娘には絶対に弱っているところを見せないつもりなのだ。父の威厳を守るために、そして心配させないために。
なおも表情に影を落としたままのジェラノールに、ドロアプールは微笑みかけ、優しく頭を撫でた。
「この戦いは必要なのだ、ジェラ。あちこちで勢力争いが起きている。民たちの暮らしを守るためには、いつまでも小競り合いをしていてはならぬ。だから私が統一しようというのだ。ジェラ、お前のためでもあるのだよ」
「お父様」
ジェラノールを励まそうとしている父に、彼女は努めて笑顔を見せようとした。不安になど思っていない。父がいなくても自分は大丈夫だ。そのように伝えたかった。
★☆★☆
リーフムーンの象徴である青のマントに身を包んだドロアプールは、自分を心配していたジェラノールのことを思い出した。心配をするのは親の役目だとばかり考えていた。しかしジェラノールはもう二十四。すでに嫁に出て、ドロアプールに孫ができていてもおかしいことではない。寧ろ行き遅れたと思うほどだ。それでも、ずっと側にいてくれることが嬉しくてたまらなかった。口ではああ言っても、ジェラノールが嫁ぐ時は、きっと寂しくて手放したくなくて、行くなと言ってしまいそうだと思っていた。
ジェラノールの母親は、彼女が歩けるようになった頃に他界した。治安の悪い場所に住んでおり、盗賊に襲われたのだ。ドロアプールは小さなジェラノールを助けるだけで精一杯だった。妻は帰らぬ人となってしまった。以後、幸運にもジェラノールの相手をしてくれる人はたくさんいたが、男衆の中で育ったようなものなので、あのような勝気な女性に育ってしまった。だが、元気は有り余るくらいがちょうどよいとドロアプールは思っている。
「ドロアプール様、間もなく接触します」
「分かった。合図を出せ」
「は」
レイノールは太鼓を持っている部隊に合図を出した。部隊は大きく太鼓を打ち鳴らした。前進の合図だ。敵が肉眼で確認できる。ドロアプールは馬に鞭を入れた。走る。兵たちが波のように前進する。それは敵も同じようであった。前からヒルドの真っ赤なマントを纏った兵たちが迫ってくる。
進みながら、ドロアプールは自分の背中を冷や汗が伝うのを感じた。なんだ、この違和感は。しかしもう止まることはできない。雄叫びを上げる。剣を高く掲げる。
ぶつかる。剣を振り下ろす。何度か金属をぶつけ合い、最後に自分の剣が人を斬る感触があった。横から何者かが来る。
押している。気味が悪い位に順調だ。倒れているヒルドの兵の赤いマントも、血で赤いのかよく分からなくなっていた。このまま押し込む。ドロアプールはもう一度腹の底から雄叫びを上げた。
その時であった。
「ドロアプール様! 右手に伏兵です!! カテ族が我々を攻撃しています!」
「何だと!?」
カテ族は絶対に攻撃してはこないと思っていたことが間違いだったのだ。思い込みが判断を誤らせた。
「くっ、謀られたか。退却命令だ! 何としても生き延びよ!」
そう叫びながら、心のどこかで、もう駄目かもしれないと思っていた。
もしかしたら、ジェラノールは何かを感じたのかもしれない。虫の知らせというやつは、本当にあるのだ。ドロアプールも何度か感じたことがある。しかし自分の死ばかりは読めなかったようだ。
娘の晴れ姿を見るまでは死ねないと思っていたのに、叶うことはなさそうだ。それに、べニーズ地方の統一にもまだ遠い。折角ドロアプールの許に多くの有志が集まったというのに、ドロアプールは何もなせなかった。
――すまない、ダレオ。すまない、レイノール。すまない、ジェラ。
薄い雲に覆われて真っ白な空が、少しずつ黒くなっていった。
「ダレオ、後は頼んだ」
ドロアプールの死は、たちまちべニーズ地方を駆け巡った。
「そんな、お父様」
ジェラノールは呆然とした。目を見開き、口を閉じることもせず、ただそこに立ち尽くした。
「ドロアは最後までジェラ嬢のことを心配しておったようだ」
「そう、ですか」
ダレオの声は遠くに聞こえ、ただ一言、そう答えるのが精いっぱいだった。
あの時の言葉は嘘だったというのか。ジェラノールが結婚するまで死ねないと言ったのは、嘘だったというのか。
「それで物は相談なのだが、ジェラ嬢。ドロアが死に、象徴を失った我々のよりどころとなってはくれぬだろうか?」
ジェラノールは金の髪を大きく揺らしてダレオの顔を見た。
「私が? 父の代わりを、私にやれとおっしゃるのですか? それでしたら、私よりもダレオ様の方が適任ですわ。ダレオ様はずっと父と肩を並べて戦っていらしたのでしょう?」
「ジェラ嬢。人の上に立つことができるのは、ほんの一握りしかおらぬ。そして俺は、その一握りの人間にはなり得ない。だがあなたならなれるかもしれない。ドロアの血を引くあなたなら」
「今重要なのは、人を率いることのできる人物ではなく、父の血を引くという事実だけなのでしょう?」
視界が歪み、涙が溢れた。言葉を口にすれば口にするほど、耐えられなくなった。言葉と一緒に涙が出た。そして自分が卑屈なことを言っているという自覚はあった。これではだめだ。自分がそのつもりがないという意思を伝えるのに不適切な言葉であると感じた。
「……今、父の死を聞いて、ただでさえ混乱しているのに、それを今すぐだなんて、できません」
「無論、無理強いはせん。だがこれだけは覚えておいてほしい。我々の希望であるドロア亡き今、兵一人一人が拠り所とする人間がいないのも事実だ。それではお父上は、無念だろうなあ。しかし、それをジェラ嬢のせいにはしない。悪いのは、カリスマ的な存在が我々の中にいないということなのだからな」
ダレオは、とめどなく溢れてくる涙を拭うジェラノールの頭に手を乗せた。父が生前よくやってくれたように。
「すまなかった、ジェラ嬢。今のはどこぞの親父の寝言だとでも思っていてくれ。本来なら次の世代に負担を掛けないようにするのが、我らの役目だったのだ。だからジェラ嬢が気負うことはない。本当にすまんな」
ジェラノールの頭をくしゃくしゃと撫で、穏やかに微笑んだダレオは、ジェラノールに背を向けた。その時、今まで脳裏に浮かんでいた走馬灯が、父の決意の表情を映した。ジェラノールは父の言葉を頭の中で反芻させながら、ダレオに駆け寄り、ダレオの腰にあるナイフを抜いた。
「ジェラ嬢!? 何をなさる、危険だ。返しなさい!」
ジェラノールは激しく頭を振った。
「私は父ではありません。だから父にはなれないし、父のようになれるとは思っていません。でも!」
ジェラノールは自分の長い金髪を手で集め、ナイフをあてがった。そして、ざっくりと切り捨てた。地面には金の髪が散らばった。
「お父様が果たせなかった想い、私が果たします」
「ジェラ嬢」
ジェラノールは目を丸々と見開いたダレオの手に、ナイフをそっと返した。
「勝手に拝借して申し訳ありません。ですが、これが私の意志であることを、父の友人であるあなたに知っていただきたかったのです」
「よいのか、ジェラ嬢?」
「私は今より、女であることを捨てました。まだまだ世もわきまえぬ未熟者ゆえ、面倒をかけるとは思いますが、よろしくお願いいたします」
ジェラノールはじっとダレオを見つめた。普段は砕けた顔しか見せなかったダレオに気圧されないように。父に置いて行かれないように。口をきゅっと結び、ダレオから目をそらさなかった。
「分かりました」
ダレオはジェラノールの前に恭しく膝を折った。
「我が生命、あなたのためにお役立てください、ジェラノール様」
この時ジェラノールは、二度と昔には戻れないのだと実感した。
――お父様は望まないことかもしれないけれど、ジェラノールはこの道を進みます。
ジェラノールは目の前で項垂れるダレオと、空の彼方にいる父に誓いを立てた。