王子の旅日記

第一章 旅は道連れ


 ターバンの後ろ側から垂らした布が風になびく。灼熱の太陽が容赦なく彼を照らしつける。どこまでも続く草の海を歩くのは、小柄な彼の他には背の高い男、そして大荷物を背負った一頭の馬だけであった。
「シード」
 背の高い男が不安げな表情の少年を振り返った。細面の鋭い隻眼が、頼りなさ気に揺らぐ目を捉える。
「な、なにかな?」
「伝え忘れたことがある。周囲に誰もいないのが一目瞭然だから、今言う。二度は言わないから、しっかり聞いておけ」
 隻眼の男の低い声に慄きながら、少年はゆっくりとうなずいた。
「よし。いいかシード。壁に耳あり、間仕切りに目ありだ。どこに誰が潜んでいるかは分からない。だからこの先、自分が王子だとバレるようなことは一切発言するな」
「はい」
「知られてしまえば、お前の旅の目的は達せられなくなる。それに、お前の身を守るためでもあるのだ。分かるな?」
「はい」
「ならば、いい」
 男は再び前を向いた。シードもそれに合わせて前を見た。まだ遠くて見えないが、視線の先には彼らが現在目指している都市シェリングがある。太陽は彼らから見て右側にあった。
 彼らの出発点は、ジンガー大陸の西半分を有するウェスパッサ連合王国内の王都ウィッセルベ。
 その少年は、ウィッセルベ家の第一王子・ラッシード=ウィッセルベその人であった。
「あそこにオアシスがある。蜃気楼でなければ、そう遠くはないはずだ」
「あはは……」
 経験豊富なゼリドの読みは正しかったようで、オアシスにはシードが思ったよりも早く着いた。もっとも、世間のいろはも分からないシードには、両極端な予想しかできないが。

 オアシスでの休息もほどほとに、二人はまた歩き始めた。与えられた一年という期間は、ウェスパッサをある程度回るためには決して短くはないものの、のんびりしているほど充分でもない。それにシードの旅の目的は、彼の成長と成人の儀と共に、市井を見ることにあるのだ。
 程なくして、隻眼の男ゼリドが眼光を鋭く光らせる。
「さて、早速客がおいでのようだ」
 その先にはうごめく影があった。何かの動物だろうか。それとも人。ただ、ゼリドの雰囲気からして只ならぬ事態であることは察した。
「シード、お前も戦うか?」
「えっ」
 シードが不安げにゼリドの横顔を見つめ素っ頓狂な声を上げた途端、うごめく影が一斉に出てきた。五人ほどの人だ。明らかにシードたちを狙っている。
「不安なら下がっていろ。俺の戦いを見ているんだ」
 一人が斧を振り上げて襲い掛かる。
「わっ!」
 シードが驚いて声を上げるより先に、ゼリドが槍の柄で一突きにし、一人を気絶させる。その拍子にシードは尻もちをついた。
「一人」
 ゼリドはシードの状態を確認して前に出た。シードは槍のリーチを活用して一人を薙ぎ払い、一人の首元に打撃を食らわせ、足を払ってみぞおちを突き、最後の一人は恐怖で勝手に気絶した。
 そんな美しく洗練された槍さばきを見て、シードはポカンと口を開けていた。
「よし、一丁上がりだ。もう心配ないぞ、シード」
 ゼリドがシードに手を差し出す。そこでようやく尻もちをついていたことを思い出した。
「ああ、ゼリド、こ、怖かった……。あと、その」
「どうした?」
「こ、腰が抜けて立てません……」
 必死に戦慄をごまかそうと笑ったものの、やっぱり足に力が入らなかった。
「ほら。しっかりしてくれよ、お坊ちゃん。今後もこういうことはまたあるだろうかな」
 シードは差し出された無骨な手を取り、引っ張り上げてもらいながら、ようやく立ち上がった。

 オアシスから三日歩いて、ようやく大きな街に着いた。白を基調とした石畳の港町シェリングは、シードが嗅いだことのない臭いに溢れている。
「わあ、大きい街だなぁ。しかも、たくさん水がある! あれが海だね! なんだかちょっと変な匂いがする……」
「たぶんそいつが潮のにおいだ。初めて嗅ぐには刺激が強すぎるか? ここに着いたら、まずは海で獲れたばっかりの新鮮な焼き魚なんかを食うのが醍醐味だ。もちろん食うな?」
 王宮で味わったことのない食べ物に、シードは目を輝かせ、全力でうなずいた。
 シェリングはウェスパッサ連合王国内で最も外部との交流が盛んなため、ジンガー大陸に住む多くの民族や国の人たちが集い、大陸で一番賑やかな街である。たくさんの屋台が出ており、その中にゼリドが探している焼き魚の店もあった。
「焼き魚二尾くれ。」
「はい。五十ベリルです」
「五十!? 冗談だろう、三十にしろ」
 ゼリドがシードに向けてこっそりウインクした。シードは軽くうなずき、一歩前へ出て、ゼリドと店主のやりとりを一言一句逃さず聞いた。
「そっちこそ冗談言わないでくださいよ、そんなんじゃ生活できません! 48です」
「いいや、35だ。足元見るような商売するんじゃない」
「無理ですよ、こっちは生活かかってるんですから。45。それ以上はお話になりません」
「分かった、38。これでどうだ」
「42です。これ以上は答えられません」
「40」
「41」
「仕方がないな、じゃあ41で買おう」
「もう勘弁してください!」
「すまんな。シード、落とすなよ」
「ありがとうございます」
 シードは焼き立ての魚をゼリドから受け取り、かぶりついた。
「しっかり聞いてたな。あれをお前もできたら一人前だが、すぐには無理だ。結構難しい。交渉を誤ると、応じてすらもらえないからな」
「でも、定価で買ったらいいのでは?」
「ここは観光地でもある。観光地で定価でものを買おうと思ったら、路銀がいくらあっても足りんよ。足元見てるのはあちらさんの方だからな。ぼったくられないように用心しろよ」
「うん、分かった」
「シード、あれを見るといい」
 ゼリドが指差した先には、街で一番高いと思われる石造りの建物がある。高さか、それとも手入れが行き届いているためか、街の中でも一際目を引く。
「すごい、大きい」
「あれはシェリング一の観光名所だ。シェリングに来たら、焼き魚し舌鼓を打ちつつ、アレを見るのがいい」
「へぇ」
「もう関係ないのですが、ここ、以前はホワイトクロスの本部だったんです」
 雑踏の中から、ほがらかな妙齢の女性が突然話しかけてきた。
「ホワイトクロス?」
 医師団連盟ホワイトクロス――その名には懐かしい響きがある。二年前の亡者事件でその渦中にあり、共に怪我人の治療をした白い少女がホワイトクロスの制服を着ていた。
「本部だった、とは?」
「一年くらい前だったかしら。団長さんが突然この建物を売るって言い出したんです。立地も申し分ないし、外観も綺麗だし、それは人気でした。もちろん設備は彼女が全部持っていったけど、それでも十分です」
 女性はそれだけ話し、手の平を差し出した。その意味が分からずにじっと手を見ていると、ゼリドが嫌そうな顔で銀貨を一枚その手に握らせた。女性は満足そうに微笑み、雑踏の中へ消えていった。
 ここからホワイトクロスはいなくなったのか――そう思うと、少しだけ寂しくなった。白い少女しか知らないけれど、成り行きで立ち寄っただけの街であのように人々を救える少女が属していたホワイトクロスに、シードは崇拝じみたものを持っていたのだ。
「ゼリド、反対とか、なかったのかな」
「反対?」
「建物を売ってしまうこと」
「あったかもしれんな。それは外野の俺たちには分からないことだ。だが、世界中に派遣される彼らにとって、大事なのは場所ではなかったのかもしれない。人を救うという気持ちが、ホワイトクロスをホワイトクロスたらしめているのかもしれないな」
 それはすんなりとシードの心に入ってきた。あの白い少女の姿を思い出せば、合点がいく話だ。クリムの噂は、時々ではあるが、シードの耳にも入ってくる。
「ま、これだけ立派な建物だ、単に維持が難しくなったという線も考えられる」
「ゼリド、水を差さないでくださいよ」
 ゼリドの言葉も理解できる。そのために組織運営が難しくなったという線も考えられないではない。けれど、それはなんだか、少し寂しいというか、やるせないような感じがした。

 シードは物珍しい街をあますところなく見ていた。このような経験は貴重だし、ウェスパッサに戻ったら二度とできないかもしれない。色々なことをして損はない。その手の魚は、半分くらいまで減っていた。そんな時だった。
「わっ」
 キョロキョロしていたためか、誰かにぶつかってしまった。ゼリドも注意してくれればいいのに、と思いながら、ぶつかった相手にはすぐに謝った。
「す、すみません!」
 幸い、手に持っている焼き魚は無事だ。相手にも焼き魚は触れていない。それが今のシードには一番大事だった。だが、事態は思ったほど単純ではなかったようだ。ぶつかった相手は、鬼の形相で一回り小さなシードの顔をのぞき込んだ。
「痛かったんだよ、それをすみませんで済ます気か? 見ろよ、この腕。お前さんがぶつかったせいで、砕けちまって使い物にならないじゃねぇか! どうしてくれるんだ、ああ?」
「ど、どうしてくれると言われても、どうすれば……」
 シードは困ったようにゼリドを見たが、ゼリドは我関せずの表情で、少し遠くの方に移動してシードを見ていた。このような些末な問題は、自分で解決しろということなのだろう。シードは諦めて、ぶつかった男に向き直った。
「物わかりが悪いなぁ、てめぇはよ? その腰に下がってる高そうな剣を寄越せっつってんだ!」
 男は乱暴に、シードの右肩をど突いた。その反動で尻餅をつき、まだ食べかけの魚を落としてしまった。もうすでに道中で何度か襲われているせいもあるのか、今何者かに暴力を振るわれたことよりも、せっかくの新鮮なおおいしい魚を落としてだめにしてしまったことの方が、シードには衝撃的だった。
 ――なんでかなぁ。そんなに目立つことはしてないはずなのに、やけに変な人に絡まれるなぁ。
 元はといえば、よそ見をして歩いていたのが悪かったのだが、それにしたって理不尽だ。その時、困り果てたシードの前に颯爽と影が現れ、シードの周囲のチンピラどもをなぎ倒していく。フルーティーで爽やかな香水の香りが鼻孔をつく。オレンジの鮮やかで短い髪が特徴的な彼女は、彼らを畳んでしまうと、シードを振り返った。勝ち気な性格を思わせる少しつり上がった目をシードに向け、余裕さを雄弁に物語るように弧を描いた唇を開いた。
「怪我はない?」
 少女にしては低めの声は、しかしシードの想像を裏切ってはいなかった。
「は、はい。助けてくださって、ありがとうございます」
「お礼なんていいのよ。あ、でもそこのお店のケーキ、すっごくおいしそう」
 下げた頭をパッと上げて、にこにこ笑う少女に軽くうなずいた。

 フォークでケーキのトッピングに乗っているイチゴを刺しながら、少女はシードをまじまじと見つめた。
「世間知らずのお坊ちゃまにしか見えないわよ、どう見てもね」
「そ、そうですか?」
 そ、と短く答えながら、イチゴを口の中で転がす。どう答えたものか分からず、シードもタルトのパイナップルを素早く口に放り込んだ。
「そういうお嬢さんは、アランバルトから来たのか?」
 ゼリドの助け船に、シードは安堵の溜息を心の中で吐いた。それに対して目の前の少女は、呆れたように鼻で溜息を吐き、フォークの先でゼリドを差した。
「あら、私は独りで歩ける一人前よ。そこのお坊ちゃまと違ってね。その私を捕まえて『お嬢さん』だなんて、失礼だと思わない?」
「なるほど。だが俺はあんたの名前を知らない」
「レーゼよ。レジルノ=オルバルト。確かにアランバルトから来たわ。もっとも、こんな恰好してるの見て分からない人もそうそういないでしょうけどね」
 レーゼは、細やかな刺繍が裾に施された緑の服を着ている。小さな花を象った刺繍は、確かにアランバルトで有名なものである。
「そうか」
「ちょっと、『そうか』で終わらせるつもりなの? 他人に名前聞いておいて自分だけ何も言わずに? いい年してみっともないオジサマだわ」
 レーゼと名乗る少女の言葉にシードもうなずき、すぐに謝罪した。
「ああ、ごめんなさい。彼はゼリド、僕のご、用心棒です。僕はラ……ライズ地方から来たシードです」
 言いながら、口をはさんだことに後悔し、タルトを一気に口の中に放り込んだ。本当はもっと味わって食べたかったので、口惜しいし勿体ない。魚といいタルトといい、悲しすぎる。それに、このような答え方では、すぐに嘘だと分かるのではないか。この些細な受け答えで、シードの身分がばれてしまうようなことがあってはならない。
「ふーん……。ライズ地方と言えば、帯の刺繍が有名よね。なんだっけ、ドラゴンとかいうやつ。持ってないの? あれ見たことないから、見てみたいんだけど。勿論、今着てる服も素敵よ。動きやすそうで、旅には持って来いよね」
 レーゼ喋りながら器用にケーキをフォークで切り、口に運んでいる。シードの言葉を信じたかどうかは分からないが、話は悪い方へは向かっていないようだ。シードはゼリドに目配せをした。
「ああ、こいつの親はそれを持たせようとしたんだが、荷物になるから置いてきたんだ」
「あ、そ、そうなんです! あれは凝っている分重量もあるし、旅には不向きだから。格好いいから好きなんですけどね。でもレーゼさんの服も素敵ですね。アランバルトのセンスも最高です」
 ゼリドの話に乗りかかりつつ笑ったシードに、レーゼは着ている緑の服の裾を摘んでウインクして見せた。
「そうかしら? ありがとう。これ自分で仕立てたのよ。これの良さが分かるなんて、あんたも中々いい目をしてるわ。アランバルトにはもう行った? これから行くんだったら、仕立ててあげてもいいわ」
「え、本当ですか?」
「あはは、冗談よ! それより気をつけなさい」
 それまでカラカラと笑っていたレーゼの視線が鋭く光る。
「お前のそのククリナイフ、お坊ちゃまには分からないかもしれないけど、ものすごく目立ってるわよ。それじゃあ盗賊に狙ってくださいって言ってるようなモノね。今まで襲われたことがなかったとしたら、そこの用心棒の腕がよっぽど立つのか、お前の運がいいのかってとこかしら」
 よく通るレーゼの声は、耳に心地が良かった。それより何より、きちんと誤魔化せたようで安心した。普段からゼリドには全く頭が上がらないが、ますますそうなりそうである。追い剥ぎのこともある。シードはレーゼに苦笑いを向けた。
「あ、その、そうですね。ご忠告ありがとうございます」
「ま、精進することね」
 レーゼは満足げに「ごちそうさま」と言い残し、手をひらひらと振りながら立ち去った。いつの間に平らげたのか、ケーキの乗っていたはずの皿は綺麗になっていた。

 世の中には色々な人がいるものだ。分かってはいるが、シードはしみじみと実感していた。というよりも、太陽のような頭髪をした少女を早くも忘れがたく思っていると言った方が正しいかもしれない。とにかく、シードは先ほどの少女の一言一言を、何度も脳内で反芻していた。
「シード、惚れるのもボーっとするのも悪いとは言わんが、面倒事だけは勘弁してくれよ」
 ゼリドの声も一層遠くに聞こえる。そんなシードの手には、先ほどのリベンジではないが、小ぶりの焼き魚が握られている。先ほどは比較的大きな魚で、食べきれなかったのと、ショックもひとしおだったのとで、小さいものを選んだのだ。
「ゼリド、アランバルトってここから遠いよね」
「遠いな。ついでに言えば、最後に行く場所になる」
「そっか、遠いね」
「……こりゃ駄目だ」
 手に持った魚に口をつけることなくひたすら遠くの空を眺めるシードに、ゼリドが溜息を吐く。しかもその方向は北のモシャルオンで、アランバルトとは全く方角が違う。そしてシードは、そのことは全く気にも留めていない。要は、アランバルトっぽい方向を見て黄昏ていることが大切なのだ。
 そんな風にボーっとしているシードの許に、大柄な男が立ち止まる。ゼリドではないとすぐに分かった。ゼリドは長身で細身だが、目の前の男は縦にも横にも大きい。
「よう坊ちゃん、いいおべべ着てるじゃねぇか。ちょいと俺にも恵んでくれよ」
 男が何やら言っている。自分に話しかけられているとは思っていないシードは、誰に話しかけているのだろうかと、対象を見つけようとした。しかしその男はシードの肩を強く掴んだ。
「無視すんなよ。憐れんでもくれねぇのか、ああ?」
「えっと、あの」
 周りを見渡すも、ゼリドの姿が見当たらない。ものすごく頼りにしている彼がいないのと相まって、目の前にはいかつい顔とくれば、シードの心細さはひとしおである。
「な、何を恵めばよろしいのでしょうか?」
「何って、金に決まってんだろ、金に! それか、高く売れそうなそのナイフでもいいぜ」
「そ、そんなこと言われても、これは手放せません」
 現状、シードがシードたる証は、成人として認められるためのククリナイフしかない。行ってしまえば、シードは道行く人々に紛れてしまえば分からなくなるくらい、ごく普通の平凡な一般的な顔をしているのだ。
 そういう事情もあり、返答に困っている中、腹部に鈍痛が奔る。殴られたのか。そう認識する前に、シードの視界は暗くなった。

 やってしまった。あのレーゼとかいう少女に出会ってから骨抜き状態になっているシードを、少しの間に見失ってしまった。ゼリドは困り果てていた。あまりにも心配し過ぎて過保護になるのもよくはないが、だからといって、成人の旅の最初の街で監督責任を放棄するのはあまりにも無責任だ。シードの姉ディーナは積極的で行動派だったが、その分よく目立ったために、見失うことはほとんどなかった。しかしシードは消極的とまではいかないが、受動的なのに、ひとつの場所に留まらない。誰かにさらわれたとか、変な人に付いて行ったなどという話ならばまだいいものの、仮にゼリドを捜して彷徨っているのだとしたら、最悪である。手がかりも多くはない。もしシードが目立っているとしたら、良い目立ち方ではないことは明明白白である。さて、どうしたものか。
「あら、さっきの。えっと、ゼリドって言ったっけ?」
 聞き覚えのある声に振り返る。そこには、鮮やかなオレンジの髪と、勝気な緑の目の少女が立っていた。
「なんだ、レーゼか、奇遇だな。生憎だが、今は話し相手にはなってやれないんだ」
「何、困ってるの? あれ、あのお坊ちゃんは? あ、もしかして迷子?」
「ご明察」
「やっぱりね。どうかしら? 良かったらあのお坊ちゃまを探すの手伝うわ」
 この際、少女の申し出は非常にありがたいかもしれない。なにせシードは一瞬の出来事かもしれないが、この少女にホの字である。レーゼが探していると知れば、飛び出してくるかもしれない。そこに期待を掛け、ゼリドはうなずいた。
「じゃ、報酬はあそこの出店のおまんじゅうね」
「さっきのケーキに比べりゃ安いもんだ」
「良心的でしょう? じゃあ、時間を決めてそこの出店で落ち合いましょう」
「だな。あの船が出る音が合図だ」
 ゼリドは今しがた入ってきた船を指さした。リーフムーンの港町との連絡船だ。一日の便が多い。
「分かった」
 そこで一旦レーゼと別れ、ゼリドは聞き込みを始めた。手当たり次第では効率が悪いので、長いこと同じ場所に留まっている出店の主を中心にシードの特徴を話して行方を探った。
 何件、十数件と回っているうちに、ようやく当たりを引いたらしい。果物屋のふくよかな女主人が、呆れたような表情で答えてくれた。
「その子だったら、さっき人相の悪い男に連れていかれたよ。一人でふらふらぼけーっとほっつき歩いているから……」
「何?」
 人相の悪い男は、なんでも、港町にいるとかなり目立つ風貌――鍛え上げられた胸板を惜しげもなく晒し、腰には動物の毛皮を巻いた大男――という話である。人相が悪い上素行も悪いので、彼の姿を見かけたら、街の人たちはなるべく関わらないようにするのだそうだ。それでも何で目をつけられるか分からない。目をつけられたら最後、諦めて金品を差し出すしかないのだとか。そのような男にまで目をつけられるとは、シードはとことん悪いものを呼び寄せる体質らしい。更にその男は、街はずれにアジトを構える盗賊団の狩猟なのだそうだ。
 これは一大事だ。どうにか対策を練らねばならない。そう思ったころ、例の連絡船が出航を知らせる笛を鳴らした。

 まんじゅう屋の前に行くと、緑の服を着た少女がすでにゼリドを待っていた。
「ゼリド、見つかった?」
「いや、だが手がかりはあった。なんでも、人相の悪い毛皮の男に連れて行かれたらしい」
「その情報なら私も仕入れた。そいつの行き先に心当たりがあるわ。案内するから、早く行きましょう」
「ちょっと待て。あんた、まだ首を突っ込むつもりか?」
「まだって言われても、普通の神経してたらここまで来て引き下がれないでしょう?」
「いや、普通の神経なら厄介ごとに首を突っ込みたくはないな」
「まあ、そんなことはいいのよ。私はその、坊やを連れ去ったとかいう強面の男に心当たりがあるし、行っても足手まといにはならない。寧ろ力になれるわ。だから手を貸してあげるって言ってるの」
「何がお望みだ?」
 やけに自信に満ち溢れた態度にあまりいい予感がしなかったが、それはあからさまに明るくなったレーゼの声音と表情で確信に変わった。
「あら、話が早くて助かるわ。私、今ちょーっとお金がなくて困ってるの。だからさ、お金欲しいのよ。ほら、あなたたちって見たところお金持ちでしょう?」
 やはり。ゼリドは大きな溜息を吐いた。
「悪いが、最低限しか持ち合わせていない。だからお前さんにやれる金はないな」
「そこをなんとかっ! ほら、それにあなたじゃ小回りが利かないかもしれないけど、私だったら武器も必要ないし、もしもの時は使えると思うんだけど……」
 レーゼは右腕の力瘤を左手で勢いよく鳴らした。
「俺たちにとって、あんたがメリットになるとでも?」
「そうそう。人さらいの本拠地に心当たりがあるのよ。ね、悪い条件じゃないでしょう?」
「……いくらだ?」
「分かるぅ! そうね、まあ色々込みで、20万ベリル」
 とてもいい笑顔で指を二本立てている。ゼリドは驚いて立ち上がった。
「ちょっとまて、20万だと!? そんなでたらめな話があるか!」
「ないの?」
「そんな大金をあんたに払ったら、俺たちが旅を続けられないじゃないか! いい、助けはいらん」
「ああん、そんなこと言わないで、ね? 10万にしといてあげるからさぁ」
「それのどこが『ちょーっと』だ、断る!」
 ピシャリと言い放ったゼリドに対して、レーゼは顔を近づけた。まだ十九だというのに、有無を言わさぬ迫力がある。
「お前も知らないわけではないわね、あのお坊ちゃんと違って世間知らずではないのだから。攫われたらあとは時間の問題でしょう? 独りで時間かけてお坊ちゃんを助けて、あの子が五体満足で済むと思うの?」
 今までの猫なで声とは全く違う、低く重みのある声だった。
「ここで会ったのも何かの縁よ。この際、10万は嘘でもなんでもいいわ。なんだったらあのお坊ちゃんの紋章剣でもいい。ただ、困っている人を助けるのは、このウェスパッサの掟でしょう?」
 ゼリドはじっとレーゼの目を見た。声と同じように、覚悟も肝も据わった目をしている。真意はどうであれ、本気なのだ。それに、レーゼには武術の嗜みがあるであろうことは、体つきや目配り、歩き方などで簡単に推測できることである。
「嘘かどうかは別だし、見返りを求めることが単純に『助け』かどうかは知らんが、あんたの言い分はよく分かった、この際だ、その手に乗ろう。ただし、人殺しはナシだ」
「そんなのは当然よ。私だって、出会って間もない坊やのために生命を賭けたり奪ったりするのは、ごめんだわ」
 ゼリドは27年前の事件以来〈殺さずの誓い〉を立て、守っていた。始めは罪の意識からだったが、今はそれがゼリドの誇りとなっている。だからといって、ゼリドが殺さなかった分を他人が殺してしまえば、何の代わりもない。ゼリドはレーゼの答えに満足げにうなずいた。

 レーゼと打ち合わせの後、彼女が確かな情報だと言った、シードを拐かした者のアジトへと赴いた。アジトは町外れの岩場にある洞穴だった。レーゼの言葉通り、厚着で筋肉を隠し、武器は置いて、頼りなさげな表情を浮かべ、そろりとアジトへ入る。その辺に転がっている石を蹴飛ばし、わざと音を立てる。程なくして、人相の悪い男たちがゼリドを取り囲み、頭領らしき者のところへ連れていった。
 偉そうに大きな椅子に座っている頭領は、果物屋で聞いた通りの格好をしており、一層人相が悪かった。
「あんたか。俺たちが拐かした坊やの付き人だって?」
 それにしては貧相で貧弱で品のないナリをしている、と、頭領はこれまた品なく馬鹿笑いしている。
「うちの息子を返してください。あの子は妻の残した最後の、私の希望なのです。あの子のためなら、私はなんだって差し上げます。我が家の全財産だろうが、私のこれまでの功績だろうが、なんなら私の生命でもかまいません。だからあの子は、あの子だけは、どうかお助け下さい」
 懇願しながら、ゼリドは内心失笑していた。確かに、ここでシードの生命を奪われたとあっては、ゼリドの明日もないだろう。誘拐されたことそれ自体は、ハルーシャやダナ――シードの両親であり、現役の王と王妃のことだ、露も気にしないはずだが、死体を連れ帰ったとなれば話は別だ。
 彼の姉ウッディーナの時も、彼女の無鉄砲かつ首を突っ込みたがる正確に散々振り回されたものだが、彼女の場合は、自分の身を守る術を実践することができる程度には肝が据わっていたものだ。シードにそれがあるかと問われれば、否である。この状況からシードを救い出すためには、地の利は抜きにしても、確かにレーゼの助けが必要となるのだろう。
 そんなゼリドの腹の中を知ってか知らずか、頭領は卑下た笑みを浮かべながらゼリドを指さした。
「お前の生命なんざもらっても仕方がなかろう。とくれば、全財産だ。それは今、どこにある? 俺たちを満足させるだけの財産があるっていうのかい? まあ、あのお坊ちゃんの持っている紋章剣からすれば、さぞかし名のある貴族なのだろうという推察はできるだろうが」
 この男が存外お喋りで、ゼリドは内心ホッとしていた。予想以上に時間を稼ぐことができている。
「はあ、先代の都合により、家名を告げることはできませんが、ウィッセルベのお家なのです。道楽で旅をしていたのですが、よもやこのようなことになるとは。これでは死んだ妻に顔向けもできません。どうか、どうか息子をお助け下さい」
 ゼリドは男の足に縋り付いた。我ながら名演技である。
 そんな時だった。何人かの男がうめき声を上げて倒れる。そう、この時を待っていた。ゼリドは頭領から素早く離れ、身構えた。
「貴様、何の真似だ?」
「人質は返してもらったぞ」
「なに!?」
 頭領の後ろには、不敵な表情のレーゼと、不安そうなシードが立っていた。
「き、貴様っ! なぜ!?」
「ここのことは情報屋さんに聞いて知ってたのよ。勿論、抜け穴もね。ほらシード、いつまで掴まってるの。自分で立ちなさい。いつまでも支えてなんていられないわよ」
「あ、ご、ごめんなさい。また腰が抜けてしまって」
「馬鹿、こんなことで腰なんか抜かさないでよ。その紋章剣は飾りなの? 全く、みっともないんだから」
 腰のククリナイフは一人前の男の証だ。シードはなおも不安げな表情のままではあったものの、半開きだった口を真一文字に結び、レーゼの手を借りながらではあるが、しっかりと立ち上がった。
「やるじゃん、坊や」
 レーゼの背後で、レーゼより一回りも二回りも大きな男が斧を振り上げている。
「危ない!」
 ゼリドの警告よりわずかに早く、レーゼが右足を軸に背後の男の足を払う。なるほど、ゼリドの読みは当たっていたようだ。これならば二人の心配は無用であろう。ゼリドは近くにあった木の棒を手に取り、ぶんぶん振り回した。
「なんだこいつら、やけに強いぞ!?」
「お頭ぁ、そんな話は聞いてねぇ!」
「俺だってそうだ! くそ、野郎ども、やっちまえ!!」
 あっという間に、狭いアジトは大乱闘である。

 気が付くと、シードにとってよく分からない事態になっていた。おっかない人相の男に攫われたのは完全にシードの不注意だが、そこから今の、誰がどこにいるのかさっぱり分からない状況になるなどとは予想もしていなかった。シードは乱闘状態になっている盗賊団のアジトで、ひとり目を白黒させていた。
 腰に提げているククリナイフは、勿論飾りではない。この場で誰がシードにとって害悪を成す者かは簡単に判断がつくものの、剣の腕が未熟なシードが振ったら、もしゼリドやレーゼに万が一当たりでもすれば――それを考えると恐ろしい。勿論、二人がシードのヘナチョコ剣に当たるはずもない。ここでただボーっと突っ立っているのも、なんだか変だ。そう思い、シードはここぞとばかりにナイフを抜こうとした――。
「わっ」
 ――が、勢い余って帯から鞘ごと抜けた。そんなことは構わず、シードは鞘のついた剣を振り回した。するとどういうことか、その剣が盗賊の誰かに命中し、何者かがよろめいた。
「くっ、こっ、このっ、小僧がっ」
 しかもよく見ると、相手はシードを攫った張本人である頭領ではないか。シードからの打撃を顎にもろに喰らった頭領は、フラフラとしながらもシードを指さした。相手は見るからに戦える状態ではないが、シードは思った。僕はおしまいだ、と。すると、頭領が更にうめき声を上げ、前につんのめるようにして倒れた。その後ろには、手刀を構えたレーゼがいる。
「負け惜しみなんてみっともないわよ。勝ちの目なんか初めからなかったのに」
 ハッとして周りを見回すと、立っているのはシードとレーゼとゼリドのみだった。

 レーゼとゼリドのおかげで晴れて自由の身となったシードは、アジトにあったロープで盗賊団を縛り、シェリング港へと同行させた。レーゼ曰く、あのアジトにいた者たちは手配中の盗賊団で、割といい報酬がもらえるのだとか。
「まさかレーゼさんに二度も助けてもらうことになるなんて、露も思っていませんでした。本当にありがとうございます。なんとお礼を言ったらよいか分かりません」
「いいよいいよ、くすぐったい」
「シード、この女に10万ベリル請求されていると知っても、頭を下げられるのか?」
 心身ともに疲れ果てた様子のゼリドが不満を漏らす。それは初耳だ。キョトンとしているシードと絶望しているゼリドを、レーゼがケラケラと笑った。
「お金ならいいわよ。ゴロツキ捕まえた賞金ももらえることだしね。それより、あなたたち面白そうだから私を同行させてほしいのだけど」
 シードとゼリドは揃って目を点にした。レーゼは明るい人柄のようだし、彼女が二人の道中に加われば、旅は楽しくなるだろう。その点においてシードは大賛成ではあるものの、ゼリドの表情は渋かった。優秀な姉が同行者なら、すぐにうなずいたかもしれない。ウィッセルベへ戻ってきたときは、ほかの旅人たちも一緒だった。だがシードは、優秀な姉と違ってすぐにヘマをするし、口を滑らせてしまいそうだ。困り果てたシードは、頼りない目をゼリドに向けた。
 そんな二人を見て、レーゼは勝ち気な笑顔を崩すことなく続けた。
「まあでも、結果的に情報料とか諸々の経費を合わせて20万になるのよね。払ってくれる?」
 さらにレーゼは、「今すぐ、耳を揃えて」と殊更ゆっくりと告げた。ゼリドがいよいよ苦虫を噛み潰した表情になる。シードはというと、そんなゼリドの顔を、期待と希望を込めてまじまじと見つめた。レーゼの強気な視線とシードの輝く視線、そして20万ベリルという大金の前に、ついにゼリドは深い溜息を吐いた。
「仕方がない、来い。ただし、ワガママが過ぎるようなら、捨てていくからな」
「あはは、捨てられて困るような私じゃないわ」
「レーゼさん、よろしくお願いします」
 一緒に行くなら迷惑をかけるのは必須だろうから、しっかりと挨拶をすることは大事だ。そう思って改めて頭を下げたのだが、レーゼは困ったように溜息を吐いた。
「まったく、調子狂うわね、この子は」
 だが印象が悪かったわけではないらしい。そのことに安堵し、シードは破顔した。



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