黎明の女王
#04.義務
無数の手が背後から追ってくる。たくさんの声が頭に響く。ただ怖くて、怖くて、ジェラノールは必死に逃げていた。
どこへ逃げているのか分からない。逃げる宛など知らない。もしかすると、自分は死んでいて、永遠に逃げ続ける地獄にでも落ちたのではないかと思った。たくさんの声には恨みがこもっていて、とても恐ろしかった。
――私が何をしたというの?
思い当たることはたくさんあった。父の遺志を継ぐと決めたその時から、恨まれる覚悟もしたはずだった。自分が殺してたのは、小さな少年だった。
どんなに逃げても追ってくる手に、伸びた髪を掴まれた。引っ張られる。――痛い。怖い。助けて。
そう叫ぼうとしたとき、重たい瞼を押し上げた。目を開けた。光が入ってくる。眩しい。
――眩しい?
ジェラノールは起き上がろうとした。悪い夢でも見ていたのだろうか。身体がとても重くて、なかなか起き上がれなかった。そんなジェラノールの耳に、何者かの足音が聞えた。
「ああ、まだ動かないでください」
柔らかい声だった。手に器を持った壮年の男性は質素な白い服を着ていたが、灰色の髪は綺麗に整えられていた。
「ここは?」
「僕の庵です。あなたが近くで倒れているのをたまたま見かけまして。あなたは三日も目を覚まされなかったので、このまま死んでしまわれるのだろうかと危惧しておりましたが……無事に目が覚めたようで安心いたしました」
彼の穏やかそうな人柄が、細めた目尻の皺から滲み出ており、ジェラノールは安心感を抱いた。
「あなたが、私を助けて下さったのですか?」
「そういうことになりますか。ともかく、あなたは今衰弱状態にあるので、しっかりと休んで、栄養を取って、養生してください。歩けるようになるまでは、こちらにいても構いませんから」
「あなたは……」
「ああ、申し遅れました。僕はダンと申します。食事は喉を通りそうですか?」
「あ、はい」
「そのままの体勢で結構なので、お口を開けてくださいね」
ダンと名乗る男性は、スプーンで器の中身をすくうと、ジェラノールの口に運んだ。温かいものが口の中へ入る。ゆっくりと呑み込むと、それが食道を伝い、胃の中へすんなりと入っていった。
――ああ、私は生きているのだ。
ジェラノールは生まれて初めて、生きていてよかったと思った。ただ温かい食べ物を口に入れただけ、ただそれだけにもかかわらず。その感動で目頭が熱くなり、目から涙が零れた。
ただただ、温かい食べ物が胸に染みた。
それから二日が経過した。衰弱していた自分が歩けるまでにはもう少し時間がかかるのではないかとジェラノールは思っていたが、ダンの呪術のおかげか、すぐに歩く訓練を始めることができた。
「ダン様」
「おや、もう歩けるのですか?」
「ええ。まだ少し、脚が震えてしまいますが。あの、助けて頂いてありがとうございます。本当に、何とお礼を申してよいか……。私は――ジェラと申しますわ」
フルネームを名乗る気にはなれなかった。もしダンがジェラノールの敵だったら、ジェラノールの正体を知った瞬間、ジェラノールを殺すだろう。彼にどれほどの力があるのかは分からないが、まだ完全に回復していないジェラノールを殺すことなど造作もないことだ。
それに、ジェラノールは自分を恥じていた。父が生きていれば、今のジェラノールを見て悲しむだろう。父ならば、ジェラノールが罪のない親子を殺したことに絶望するだろう。父ならば――。だから、父の姓を名乗ることがはばかられた。こんな自分がリーフムーン軍を率いるなど、おかしな話だと思っていた。
「ジェラ様……農耕の神の御名と似ていて、良いお名前ですね」
「ありがとうございます」
「では僕が支えるので、あそこまで歩いてみましょう」
「ええ」
ゆっくりと壁伝いに庵の外へ出て、小さな庵を一周する、ただそれだけの訓練であった。たったそれだけの運動でも、久しく歩いていないジェラノールは疲れを感じた。
そんなジェラノールの視界に、黄色い花が飛び込んだ。
「あら……綺麗だわ」
「どうしました?」
「あそこに咲いている花……」
微笑むジェラノールに、ダンは「あれはリノンといいます」と言った。
「リノン?」
「はい。あの葉を煎じて飲むと、いい夢を見ることができるのです。ジェラ様、飲んでみますか?」
「いい夢? そうですわね、頂きたいわ」
「でしたら、既に僕の手持ちの中にあるので、少し待っていただいたらすぐに淹れられます」
「お願いします」
ダンの後姿を見て寝床に戻りながら、花を見て綺麗だと思ったことがとても懐かしく感じていた。そういえば、髪を切ってから心安らかに花を眺めたことはなかったように思われる。花だけではないかもしれない。様々なことに対して、余裕など持ち合わせていなかった。思えば、茶をゆっくり飲むのも久しぶりかも知れない。
ダレオの言うことを聞かずに、普通に生きていればよかったのだろうか。そうすれば、このような思いをせずに済んだのだろうか。外に咲いている黄色い花や有り余る時間は、ジェラノールに何度も何度も、際限なくその問いを投げかける。
「お待たせしました」
そんなジェラノールの思考を遮ったのは、相変わらず落ち着いたダンの声と、ハーブティーの香りだった。
「ありがとうございます」
「熱いので気を付けてくださいね」
「はい」
器を手に取り、ゆっくりと湯をすすると、ほとんどお湯と変わらない味がした。ただ、強い香りが身体に染みた。
ジェラノールは夢を見た。父と、顔を知らない筈の母と、ジェラノールの三人で、色とりどりのバラが咲く庭でお茶を飲む夢だ。夢の中で時間は穏やかに過ぎた。
起きた時、少しだけ寂しいと感じた。確かに、いい夢なのかもしれない。決して来るはずのないそんな日を夢に見ていたのだろう。
――レイノール様は、確かにそんなことを仰っていたわ。そしてお父様も、本当はこんな日を夢に見ていたのかもしれない。本当のことはもう二度と分かりはしないけれど。
どうしてこうも余計なことを考えてしまうのだろう。ダンの穏やかな出で立ちがそうさせるのだろうか。それとも、恐ろしいほどゆっくりと感じられる時間のせいだろうか。
そうして二日が経過した。ダンのまじないの効果もあってか、すでにジェラノールは以前とほぼ同じように歩けるまでに回復した。こうなれば、あとは皆のところへ戻るだけである。
必要だと思われる分の食料を調達し、身支度を整えた。去るのがとても名残惜しく感じた。このような穏やかな時をジェラノールは望んでいたのだ。そしてジェラノールを待つ人たちのところへ戻っても、この時間は二度と得られないかもしれない。ジェラノールの望みは、ここにあった。
「ダン様」
ジェラノールは喉でつっかえていた言葉を、勇気を出して声に載せた。
「私は……私は、ジェラノール=リーフムーンと申します。リーフムーン軍のリーダーをやっている者です。先日は様々な理由で、本当の名を名乗ることができませんでした。どうかお許しください。ダン様、お願いがあります。私と共に来てはくれませんか? あなたの呪術はとても貴重です。そのお力で、私たちを助けて欲しいのです。そして、私を導いていただきたいのです。どうか、お願い申し上げます」
ジェラノールは深く頭を下げた。これがジェラノールの精一杯であった。
ダンが来てくれさえすれば何でも良かった。どんな理由でもよかった。ただ、側にいてほしかった。他愛のない話をしていたかった。
「ジェラ様、顔をお上げ下さい」
不安を抱えながらも、ジェラノールはダンの言うとおりに顔を上げた。
「あなたのお誘いは大変名誉なことであり、嬉しいことでもあります。しかし、僕にはやるべきことがあります。それは、あなたの許で動くことではありません。僕は目の前の生命を助けたいのです。そのために万人を殺すことになってしまったとしても、たったひとつの生命を見過ごすことなどできません。ですが、あなたには万人を救うことができます。それが、リーフムーン軍のリーダーというものではありませんか?」
唇を噛みたいと思った。けれど、なるべくダンには表情を見せないよう努めた。
「生きていれば、間違いを犯すこともあるでしょう。それは取り返しのつかないものかもしれません。それでも、あなたは生きている。今ここに、生きているのです。ならば、責任を果たさなければなりません。あなたの償いは、あなたが責任を果たすことでしか不可能なのですから」
ダンの言っていることは、よく分かった。それだけに、ジェラノールはとても悲しい気持ちになった。けれどもジェラノールは、そのような気持ちなどないのだと自分に言い聞かせ、笑顔をつくった。
「いいえ、ダン様。困らせてしまいましたわ。申し訳ありません。今までありがとうございました。私には何もお返しできるものがありませんけれども……」
「いいのです、ジェラ様。それは別の者に返してください。そうすれば、いつか僕に返ってきますから」
「ありがとう。どうかあなたの行く先に、平穏と安穏が訪れんことを」
ジェラノールは両手を差し出した。ダンも両手をこちらに向けたので、ジェラノールはダンの手をそっと握った。
「ジェラノール様!」
戻ったジェラノールを真っ先に出迎えたのは、兵の訓練をしているヴィクターだった。
「ヴィクター様」
「お待ちください、すぐにレイノール様をお呼びいたします」
ヴィクターはそう言ってレイノールを呼びに行くと、本当にすぐにレイノールを連れて戻ってきた。レイノールはジェラノールの姿を認めると、恭しく頭を下げた。
「ジェラノール様、ご無事で何よりです」
「レイノール様こそ、安心いたしましたわ」
「ダレオ殿の件は――」
「そのことについて話したいことがあります。皆をここへ集めてください」
「は……」
レイノールはジェラノールの言うとおり、将軍や兵たちをジェラノールの前に集めた。ジェラノールはそのために身なりを整えるということをしなかった。彼らにとって失礼に当たると思いながらも、まだ気持ちが冷めないうちに言ってしまいたかった。
「皆さん。敗戦の将が手ぶらでおめおめと戻ってくることをお許しください。しかし今回のことで分かったことがあります」
ジェラノールは集まった面々を見渡した。
「この度の敗戦は、全て私の責任です。全ての判断を他者に委ね、私が見るべきものが見えておりませんでした。おそらく今回のことは、亡き父ドロアプールも望んではいないでしょう。このようなことは、二度と起きてはならないのです」
ジェラノールは背筋をピンと伸ばした。
「これからは、できるならば話し合いによって勢力を拡げていきたいと思います。それがどんなに大変なことか、どんなに甘いことなのかは、重々承知しているつもりです。ですが、私は武力に頼って、このような悲劇を再び起こすことの方が恐ろしい。ですから、皆さんの力を貸してください。お願いいたします」
ジェラノールは深々と頭を下げた。
皆が分かってくれたかどうかは分からない。不満は必ずあるだろう。それでもと、ジェラノールは思う。
――ダン様、私はあなたの仰るとおり、私にできることをいたします。
ジェラノールの話が終わり皆が解散した直後、ジェラノールの許に駆け寄る足音が聞えた。
「ジェラノール!!」
ユルキの怒声を聞き、ジェラノールは腹を決めた。ユルキはジェラノールの胸倉を掴んだ。
「なんでだ、なんでなんだよっ! 君は帰って来たのに、父さんは帰ってこない。レイノール殿が、父さんが戦死したって報せを――どうして、父さんは死んだのに君は生きているんだっ! 生きて戻ってきて、どうして臆病者みたいな宣言をするんだ! 父さんを返せ、返せよぉ……」
「申し訳ありません。しかしユルキ、私はそうしたいと思ったの」
「なんだよそれ、勝手じゃないか! こうなるんじゃないかって、だから父さんを連れて行くなって……。僕はこれから、どうして生きていけばいいんだ……」
ユルキはその場に崩れ落ちた。ジェラノールもしゃがみ込み、ユルキの肩にそっと手を添えた。
「ダレオ様が亡くなったのは、私の責任です。私が判断を誤ったばかりに、失うことのない生命を散らせてしまった。その責任は私にあります。だから、私はあなたの悲しみや憎しみから逃げることはできない」
涙が出そうになった。しかし、ここで泣いてはならない。ジェラノールは唇をキュッと噛みしめて、涙を堪えた。
「ダレオ様は、私がリーフムーンの傀儡になっていやしないかといつも気にかけてくださっていたわ」
「だからなんだって言うんだよ。結局君のことなのか。父さんはいつも君の味方だ。ジェラ、父さんは君の肩ばかり持つ! だから嫌だったんだ。僕を見てほしいのに、僕を気にかけてほしいのに、父さんはジェラのことを気にかけていた。それでも、父さんは僕の誇りだったんだ。なのに君は、父さんを連れて行ってしまった。一番遠いところへ、連れ去ったんだ。父さんを返せよ!」
ジェラノールは、それ以上何も言えなかった。ユルキの苦しみは分かるような気がしたものの、きっとそんな気になっているだけなのだ。これ以上分かった気になって何かを言ったところで、ユルキを逆上させることしかできないのだろう。だから、ジェラノールはただ頭を下げるしかなかった。
「申し訳ありません。でも、分かって。ダレオ様が気にかけていらっしゃったのは、私だけではないの。私を導いてくださったのはダレオ様だから、そのことに責任を感じて私を気にかけてくださったのかもしれない。でもね、でも、ダレオ様は他の人たちのことも気にかけていらしたわ。私も含めて、皆ダレオ様のことを慕っていたから。ユルキ、それはあなたも例外ではないはず。私ばかりではなくて、あなたのことも、いえ、あなたを一番に気にかけていらしたんだと思うわ」
ジェラノールはユルキの目を見つめた。
「あなたのお父上をここに連れて帰ることはできなかった。本当に申し訳ありません。でも、ダレオ様が亡くなっても、あなたの誇りは失われないはずよ。うまく言えないけれど……それだけは覚えておいて」
そこまで言って、ジェラノールはユルキに背を向けた。
自分の父親はどうだったのだろう。母が早くに死んで、ドロアプールが男手ひとつでジェラノールをここまで育て上げた。そう言い切るのもおかしな話な気がしてきた。ジェラノールがいつも見ていたのは、ドロアプールの背中だ。ときどきは振り向いて笑顔を見せてくれたし、頭を撫でてくれた。ジェラノールの我儘を聴いてくれたこともある。だがドロアプールはいつもいなかった。ジェラノールには決して向けない真剣な厳しい顔をしていた。
そう、ジェラノールにとっての父との思い出は、その一瞬の笑顔だけだった。ジェラノールが憧れ、誇ったのは、決して厳しい顔では振り返らないドロアプールの大きく逞しい背中だった。だがそこに、ジェラノールの欲しかった安らぎなどありはしなかった。
戦いが終われば、安らぎを手にすることができるのだろうか。ジェラノールは顔を上げ、一歩踏み出した。