王子の旅日記

第二章 人の恋路を邪魔する奴は


 シェリングを出て若干の湿気を海風が浚っていく温帯を抜け、シードは身体を震わせ鼻をすすりながら歩いていた。まだ「肌寒い」で済む感覚ではあるが、明らかに空気が乾き、冷たくなっている。
「確か途中に集落があったはずだ。この先はもっと寒くなるから、毛皮を買おう。それから、替えの手袋と靴下も」
「そうそう。このままだと、モシャルオン領に入る前に凍えて死んでしまう」
 レーゼの格好は、シードよりもずっとずっと寒そうであった。実際、どうしてこんなところで手足だけでなく腹まで出して無事なのか不思議でたまらない。曰く、マントがあるから大丈夫とのことだが、全くもって大丈夫とは思えなかった。自分のことはともかく、心配になって口を出してみるも――。
「うるさいわね、私はこの格好が好きなの。お洒落は我慢と気合いよ、気合い」
 と、この通りである。彼女の方がシードよりも旅慣れているし、本人に大丈夫だという確信があって、かつ好きな格好であるならばそのままの方がいいのかもしれないと、シードはそれ以上何も言わなかった。シードだって活発で活動的にに見えるレーゼのその格好が好きだし、何より活発さが姉を彷彿とさせるので安心するのだ。そして、自分がいかに消極的で内向的かを知っているから、憧れでもあった。そんなレーゼも、ゼリドに「気合いでしのげる寒さならば、毛皮も必要あるまい」などと厭味を言われてしまい、渋々腹を隠す服を買うこととなる。実に嫌そうな顔をしていた。


 先へ進むにつれ、景色が白く、空は青くなっていった。空から降ってくる、白くて小さくて冷たいものは雪なのだと、ゼリドが教えてくれた。雪――ウィッセルベから出たことのなかったシードは、初めて見るものだ。とても静かで、渇いていて、不思議なにおいがする。
「ねえゼリド、このにおいって、何?」
「これは、雪のもつにおいだ。寒さの前に生命が散る。熱はあらゆるものを昇華させるが、冷たさは様々なものをとどめ、沈殿させる。そのにおいだろう」
 あとは、空気が乾いているというのもあるのだろうと、彼は付け加えた。ゼリドの言っていることは、なんとなく分かるようで、さっぱり理解できなかった。地元も充分乾燥しているが、このようににおいを感じるようなこともなかった。シードは「ふうん」と適当に相づちを打った。
 世の中には分からないことが多い。シードの地元と比べてこんなに寒くて凍えてしまうような場所にも家屋があって、人が住んでいて、日々の暮らしを営んでいる。月並みではあるが、人はどこででも生きていけるのだなぁとシードは感心した。
 隊商宿に入ると、先客がおり火を焚いていた。ゼリドとレーゼが五人組の旅人に「どうも」と軽く挨拶をし、火の側に座る。レーゼはシードに「あんたも来なよ」と手招きをした。ゼリドからスープの入った器を受け取り、それをすする。故郷から持ってきた香辛料が冷え切った身体に刺激的だった。普段から慣れ親しんでいたものに新鮮味を感じて、不思議な気分だ。
「南から来たんですか?」
 恰幅のいい旅人の一人が尋ねるので、ゼリドが「ああ」と短くうなずた。ゼリドやシードは黒い肌をしているし、二人に比べれば白いレーゼの肌も日に焼けており浅黒い。大して恰幅のいい旅人は赤みの差した白い肌をしている。
「おじさんは北から来たんですね。今年は雪、どうですか?」
 レーゼがスープをすすりながら鼻を赤くして尋ねた。表情には出さないが、やはり外の寒さは堪えていたらしい。
「今年も相変わらずだよ、お嬢さん」
「そうなんですか。楽しみです。私、雪が初めてだから」
「ははは、そうか」
 恰幅のいい旅人の横から、あごひげを蓄えた痩せた男が顔を出す。
「初めて行くんだったら、霜焼けと風邪には気をつけろよ。あと少年も、立ちションすると一物が凍っちまうから、その辺でしようと思っちゃだめだぞ」
 痩せた男の忠告に、旅人たちはケラケラ笑った。一物が凍る様を想像できないが、かなり痛そうということだけは分かった。目を真ん丸に開いているシードに、黒い肌の男が補足する。
「そのまま折れる。ペキッと」
 たったそれだけのことだったが、シードは血の気が引いて、慌ててスープをすすった。慌てたせいで香辛料が喉に貼りつき痛くてむせる。その上、舌もしっかり火傷した。
「大丈夫だ、シード。立ちションなんぞしなければいいのだ」
「は、はい」
 縮れあがったシードの様子に、レーゼもゼリドも声高らかに笑った。シードにとって笑いごとではないのだが、恥ずかしさの方が熱となって顔に出た。
「まあでもお嬢さん」
 眼鏡をかけた中肉中背の男がレーゼに微笑みを向ける。
「ここに来るとき、雪が降っていたでしょう。明日にはきっと、積もっていますよ。朝が来るのを楽しみにしていてください」
 レーゼも目尻に滲む涙を軽く拭い、「楽しみにしています」とだけ返した。
 それから話も半ばに寝静まった。しっかりと焚いた火と毛布のおかげで、少し肌寒い程度で済んでいる。隣でレーゼが頻繁に寝返りを打っているので、眠れないのだろうかと心配にはなったものの、声をかけることもせずにシードはそのまま寝付いた。

 朝、日差しや寒さと共にシードの脳を覚醒させたのは、意外にも静寂だった。静かすぎて落ち着かない。あまりに気分がざわついて、シードは眠っているゼリドの身体を軽く揺すった。
「ゼ、ゼリド……」
「どうした」
 気持ちよく寝ているところを起こされたゼリドは不機嫌だが、シードは自分の不安を訴えた。
「静かすぎませんか?」
「そうか?」
 そんなことか、と言わんばかりの不機嫌さで、ゼリドは何事もなかったかのようにまた眠ってしまった。
 信じてもらえない。シードは拗ねて部屋から出た。
 静かだ。あまりに静かで、雪の降る微かな音さえ耳に届く。肌を刺すようなひんやりと冷たい空気が心地よい。これが次第に痛みへと変わり、感覚さえ奪うのだろう。
「何してるの、シード?」
 突然声をかけられ驚いて振り向く。ある程度見慣れたオレンジ色の髪が視界に飛び込む。
「わっ、レーゼか。いや、びっくりして。こんな景色、初めて見るから」
「私も初めてよ」
 シードはこくこくとうなずいた。
「ついこの間まで、ウィッセルベから出たことなかったんだ」
「私も、こんな寒いところは初めてよ。じゃ、一緒に行こう!」
「えっ」
「じっとしてても凍えちゃうよ。ほら!」
 問答無用でレーゼがシードの手を引き駆け出す。まっさらな雪に二人の足跡がくっきりと残される。冷たい空気が突然肺に大量に侵入したので、身体が驚いて寝ぼけた頭が一気に覚醒した。
「レーゼ、ちょっと待ってよ」
「ほら、こういうの見ると、足跡残したり、飛び込んでみたくなったりしない?」
 嬉しそうなレーゼに、シードは少し、いやかなり共感した。まっさらで真っ白な雪景色。そこに自分の足跡がくっきりと残る。雪が溶けたり、また上に降り積もったりすれば消えてしまうけれども、だからこそ蹂躙する快感がたまらない。
「おい、小僧ども」
 はしゃぐ二人を呼んだのは、呆れながらも笑っているゼリドだった。
「さっさと朝飯をつくるぞ。いつまでもはしゃいでないで、早く戻ってこい」
 二人は飛び込んだままの状態で声を揃えて「はーい」と返事をし、勢いよく跳び上がった。その頃には、寒さも静寂も気にならなくなっていた。

 朝食を済ませ、身体をしっかり温めた後、三人は五人の旅人と別れて北へ向かった。五人はシードたちよりもずっと重そうな荷物を抱え、南へ向かうのだそうだ。暑く乾いた故郷のことを少しだけ考えたものの、それ以上にこれから向かう北の地が楽しみで仕方なかった。
「ルティを覚えているか? あいつの村にも、顔を出せたらいいな」
 ゼリドは二年前の出来事を思い出しながら、懐かしそうに言った。シードよりも幼いのにしっかりした音のない少女のことを思い出すと、シードも懐かしい気持ちになった。
「元気かな、ルティ」
「まあ、元気にやっているだろう。北の果てから、あんな砂漠まで来たくらいなのだからな」
「そうですね」
 これまであんまり外の人に会うことがなかったけれど、たくさんの人に会えるのなら、それもまた楽しみだ。初めての雪道も相まって、シードの足取りは軽やかだった。そんなシードに、ゼリドが釘を差す。
「地面が凍ったりして滑りやすくなっているから、気をつけるんだぞ」
 言ったそばから、シードは足を滑らせ尻餅をついた。笑いしか出てこない。
「馬鹿」
 レーゼの冷ややかな視線が、雪で冷たい尻以上に冷たく刺さった。
 それにしても、朝起きて歩き始めたばかりの頃は、この景色も新鮮で感動的だったのだが、しばらく歩いていると、特に変わり映えのしない景色に、正直なところ飽きてしまっていた。そんなことを言おうものなら、ゼリドには「お前の旅ではないか」と一喝されるだろうと思い、シードはひたすら黙っていた。
 指先や耳が、冷たくて痛い。寒いというのはこういうことなのかと、少しうんざりしてしまう。
「シード、レーゼ。そろそろ休憩にするぞ」
 ゼリドの言葉は待ち望んでいたものだった。荷物を降ろし、手をこすり会わせる。ほら、とゼリドが投げてきたものを慌てて受け取ったところ、それは手袋と靴下だった。
「代えておけ。そこから凍傷になる恐れがある」
「凍傷?」
「ひどくなると、切り落とさないとならなくなる」
 切り落とす。そのように聞き、シードは真っ青になった。昨日の一物の話ではないが、未知なる寒い場所は恐ろしく感じる。物理的な寒さではなく悪寒で立った鳥肌を、首を素早く左右に振ってごまかした。
 ゼリドの言いつけ通り、シードとレーゼは靴下と手袋を渡されたものに代えた。
 昼間は歩いて、隊商宿を見つけたら、早めに入って火を焚く。そんな日を繰り返した頃、街が見えてきた。ゼリド曰く、モシャルオンの都レシュトのようだ。
「今日は温かいスープを作ってもらえるのね」
 嬉しそうなレーゼが早速宿屋通りを物色し始める。そんな様子を見ながら、ゼリドが渋い顔をした。
「どうしたのですか?」
「嫌な予感がする。レーゼ、お前、予算というものを考えておけよ」
「分かってる分かってる!」
「……本当か?」
 大丈夫大丈夫、と答えるレーゼは浮足立っていて、全くもって信用できない。そう感じているのか、ゼリドは相変わらず苦虫を噛み潰している。
 そしてゼリドの予想はばっちり当たるのであった。レーゼが「宿、ここに決めたから」と言って二人を引きずってきた場所は、高級な宿屋だった。彼女曰く、風呂にゆっくり浸かれて、スープもおいしそうだからここに決めたのだそうだ。実に豪華な内装の宿屋は、王宮ほどではないにしろ、しばらく旅籠や安宿で寝泊まりしていたシードにとっても、似つかわしい場所ではないように思われた。しかしレーゼは呑気なもので、「たまにはこういうのもアリでしょう」などと無責任に言い放っている。
「だって寒いし」
「あのな、レーゼ。寒いのは分かる。俺も寒い。暖炉の側で暖まりたいし、温かい料理を食べたいと思う。熱い風呂に入って身も心も暖まりたいだろう、それも分かる。だがな、お前ひょっとして、自分の金じゃないから、こんな横柄なことをしてないか?」
「いけないの?」
「確かにお前にはシードの生命を助けられた。それは認めよう。その礼も必要だろう。だがそれは、お前が俺たちの旅に同行することを認めたことで達せられたはずだ。なのになぜ、まだお前の我儘に付き合わねばならんのだ。しかもこんな分不相応な宿を選んで! シード、お前も黙って突っ立ってないで、何とか言え!」
 シードにもゼリドの唾が飛んできて、シードは慄いた。確かにこの旅には相応しくない宿だろう。だがレーゼの気持ちも分かる。シードも半分は同じ気持ちだ。その上、惚れた弱みもある。
「ゼリド、別に今回くらい、ここに泊まったって……」
「シードよ。旅は始まって間もない。この小娘がどこまで付いてくるかは知らんが、今回くらいで済むはずがなかろう。こいつは隙あらば別の街でも同じことをするぞ。それに加えて、お前は自分の旅なのに、予算も把握しとらんのか。お前には当分成人は無理だとういことか。クソガキが。お前の姉はしっかり予算を把握して、最初から最後までやりくりしていたぞ。それをお前とくれば……」
「まあまあまあ、ゼリド。そんなにネチネチ言わなくてもいいでしょう」
 仲介に入るレーゼに、「お前のせいだろう」とゼリドの怒声が飛ぶ。シードはびっくりし過ぎて震えていたが、レーゼはうるさい程度にしか思っていない様子で、「はいはいはい」と聞き流している。ゼリドは未だこめかみをひくつかせており、シードは気が気でならない。ここはゼリドが諦めてしまったことと、レーゼの粘り勝ちだろうか。三人はレーゼの選んだ高い宿に泊まることとなった。
 まず食卓に出てきたのは、赤い出汁に浸った新鮮な魚の鍋だった。鍋には魚の他に、人参、じゃがいもも入っている。新鮮な魚。これだけでゼリドの顔から血の気が引いていたのを、シードは気づかないふりをした。
 鍋は熱くて美味だった。出汁のものと思われる酸味が絶妙で、一緒に出された黒いパンにもよく合った。
「ちょっと、その魚は私のよ。取らないで」
「お前、他人に金を出させておいて、魚まで独り占めする気か。なんて恥知らずなんだ」
 そんなやりとりに、シードはこっそり笑うのだった。


 暖炉の火は部屋を万遍なく暖め、ふかふかの布団は夜が明けてもシードを離さなかった。ベッドの中でいつまでもまどろんでいたいと思ったのは初めてだ。外の寒さのせいかもしれない。ずっと暑い場所に住んでいたのだから。そんな寝坊助を襲ったのは、横からの眩しい朝日と、一気にはぎ取られた布団の下に容赦なく襲い掛かる冷気だった。
「起っきろー! ほらほらほら、いつまでも寝てちゃ勿体ないぞ! 外見てみなって! ほらほら早く!」
 朝から元気なレーゼに引っ張り起こされたシードは、顔を洗うどころか寝間着のままで外に連れ出され、目を刺す光に思わず瞼を伏せた。
 一瞬目に入ったのは一面の白と、白を照らす陽射し。あまりにも激しく突き刺さる眩しさに顔を逸らす。初めて雪を見た時と同じような状況のはずなのに、こんなにも眩しいのは朝日のせいか。その右頬に、冷たいものが当たった。なんだなんだと見てみると、レーゼが意地悪そうに笑っているのではないか。手には雪を丸めた玉を持っている。それを投げたのだろう。そこで投げ返すということはせず、思わず左頬を差し出した。やはりレーゼは容赦なく投げつける。左頬にぶつかった冷たさに、自分で「一体何をやっているのだろう」と我に返った。
「お前、何をしているの?」
 レーゼにも冷ややかな目を向けられた。
 そんな様を見てか、今度は胴体に5、6発ほどシードに冷たい玉がぶつけられた。これはレーゼではない。誰だと思って左を見ると、十才よりも小さいような着ぶくれした子どもが5人、シードの方を見てニタァと笑った。正しくいたずらが成功した時の顔だ。シードはポカンと口を開け、呆然と立ち尽くした。ここで「やったな」などと言いながら雪を投げ返した方がいいのだろうが、シードの身体は全く動かず、ただ子どもたちをボケッとみているだけだった。
「シード。シードってば。お前はあんなに小さい子どもたちにナメられて、やり返さないの? だったら私がいくよ!」
 シードに呼びかけながら、誰にともなく声を張り上げたレーゼの声色に、シードに対する呆れや蔑みは感じられなかった。レーゼは雪を丸め助走で勢いをつけ、思い切り子どもたちに向け雪玉を投げつけた。それが鼻水を垂らした男の子の背中に命中する。
「やったなー!」
 子どもたちからの猛反撃が始まった。皆好き放題に雪を投げまくっている。レーゼもとても楽しそうだ。そんな彼女と目が合った。相変わらずの勝ち気な緑の目が、シードに語りかける。来ないのか、勿体ない、と。シードはようやくその場にかがみ、雪玉をつくって子どもたちに向けて投げた。ヘロヘロの玉は掠るどころか全く届きもしなかった。それに気づいた子どもたちが一斉にシードに襲い掛かる。シードは雪に足を取られながらも、子どもたちの猛攻から逃げた。
 子どもたちの笑い声に交じって、レーゼの笑い声が聞こえる。ついに子どもたちからの雪ではなくタックルで転倒したシードは、雪に包まれたまま空を見上げた。露出した耳が痛い。顔が冷たい。息が上がって、胸が大きく上下する。だがそうしてどこまでも高くつき抜ける、雲ひとつない空を見上げると、それが遠い世界のことのように思えた。寒いところも悪くはない。
「ほら、シード」
 レーゼが倒れたままのシードに手を差し出した。子どもたちの声が聞こえない。お礼を言いながらレーゼの手を取り、シードは起き上がった。
「ありがとう。皆は?」
「朝ごはんだからって、帰っていったよ。本当、ごはんも食べずに朝から元気なんだから」
 レーゼも負けてない、とシードは笑った。
「さ、私たちも戻らないと、ゼリドが牙生やしてたりして」
 その物言いに悪意を感じたが、シードも「かもね」と笑っておいた。
 顔を上気させて戻ってきたシードとレーゼに、ゼリドは「朝から元気だな」と、呆れているのか感心しているのか、よく分からない様子だった。だが少なくとも牙をはやしているようには見えなかったので、シードはホッと胸を撫で下ろした。
「ルティのいるトレアナ村は、まだまだ北だからな」
 朝食の温かいスープを呑みながら、寒いぞ、とゼリドが笑う。昨夜までならうんざりしていたかもしれないが、この爽やかな朝をレーゼと迎えられたおかげか、若干楽しみな気がした。


 早々にレシュトを出ようとした時、シードは視界に、馬を連れた少女の後ろ姿を捉えた。それは印象的な紺色の髪だ。シードは彼女の後ろ姿を知っている。少女はゼリドを見るや否や、嬉しそうに微笑み、駆け寄った。
「ルティじゃないか!」
 ルティはゼリドの手を取った。
「いやぁ、久しぶりだな。元気にしてたか?」
 ゼリドの質問に、ルティはうなずいた。紺色の髪の少女ルティは、耳が聞こえず、喋ることもできないと。だが唇を読むことができるし、何より彼女の不思議な力で、想いを伝えることができるのだ。そんな彼女は、動植物と心を交わすことが可能で、その能力にウェスパッサ連合王国も救われたことがある。それも、二年前のことだ。姉やゼリドからそのように聞かされていた。
「知り合いなのね。世間って狭いわね。ああ、そうか。この子がこの間、お前たちが話してた子?」
 恩人との再会を喜ぶシードやゼリドに、レーゼは微笑みを向けた。

 ゼリドとシードは、しばらく少女に色々な質問を浴びせた。この二年の間に少しだけ成長した少女は相変わらず年齢よりも大人びていて、背が伸びている。長かった紺色の髪は短く切りそろえていた。二年前にいいことも悪いこともいろいろあったから、それらを断ち切れればいいと考えたのだそうだ。
「へえ、それで、ルティと二人はどんな関係なの?」
 レーゼに問われ、シードは凍りついた。
 二年前、シードはウィッセルベの王宮で、姉のディーナの帰りを待っていた。ディーナが成人の旅に出て一年、ディーナから旅の話を聞きたくて仕方がなかったのだ。なのに、ディーナが帰ってくるより先に、突如として亡者が街に沸いた。意思の感じられない亡者たちはなにせ夥しく闊歩し、気持ち悪くて気味が悪くて恐ろしくて、シードは王宮に引きこもってしまった。その事件に関わっていたのが、ディーナが旅の途中で知り合って街に連れ込んできた、隣国リーフムーン王国の監察官ご一行だった。王宮に引きこもっていたシードは、亡者の騒ぎで怪我をした人たちの手当てを、一行のひとりであるクリムの指示で行っていた。
 騒ぎが一段落して、監察官ご一行が街を去った後、とんでもない知らせを持ってはるばる北の村からやってきたのが、当時十歳のルティだった。その時、特にルティと言葉を交わしたということもないのだが、知らない土地で知った顔に会えるのはそれだけで嬉しいものだ。
 さて、レーゼの質問にどう答えようかと考えを巡らせているうちに二年前のことを思い出したシードであったが、結局うまい返しが見つからず、ゼリドに助けを求めた。ゼリドはやれやれといった様子で、「こいつの姉の友人なんだ」と答えた。大きく間違ってはいない。
「なるほどね」
 レーゼがそれ以上追求しなかったので、シードはホッと胸をなで下ろした。

 その晩はまた同じ宿に泊まり、ルティと共に食卓を囲み、ルティの近況を詳しく聞いた。ルティは喋れないので、二年前に姉を尋ねてやってきた時は筆談をしていたが、今は言葉を伝える術を身につけたらしい。ルティは不思議な力でシードに声をかけた。しかし全ての人と意思の疎通が可能なわけではなく、ゼリドやレーゼにはルティの声が聞こえなかったので、逐一シードがルティの通訳のようなことをしていた。
『ディーナさんのところへ行った時から、外に出るのが楽しくなりました。それまでは、狼が側にいてくれないと何もできなかったので。でも必要になれば、このように伝える術を身につけられるようになりました。それで最近は、おじいさまにお許しを頂いて、時々お遣いにレシュトまで出てくるのです』
「そうなんですね」
 今シードたちのいるレシュトは、隊商が通るルートの最北端の街なのだとゼリドが説明を入れた。トレアナ村はさらに北なので、商人が来ない。そこで、トレアナ村から毛皮や干し肉や農作物や木材、工芸品などを持ってきては街で売り、香辛料などを買って戻るのだという。
『今は村とこことの往復で満足していますが、いつかは私も隊商の一員になってみたいですね』
 特殊な体質のルティだが、商才はあったらしい。口を利けないことで手に入れたらしい愛嬌の良さも一役買っているだろう。
「シード、取引の様子を見せてもらったらどうだ? 勉強になるぞ」
 なるほど、それはそうかもしれない。シェリングでゼリドの交渉を見たのもただの一度きりだし、その後自ら交渉をするということもなかった。実例を増やすという意味でも、かなり参考になるだろう。
「ルティ、迷惑ではありませんか?」
 不安げにルティを見つめると、ルティはにっこりと笑顔を返してくれた。

 ルティが荷物を抱えて尋ねたのは、シードたちが泊まっていたところよりもかなり簡素な宿屋だった。簡素とはいっても、暖を取るには充分なものが揃っている。
「ああ、ルティシア、こんにちは」
 青年の声がルティを呼ぶ。落ち着いた、テノールの優しそうな声だ。その声に、ルティは紺色の髪を揺らしながら振り返った。
『こんにちは、ユハナ』
 ルティの声が心に響く。その声は、昨夜話していた時よりも明るく弾んでおり、その笑顔はシードに向けたものよりも華やかに見えた。
「一段と寒くなりましたね。元気そうで何よりです」
『ありがとうございます。ユハナも』
「今日は一人じゃないのですか?」
『ああ、この方々は、以前お世話になった人たちで、たまたまこちらで居合わせたのです』
「そうなのですね。ところで早速なのですが、僕の地元で取れた香辛料です。今年は豊作でした」
 ユハナが布を拡げる。そこにはウコンやパプリカ、黒胡椒、ローリエ、レッドペッパー、クミンシードなど、様々な香辛料があった。シードも城で見たことがあるので分かる。ウィッセルベよりも南方に位置する、オレファやアランバルトの特産品だ。この商人も遠路はるばる、北の地へやってきたのだと思うと、謎の親近感が湧いた。確かに浅黒い肌をしている。
『まあ。こんなにあれば、村の人たちも喜びます。私の方は、こちらです』
 対するルティが広げた商品は、すっかり黒くなってなんの肉だか分からない燻製の塊がいくつかと、動物の毛皮、それに民芸品の服だった。よくそれだけのものを一人で運んできたものだとシードは感心した。そのために馬を連れていたのだ。御者の姿は見当たらないが、彼女にかかれば、馬と通じ合い、思うままにレシュトに連れてくることなど、造作もないのだろう。
「これは素晴らしい。相変わらず、毛皮の質もいいですね。これなら買い手もすぐにつくでしょう。しかし僕のこの品に対しては少し多いように思います。これをお持ちください」
 ユハナはルティに小さな袋を渡した。音から察するに、袋には銀貨が入っているのだろう。
『ありがとうございます』
「次の商談ですが――」
 ルティとユハナはあれやこれやとぺらぺら喋っていた。トレアナ村の代表であるルティは、若いもののしっかりと話しているし、ユハナもルティとそこまで年が変わらないのに、面差しが大人びている。
 ――すごいなぁ。僕とは大違いだ。
 口をぽかんと空けて、成人の儀で大人になるどころか、頼りがいのかけらもないことを自覚しているシードは、ただひたすら感心するばかりだった。
「どうだ、シード」
「いやあ、ルティってすごいなぁって思いました。なんていうか、営業用? 笑顔とか声のトーンとかが、昨日と全然違って」
 ゼリドのような交渉を期待していたシードにとって、そのあたりのことは物足りなさを感じたものの、商談をするルティの姿勢から学ぶことは多かった。ルティの姿と表情を何度も思いだしているシードに、レーゼがなんとも冷ややかな視線を向ける。
「声のトーンは知らないけど……お前、本気でそう思っているの?」
 レーゼに指摘されても、いまいちピンとこない。相手と交渉するために、一見か弱そうに見せるルティの愛嬌は強い武器になるだろう。そしてそのことをルティはよく理解しているから、商売の相手であるユハナという青年にとびきりの笑顔を向けるのは当然のことではないか。しかしレーゼは、そうではないと言い切る。
「じゃあ、何ですか?」
 首を傾げるシードに、レーゼとゼリドが大きく溜息を吐いた。
「ニブチン」
 何に関して鈍いと言われているのかさっぱり分からず、シードは困ってしまったが、二人はもう一度溜息を吐くだけで、何も教えてはくれなかった。
「ありがとう、ルティ。ものすごく勉強になった」
『お役に立てたのであれば、幸いです』
「僕たちはこれで失礼します」
 シードはゼリドとレーゼを伴い、商談の場から立ち去った。燻製の塊ではないが、彼等にも道中の携行食は必要なので、その買い出しと、シードの値切り交渉の勉強も兼ねることにしたのだった。

 一通りの買い物を済ませて宿に戻ったシードは、満身創痍だった。というのも――。
「情けないぞ、シード。五回もやって五回とも駄目とは」
 ゼリドに駄目押しされて、ぐうの音も出なかった。そう、自分で行った値切り交渉は、いずれも値段設定に大失敗して、全て門前払いを喰らったのである。見かねたゼリドとレーゼが上手い具合に見繕って事なきを得たものの、シードの戦果はゼロだった。
「値切りって、難しいですね」
「難しくなんかないよ、シード。お前は知らなすぎるだけ。あいつらは皆、最初はふっかけてくるんだから、相場を知っていれば全敗なんてことはないわ。つまりお勉強不足ね」
「うん……」
「もう、元気出しなって! 落ち込んだからって肉が買えたわけじゃないんだから」
 しかしシードが満身創痍になっていたこの時、シードの気づかない間に事件はすでに起きていたのであった。宿戻りくつろいでいるシードの元に、予期せぬ来客があったのだ。
 ノックの音で扉の前に立ち、「どなたでしょうか?」とシードが問いかけると、「ユハナです」と若い男の声がした。もちろんユハナの声は覚えているので、シードは扉を開けた。すると不安そうな顔をしたユハナがそこに立っていた。
「どうしたのですか?」
「ルティシアを知りませんか?」
「知っているもなにも、ユハナさんより先に僕たちは別れたから……」
「そうですよね」
「ルティに何かあったのですか?」
 ユハナの様子も気になるし、心配になって尋ねると、ユハナは一枚の紙切れをシードに渡した。
 シードが受け取った紙切れを、ゼリドとレーゼも覗き込む。内容は、ルティを攫ったので、返して欲しければ大金を寄越せとの、誘拐犯の定型文だったのだが……。
「場所とか、書いてないね」
「そうなんです!」
 これではどこに行けばいいかっぱりわからない。仮に要求どうり金を用意したとしても、このままではルティを助けるどころの話ではない
「慌てん坊の誘拐犯なのかな」
「シード、今そういうこと言っている場合ではないでしょう。心当たりはないの?」
「あったら相談には伺いませんよ」
「そうよね」
「シードよ」
 ゼリドが口を開き、シードはつい緊張してしまった。
「は、はい!」
「お前にはルティの声が聞こえたろう。離れてしまうと、それはできないのか?」
「あ、確かに。でもあれはルティの力によるものだし、僕よりも付き合いの長いユハナさんの方が確実だと思いますよ、ユハナさん」
「あっ」
 ルティの声がどの範囲まで届くかは分かっていない。あの能力を備えている人間とは、ルティ以外に会ったことがなければ聞いたこともないのだ、確かめようがない。二年前、ルティが単身ウィッセルベにやってきたことを考えれば、そんなに遠くまで声を届けられないと見るのが自然だろう。
 たまたま相性がよくてルティの声が聞こえたようなシードよりも、ルティとのやりとりを商売でたくさんしているユハナの方が、少しくらいであれば離れていても聞こえる可能性が高い。
「でも、今は聞こえないのです」
 よほどルティのことが心配なのか、ユハナの声は上ずっていた。
「まあまあ、焦ってたら見えるものも見えなくなるし、とりあえず一旦落ち着いて白湯でも飲みなさい。取り乱したってルティの居場所が分かるわけではないし、ましてや助けることなんてできやしないでしょう」
 レーゼは卓から白湯を取り、ユハナに押しつけた。ユハナは「仰るとおりだ」と呟いて、白湯を一気に飲み干した。
「ありがとうございます。少し頭が冷えました。しかしどうやって聞き取ればよいのか……」
「例えばさ、たまたまこういう街中で遭遇して、声かけられたこととかって、ないの?」
「ああ、あります」
「その時はどれくらい離れてた?」
「えっと……ここから、そこの壁まで」
 シードの見立てでは、ざっと6、7歩ほどある。
「じゃあ少なくとも、それくらいの距離なら聞こえるかもしれないってことね。じゃ、とりあえず街を練り歩きましょ。あの子の声が届くところに行けば、呼んでるかもしれないし、それが聞こえるかもしれないでしょ。確実とは言えないかもしれないけど、そういう方法は試してみないとね」
「そうですね。なんでも試してみないと」
「そうそう。じゃ、早速行きましょ。報酬は、そうね、助けるところまで含めて、干し肉を三切れと、毛皮の服一着ってところで、手を打ってあげてもいいわ」
「それでルティシアを助けられるなら、安いものです」
 ノリノリのレーゼに嫌とも言えず、シードもゼリドも駆り出されてしまった。人助けのためなのだ、仕方がないだろう。

 一か八かの賭けではあるものの、できたかもしれないことを不注意で駄目にしたくなかったので、シードたちは焦る気持ちを抑え、ゆっくりとレシュトを練り歩いた。ユハナの集中力をそぐわけにはいかないので、シードたちは黙ってユハナに付いて行った。
 そして、ある地点でピタッとユハナの歩みが止まる。
「少し待っていただけますか?」
 シードたちは一斉にユハナに視線を寄せた。ユハナは目を閉じている。ルティの声かも知れない音だけに集中しているのだろうか。
「分かりました。ルティシアはこの建物の中にいます」
 目を開けたユハナが指差したのは、すぐ横にある小さくて古い宿屋だった。このような場所に少女を攫って、宿の人は不審に思わないのだろうか、とシードは首をひねった。
「では早速行きましょう」
「ちょっと待ちなよ、ユハナ。私たちがどうにかするからって、考えなしに突っ込まないで。まずは中に何人いるか、中の構造はどうなっているか、その辺の確認が先でしょう。幸いお前にはルティの声が聞こえているんだし、不可能ではないと思うのだけど。ルティに声はかけられないの?」
「あっ、そうですね。やってみます」
 ユハナは再び目を閉じた。
「えっと、中には三人、大柄な男と、一人、痩せた女がいるようです。ここに連れ込まれた時は袋に詰め込まれていたので、ルティは何も見ていなくて、建物がどういう構造になっているのかよくは分からないようです」
「なるほどね」
「恐らくですが、声の位置からして、二階にいるのではないかと思われます」
「そこまで分かれば上等ね。乗り込むわよ」
「おい、ちょっと待て」
 指をパキパキ鳴らすレーゼの肩をゼリドが掴む。
「今お前は、考えなしに突っ込むなと言ったが、お前今、ちゃんと考えて突っ込もうとしているのか?」
「男三人なら、私とお前でどうにでもなるでしょう」
「相手の実力も分からないのに? それを考えなしというのだ! まったく」
「えっと、じゃあ……こんなのはどうでしょう?」
 我ながら妙案を思いついた気のするシードは、口論する二人の間に割って入った。
「ありだと思うけど、もし引き渡し場所を手紙に書かなかったのがわざとだったら、お前もルティと同じ目に遭うわよ」
「でもルティにうまく伝えられれば、ルティからユハナさんに状況を伝えてもらうことができるし、そうなったらゼリドが助けてくれるでしょう?」
 そう、シードがどうなったとしても、ゼリドならばそうせざるを得ない。シードの父親に死体を渡すわけにはいなかいのだから。
「まったく、普段は頼りない坊主かと思えば、妙に頭が冴えて、面倒な坊主だ」
 苦虫を噛みしめているような口ぶりだったが、表情は心なしか嬉しそうに見えたのは、シードの気のせいかも知れない。


 武器を持っていたら怪しまれるかもしれないので、ククリナイフはゼリドに預け、単身手ぶらで宿屋を尋ねた。宿屋の主人らしき人はカウンターにいなかったので、そのままこっそりと会談を昇る。部屋は二つあった。二つなら手間でもなんでもないので、とりあえず手前の部屋からノックしてみた。
『誰よ?』
 部屋の中から偉そうな女の人の声がする。いつものように怯むわけにもいかないので、シードは深呼吸をして答えた。
「あの、実は例の件でお話があって、代理で来たのですが」
『代理? 入って』
 思ったより簡単に部屋に侵入することができて、幸先は良さそうだ。開いた扉の前には、細い妙齢の女性が立っていた。
「こ、こんにちは」
「あら、随分と可愛らしいお客さんねぇ。何の御用かしら?」
「えっと、僕はルティの雇い主の息子なのですが、あなた方がルティを攫ったと言うので、返していただきに参りました」
「そうは言ってもねぇ、あなた、何も持っていないじゃない」
 会話の内容から、この人物がルティを攫ったうちの一人だと見て間違いなさそうだ。しかし同時に第一関門がシードを待ち受けていた。もちろんそう言われることは分かっている。シードは落ち着いて返答した。
「いえ、だってここまで持って入ろうとして、宿の人に怪しまれたら困るでしょう? そとで僕の連れが用意してますよ」
「大丈夫よ。ここの主人なら、あたしが買収しているから」
 なるほど、ルティを詰め込んだ袋を持って入っても怪しまれないわけだ。
「そうなのですね。ところでルティは無事ですか? お金を渡したらあの子が死体だったなんて話だと、いろいろこちらも不都合なのですが」
「勿論よ。金づるを殺すわけないでしょう」
「では、お顔だけでも見せてくれませんか? 女の子を誘拐した人のことを無条件に信じるわけにもいきませんし」
「それはそうだ。あなた、歳の割に賢いわね。仕方がないから、会わせてあげるわ。ダヴィド」
「はい」
 奥から屈強そうな男が一人、口に布をませたルティを連れてきた。ルティが喋れないということを知らないらしい。
「ルティ、無事でよかった」
 白々しいと思いつつ、ユハナを見習い、ルティに心の中で声をかける。
 ――ルティ、聞こえますか?
 しっかりと目を開けたルティは小さく頷いた。これでうまいこといけるかもしれない。
 ――今からここの情報を適当に言おうと思います。外にいるユハナに伝えてもらえますか?
『わかりました』
 ――ゼリドとレーゼも来てくれます。大丈夫、助かりますよ。
 はい、とルティからの返事を聞いて、シードは女に向き直った。
「ありがとうございます。ルティの無事は確認できました」
「ええ、分かったら、早く例のものを持ってきてちょうだい」
「ああ、もう少し待ってくださいよ」
 ――ここは階段を上ってすぐの部屋なので、宿の入り口から反対側の窓がこの部屋に当たります。宿自体は複雑な構造ではありません。二階にある部屋は二部屋のみです。ルティは窓側にいますが、窓の側にはいません。お待ちしています。
 ルティにそのように伝えると、ルティはひとつうなずいた。これで上手く外にいるユハナに伝えられれば、レーゼたちが助けに来てくれるだろう。
「ちょっと、いつまでぐずぐずして――」
 刹那、バキッとドアを蹴破る音が背後から派手に聞こえた。同時に奥の方でガラスが割れる音も聞こえた。分かってはいたものの心底びっくりしてしまう。
 慌ててシードを捕えようとした女の手からするりと逃れ、女の足をひっかけ転倒させる。そのシードの後ろから部屋に駆け込んだのはゼリドだった。ルティからダヴィドと呼ばれた男を引っぺがし、槍の舳先で男を小突いて気絶させた。
「シード、ルティを」
「はい」
 シードはルティに駆け寄り、ルティを縛る縄を解いた。
「大丈夫?」
『ありがとうございます』
 お礼を言っているルティはというと、何ごともなかったかのような表情をしていた。シードがこの部屋に来たときからずっとこの様子だ。怖いとか、辛いとか、そういうことは思わなかったのだろうか。彼女はそもそも、二年前に一人でわざわざウィッセルベに来たし、ディーナを導くために戦場へも赴いた。だから肝が据わっているのだろう。
 その間に、ゼリドと窓から飛び込んだレーゼが部屋で大暴れしていた。気が付かないうちにもうひとりの大男が昏倒している。二人で残った一人の大男と戦っているようだが、二人とも武術の達人だ、自業自得とはいえ、二人にコテンパンにされている大男に少しだけ同情してしまいそうだ。
「人の恋路を邪魔する奴は!」
 ゼリドの槍の柄が男をなぎ払う。その先には準備万端のレーゼが待ち構えている。シードはほんの少しだけ、この男が哀れに思われた。
「馬に蹴られて死んじまえ!!」
 馬ではないがレーゼのしなやかにして華麗なる足技を顎に決められた男は、そのまま地に倒れ伏せた。騒ぎに紛れて妙齢の女が逃げようとするのをレーゼが見逃すはずもなく、傍にあった置物を投げつけた。置物は女に命中し、女は呆気なく倒れた。
「ルティシア!」
 騒ぎが収まったのを見計らい、ゼリドが蹴破った入口からユハナが駆け込んだ。
 ユハナが現れた途端、今の今まで気丈に振る舞っていたルティが、顔をゆがめて一目散にユハナに飛びついたではないか。
「ルティシア、無事でよかった……」
 二人の様子を見ていると、なんだか心が温かくなったような気がした。
「で。お前が親玉ね?」
 レーゼは組み敷いた女に尋ねた。女は「そうよ」と悔しそうに答えた。
「とりあえず警備隊? ここにもいるわね。そこに突き出すから。あと、次からちゃんと、誘拐しましたって手紙には、場所も書いておきなさい、間抜けな誘拐犯さん」
「はっ!」
 見た感じ実に抜け目ないように見える女は、大事な時に大事なことを忘れてしまうおっちょこちょいだったようだ。

 間抜けな手紙と誘拐犯一味を警備隊に突き出して、ひとまず事件は一件落着した。
『シードさん、ありがとうございます』
 ルティはユハナをちらりと見て、頬を赤く染めた。ルティの気持ちが分かると、微笑ましい光景のように思えた。
「僕はほとんどなにもしてないけど……助けるって決めたのも、活躍したのもレーゼだし」
 ユハナからガッツリ報酬をもらっていたことは、二人の名誉と見栄のために黙っておくことにした。
『いいえ。私がこうして無事にいられるのは、皆さんにお会いできたおかげです。本当にありがとうございます。それと、ユハナさんのことも』
 隠していても、ルティには分かってしまうようだ。シードは後頭部をガシガシ掻いた。
『シードさんも頑張ってくださいね、レーゼさんのこと』
「えっ」
 今度は自分の顔が熱を持つのをはっきりと感じた。
「えっと……」
『ものすごく苦労するかもしれませんが、応援しています。頑張ってください』
 苦労するかもしれない。どういうことだろう。レーゼのことだから、はぐらかされるのが常だというのか、それともルティには何か別のものが見えているというのか。シードは怖くてそれ以上尋ねることができず、曖昧に笑って見せた。
「わかりました。ありがとう、ルティ」
 シードはルティの小さな手と握手を交わした。成長したとはいえ、実に小さく、柔らかい手だった。
 そうしてルティと別れたシードに、レーゼが駆け寄る。
「ねえ、ルティに何て言われたの?」
 ルティに言われたばかりでレーゼを意識していることなど露知らず、レーゼはシードの顔を覗き込んだ。寒いはずなのに、熱い。肌が黒いことを少しだけありがたく思った。これならきっと、レーゼにはバレないだろう。シードは目をそらしながら、「道中、苦労することもあるだろうから気を付けてと言われたよ」とだけ返した。



<< 前ページ戻る次ページ >>

.copyright © 2011-2023 Uppa All Rights Reserved.
アトリエ写葉