王子の旅日記

第三章 楽あれば苦あり


 モシャルオン領のレシュトから南下するにつれ、朝晩はまだ冷え込むものの、徐々に暖かくなってきた。現在、シードたちはペリオルノ公国までの道をユハナの同行する隊商に用心棒として同行している。先の誘拐事件で活躍の目覚しかったゼリドとレーゼのおかげで、迷うことなく次の目的地へ行けるし、食料の心配もせずに済む上、路銀も稼げる。これにはゼリドも機嫌をよくしていた。
「ユハナさんが口を利いてくださったおかげで、無事にペリオルノへ入れそうでよかったです」
 ユハナに感謝しかないシードは、ユハナに対しへこへこしていた。ユハナはユハナで、決して居丈高にはならず、シードにも、他の誰に対しても腰を低くしていた。しかしこと商談においては、腰の低さを保ちながらも、自分たちの利益や権利はしっかりと守る堅実さを見せていた。若いながらもしっかりやっているユハナの姿を、シードは心から尊敬したし、見習うべきだと思った。
「ユハナさんは、ペリオルノではまた少し滞在して、商談を進めるのですか?」
「はい、そのつもりです。シードさんたちは、どれくらいペリオルノで過ごすおつもりですか?」
「恥ずかしながらあまり考えてないのですが、気が済むまで滞在できればと思ってます」
 ヘラヘラしながら答えるシードは、背後から殺気が突き刺さるのを感じた。ゼリドだ。今度はどのような小言が待っているのだろう。ユハナの手前、努めて気にしないようにしたが、ため息をつきたくなった。
「そうよね。せっかくの旅行だし、楽しみたいよね」
 レーゼがカラカラと笑う。成人の儀のための旅を《旅行》と言われると、なんだかチャラチャラした印象になってしまうが、逆に旅行という言葉で、楽しまないと損だな、という気にもなったので、言葉とは不思議なものである。シードも「そうなんですよ」と笑った。へらへらしているシードにユハナが「そういえば」と指を立てる。
「ペリオルノって、有名な遺跡とかもありますよね。バランダ遺跡群といったかな。すごい規模の遺跡ですし、興味があれば行ってみてはいかがでしょう? ただ、ぼったくりみたいな人とかがいますし、シードさんたちは身なりもいいので、狙われないように気をつけてくださいね」
 バランダ遺跡群と聞いて、シードは少しだけ心が踊った。しかし同時に、身なりの話で少し気分が暗くなった。確かに、シェリングでは身なりがいいからと、ごろつきに目をつけられて攫われたし、レーゼには「そのククリナイフは攫ってと言っているようなもの」と一蹴されたようなことを思い出した。
「そうですね、ありがとうございます。肝に銘じておきます」
「あ、あと、ペリオルノでトーリャ芋の畑を荒らすパオパオという小さな犬のような動物がいるのですが、彼らの肉はおいしいので、機会があれば召し上がってみてください」
「そうなんですね。ちなみに、トーリャ芋っていうのは」
「ペリオルノの名産ですよ。ペリオルノでは主食にされて、いろんな料理に入っている芋なんです。これは本当に何にでも入っているので、すぐ食べられると思います」
「なるほど」
 ユハナはその他にも、トーリャ芋を使った料理や、冷たい身体を温めるためのスープがあることを教えてくれた。聞いたことのない響きの固有名詞ばかりで、覚えていられるか心配になってきたシードだが、ユハナには愛想よく礼を言った。
 ユハナらと楽しく過ごしていたためか、ペリオルノ領に入るのはあっという間のことのように感じられた。国境の小さな村に入り、ゼリドが「ここでお別れだ」とシードに告げる。
「ここまでなんですね。道中ご一緒できて、とても楽しかったです。ルティによろしく伝えておいてください」
「いえ、こちらこそありがとうございます。ゼリドさんの迫力があったおかげか、野盗に襲われることなく、ここまで来ることができました。ソッティ・オーバーソー・ホートゥン」
 一瞬なんのことやらわからなかったが、ゼリドもレーゼも普通に返していたので、シードも「ソッティ・オーバーソー・ホートゥン」と見よう見まねで返した。ユハナは白い歯を見せ、商人たちと共に村を立ち去った。
「ねえゼリド、さっきの、『ソッティ・オーバーソー・ホートゥン』って何?」
「ほぅ、感心だ。『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥』と言うからな。これからもどんどん訊くといい。さて、その言葉だが、まじないの言葉だ。道中出会った旅人と別れる時に、旅がよいものになるように、悪いことが起きないようにという言葉だ。覚えておくといい」
 そう言われると、遠くおぼろげではあるが聞いたことのある言葉のように思えた。
「はい」
「ねえ、それよりさぁ、早く宿取ろうよ。もうクタクタだわ」
 足首をくるくる回しながら退屈そうにしているレーゼに、シードは「そうだね」と微笑みを向けた。反対にゼリドは、その後ろで苦虫を噛み潰したような顔をしている。ゼリドは元々、レーゼを同行させることから賛成ではなかった様子だったことを思い出し、きっと自由なレーゼに何か思うところがあるのだろうとだけ、この時は考えていた。


 一夜明け、シードたちは小さな村を後にした。さらに東へ進んでいき、街を二つ挟んだところにペリオルノの首都ダンマパータがあるらしい。街道から少し外れるものの、バランダ遺跡群もこの間にあるとゼリドが言っていた。ゼリドがそういったことに詳しいのは、若い頃に隊商の用心棒を勤めていたことがあったからだと、姉に聞いたことがある。だから道中はとても頼りになる存在だと。
 シードたちはダンマパータを目指し、街道を東に進んでいった。野宿をしたり、隊商宿を利用したりしながら三日ほど歩いたところで、大きな看板と横にそれた道が見えた。看板には、『バランダ遺跡群はこちら』と書いてある。それを見て、ゼリドは呆れた様子だった。
「親切だね。ねえ、行こうよ」
 シードはにこにこワクワクしながら道を曲がった。

 道中あまり見かけなかったのに、どこから来たのか、遺跡にはたくさんの観光客が足を運んでいた。観光客をターゲットにした屋台も並んでいる。シードはキョロキョロしながら、前にフラフラ進んで行った。すると門のところで止められた。
「入場料をお支払いください」
「へっ」
「お一人様3000ベリルです」
 実際、こういった場所の相場がいかほどのものなのかよく分からないので、シードは言われるがままに出そうとした。その後ろからゼリドが手を伸ばし、シードの腕を掴む。
「二年前は1000で入れたはずだ」
「来場者の増加と、それに伴う人件費の増加、また遺跡保護のため、昨年、値上げしました。ご理解ください」
「ちっ」
「まあまあ、いいじゃんいいじゃん、見ていこうよ」
 レーゼが気楽そうに笑うのを、ゼリドが睨んだ。
「お前、この金も俺たちに払わせるつもりだろう」
「うん、そうだけど」
「シードも行くんだろう?」
「うん、行きたい」
 ゼリドは震えているようだった。
「わかった、俺はここで待つ。二人で行ってこい」
「用心棒が雇い主放っておいてもいいの?」
「お前が言うな! 大体、俺がいない程度で困難を排せないようだったら、シードの旅に意味がないだろう」
 シードはよく考えていなかったけれど、ゼリドの言うことももっともなので、レーゼに「行こう」と促した。
「今のところ、お前がそういうトラブルで活躍したような記憶がないんだけど……」
 眉を顰めるレーゼの言葉は、笑って聞き流しておいた。
 バランダ遺跡群――シードも聞き覚えのあるその遺跡は、ペリオルノはおろか、ウェスパッサ連合王国において最も有名な遺跡のひとつである。世界に太陽が蘇った太陽暦1年よりも遥かな昔、このジンガー大陸に名を轟かせた古い国の痕跡だ。その国は、長らく書物の中や研究者たちのあいだで『バランダ王国』と呼ばれている。――これはシードが書物から得たうろおぼえの知識である。
 門をくぐり、建物まで歩いていく。シードたちと同じく、たくさんの人が歩いていた。
 遺跡の建物へと伸びる長い一本道を歩いて行くと、履き物を脱ぐ場所があった。現地の人にとって神聖な場所だから、土足は厳禁なのだと、そこに立っている人が説明をするので、シードは言われた通りに履き物を脱いだ。すると、そのことを教えてくれた人がシードに手のひらを差し出した。
「30ベリルね」
「へ?」
「君の靴が盗まれないように見ておいてあげるから、その代金だよ」
 シードは唖然としながらも、そういうことならばと渋々代金を相手に支払った。その隣で、レーゼがクスクスと笑う。
「まあ、有名な観光名所だからね」
 レーゼはなんと、履き物を自分の手で持っているではないか。自分の世間知らずぶりを突き付けられた瞬間だった。
 裸足でひたひたと音を立てながら石の階段を登っていくと、遺跡の壁一面、隅から隅まで、絵が彫られていた。鳥のようなものや人のようなもの、その他にもたくさんの神話生物がいるようだ。ゾウや牛、狼、鳥、虫ーーそれらがある一点から出てきているように見える。
「これは……ダンモーの創世神話?」
「分かるの?」
「たぶん、本で読んだ気がする」
 遥かな昔、世界には何もなかった。ある日そこに生命が生まれた。それはとても小さな光だった。光は何も感じられず、何も考えられなかった。その生命がある日分裂した。それをきっかけに、最初に生まれた光は他者を認識し、自己を認識した。二つの光は更に分裂し、数を増やしていった。光は感覚を得るために、物質の体を得た。それは海、大地、虫、獣、そして人。ただの光だった生命は個体数を増やし、言葉をつくり、文明をつくり、発展していった――そんな物語だった。
「僕たちはその〈原初の光〉のひとつなんだって、父上が言っていた」
「ええ。そしてその光は、ある点から増えることをやめ、何度も流転するようになった……かしら?」
 シードは小さくうなずいた。壁に刻まれているのは、生まれた光が増え、海や大地の上に数を増やす生命の営みだった。
「そうね、これはその神話。でも世界の始まりは、それ以外にもいろいろな物語があるっていうわね」
「レーゼは本当に、色んなことを知ってるね」
「こういうのはね、教養っていうのよ」
 レーゼのクスクスと笑う声さえも、遺跡では反響した。
 他にも、神話の中の戦役や、神の子が産まれた時のことなど、壁という壁に様々な物語の彫刻が刻み込まれていた。

 さらに進んでいくと、観光客たちが行列をつくっている場所があった。何人かの職員らしき人たちが、列を整えているようだ。
「すごいね。なんだか、遺跡の入口より待ってる人が多いように見えるよ」
「何で待ってるのかしら」
 レーゼと二人して背伸びをしたり、跳んでみたりして、列の先頭付近を見ようとした。列は三角錐の形をした石造りのドームのようなものに続いているようだ。三角錐の頂上付近には窓が付いていて、そこからちらちらと人が見える。
「レーゼ、あそこに登れるみたいだよ」
「本当ね。行ってみる?」
「うん」
 ――などと元気よく答えたのはよかったものの、しばらく列でレーゼと談笑していたシードの目の前に現れたのは、ほとんど壁についたギザギザのような階段だった。後ろにいる人が、昔はここで転落した人がいるらしいなどという話をしていたのも恐怖を掻きたてた。しかも石の階段だ、場合によっては、そのまま死んでしまう可能性だってある。
「や、やっぱりやめようかな、なんて……」
 蚊の鳴くような声で言ってみたが、レーゼには「何言ってんのよ!」と一喝されてしまった。
「ここまで来たんだし、折角だから登りましょうよ、折角なんだから」
「あはは、そ、そうだね……」
 シードは意を決して、階段に足を載せた。しかしながら急な階段なので恐ろしさのあまり、ほとんど四つん這いの状態で階段を登って行った。下を見れば怖くて動けなくなることは想像に難くなかったので、一心不乱に登った。下りのことは考えてはならない。
 やっとのことで登り切ってほっと胸を撫で下ろしたところで、後ろからレーゼに「早く行きなさいよ」とせっつかれた。シードは慌てて小走りで前へ進んだ。
 そこには、下のように彫刻が刻まれているわけではなかったが、その代わりなのか、外を見るための立派な窓がたくさんついていた。
「うわあ、すごいねぇ」
 窓の縁から身を乗り出しながら、シードはそんなことしか言えなかった。
「危ないわよ、坊や。登るときにあれだけ怖がってたくせに」
 レーゼに苦笑され、シードは頭を引っ込めた。
「この景色は、偉い人だけが見ていたんだってね」
 かつてこの国の王だけが、ここに上ることができた。そんなことが案内板に書いてあった。
「すごいよね。旅をしているときもいつも思うんだけど、世界ってすごく広いよね」
「そうね」
「僕はそんな世界を旅して、それが成人の儀だとか言われてるけど、普通に旅をして、僕は何か変わるのかな」
 すでにシードはウェスパッサ七王国のうち三つ目の国にいる。半分とは言わないまでも、三分の一以上はウェスパッサ連合王国領内を歩いているけれど、自分では何か特別な変化があるような気がしない。
「そういえば僕の姉上も二年前に、成人の旅をやったんだ。でも帰ってきても、あんまり変わった感じはしなかった」
「そうなの?」
 姉の報告書の内容を思い出しても、特に変わったことはなく、それどころか姉が首を突っ込んだ内容が、どれも姉らしいという感想を持ったものだ。
「うん。姉上は僕とは違って、正義感が強くて、行動力があって、活発なんだ。そこは全然変わってなかった」
 シードは自分が幼かった頃のことを思い出した。
「昔、姉上に『王宮を抜け出そう』って引っ張り出されそうになったことがあるんだ。でも僕は外が怖くて、姉上にはついて行けなかった。姉上はひとりで颯爽と行ってしまったよ」
 結局泥だらけになって帰ってきて、父王や王妃にこっぴどく叱られたけれど、幼い姉はめげずに何度も城を抜け出した。そんな姉を間近で見て育っても、シードには真似できなかった。
「僕は姉上のようにはできないし、ゼリドや他の人たちにもよく比べられたけど、僕だって姉上には憧れていたよ」
「どうして?」
 快活な姉の明るい笑顔を思い出す。
「だって僕は、引っ込み思案で、何をするにも、どちらかというとレーゼに背中を押してもらわないと自分では動けないし。もしかしたらあの時、姉上の言うことを聞いて一緒に抜け出していたら、何か変わっていたのかもしれないけど……」
「それだけの自覚があるんなら、いつでも変われるよ。現にお前、私には背中を押されれば行動できるんでしょう? それだけでも随分違うように思うわ」
 レーゼが口許に弧を描く。
「私の気のせいでなければいいのだけど、私に振り回されることを、少しでも楽しいって思ってくれているんじゃないの? だからなおさら、自分のことをそんな風に思うのでしょう? だったらあとは簡単よ。何かしたいと思った時に、思い切って飛び込めばいい。そりゃ、お前にはまだ頼りないところもあるけど、いつまでもゼリドに世話させるほど何もできない赤ん坊ではないのだから。なんなら、私がお前の背中を何度でも押してあげられるわ」
 レーゼの喋り方はいつも通り強気できついものではあるが、シードには木漏れ日のように優しく感じられた。レーゼはいろいろ言っても、シードのことをいつも引っ張ってくれる。憎まれ口を叩きながら、シードにきっかけをくれるのだ。レーゼの言うように、自分で動けるようになれたらいいと思う。いや、なりたい。
「レーゼ、ありがとう。僕、頑張ってみるよ」
「ええ。楽しみにしてるよ」
「でもレーゼ、僕はレーゼに振り回されてるなんて思ったことないよ」
「じゃあ、これからも遠慮なく振り回せるね」
 カラカラと笑うレーゼを、シードは美しいと思った。同時に熱が顔に上がるのを感じ、「レーゼ、風が気持ちいいね」と誤魔化した。
「そうね」
 レーゼの言った通り、いい方向に変われるといい。高い空のように、爽やかな気分になった。

 バランダ遺跡群が観光地なだけあって、近くに宿場町があった。バランダ遺跡を出たシードたちは、宿を取って一夜を過ごすことにした。
 出てきた料理に目を輝かせたシードが、「もしかしてこれがトーリャ芋?」と尋ねても、「これがパオパオ?」と尋ねても、料理を用意した人物から望んだ答えは返ってこなかったため、若干不貞腐れた。そんな様を見ながら、レーゼやゼリドが楽しそうに笑っているので、それはそれでいいのかもしれない。今食べることができずとも、すぐにペリオルノを離れるというわけではないので、どこかでお目にかかる機会はあるかもしれない。悲観することでもないだろうと、いつものように談笑しつつ食事を楽しみ、湯浴みを終え、硬いベッドに横たわって目を閉じる。小さな窓から入ってくる風を心地よく感じながら、ふとここまでの道中のことに思いを馳せた。
 シェリングでレーゼを迎えてからというもの、シードにとって旅が驚くほど楽しくなった。レーゼには一目惚れだったけれど、積極的にシードやゼリドを振り回すレーゼの活発さや、エネルギッシュなところにますます惹かれた。笑顔も素敵だし、強いし、行動力があるし、シードからしてみれば非の打ち所がない、完璧な女性である。しかしながら、ゼリドは彼女の自由奔放なところに呆れているようだった。
 気がつくと、日が昇っていた。眠気まなこをこすりながら、のっそりとベッドから出て、顔を洗う。
「起きたか、シード」
 後ろから声をかけられ、シードは慌てて顔を拭い「おはようございます」と返した。
「シードよ、浮かれるのもいいが、己の懐事情を理解しているのか?」
「へ?」
 なんのことだか寝ぼけた頭では考えも及ばないシードに、ゼリドは分かっていない、と頭を振りながら溜息をついた。またいつもの小言かな、とシードは屁っ放り腰でゼリドの目を見た。
「いつまでも金勘定を人任せにするな。これは一体誰の旅だと思っている? 何のために値切り交渉を覚えた? あの娘が同行してからというもの、出費がかなり増えているんだぞ。有り金くらい把握してもらわなければ困る。お前の旅なのだから」
 シェリングに立ち寄った時、攫われたシードを助けるためにレーゼの力を借りたところ、法外な金を要求されてしまったので、仕方なくレーゼの同行を許した、というのはシードも理解している。レーゼに惚れているシードにしてみれば願ってもいないことだが、レーゼに路銀もたかられているゆえに心元なくなることも理解できた。
「切り詰めなければ、ウィッセルベには帰れないぞ」
「はい」
 寝起きゆえに元気も滑舌も良くない返事に、ゼリドはしかめっ面をさらに渋くした。渋い顔は嫌だったが、それ以上は何も言われなかったので、シードは少しだけほっとした。

 それから四日歩き、レーゼとゼリドを伴ったシードは、ペリオルノの首都ダンマパータに到着した。ダンマパータが近づくにつれ、街道がしっかりと整備されていたり、行き交う人が増えているのを見て取れたものだが、ダンマパータに足を踏み入れると、また心踊るような活気に溢れている。
 石畳の敷き詰められた路地に、大小様々な露店、あちこちから聞こえる値切り交渉の声や、大道芸人の客引きーーシードがワクワクするようなものがたくさんだ。
「シード、芸人だって。見ていかない?」
 同じようにワクワクしていたらしい様子のレーゼが、うなずくシードの手を引き走り出す。その途中、「パオパオ」という看板が出ており、焼いた肉が置いてある露店が目に入ったが、とりあえず芸を見ることにした。
 男女二人ずつの芸人はペリオルノの人たちで、ダンマパータにやってきた観光客向けに、伝統の踊りを披露しているようである。特に口上もなく始まった踊りは、なんとなくコミカルな印象を受けた。どうやら、それぞれ女性を口説こうとしているものの、相手にされていない、という場面を踊りにしているらしい。
 踊りが終わって、満足そうなレーゼが「楽しかったね」とシードに笑顔を向けた。
「うん、楽しかった。最後はちゃんと結婚できて、よかったよね」
「そうよね。なかなか相手にしてもらえてなかったしね」
 物語そのものは、よくある話だったが、それを伝統的な衣装で、伝統的な踊りとして見ることができたのは、とてもいい経験だったように思う。それはそれとして、シードは屋台をきょろきょろと見ていた。
「レーゼ、パオ……」
「シード、ちょっと喉乾いたし、何か飲まない?」
「あ、うん」
 レーゼの喉を潤すのは大事だ。シードはパオパオのことを引っ込めて、レーゼに従った。レーゼとシードはペリオルノで採れる赤い果物のジュースを飲んだ。ジュースを飲んでゆっくりして、シードはもう一度露店を見回してレーゼに声をかけた。が――。
「あの、パオ……」
「おいおいお前たち、もうすぐ晩飯なんだから、ほどほどにしておけよ」
 ゼリドに遮られ、シードの望みはいともたやすく流されてしまった。だがまだ絶望的するには早い。今夜の料理に、もしかしたらパオパオが入っているかもしれない。
 しかし、パオパオに期待を膨らませるシードを宿屋で待っていたのは、おいしい夕食もそうだが、ゼリドの厳しい顔だった。
「シードよ。残念な報せだが、このままでは旅が続けられん」
「へ?」
 間抜けな返事をするシードに、こめかみをヒクつかせたゼリドから、「へ? じゃない!」と怒号が飛ぶ。せっかく目の前に料理があるのだが、ゼリドが怒っているので、手を着けられる空気でもない。
「大体、お前が原因だぞ、レーゼ! シードを助けてくれたことには感謝するが、俺たちにたかって、どういうつもりなんだ!」
 声を荒げるゼリドに、ひとりマイペースにトーリャ芋のスープを飲んでいたレーゼが眉根を寄せる。そんな様子を見ていて、シードは気が気でなかった。
「どういうつもりもなにも、私だってお前たちに会った時には路銀がすっからかんだったんだもん。いい仕事だと思ったのよ。路銀がなくなったのなら、稼げばいいじゃないの。ウェスパッサじゃ仕事に困ることはないんだし」
「他人事だと思って!」
「何よ、私も働くわよ。だからそんなに大きな声を出さないで。だいたい、この子の成人の儀なら、働いて稼いでそのお金で旅を続けるのに、一体何の支障があるの?」
 働く。その選択肢があるのかと、シードにとっては目から鱗だった。姉の報告書を読んだ限りでは、姉も用心棒のようなことをしていたようだったが、姉の場合は単純に面倒事に興味があったのではないかと思ったことも助けていた。
「ゼリド、僕も別に働くのがすごく嫌とかいうわけではないし……」
「そういう問題か! レーゼはどうだか知らんが、お前には実績がないんだ! 出来る仕事なんか、せいぜい皿洗いかゴミ拾いか、そんなもんだ! それでどれだけの金が稼げる!? 寝る間も惜しんで働いたとしても、三人もの人間が旅できる金が貯まるのに、二ヶ月はかかるぞ!」
 怒鳴るゼリドの後ろから、心底嫌そうな顔をしたレーゼが側頭部を掻きながら、面倒くさそうにゼリドの肩を叩いた。
「だから、私も働くって言ってるじゃない。お前もこんなボンボンの用心棒してるくらいなんだから、それなりの実績があるんでしょう? 三人でやればそんなに時間はかからないわ。それにこの坊やにだって、実績って言えるものはあるじゃない。ユハナの用心棒、皆でしたでしょう?」
「それはそうだが、それだとこいつの旅の意味が……」
「あのね。この子が手のかかる子だってことは分かってるわよ。世間知らずだし、ボーっとしてるし、金勘定のことは人任せ。へっぴり腰でここぞという時にシャキッとしない」
 聞けば聞くほど、自分のことだがぐうの音も出ない言い分で、シードは笑うしかなかった。しかしながらレーゼの表情は心底嫌そうなものから一変、純粋に厳しいものになっていた。レーゼは一言一言、静かに、だが強い響きで、ゆっくりはっきり言葉を続ける。
「でもね、お前がこの子を潰そうとしているの。分かる? お前の言っていることはね、正しいのよ。正しいわ、全く正しい。うんざりするほどにね、正しいのよ。でも、正しさだけでは駄目なの。お前の正しさは、この子を潰すだけよ」
 ゼリドは黙った。レーゼの言葉をどう思っているのかは分からないが、苦虫を噛み潰している。
「分かった。こうなった原因でもあるお前も働くと言うのなら、それで行こう。とりあえず明日は職安に行くぞ」
「分かったわ」
 ゼリドの答えに、レーゼは不服な様子を隠しもしなかった。
 ひとまずどうにか落ち着いたので、シードはトーリャ芋のスープをすすった。すでに冷めていたけれど、口当たりがなめらかでおいしかった。

 翌朝、シードはアドバイスを受けつつ自分で宿屋の主人に職安の場所を尋ね、ゼリドたちと共に職安に向かった。途中でパオパオの看板が目に留まったものの、ゼリドの視線が怖くて、ただ肩をすくめて見送るしかなかった。仕方がない、ゼリドの言うとおり、所持金を自分できちんと管理せず、レーゼの提案を全て聞いて遊んだのが悪かったのだから。職安で話を聞くのは、もちろんシードの役目だった。
 仕事を捜している人向けの案内を捜し、そちらへ歩みを進めようとした、まさにその時だった。
 白い肌をした、大柄の男と目が合った。腰に巻いている青いエプロンが目を引く。
「おお、君!」
「えっと、僕ですか?」
「そう、君だ!」
 よく通る大きな声で続けた。
「ここにいるってことは、仕事を捜しているのか?」
「はい、そうです」
「丁度良かった。私は働き手を紹介してもらいに来たのだが、うちで働かないか? 食堂をやっているのだが、従業員が一人怪我をしてしまってね」
「それはお気の毒に……えっと、でも僕、人に出すような料理はできませんが」
「問題ない、お願いしたいのは、調理ではなく給仕の方なのだ」
 シードはゼリドやレーゼの忠告を思い出しながら、男といろいろな話をした。働ける期間がそんなに長くないこと、働いたことがないこと、給料の条件などである。男はたまに唸ったりもしたが、どうにか話は前向きにまとまった。
「ありがとう、よろしく!」
「よろしくお願いします。僕はシードといいます。失礼ですが、お名前を伺っても……」
「おっと、興奮してしまって名乗っていなかったな。私はイルマだ。よろしくな、シードくん」
 イルマは白い歯を見せ、大きな右手を差し出した。イルマの笑顔は好ましく、シードも笑顔でイルマの右手を握り返した。

 シードは早速、自分の荷物を持って、イルマに連れられて彼の店へ入った。店はそこそこ大きい食堂だ。
「シードくん、君は働くのが初めてだと言っていたから、どの程度できるかは未知数だけど、ウィッセルベからここまで旅歩いて来たんだってね」
「はい」
「だったら、体力は心配いらなそうだね」
 シードにとって、イルマの食堂で働くのはかなりいい事であるように思えた。とういのも、働く期間は一週間で、その間は寝食の面倒も見てくれるということ、その間の給料も少ないながらしっかりもらえるということ、この二点だ。その話を聞いていたゼリドも悪くはないという顔をしていたし、一週間とはっきり期間が決まっているおかげで、彼らも働き先を決めやすい、ということもあった。
 最初にイルマが案内したのは、シードの寝床だった。
「ここで今日から一週間、寝泊まりしてもらうよ。さ、隅の方に荷物を置きなさい」
「はい」
 指示通りに荷物を置いたところで、イルマが続ける。
「沐浴場はあっちだよ。食べ物を運ぶ仕事だから、いつも清潔にしているように」
「はい」
「さて、いよいよ店に入ってもらうよ。こっちだ」
 イルマに連れられ、調理場を抜け、店に入る。イルマは手を挙げた。
「ホンザ!」
 ホンザと呼ばれた肉付きのいい青年は、元気に「はーい」と返事をして小走りでやってきた。イルマと同じく、青いエプロンを腰に巻いている。
「店長、その子が今日から働くんですか?」
「うん。シードくんだよ。今日から一週間だけね。面倒見てやってくれ。シードくん、この子はホンザ、うちの店のことはよく知ってるし、面倒見もいい。何でも聞くといいよ」
「よろしく、シードくん」
「よろしくお願いします、ホンザさん」
「じゃあ早速だけど、まずはこれで卓を拭いてくれるかな? 全部だよ」
 濡れた布を手渡されたシードは、これまた元気に「はい!」と返事をし、言われた通りに卓を拭いた。
 それからもホンザにあれやこれやと指示されながら、一通りの業務をこなした。主に客から注文を取り調理場に伝え、給仕をし、客の去った卓の食器を下げ、最後に皿洗いをする、といったところである。
 食堂は繁盛しているのか、とにかくこれら一連の行動に追われた。端から端へと忙しく駈け回り、ホンザからの指示が逐一飛び、客からは怒られ頭を下げ、ホンザに「今日はもういいよ」と言われたときにはぐったりとしていた。
「お疲れのようだね」
 項垂れているシードの許に、イルマが料理を持ってきた。〈まかない〉というものらしい。シードは飛び起きた。
「いえ」
「無理しなさんな。今日はゆっくり休んで、明日からは最後まで頑張ってもらうよ」
「はい」
「さ、食べなさい」
「いただきます」
 出された料理は、香辛料が効いていて、香りが良かった。味は濃いが、疲れた身体にはよく染みる。シードが食べる様子を見ながら、イルマも食べ始めた。
「他の方たちは?」
「すでに食べているよ」
「……ひとつ聞いてもいいですか?」
「どうした?」
「職安で僕に声をかけてくれたでしょう? 何かこう、理由があったんですか? その、僕は仕事を捜そうと思っていた矢先に雇っていただけて、本当にありがたいのですが」
 そう、幸運だった。働くのはこれが最後ではないだろうから、何か参考にできるものがあれば次の参考にしたいというのがシードの気持ちである。
「うーん、そうだな、深い意味はないのだが、シードくんは育ちがいいように感じたから、接客向きだと思ったのだ。育ちのいい人は、いろいろなことが丁寧だからね。人柄もよさそうだと思ったし、元気もよさそうだった。その辺の見立ては間違ってなかったと思っているよ。こうして見てみると、食べ方も実に上品だからね。それに何より……」
 そんなところまで見られていたのかと思うと恥ずかしくなって俯いた。
「……そうだな、放っておけないところなんかがね、昔仲の良かった友だちに似ていたんだ」
「昔? その人は、遠いところへ行ったとか、ですか?」
「そうだね、私には行けない、遠いところへ行ってしまったのだ」
 気が付くと、イルマは食事を終えていた。皿は綺麗だ。
「シードくんは食べ終わったら、食器は洗っておいてくれ。その後沐浴を済ませて寝なさい。沐浴の場所が分からなかったら、ホンザに聞くといい」
「わかりました」
 イルマが立ち去り、シードは黙々と食事を続けた。

★☆★☆

 シードがさっさと屈強そうな男に連れて行かれる様を見届けてから、ゼリドもレーゼもそれぞれに働き口を見つけていた。ゼリドはちょっとした金持ちの用心棒を引き受けた。短い間でもいいというのと、報酬に金だけではなく、馬を一頭もらえるというところが実に魅力的であった。レーゼはレーゼで、適当に仕事を見つけたらしい。
 ゼリドはシードと違い泊まり込みではなかったので、自由な時間は散策したり、その辺の飯屋で食事をしたりしていた。そして正にその時は、ゼリドがパオパオというペリオルノの名物に舌鼓を打っていた。
「ゼリドじゃない。偶然ね。ここ、いいかしら?」
 聞き覚えのある声に顔を上げると、憎たらしい顔の少女が立っているではないか。
「レーゼか。構わんが、またたかりにきたのか?」
「厭味ったらしい。うちは日払いだから、その心配はご無用よ」
「それはすまなかったな」
「そういう謝罪もいらないわ、癪だから」
 レーゼは店員を呼びつけ、ゼリドと同じものを注文した。料理が来るまでは今の仕事の話であったりとか、些細なことを話していたが、料理がくると、初めて見る食材に目を輝かせていた。
「パオパオの包み焼きです」
「へぇ、これがパオパオね。あの子も食べたがってたわよね。今度連れてこないと」
 ゼリドはパオパオにかぶりつくレーゼを見て感心した。
「あんた、金はたかるが、世話焼きなんだな。弟か妹でもいたのか?」
 レーゼはパオパオの肉を器用に裂いた。
「皮肉ばっかりね。下はいないけど、上には兄がひとり。だからかな、シードのこと、放っておけなくて。弟ができたみたいで。ちょとこのお肉、固いわね」
「そうか」
「お前は? 兄弟とかいるの?」
 兄弟。そのような存在は久しく忘れていた。そういえば、ゼリドにも〈家族〉というものは存在していたのだ。
「たくさんいた。もう思い出せないくらいにな。年の離れた姉には懐いていたようだが、すぐに嫁に行ったし、俺も家を出た。それからは家族となんのやり取りもしていない。だから他のやつらがどうしているかは知らない」
「そっか。家を出てからはずっと、こんな感じの仕事をしてたの?」
 それからずっと。ゼリドにとって苦い記憶が蘇る。ゼリドは目を瞑った。
 未熟ゆえの過ちも犯したものだが、その時の根拠のない自信や、経験の浅さ、それによる判断ミスにより、取り返しのつかないこともした。現在は、多くのことは取り返しがつくものだと思っているが、それにしたって、生き死にに関わることはそうも言っていられない。
 そこまで考えて、昼間のレーゼとのやり取りを思い出した。レーゼといい合いになってしまったが、その際、彼女にしては心底不愉快そうな顔をしていた。あれはなんだっただろうか。
「そうだな、こんな感じの仕事だ。……昼間はすまなかったな、大きな声を出して」
「一応気にしてたんだ。お前も律儀ね。もう気にしてないわ。私も、今まで金銭面に関して、助けた恩を被せて横着して悪かったわ。これからは、自分の分くらい自分でなんとかする。でもやっぱり、ひとりじゃつまらないから、一緒に行ってもいいかしら?」
 出会ったばかりのレーゼが言ったのであれば、ゼリドはまた文句を垂れただろう。だが今はいろいろ変わってきている。特にシードは、手の掛かる坊主だと思っていたけれど、レーゼと一緒にいることで、いい変化が起きているように感じられるのだ。
「ああ、よろしく頼む。シードは、あんたがいた方が楽しいみたいだからな」
「それは良かった」
 その頃には、レーゼはパオパオを綺麗に平らげていた。

★☆★☆

 翌日もその翌日も、シードはよく働いた。――ように思う。慣れない動きと気疲れからか、仕事が終わって沐浴すると、泥のように眠ってしまう。しかしホンザは親切に教えてくれるし、特に大きなトラブルも失敗もなく、順調に過ごせていると感じていた。
「おはよう、シードくん」
「おはようございます、イルマさん」
「今日もしっかり頑張ってくれよ」
「はい、頑張ります!」
 その日も昼間は忙しかった。山場が過ぎ客入りがまばらになったころ、イルマは食材の買い出しに行ってくるとホンザに一言声をかけ、店を出てしまった。忙しくなる前に戻ってくるから、と。これまでずっと店にいた店主がいなくなることに若干の不安を覚えたものの、ホンザが頼もしそうだったので、不安も一瞬のうちに去っていった。
 忙しい時間帯でわちゃわちゃしていた店の掃除をして、店に入ってきた客の相手をする。そんな時だった。
「きゃっ」
 短い叫び声が聞こえた。
 声のした方に目をやると、屈強そうな大男が巻き毛の少女に絡んでいる様子だった。
「嬢ちゃん、うちの店に来ないか?」
「えっと」
 男は少女の腕を掴んでいるようだ。顔は赤く、呂律もあまり回っていないところを見ると、昼間っから酒を飲んで酔っ払っているのだろうか。
 シードはその様子を見ながら、心音を抑えるのに必死だった。だが少女と目が合った。何かをせねばならない。
 ――こんな時、レーゼだったら……。
 深呼吸をして、拳を握りしめ、一歩を踏み出した。この一歩は、シードにとって大きな一歩だ。
「あ、あの!」
 勇気を振り絞って声をかけると、強面の男に睨まれた。それがまたおっかないので、シードは震え上がった。しかし、ここで声をかけたのだから、黙って引き下がるわけにはいかない。人攫いにだってなんとか勝てたのだから、できないことはない。はずだ。
「嫌がっているので、やめてください! お、お酒が入っているから、気が大きくなるのは分かりますけど……」
「なんだ小僧、いい度胸だな。やるのか?」
 酔った男に睨まれ、シードは縮れあがった。しかしシードが声をかけたおかげか、巻き毛の少女から手を離した様子で、少女は素早くシードの背後へ逃げた。
 騒ぎにならないのが一番だが、ここまでくると、穏便に終わらせるのは無理だろうか。シードよりもひとまわりもふたまわりも大きなこの男に勝つのは難しいだろう。
「僕はち、力はないので、喧嘩はできません! きっと相手にならないと思います!」
「なんだ小僧、期待を裏切らない顔だな!」
 ガハハ、と笑われた。シードも一緒に笑っておいた。
「気が抜けちまったぜ。ホンザ、今日は帰るわ!」
「ありがとうございました!」
 勢いよくお辞儀をするホンザに続き、シードも素早くお辞儀をした。
 屈強そうな客が店を去ってすぐに、絡まれていた少女に声をかけられた。
「シードくん、ありがとう」
「あ、はい……」
 若干涙目の少女に声をかけられ、気が抜けたらしい。シードはその場にへたり込んだ。
「こ、怖かったです……」
「ふたりとも、裏に行って少し休め。その分はカバーできるから」
 ホンザに言われるがまま、シードは少女に支えられながら、表から離れた。

 少女を助けたのは、シードにとって途轍もなく勇気のいる行動だった。いかに死線のようなものをくぐって来たとはいえ、シードはいつも守られる側で、自分が誰かを助けるときだって、レーゼが側にいた。
「シードくん、本当にありがとう」
「いいんです、無事ならそれで」
 結局のところ、この巻き毛の少女を助けた時も、レーゼの姿が思い浮かんだ。レーゼならばどうするだろう、と一瞬でも考えた。レーゼはシードにとって、強くて美しくて、勇気のある女性なのだ。
「僕は格好がつかなくて、その、腰が抜けてしまって、結局ここまであなたに支えていただかないと歩いたり立ち上がったりできないような、情けない人間ですし……」
「そんなことない!」
 少女が声を上げるので、シードは見開いた目を少女に向けた。
「そんなことないです。私は自分から助けを求めることもできなかったですし、そりゃ、軽くあしらう程度なら私だってできますけど、あんなに大きな人に抵抗なんて、とても……」
 確かに、あの時の客は屈強そうな体つきをしていた。イルマも負けてはいないが、そのイルマが不在となると、いよいよ恐ろしいことである。
「情けない姿を晒したと思いましたが、それでもあなたが助かったとおっしゃるなら、なによりです」
 シードは頭を下げた。
 強くなりたい。お礼を言われたことを、自信を持って「自分のおかげだ」と思えるようになりたい。そう思った。


 イルマの食堂に来てからというもの、一週間はあっという間に経過した。途中、巻き毛の少女を庇って腰を抜かした程度のトラブルはあったものの、それ以外は特に事件もなく、順調に進んだものだった。寝床の荷物をまとめ、イルマに挨拶に向かうと、待ってましたとばかりにイルマが笑顔でシードと距離を縮め、シードの肩を軽く叩いた。
「シードくん、一週間ありがとう。とても助かったよ」
「いえ、そんな。お役に立てたようで、なによりです」
「これは君の給料だ。確認しなさい」
 お金を受け取って、言われた通り数える。
「あれ、イルマさん、少し多いように思うのですが」
「ん? ああ、それは気にせず受け取りなさい。これからも旅をするんだったら、何かと入り用だろう。それに、ハンナを助けてくれたしね」
 それは確かに心当たりがある。あの時酔っ払いに絡まれた少女がハンナというのだろう。
「でも僕、あの時はそんなに力になれたとは思えなかったのですが」
「いいんだよ、謙遜せずに受け取っときな。それに、力になれなかったなんてことはないよ。ハンナが本当に感謝してるって言っていた。それはハンナの気持ちさ」
「では、ありがたく頂戴いたします。ハンナさんという方に、ありがとうと伝えていただいてもいいですか? もちろん、ホンザさんにも」
「勿論だとも」
「本当にお世話になりました」
「ああ、ありがとね」
 手を振るイルマに、シードは深くお辞儀をした。その時、背負っていた荷物でバランスを崩しそうになって慌てたのが気づかれていなければいいが。
「あ、あともうひとつ、忘れるところだった」
 イルマは「ソッティ・オーバーソー・ホートゥン」と笑顔を向けた。シードも同じ言葉を返し、店を後にした。

 店を出ると、すでにレーゼとゼリドが馬を連れて待っていた。
「遅かったじゃない、待ちくたびれちゃった」
「ごめん、レーゼ」
「ね、早く行こう」
 手を引かれて歩き始めるも、どうも馬の存在が気になるシードは、手綱を引きながら歩くゼリドに尋ねてみた。
「その馬はどうしたの?」
「ゼリドが仕事でもらったんだって。馬がもらえるなんて、どんな仕事してたのかしら」
「大したことじゃない、ただ用心棒をやっていただけだ」
 二年前にはお転婆なシードの姉の護衛もやっていたことだし、彼にとっては朝飯前のことなのだろう。ゼリドは罰が悪そうに、「荷物を貸せ」とシードとレーゼから荷物をふんだくった。
「あ、私のも持ってくれるんだ」
「どうせお前は、アランバルトまでは付いてくるのだろう」
「バレた?」
 高い声で笑うレーゼにつられ、シードも一緒に笑った。
「まったく、いつまでもケラケラ笑っていないで、明るいうちに行くぞ!」
 などと言って、馬を連れ街を出た。

 さて、街を出てしばらく歩いていた時のこと。
「あ、そういえば!」
 シードが突然大きな声を出すので、ゼリドとレーゼは驚いてシードを振り返った。
「僕、パオパオを食べてないよ!」
「そっか。あれ、私とゼリドだけで食べたんだった」
「えー、二人とも食べちゃったの? 羨ましいなぁ」
「ごめんごめん。シードにも食べさせようって話をしてたんだけど、いろいろあってすっかり忘れてたわ。でも、もう一度ここに来る口実にはなるわね」
 レーゼが困ったようにゼリドに目配せをする。ゼリドはレーゼと目を合わせないようにしていた。
「この薄情者」
 レーゼがゼリドの脛を軽く蹴るのが見えた。ちょっとしたことだが、ゼリドにはえらく響いたようだ。その様が面白かったので、シードはもういいや、という気持ちになった。



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