姉の中には昔から天秤があった。吊り下げ式の大きな天秤。
 片方の皿には姉が乗っていて、もう片方の皿には姉以外の誰もが乗っている。気が付いた時には手遅れで姉の乗った皿はもう天に近いところで揺れるだけになっていて、オレたちの声なんて届かない。姉はブランコにでも乗っているかのように楽しそうに笑いながら皿の縁に座り、足を揺らして下を覗き込んでいた。ひとつ風が吹けば大きく揺れて間違いなく転がり落ちるだろうと分かっているのに、時折オレたちの乗る皿を見下ろしては愛おしげに笑ってみせるのだ。

 姉は、そういう人だった。


 目が覚めて、今日はダメな日か少しはマシな日なのかはだいたい自分でも分かる。起きた時に頭にモヤがかかっているか、晴れているか。晴れている日は大抵ダメな日だ。逆じゃないかと思うかもしれないけれど、経験則から言ってそういうものだ。

 今日はその、ダメな日の方だった。閉め切ったカーテンの僅かな隙間から差し込む陽の光が酷く邪魔に感じる。だけど起き上がってカーテンを閉め直すことすら億劫で、ベッドの上で膝を抱え込むようにして体を丸めて部屋の隅を見つめた。
 この部屋には最低限の家具以外には何もない。一度三途から分けられた薬をキメて大変な暴れ方をしたらしく、薬が抜けた時にはこうなっていた。その前まではもう少しは人間らしさのようなものが窺える部屋だったのだが、今はもう寝起きをするためだけの部屋だ。

 枕の横に投げ出されている端末に手を伸ばす。夜には定例の幹部会があって、それには顔を出さないわけにはいかない。でも今日はダメな日だ。そういう時は連絡をしなければいけない。しなければ、誰もが傷付くだけだから。

 誰とも連絡を取らないせいでほとんど同じ名前で埋まった着信履歴の一番上を押す。これは私用の端末だから余計に同じ相手にしか連絡をしないのだ。もう一台の方には幹部から時折連絡が来るし、薬をキメた三途から意味のわからない電話が掛かってくることもある。そういう時の三途は気の狂ったように絶え間なくぎゃあぎゃあと喚き立てるから、眠気を誘うにはちょうど良かった。
 しかし、今から電話をする相手は三途ではないし、薬をキメてもいない。何度かやったけれど合わなかったと言っていたからアイツは薬はやっていないのだ。同調するようにしてあの兄弟も薬には手を出していない。

 初期設定から何も変えていない着信音を聞く。数コールは出ないことはもう分かっている。これまでもずっとそうだった。

 数十秒に満たない時間の後に、着信中の文字が応答中に変わった。

『もしもし』

 機械越しに何も変わらないいつも通りの声が聞こえてきて、知らず知らずのうちに詰めていた息を吐き出す。らしくもなく緊張して怯えているのだ。声は変わらないと分かっていても、頭の中ではその影がチラつく。

 スピーカーにした電話の向こう側で、緩慢な音楽が流れている。クラシックか何かだろうが、生憎そちらには詳しくないので曲名までは分からなかった。眠れない時に流すといいと押し付けられたCDも、それこそ流した瞬間に眠気がやってきてしまうせいで最後まで聞いたことがないぐらいなのだ。

 沈黙が続く。オレが何か言うまではこれが続くと分かっているので、大人しく口を開いた。いつも通りの、もうずっとコイツにしか聞かせていない挨拶。

「……おはよう」
『ああ、おはよう。調子はどうだ。よく寝れたか?』
「それなりに」
『そうか。ベッドに入ったのは何時だ』
「……日付は変わってた」
『じゃあこれが終わったらまた寝ておけ。予定は午後からだろ。お前が起きてくるまでは部屋に入らないように連絡しておく。それから、朝食は抜くとして昼はどうする? あわせて連絡するが』

 一度おはようの挨拶さえしてしまえば、その後は会話の種は全て向こうから撒いてくれる。オレはそれに答えるだけでいいから、この時間は楽だった。選べないだろうと判断したことは全部選んでくれるし、自分の思考を限りなく無に近いところまで引き落とせるのだ。


 人は人に何かを求めるものだが、コイツがオレに求めてくるものは普通で、だからこそこの世界では中々に稀なものばかりだ。おはようとおやすみの挨拶に、食事の摂取に、良質な睡眠。普通に生きていれば普通に手に入って、普通に生きていなければ手に入らないもの。オレが手放したはずのもの。

 元はここまで世話焼きな人間ではなかった。兄と弟として一緒にいるようになってから随分と経つが、どちらかといえばオレたちは揃って世話を焼かれる側の人間だったのだ。それが今ではこうも変わった。変わらざるを得なかった。望んで変化を選んで、こうしてオレの世話を焼いている。

『この前パン屋で買って食ったパンが美味かったな。お前も好きな味だと思うよ』
「なんのパン」
『餡子入りのクロワッサン。買って届けるから、それでいいか』
「ん」
『オレはひとつで足りたけど、お前は二つぐらい食べるかな。取り敢えず適当に他のパンも買ってくから、鶴蝶と一緒に食え。甘い方がいいよな』
「そこまで甘くなくてもいい」
『そうか? まあ、たい焼きも買ってくよ。いつもの店のヤツ』

 そう言って、何か金属と金属が触れ合うようなカチャリと言う音がした。ティーカップをソーサーに置いた音だろうかと予想しつつ、別にわざわざ尋ねるようなことでもないので電話の向こう側のクラシックに耳を澄ませる。だんだんと眠くなってきた。

 一度だけ、さして音楽なんて好きでもないだろうに何故こんなご高尚な曲ばかりを流すのかと聞いたことがある。まだオレたちが少しは向かい合って会話を出来ていた頃だからもう十年近く前になるのだろうか。
 数秒の沈黙の後に返ってきた言葉は、よく眠れるからという辻褄の合っていない下手くそな誤魔化しだった。二度寝はしないタイプの人間だと知っている。それなのに朝起きてから聞いている音楽をよく眠れるから流しているだなんて、矛盾しているだろう。

 徐々に深くなる微睡みの中で、投げ掛けられる言葉に曖昧な相槌を打つ。クラシックと、聞き慣れたこの声。睡眠薬に頼っても眠れない夜に時間も考えずに電話を掛けてしまうぐらいには、このふたつの組み合わせはどうにも眠くなってダメだ。

『もう眠いか? ちゃんと布団に入って寝ろよ。まだ夏にもなってないんだから油断してると風邪引くぞ』
「……なあ」

 言われた通りに無駄に広いベッドの端で落ちかけていた毛布を手繰り寄せつつ、言わなければいけないことがあったのだと思い出す。コイツとの電話はすぐに眠くなるし調子が狂う。伝えたいことがあっていつも電話をしているのに、それを思い出せるのは決まって最後だった。

「今日、来なくていい」
『今日も、だろ。まあ、だろうと思ってたよ。金回りに関してはいつも通り蘭に代わりに説明させるけど、それでいいんだな』
「うん。……あのさ、そろそろその髪型、変えろよ」

 これもまたいつも通りの会話だ。オレはもうずっとダメな日が続いていてコイツを定例会にも呼んでいないし、何かあったとしても電話かメールで報告を受けるだけだ。どうしても顔を合わせる必要がある時ですら代理を立てて、絶対に会わないようにしている。それでもタイミング悪く会ってしまったりする日なんて、二人とも幸せになれないことは分かっているから。

 数秒の沈黙の後に、窘めるように名前が呼ばれる。声を聞くのは平気なのだ。その変わらなさに落ち着きさえする。でも、会うのはダメだった。

『流石にこれは変えるわけにはいかない。マンジロー、お前も分かるだろ? こうでもしてなきゃダメになりそうなんだよ』

 縋るような声音だ。何度も繰り返して先の分かったやりとりに、分かっていても是と返す。そうでもしてなきゃダメになることは、オレもお前も一緒だ。それぐらい分かっている。分かっていて、それでも変わってしまえばいいのにと思ってしまうのだ。髪型を変えてダメになるなら、ダメになればいい。


 だってオレもお前も、もうとっくにダメになっているじゃないか。


『それじゃあ切るけど、昼は起きてちゃんと食えよ。あ、だからってたい焼きばっか食うのはナシ。普通の飯も食え』
「……ん」
『オレから言うことはそれぐらいかな……ああ、今日はテレビは見ないようにしとけよ。見たくないだろ、お前も』

 じゃあなと一言だけ告げて電話は切られた。八分三十秒と表示された応答時間を見つめて意味もなく指でなぞりつつ、寝転がったまま手を伸ばしてベッドサイドに置いたテレビのリモコンを掴み電源を入れる。朝だというのにアナウンサーや番組出演者の耳に障る騒々しい声が聞こえてきて吐きそうになった。

 テレビは滅多に見ない。娯楽を求めていないし、ニュースなんて見なくたって生きていけると知った。何もしなくたって本当に必要な情報は集まってくるようになっているのだ。でもそれはつまり、不必要な情報は入ってこないということでもある。
 あの最後の発言を聞かなくたって、今日のニュースで何がやっているかは分かっている。昨日カレンダーを見て思い出してしまって最悪な気分になって、だから日付が変わっても寝付けなかったのだ。オレはそのニュースを見たくない。それでも、見ないわけにもいかなかった。

 これを見たらまた眠れなくなりそうだと思いつつ、そのニュースがどこのチャンネルでやっているのかまでは分からなくてあちこちボタンを押した。もしかしたら朝の時間帯には映さないかもしれないが、警察から声明が出たのは昨日の夕方だ。どこかしらは取り上げている可能性が高いし、何よりアイツはそれを知っていたからオレに今日一日テレビは見るなと言ったのだろう。自分は見るくせに。


 数秒チャンネルを切り替え続けて、結局一番最初に付けていたチャンネルに戻ってきた。ちょうどCMが終わる。リズミカルな音楽に合わせて紹介される食器用洗剤のCMは、妙に頭に残った。
 映像がスタジオに戻り、化粧の濃いアナウンサーが取り繕ったような神妙な顔で続いてのニュースはと決まりきった構文を口にする。警視庁は昨日、と続いた言葉に耳を塞ぎたくなった。ああ、聞きたくない。

『一ヶ月後の六月三十日で事件発生から十年を迎える渋谷区強盗殺人事件に関して、改めて声明を発表しました。依然として容疑者は逮捕されておらず、被害者四名と遺族に追悼の意を表しつつ、更なる情報提供を呼び掛けています』

 画面が切り替わり、きちんとしたカメラで撮られたものではない上に切り取られて画質の悪い写真が映し出される。写真の中の四人は揃いも揃って満面の笑みを浮かべ、ちょうど真ん中ではどこからどう見たって仲睦まじい姉と妹にしか見えない二人が肩を寄せあってカメラを見つめている。それぞれその横に並ぶ二人も、似たような顔で笑いながら妹たちの肩に手を置いていた。

 アナウンサーが平坦な声で、四人の名前を読み上げていく。二人は苗字が一緒で、あとの二人はバラバラだ。事件が起きた時もその件で根も葉もない噂が立てられて、あることないこと好き勝手に吹聴された。あの時の屈辱にアナウンサーも追従するようにして、被害者のうち二人は兄妹であったものの二人は数年前から家族ぐるみの付き合いをしていて、と言葉を続ける。
 そこで聞いていられなくなって電源を落とした。衝動的にリモコンを床に投げ付ける。何かにぶつかる音がして静かになって、後にはオレの荒い息だけが残された。それすらも聞いていたくなくて頭を抱え込むようにして毛布の中に隠れる。

 こうしていると逸る心臓がうるさい。人が一生で刻める鼓動の数は決まっているのだという話を聞いたことがあった。迷信かどうかなんてどうでもいい。このままオレの心臓も勝手に突っ走って、そうして止まってしまえばいいのに。本気でそう思う。

 一人でいたいのに、一人でいると後悔ばかりが思い浮かんで仕方ない。あれもこれもと本当に何もかもを後悔している。そうして、後悔ばかりのところを見せれば仕方ないなと笑ってまた抱き締めてくれるのではないかと思ってしまってもいるのだ。
 そばにいて守ってと言われた時、何も返せなかった。そばにいることで傷付けると思ったからだ。

 きょうだいのためならばすぐ死ににいく人だった。自分を投げ出して、命すらも差し出して、きょうだいのために死ねる。姉はそういう人で、そうでなければ生きていけない人だったのだと今では思う。
 きょうだいたちのためならば死ねると口で言い、そしてそれを実行してしまえる人だった姉にとって、あの時一番危険だったのはオレだった。みんなを守りたかったから突き放した。それしか分からなかったから。

 絶対にオレの手を離さないと言ったきょうだいたちの手を振り解くことは簡単なことだったし、案外呆気なくもあった。追ってくるなら遠ざかれば良かったし、追えないぐらい離れてしまえばきょうだいたちのために死ねると豪語する姉でもその動きは鈍くなった。姉は先の事件の後遺症で満足に長時間の運動が出来なくなっていたから、オレを探すにも手間取っていたのだろう。
 それでも妹に連絡先を託してしまったのは、オレの弱さでしかなかった。捨てられなかったのだ。手放せなかった。手を振り解いたのに、それでも求めることはやめられなかった。きょうだいたちへの愛をなかったことには出来なかった。
 毎日毎日交代で寄越してくれる留守電を聞いて、パソコン関連に秀でていた奴に頼んで音声を抽出したりもして、オレはずっときょうだいたちに縋っていた。守るために仲間を突き放したのに、同じぐらいかそれ以上に守りたかったはずのきょうだいたちを手放すことが出来ないままだった。


 本当に後悔ばかりなのだ。決定的に手放すことも直接そばにいて守ることもせずに、自分は上手くやっているつもりになっていた。
 今更でしかないけれど、こんなことになるならそばにいて守ってやれば良かったと思う。突き放したりなんてしなければ良かった。オレがいなければ幸せになれないというその言葉をきちんと受け止めなかったのはオレだ。傷付けるからと逃げたのはオレだ。最期の最期までオレの手を離したりなんてしなかったきょうだいたちの手を振り解いたのは、オレなのだ。


 あの日のことはよく覚えている。朝からどうにも嫌な予感がしていた。姉と二番目の兄に比べれば劣るけれど、オレにだって少しはそういう第六感のようなものは備わっていたのだろう。嫌な予感をそのままに抗争に向かい、他所のチームを叩きのめし、その頃には日課になっていた三分ほどの留守電のことばかりを考えていた。じいちゃんが腰を痛めて入院したと前日の留守電で聞いていて、もうそこまで若くもないんだから無理なんてしないでくれと思っていたのだ。
 抗争とも言えないような一方的な暴力が終わり九井の用意したタワーマンションに向かって、音声の抽出中に首を傾げられた。今日は二件あるけれど、と。
 もうその時点でどうにも嫌な予感が抑えきれなくなって、オレは固く決めていたもう二度ときょうだいたちには会わないという誓いを破ろうとした。何かあったんじゃないかと不安で不安で堪らなくて、手を振り解いたのは自分なのに二年近く寄り付かなかった実家に帰ろうとして。
 オレがソファーから立ち上がるのと顔色の悪い三途が入室してくるのとじゃ、きっとオレの方が早かった。それなのにオレは結局何もかも遅かった。


 妙に言葉に躊躇う三途から話を聞くよりも早く何もかも投げ出して向かった先で待っていたのは、ただの地獄だった。敷地内に踏み込んでもいないのに辺り一帯に漂う鉄臭さに、規制線の周りに集まる野次馬に、玄関から縁側に至るまでの広範囲に広げられたブルーシートに、慌ただしく動き回る警察。呆然と立ち尽くすことしか出来なかったオレの耳にも強盗が入ったらしいとか、四人殺されたらしいとか、さっき他のご兄弟が駆け付けられてだとか、そういう言葉が入ってくるのだ。みっともないぐらいに手足が震えたし、叫び出しそうだったし、近所に住んでいた何人かの顔見知りに気の毒そうな目で見られたりもした。それでもオレは、一歩も動けなかった。


 何かを察したのかブルーシートの奥から血の気の引いた顔を覗かせた姉の恋人だった男の双子の兄に手を引かれて敷地内に入って、ぐっと強くなった血の匂いにまた吐き気を催して、そこからはあまり覚えていない。確か弟はその場にいなかったのだ。姉の恋人もいなかった気がする。数年後二番目の兄に聞いた話では途中で立っていることすら出来なくなって二人とも病院に運ばれて点滴を打っていたそうだから、オレが到着する前にはその場に居はしたのだろう。けれど、あの場で会うことはなかった。

 今でもあの日のことを思い出すと吐きそうになるし、そもそも思い出すことすら出来ない部分が多い。ブルーシートの奥がどうなっていたのかは覚えていないし、きょうだいたちの死因も確認はしたはずだが覚えていない。防衛本能のひとつなのだろう。忘れることでしかオレはオレを守れない。当たり前だ。そもそも自分だけを守ろうだなんて烏滸がましい。突き放すだけ突き放して結局縋り付いて、守りたいなどと口で言うだけ言っておいて、オレはきょうだいたちを守れやしなかったのだから。


 姉の中には昔から天秤があった。吊り下げ式の大きな天秤。
 片方の皿には姉が乗っていて、もう片方の皿には姉以外の誰もが乗っている。でもその天秤は一度跡形もなく壊されて、オレたちは地面に転がり落ちてきた姉を受け止めることに成功した。天秤なんてもういらない、守るだけなんてやめて一緒に生きていこうと告げたきょうだいたちの言葉はきちんと姉に伝わって、姉はオレたちと荷物を分け合って生きることを選んでくれた。

 そうしてオレの荷物だって背負いたいと言ってくれた姉たちを突き放した結果がこれだ。オレが突き放したその先に、底のない真っ暗闇が待ち構えていた。四人揃ってそこに落ちていって、それでもオレの手を離そうとなんてしなかった。


 忘れることで自分を守ろうとしたのに、どうしたって留守電に吹き込まれたきょうだいたちの最期の言葉だけは忘れられないのだ。何度だって思い出す。死にかけの苦しそうな声で譫言のように恋人の名前を繰り返していたのに最期の最期にオレと弟と妹の名前を呼んで守るからと呟いた姉も、何より可愛がっていた妹たちに一頻り謝ってからオレにも何度もごめんとそばにいるを伝えてくれた三番目の兄も、自分が死ぬと分かっていても救急車を呼ぶより早くオレに電話を掛けてきてきょうだいたちの名前を途切れ途切れに呼びながら愛していると言って死んだ一番上の兄も、全部を思い出してしまう。
 苦しくて辛くて、痛かったんだろう。泣きたくて堪らなかったはずだ。なのに死にたくないなんて一言も言わずに、揃いも揃って馬鹿みたいにきょうだいのことを思いながら死んでいった。自分たちを突き放したオレを憎んだりなんてしなかった。そばにいて守ってという言葉を無視したオレに何も言わなかった。それどころか愛しているだとか、そばにいるだとか、守るだとか、そんな言葉だけを残していったのだ。


「シンイチロー、イザナ、リコ、エマ」


 呼んだよ。いつだったか、名前を呼んだら止めてくれるって言っただろ。オレが何を言っても止まれないようだったら殴ってでも止めて、その後にまた言葉を尽くしてくれるって。今こそそれをしてくれよ。

 オレを止めて。もうオレは自分で自分を止められないんだ。人を殺すのが簡単なことなんだと知ってしまった。一瞬で終わるんだよ。引き戻れないところまでもう来ちまったんだ。四人が死んだ後に急に重しが外れたみたいに何歩か前に進んでしまって、もうそれから一歩も引けていない。


 たった五分の間に死んでしまったオレの愛しいきょうだいたち。たったの五分で命を奪われた愛しい人たち。あの日からオレの中にはずっと天秤がある。片方の皿に残った大切な人たちを乗せていくんだ。そうするともう片方の皿にはオレだけになって、情で乗り込んできてくれたあとの二人のきょうだいの重みを合わせたって到底釣り合いそうにもない。

 三人揃ってさ、ずっと遠い下を見てるんだ。落ちれば楽になるんじゃないかとか、いつこの天秤は崩壊するんだろうとか、そんなことばかりを考えている。ここから落ちて楽になれば、お前たちにまた会えるんじゃないかと思ってしまっている。
 与えられるべきだった幸福を理不尽に奪われた四人はきっと天国に行くんだろう。人を殺して不幸にしてきたオレたちは地獄行きだ。そんなこと分かってる。もうずっと前から分かってるよ。分かってるけど、止まれないんだよ。

 名前を呼べばまたオレの前に現れてくれるなら何度だって呼ぶ。オレを止めてくれるなら、この喉が潰れたってその名前を呼び続ける。


 勇気がなかったのか、自分を信じすぎていたのか、或いはそれすら出来ないぐらい弱かったのか。何度名前を呼んでくれと言われたって、そうすれば止めるからと言われたって、オレは手を伸ばし続けてくれたきょうだいたちの手を取ることも、名前を呼ぶことも出来なかった。だからもうその全部が今更でしかないのだ。

 大切な友人たちには絶対に幸せになって欲しい。お前たちを守れなかったオレに残された、本当に大切な奴らなんだよ。幸せでいてくれなきゃ意味が無いんだ。その幸せのためなら、何だって出来るとすら思う。
 だけど、やっぱりおかしいだろ。その幸福を願う気持ち同じだけ、全部投げ出して救われたいと思ってしまっている。忌むべき考えだ。名前を呼ばれたい。無敵のマイキーじゃなくて、ただの兄で弟だった佐野万次郎に戻りたいと思ってしまうのだ。

 何度だって夢に見て、何度だってきょうだいたちがオレの手を引く。背中に触れる。何も言わずに抱き締めてくれる。目が覚めてそれが夢であることに絶望して、またダメになる。


 こうなってしまったことを笑ってくれていい。オレたちがいないとダメなままだなと言ってくれ。それで出来れば、また名前を呼んで手を引いて。


 毛布の中で頭を抱え込むようにして体を丸め込んで、どこかに消えた眠気が帰ってくるように祈りながら目を閉じる。また電話をするのも躊躇われるし、わざわざ立ち上がってCDを流す気力もない。


 だんだんのろまになってきた心音に耳を傾けて、ふと思い出す。あの四人はいつも距離が近かった。意味もなく背にもたれたり手を握ったり抱き着いたり。それは四人の中で完結することではなく、オレたち三人も事ある毎にくっつかれたのだ。その度に聞こえた早くもなく遅くもない心音はいつだって眠りを誘った。

 あの音をまた聞きたい。それで、抱き締めて名前を呼びながら頭を撫でて欲しい。そうすればよく眠れる気がするのだ。


 +


 何もかも夢であってくれればいいのにと思うのは、何もかもが夢ではないと知っているからだ。
 死人は生き返らない。残念なことにそれが世の理で、オレたちが受け止めなければいけない現実の大部分だった。人は一度死ねばそのままで、この世には魔法なんてものはないし奇跡も起こらない。望まれる人こそが死んでいき、後にはどうしようもないものばかりが残る。世の中は、そうして回っている。

 容赦なく引っ叩かれて痛む頬を意味もなく抑えながら、一息に飲み干して空になった空き缶をゴミ箱に放った。何も食べたくない時はこうして飲み物を飲む。訪れもしない空腹が誤魔化されたような気になるし、生きるための食事をしているような気にもなれるのだ。弟に食事をするようにと言っている以上、兄である自分が食事をしないわけにもいかなかった。

 顔を上げ、眼前に広がる川を見て思わずため息をついた。ベンチの背もたれに腕を回せば肩の関節が音を鳴らす。もう言っていられるほど若くもないのだとこういう時に思い出すものだ。
 こういう川はさして好きでもないし綺麗だとも思わない。それどころか海を連想してしまって、過去を思い出して憂鬱にすらなる。だけどこの付近をこの時間に歩いているという情報が集まってきている以上は、たとえ今日会えずともここから立ち去るわけにはいかなかった。もし今日会えないのならば明日も来るだけだ。基本的に当分の間はオレは暇だし、時間に縛られるような生き方をしていない。


 梵天というひとつの大きな犯罪組織の幹部になったのは、その頭目が弟だったからというのが一番大きな理由だ。あとは本当に流れで、気付けば組織に属していた。そうして泥濘にハマって抜け出せなくなって結局ここまで来ているのだから、オレは案外流されやすい性質だったのだろう。

 オレには弟が三人いたけれど、今となっては生き残っているのはそのうち二人。厳密に言えば四人の弟のうち三人が生き残っているとも言えるのかもしれないが、うち一人にはもうずっと会っていないし、そもそもオレたちのきょうだいだと知られて百害あって一利なしだ。そんなことであればきょうだいだと名乗らない方がいいし、向こうもそれは分かっているのだろう。大々的には名乗っていないようだった。
 そうして縁を切った一人と、切れなかった二人。後者二人は共に泥船に乗り込んで、落ちるところまで落ちていこうと何も言わずに決め合ってすらいる。一緒にいるとなくしたのはオレだけではないのだと安心出来るのだ。それに危なっかしいからそばにいてやらなければと思える。兄の役目を全うできる。

 その弟のうちの上の方、マンジローは、もうオレが気付いた時にはどうしようもないぐらいに潰れて手遅れになっていた。だから今更でしかないけれど支えてそばにいて、そうしてなんとか「普通」に近い生活だけでもできるようにと努力している。
 その努力を形にした結果こうなったのだと言えばきっと弟は死にそうな顔をして謝ってくるので、そういうことは言わないように気を使っている。それに流されてここまで来たとはいえ、弟たちのそばにいると決めたのはオレだった。


 近付いてきた夏を思わせるどこか生温い風に煽られて揺れ顔にかかった、背中の真ん中の辺りまで伸びた髪の毛先を摘む。 伸ばし始めてから十年経つが、自分の中では最近ようやくこの長さが普通になってきた。もう少し短く切り揃えてインナーカラーでワインレッドでも入れるかと思うこともあるぐらいだ。

 ただ、普通になってきたのはオレだけで、そもそもオレ自身だってきっとこの長さに慣れたと思い込もうとしているだけなのだろうとも思う。他の何もかもだってそうだ。今に慣れて普通になったのだと自分を納得させようとしている。そうして何もかもが夢であることを願っている。
 そもそも普通が何かも分からないのに、普通になれたかどうかを判断することがもう間違っているのかもしれない。どこにもない物差しで普通を推し量って型に嵌ろうとしたって、そこには嵌れない型に嵌ろうと足掻いて普通とやらを望み続けるだけの哀れな残り物たちが群がるだけだ。

 では、普通とはなんなのか。蘭に言わせれば世間一般で言う普通の人間は毎朝一時間鏡と見つめあったりなんてしないらしい。その時点でオレはもう既に普通ではないことになってしまう。

 オレは普通なんかじゃなくて、オレたちはずっと前から頭がおかしいそうだ。これまでずっとオレと竜胆の手綱を引いていてくれた蘭がそういうのであれば本当にそうなのだろう。

 人生の半分以上友情の続いている蘭は、あれで面倒見のいい人間だった。というよりかは、オレたちがおかしくなってしまったせいで正気でいる他なくなってしまったと言うべきなんだろうか。周囲の人間が総じて狂っていけば、取り残された一人は嫌でも正気でいる道しか選べなくなる。全員が狂えば破綻することが分かっているからだ。
 友人であるオレと弟である竜胆が同時期におかしくなって、蘭には迷惑をかけてきた自覚がある。今朝だってオレの顔を見て叫んで頬を引っ叩いてきた竜胆を取り押さえてさっさと帰れと促してくれたし、頼むから髪だけでも切ってくれと泣きながら懇願する竜胆に絶対に切ったりしないと宣言したオレにため息をつくだけでまだ意思を尊重する姿勢を見せてくれた。

 良き友であり、良き理解者だ。こんな裏社会で生きている以上お互いいつ死ぬかなんて分かったものでは無いが、どちらかが死ぬまでこの縁は続いていくのだろうと思っているし、そうであることに安堵している。オレだけではダメになる。誰かが傍らで支えていてくれなければ、きっと鏡の前から動けない。兄として生きることすら出来ない。



 十年前の六月三十日、きょうだいが死んだ。向こうの家に強盗が入って、当時家にいた妹二人とちょうど帰宅した兄と一番近い弟が殺されたのだ。後になって警察から聞かされた話から経緯は何となく分かっていてよく覚えている。何度も何度も頭の中でその光景を思い描いて吐いて立てなくなって、繰り返し思い描き過ぎたせいで眠ると見てもいないその場面が鮮明に頭に浮かぶぐらいなのだ。忘れられそうにもなかった。

 ちょうど夕飯を作ろうと階下に降りた末の妹が縁側から居間に入ってきた強盗とかち合わせ、叫んで逃げようと背を向けた時に左胸を刺されて即死。その悲鳴を聞いて私室で留守電を吹き込んでいた上の妹も階下に降りたものの、倒れ込む末の妹に気を取られている間に背後から襲いかかられて刺されたそうだ。それでも抵抗の跡があるからしばらくは意識があったはずで、留守電には兄──オレからすれば弟を呼ぶ声と名前を呼ばれた弟の唖然とした声がしっかりと記録されていた。
 弟は花瓶で後頭部を殴打されていたようだがこちらもしばらくは意識があり恐らく抵抗したと見られ、上の妹と揃って遺体の背中には十箇所以上の刺傷があったと報告をされた。だから二人の血で居間は悲惨なことになっていて、二人に庇われるように下敷きにされていた末の妹も全身血塗れだったと。

 兄はというと、先に外のガレージの方に向かっていたらしい。だから数分遅れて騒ぎに気付いて室内に飛び込もうとした時には全て手遅れで、兄自身も強盗と対面してしまい刺殺された。這って移動したと思われる跡があったそうだから、死ぬその瞬間まで弟妹たちを守りに行こうとしていたのだろうと警察は言っていた。

 実際にそうだったのだと、下から二番目の弟宛に残された留守電を聞けばよく分かる。三分ずつのそれは二本残されていて、ひとつが上の妹からで、もうひとつは兄からだ。死にかけながらもきょうだいたちのことばかりを気にかける言葉がそれには残されていた。守ると誓って、守れなかったことを謝罪して、愛していると息絶え絶えに呟いて、きょうだいたちは死んでいったのだ。
 四人は留守電の時間から言って五分にも満たない時間で命を奪われた。たった五分で愛しいきょうだいが理不尽に殺され、オレたちは取り残された。


 共に過ごした場所がきょうだいたちの死んだ地獄のような場所へと変わり、警察から連絡を受けて駆け付けた時に嗅いだ血の匂いが鼻の奥にこびり付いて消えてくれない。何を見たって何を聞いたって、もうどこにもいない四人を思い出す。死にたくなんてなかっただろうに、最後まできょうだいたちのことばかりを気にしていった。最後までオレたちのことばかりだった。


 せめてその意志を継ぎたいと思ってこうして今日まで生き残った弟たち相手に兄として出来ることの全てをやってきたのだ。もうオレには弟たちしかいないから、せめて弟たちには道を外れたって許されないことをしたって、生きることだけはやめないでいてほしかった。

 それでも、兄として接するだけではオレ自身が生きていけそうにもなかった。オレが兄でいられたのは、あの日までずっと一緒に生きていた妹が、リコがいたからだ。リコがいたからオレは兄になれた。リコがいなければ、オレはオレにしかなれなかった。
 だから髪を伸ばした。体型に関しては四人が死んでから全くと言っていいほど食が進まなくなって勝手に痩せていったから問題がなかったし、いざ痩せて髪を伸ばしてみればオレは本当にリコに瓜二つだった。お互い細かいパーツはそれぞれ祖父と祖母に似ているわけだからよく見ると違うところはあるけれど、よく見られなければそんな違いは誰にも分からないのだ。

 そうして段々と、自分自身ですら感覚が麻痺していく。朝起きて鏡を見る。笑ってみる。そうすると、鏡の中の妹が笑うのだ。オレに笑いかけてくれる。そこにはリコがいる。
 いつからだったかなんて覚えていないけれど、今のオレはそうしなければ生きていけなくなった。鏡の中の妹に縋っていなければ兄としての体裁を保てない。兄として生きるために、残された弟たちを愛していくために、オレにはリコが必要だ。


 ただこの姿は周囲からはとても不評なのが現状だった。特にリコの恋人だった竜胆なんかは、オレを見る度に何事か叫んでお前は違うと言いながら頬を引っ叩いてくるものだから困ってしまう。その後に泣きながらどうかせめて髪だけでも切ってくれと縋られて、だけどオレもこればかりは譲るわけにはいかないからその応酬が何年間も延々と繰り返される。
 弟たちもそうだ。末の弟である鶴蝶はオレと目を合わせようとしないだけで普通に会話をしてくれるけれど、ふと目が合った時には分かりやすく動揺して後退られる。もう一人の弟であるマンジローの場合はもっと酷くて、オレと対面する度にただただ泣いて懺悔するか、その場で嘔吐するか、もしくはその両方か。そうなってしまうことが分かっている以上、もうここ数年遠目に見ることはあっても顔を合わせてはいない。電話は三日に一回は掛かってくるけれど、その度に竜胆と同じように髪型だけでもいいから変えてくれと懇願される。

 妹の恋人だった男も、弟たちも、出来ることならばこれ以上苦しめたくはないと思っている。だって十年前の四人の死で、オレたちはもう決定的にダメになってしまっているのだ。傷付いてボロボロになって砕けて、それ以上になって欲しいなんて思うはずがないだろう。

 だけどこればかりはやっぱりダメだ。兄でいるためにはリコが必要なのだ。こうでもしていなければもう生きていけない。こうしていればオレはいつまでも兄でいられる。
 生きる意味なんてもうこの世にはないと思う。だけど弟たちを残して死ぬことは出来なかった。だから生きているのだ。兄として弟たちを守って生きている。


 基本的に梵天内でのオレの立ち位置はあやふやで曖昧で、だけど首領の兄であるとなればなかなかに強固なものだ。幹部会に全くと言っていいほど顔を出さなくても上納金は納めているしシマでの問題が起こらないように気を配ってもいる。反社に円滑なコミュニケーションもクソもあるのかとも思うが、部下ともそれなりに上手くやっているだろう。
 それにマンジローには兄としてのオレが必要なのだと幹部はこの十年近くでいやでも理解している。ましてや元々リコたちの知り合いばかりが集っているともなれば、多少オレたち三人がおかしくなっていても許される空気が出来てしまっているのだ。

 だから今回の件に関しても許されるだろうという確信があった。他の誰がなんて言ったってマンジローが絶対の梵天において、オレは何をしたってある程度は命を保証されている。しかもこれに関してはマンジローだって気にしていたことだし、咎められる心配なんて微塵もしていない。

 意味もなくため息をついて、毛先から手を離して俯けていた視線を前に向けた。夕陽を反射して光る水面が眩しい。犬の鳴き声と下校途中の子どもの騒ぐ声。車の排気音。オレたちには与えられなかった、愛しいきょうだいたちが本当ならば手にしていたはずの幸せ。先日もニュースで見せ付けられた四人の笑顔を思い出して、またため息をついて立ち上がった。
 この場で待機を始めてから三時間近く経つ。今日はもう来ないだろうか。まあ別に六月三十日を起点にした前後の二ヶ月間はさして仕事を回されないのが常なのだ。やることもないんだから、今日会えないなら明日もここに来ればいい。

 そう思ってここから近いセーフハウスのひとつに帰ろうかと思ったのだが、タイミング良く誰かの足音が背後で聞こえた。駆け足のそれが少し離れたところでピタリと止まる。それから分かりやすく震える声で、その名前が呼ばれたのだ。

「リコちゃん……?」

 タイミングが良いのか悪いのか。風に煽られる髪を押さえて答えるようにして振り返った先で、相変わらずイマイチなセンスのままの今日の目的──花垣武道が、目を見開いてオレを見つめていた。


 +


 数秒の沈黙の後、詰めていた息を吐く音がする。フッと笑ったよう声も続いた。それから小さく息を吸って、眠気を誘うような緩やかな声が留守電を聞くであろう弟の名前を呼ぶ。
『もしもし。お姉ちゃんだよ。三日ぶりだね。今日はちゃんとご飯食べた? まだ成長期なんだから、しっかり食べてしっかり寝なきゃダメだよ。まだ夏にもなってないんだから、お腹出して寝ないようにね。油断してると風邪引くよ? 今日はね、私、大寿くんと学食で……』
 弾み出した声が一旦途切れる。ガタンと遠くの方から大きな物音がして、微かに悲鳴のようなものが聞こえた。
『……エマ?』
 どうしたのと訝しげに声を張りながら、布と布の擦れるような物音がする。数秒後にドアノブが回され、蝶番の軋む音。焦りと困惑の滲んだ吐息。
『マンジロー、ごめんね。今エマの悲鳴みたいなのが聞こえて……虫が出たとか、お皿割っちゃったとかならいいんだけど…………』
 ギィギィと床板の軋む規則的な音と、その合間に何度か挟まる妹の名前を呼ぶ声。意図的にかなんなのか顰められた声に不安が滲んでいた。
 携帯を耳に当てながらあちらこちらを向いているのか、妹を呼ぶ声が少し遠ざかったり近付いたりする。スンと鼻を鳴らしたような音の後に、分かりやすく声が引き攣った。
『エマ? どうしたの、エマ…………エマ?』
 駆けるようになった足音が止まり、襖が開かれる音。更にヒュッと息を吸い損ねたような音がして、震える声が信じられないとばかりに妹を呼んで、ああ。
 幸福が奪われる。


 +


 真っ先に出た言葉が、「嘘だろ」だった。


 パーちんくんの結婚式に四人がいなかったのは、まあエマちゃんはともかくとして、そこまで付き合いがなかったからと言われれば頷かざるを得ないことではあった。それまでの十年間で一切付き合いがないなんてことあるのだろうかと思いつつ、今思い返せばぎこちなかった千冬とドラケンくんの言葉に納得した。

 予兆は他にもあったのだ。ヒナは頑なにエマちゃんとリコちゃんの話をしようとしなかったし、順調な未来のはずなのに高賀警備の名は一切目にしなかった。携帯にはマイキーくんのきょうだいたちのアドレスも電話番号も登録されていなかったし、会う人会う人が揃って名前を出そうともしなかった。
 だけどオレがそれを知ったのは、梵天の情報を直人に調べてもらったその時だった。それまで何も知らず、知らされずにいたのだ。イザナくんのピアスの柄を首裏に彫った白髪の男に関してドラケンくんに聞いた時だって、「あれはイザナくんじゃない」と言われて、それに納得して、じゃあ誰なんだと探って……。

 そうして直人から齎された情報が、梵天の首領である無敵のマイキーの存在と、十年前に殺されたマイキーくんのきょうだい四人の事だった。

 嘘だろとしか言えなかったのだ。だって他のみんなは幸せだった。オレだって幸せになれていた。その幸せには四人だって必要不可欠だったはずだ。四人だって幸せになれたはずなのだ。突然突き付けられた事実を受け止められるはずもなかった。


 それなのに言われてみればと納得してしまうこともあって、もう頭がおかしくなりそうだった。ヒナがエマちゃんとリコちゃんの話をしようとしなかったのは、二人はもう生きていないから。高賀警備の名を目にしなかったのは、そもそも起業されていないから。携帯にマイキーくんのきょうだいたちのアドレスも電話番号も登録されていなかったのは、そのうちの四人が殺されてしまって、あとの二人とはもう縁が切れたから。

 会う人会う人が名前を出そうともしなかったのは、誰もがその死を受け止められてなんていないから。


 千冬にもドラケンくんにもどうして話してくれなかったのかと聞けば苦しそうな顔で「仕方の無いことだったんだ」と言われた。死んだ人間は生き返らない。過去に戻ることはもう出来ない。だったらこれからを生きていくしかない。残された人間が幸せにならなくてどうするんだと肩を叩かれて、呆然とすることしか出来なかった。オレには幸せになって欲しいと言われたって、頷くことは出来ない。

 裏も何も無いただの強盗殺人事件で、本当にただ運が悪かっただけで、それでも四人は殺された。リコちゃんの家に言ってイザナくんとリコちゃんに手を合わせて線香をあげて、十二年前と変わらず老いを感じさせないリコちゃんのお祖父さんにそう言われた。
 仕方の無い事だったのだと、まるで千冬とドラケンくんのように、俺を諭すように言われて、幸せになってくれと願われた。孫たちの掴めなかった幸せを掴んでくれと。

 あれはつまり、手を引けということだったのだ。

「リコちゃん……?」

 今日ここに来たのは偶然なんかじゃなかった。この近くのホテル街に居を構えるホストクラブが梵天の管轄だと知って、少しでも情報がないかと探るために最近は足を向けていたのだ。もう少し暮れてしまうと営業が始まってしまうから、それよりも早い夕方を狙って付近を練り歩き、関係者を見かければ話を聞かせてくれないかと頼み込む。他に方法がないから、基本的には頭を下げて情報をくれと願うことしかオレには出来ない。
 そうしているうちに顔見知りになりつつあるホストや店長から、今日は店の元締めが来ると聞かされていた。本当ならば話せば殺されるような事だが、絶対誰にも言わず黙っていることを条件にと教えてもらえたのだ。オレは連日連夜押し掛けているから、誰かが情報を回したとしても口を滑らせさえしなければいつも通り今日もしつこくやってきたということで誤魔化せるから、と。

 マイキーくんとまでは行かずとも、梵天の幹部と顔を合わせられる可能性はある。何も最初から接触を持とうとなんてせずに、せめて顔だけでも確認出来れば。そう思ってここに来た。

 そして今目の前に、死んだはずの見知った人がいる。

 名前を呼んでから数秒して振り返ったその人の表情は逆光故によく見えなかったが、軽く押さえられても風に靡く伸びた髪やピンと背筋の伸びた堂々とした立ち姿は、記憶の中のリコちゃんのものとあまり変わっていない。伸びた髪に関しては、事件直前に撮ったものだとご実家で見せていただいた写真に写っていたのと同じぐらいの長さだろうか。
 しばらく無言で見つめあっていたのだが、耐え切れなくなってまた名前を呼んだ。逆光の中で佇むその姿を見ていると涙が出てきそうになる。
 リコちゃんは死んだ。殺されてしまった。この二ヶ月近くでオレもそれを受け止めている。じゃあ今目の前にいるのは誰なんだ。こんなにも似ていて、名前を呼べば振り向いてくれて、今も何も言わずにオレを見つめている。この人は一体、リコちゃんでなければ誰なのか。

 後ろの方で子どもが楽しそうにはしゃぐ声が聞こえた。その後に犬の鳴き声も続いたから、散歩か何かだろうか。お互い無言でいるせいで川のせせらぎの音さえよく聞こえ、少し遠くを走っているはずの車の排気音ですらうるさいぐらいだった。
 ベンチの向こう側にいたその人が、髪を押さえていない方の手で手招きしてくる。リコちゃんではない。そう分かっていても手招かれると勝手に足が前に進んだ。近付くにつれてだんだんと顔が見えてくる。スッと目を細めた表情もリコちゃんに瓜二つで、目の前にいるのが誰かすら分からないのにとうとう涙が溢れた。

 そんなオレを見て、その人が口角を上げる。そうして口が開かれた。

「違う」
「……え?」
「リコじゃない。リオだよ」

 想像していたよりも低い声に思わず足が止まった。そんなオレを仕方ないものを見るようにして笑ったその人は、回り込んでベンチから離れてオレの正面に立つ。上から見下ろされる形になって、その時ようやく、確かにリコちゃんよりも背が高いし体付きが男性的だと現実逃避をするかのように考えた。動揺してこれまではそんなところまで考えられていなかったのか。それとも、脳が都合のいいように捉えていたのか。


 呆然としていれば、リコちゃんにそっくりな顔とそっくりな笑い方で目の前のその人が笑う。それから戯れに髪を押さえていた手で毛先を摘み、オレの背後に視線を移して再びその口角があげられた。どこか遠いところで、烏か何かが鳴く声が聞こえる。

「痩せたら似てる似てるとは言われてたけど、実際似てるだろ? 髪も伸ばしたんだよ。お前にはオレがリコに見えるようで良かった」

 凪いだ声だ。何も言葉を返せずにいれば、そもそもオレの返事なんて求めてはいなかったのか、僅かに腫れた頬に手が当てられる。その手の動きを目で追うことしか出来なかった。

「これはここに来る前に竜胆に引っ叩かれた時に出来た傷。アイツさ、やっぱりオレがリコみたいな格好してるのが耐えられないみたいなんだよな。死んだはずの愛しい女が生きてるみたいな気分になって、気が狂いそうになるんだってよ」
「……」
「マンジローは泣くか吐くかその両方かなんだけどなあ……竜胆は毎回毎回飽きずにぶん殴りにくる」

 他人事みたいにそう呟いて、視線がこちらに戻された。そっと顔を覗き込まれ、小首を傾げるようにしてお手本のような笑みが形作られる。
 その笑みを見てようやく、本当に目の前のこの人はリコちゃんではないのだと分かった。何も無い、がらんどうな笑み。笑ったことの無い人が人を真似て鏡の前で練習して、誰かに披露しているような不自然さしかない。

 記憶の中のこの人はこんな風に笑う人じゃなかった。この人が真似しているリコちゃんだって、こんな風に笑ったりはしなかった。紛い物だ。何もかもが紛い物で偽物で、その全部がリコちゃんたちがもうどこにもいないのだと言う事実から目を逸らすことを許させてはくれないのだ。

「……ガリ男くんも……梵天に、入ってるんですか」
「その呼び方、懐かしいな。ああ、オレも梵天の一員だ。それも幹部。一般人のお前がこうして気楽に会えるような相手じゃない」

 全力で走ったわけでもないのに喉がガラガラで、声がひび割れるようにして震えた。ガリ男くんはそんなオレの不自然さから敢えて目を逸らして、本当に懐かしむように柔らかい声音でしっかりと質問に答えてくれる。
 最後には茶目っ気を覗かせたのかウインクのようなものまでして、何が面白かったのかその口角が緩められた。オレは何も笑えずに、ただただ呆然とガリ男くんを見上げることしか出来ない。


 見た目だけは本当にリコちゃんにそっくりなのだ。男物の見るからに高級品だと分かるスリーピーススーツを着込んでいたって、声も体格も何もかもが男性的だったとしたって、その顔立ちや立ち姿が瓜二つ過ぎる。

 それなのに何もかもが違う。紛い物なのだとこの数分だけで何度も突きつけられた。マイキーくんだって竜胆くんだって、確かにこれを間近で見ていれば頭がおかしくなりそうになるだろう。似ているのに似ていなくて、気が狂いそうになる。

 そんなオレの考えに気付いたのか気付いていないのか、突如こちらに伸ばされた指が肩に触れてスルスルと胸の辺りまで落ちた。心臓のど真ん中を抑えたとばかりに指を当てられる。一度それ見下ろしてからもう一度ガリ男くんを見上げれば、今度は一切笑みを浮かべることもなく凪いだ瞳が向けられた。

「手を引け」

 淡々と告げられた言葉に息を飲む。そんなオレのことは気にせずに言葉は続けられた。

「オレたちを探ってるのは分かってるんだ。マンジローのことだろ? お優しいお前は、マンジローのこともどうにかこうにか救おうとしてくれている。違うか? 違わないよな」
「……もし手を引かないって言ったら、オレを殺すんですか」
「いいや、殺さねえ。聞いたよ。お前もうすぐ結婚するんだろ? 中学ン頃から付き合ってる子だってな」

 そこで一旦声が途切れて、オレを真っ直ぐに見下ろしていた視線が前に向けられる。オレの頭越しに何を見ているのか目が細められた。その表情はガリ男くん本来のものに近いような気がしたのは勘違いではないだろう。

「幸せになれよ。このまま好きな女と結婚して、子どもだって出来て、ローン組んで家買ったりしてよ。仕事から帰ってきたら嫁さんとガキがお前を出迎えて、おかえりって言うんだ。お前はそれに笑ってただいまって返して、ガキが新しくダチが出来たとか今日は逆上がりが出来るようになったとか話すのを聞いて……」

 凪いでいた表情が、苦痛で歪む。視線がゆっくりと右に移され、追うようにしてオレにとっては左側になるそちらを見た。
 小学校低学年ぐらいの女の子が、スーツ姿の父親と生まれてまだ月日も経っていないであろう赤ちゃんを抱いた母親に挟まれて歩いている。ランドセルが重いのか何度も背負い直すようにして歩が遅れ、両親はその度に歩くのを止めて柔らかな眼差しで娘を見守る。今日の夕飯はハンバーグだよと母親が言った後に女の子の歓声が続いた。

 どこからどう見たって普通の家族だ。だからこそ胸が痛んで上手く息が出来なかった。ガリ男くんがあの家族を目で追った意味がどうしようもないぐらいに分かってしまって、顔を上げられなくなって下を向く。

「ああいう普通の幸せは、アイツらにもあったはずだ」
「……」
「あんなことにならなきゃ、きっと今頃オレにも姪っ子か甥っ子かが出来ててさ。イザナと一緒にめちゃくちゃ可愛がって、リコとエマに怒られるんだよ。シンイチローはそれ見て笑うけど、なんだかんだ言って自分が一番貢いで可愛がって甘やかして、結局竜胆と龍宮寺にまで文句言われたりするんだろうな」

 大きく声が震えて言葉が途切れる。堪らなくなって見上げた先ではリコちゃんと似たような色をした瞳から静かに涙が流れていた。それを見たせいでオレまで泣きそうになってツンとする鼻の奥を誤魔化すようにして息を吸ったけれど、そのまま息を吐こうとした瞬間にボロボロと涙が溢れてきて止まらなくなった。
 どうにか堪えようとしたのに嗚咽まで漏れてきてダメだ。ガリ男くんは自分よりも泣くオレを見て少しは冷静になれたのか、どうしてお前が泣くんだよと呆れたように言ってから目元を手で覆って下を向いた。大の大人がベンチに掛けることもなく突っ立って揃って号泣しているのは目立つようであちこちから視線を感じる。それでもやっぱり涙が止まらなくて、歯を食いしばってせめて嗚咽だけは引っ込めようと必死になる。


 四人にだってあったはずの幸せなのだ。それなのに理不尽に命まで奪われて、もう二度と帰っては来ない。幸せになれたはずなのに、今だってあの家族のように笑っていたはずなのに、もうどこにもいない。今更何を言ったって所詮は夢物語でしかなくて、でも残されたガリ男くんたちは今でもその夢物語が叶う日を願っている。

 考えれば考えるほど涙が止まらなくなって、それでも泣きたいのはオレじゃないのだとは分かるのだ。だから両手で涙を拭っていれば、ガリ男くんがオレの名前を呼んだ。促されるようにして顔を上げる。もう全部諦めたみたいにして柔らかく細められた瞳と目が合った。それを見ているとどうしようもないぐらい苦しくなって余計に涙が出てきてしまう。

「お前がこうしてこっちでどうにかしようとしてるってことは、もう過去には戻れないんだろ?」
「そうなんです。直人と握手しても戻れなくて……でも、でもオレ、せめてマイキーくんのことは……!」
「いいや。もういいよ」

 優しい声だ。どこまでも穏やかで、だけどやっぱり全部を諦めたみたいに物悲しい。こんなにそばに居るのに、オレに手の届かないところにいるように感じる。

「もういいんだよ、花垣。マンジローのことはオレに任せて、お前は幸せになればいいんだ。マンジローだってお前たちの幸福を願ってる。お前たちには幸せになって欲しい。それがオレたちの総意だ」

 心臓に当てられていた手が肩に戻されて、そのまま離れていく。風に煽られた髪を再び押さえて、ガリ男くんは遠い目をして川の方を見つめた。その視線を追えば、水面がだんだんと沈んでいく夕陽に照らされてオレンジ色になっていた。

 上手く回らない頭で、ガリ男くんの言葉を何度か反芻する。オレたちが幸せになることが総意だと。そこにはもちろんマイキーくんも含まれていて、もしかしたらカクちゃんだっているのかもしれない。三人はもう長い間顔すら見せないとリコちゃんのお祖父さんは言っていた。だけど今も一緒にいるんだろうとも。
 リコちゃんの実家で見た写真を思い出す。玄関やリビングに飾られていた、リコちゃんたちの写真。その全ては十年前で時が止まっていた。その先の写真は一枚もなくて、それにリコちゃんたちの死の事実を突きつけられたみたいでオレはあの時も泣いてしまったのだ。

 思い出してまた涙が溢れてきて、オレに視線を戻したガリ男くんは呆れたように笑った。それはリコちゃんを真似た笑みじゃない。ふとした時にこぼれてしまった、ガリ男くん本人の笑い方だ。

「ケースケには会ったか」
「はい。千冬と一虎くんとペットショップをやってて……」
「ああ、知ってる。ペットショップ開くのがアイツの夢だったんだよ。叶えたんだよな。……本当に良かった」
「……場地くんは、ガリ男くんとマイキーくんのことを気にしてました。兄貴だからって言って、出来ればまた、会いたいって」
「……そうか。でも会えないよ。本当ならマンジローと鶴蝶もそっちに行かせてやりたかったけど、もう無理なんだ。それにケースケをこっちに巻き込むわけにもいかねえ」

 ひとつ笑って、ガリ男くんはまた川の方に視線を移した。そのリコちゃんにそっくりな横顔には言葉にし難い複雑な感情がたくさん乗せられていて、だけど場地くんを思う言葉は本物なのだろう。弟の幸福を願っているのだ。

「オレたちが持ってるのは地獄への片道切符だ。こうなったからには弟二人は最後までオレが面倒を見るし、そばにいる。だからお前は手を引け。それで幸せになれ」

 そんなことは出来ないと思わず首を横に振れば、また呆れたように笑われた。そのまま視線が川とオレとを二巡ほどして、小さくため息が吐き出される。
 そうして、今日オレが行こうとしていたホテル街の辺りを任されているのは自分なんだと口を開いた。その後にオレじゃなければお前は今頃殺されていたと言葉が続けられ、目が合わせられる。

「梵天はそういう組織だ。自分たちを嗅ぎ回る鼠は殺す。お前がオレたちを探ってる件は幹部ならもう誰だって知ってるんだ。マンジローがお前に手を出すなっつってる今ならまだ逃げられる。ここで引け」
「…………マイキーくんに会わせてください」
「……それは無理だ」

 明らかに躊躇いの色の浮かんだ瞳がオレから逸らされた。そのまま無理だと再び告げるようにして首を横に振られる。
 そしてそのまま、逃げるようにして踵を返してガリ男くんは歩き出した。数秒間呆然とその背を見つめていたが、慌てて追う。この辺り一体が自分の管轄だとは言っていたけれど、ここを逃せば会えなくなるだろうという確信があった。今日だってわざと自分がこの辺りに来るという噂を流して、本当はオレに忠告をすることだけが目的だったんだろうとも思う。

 必死で足を動かしてもリーチの差があるからか初動の遅れが原因か、人並みの中でみるみる距離が拡がっていく。どうにか止まってほしくて名前を呼んだが、一瞬立ち止まっただけでまたすぐにガリ男くんは歩き出して、人混みに紛れるようにしてその背は見えなくなった。


 こんなに走ったのは久々だったから息が切れて、足が縺れた。立ち止まって膝に手を当て、迷惑そうにオレを避けて進んでいく人たちが分かってもその場で息を整える。もう追い付けそうにもない。ガリ男くんはもうオレに、オレたちに会う気は無いのだ。

 リコちゃんの実家に飾られていた、ガリ男くんやマイキーくんもみんな揃ってきょうだいたちが寄り添って幸せそうに笑う十二年前の姿のままの写真を思い出す。堪えるように唇を噛み締めても、涙も嗚咽も止まらなかった。


 +


 転がるように走って、走って。目指すは彼らの家だった。
 以前一度訪れたことがあって、未来でも訪ねたことがあったから場所は分かるのだ。但し未来では「血の匂いが染み込んで消えないから」と取り壊されて土地も譲られ、分譲住宅が建ってしまっていたけれど。


 着の身着のまま飛び出してきたせいで周囲からのギョッとしたような視線を感じるけれど、もうそんなことはどうでもよかった。突っ掛けてきたサンダルが脱げそうになって何度か転び掛けながらも足だけは止めない。急に全力で走ったせいで喉と脇腹が痛いけれど、それも止まる理由にはならないのだ。

 曲がり角を曲がる。勢いがつきすぎてつんのめって壁に手をついた。それでも減速出来ずに手がカッと熱くなってピリリと痛む。摩擦で皮が剥けたのかもしれない。
 だけどそんなことはどうでも良くて、再び走り出そうと顔を上げた。目的地はすぐそこなのだ。もう目の前で、門から入って引き戸を開けて声を掛ければ、そうすれば。

 何を言えばいいのかなんて分からないけれど、それでも会わなきゃいけない。会って助けなければ。幸福が奪われないように、オレは。

「あれ、タケミっち?」
「…………あ」

 顔を上げた先で、風に揺れる背中の真ん中辺りまで伸びた髪を押さえて、その人はこちらを見ていた。誰かを待っているのか門の奥へと向けられていた体がこちらに向けられ、瑠璃色の瞳に困惑と心配の色が分かりやすく浮かぶ。どうしたのと駆け寄りながら声を掛けられて、その声に反応したのか向こう側から二つの顔が覗いた。

 息が詰まる。何か言わなければと思うのに何も言えないどころか鼻の奥がツンとして、視界が一気に滲んだ。

「何? どうかした? 誰かに虐められたの?」

 腰が抜けたように座り込んでしまえば、駆け寄ってきたその人がしゃがみこんでオレの顔を覗き込んだ。心配そうに肩に手が当てられて、門から顔を出していた二人も、滲んで歪んだ視界では表情は見えないけれど困ったようにオレたちを見下ろしている。

 ゆっくり肩を撫でる手の動きに合わせるようにして詰めていた息を吐き出した瞬間に、涙と嗚咽までこぼれた。
 そんなオレにぎょっとしたように瑠璃色が見開かれて、慌てたように肩を叩くその手が暖かくて、ああ、リコちゃんだと思った。リコちゃんが、生きている。


 もう何も考えられずにその背に腕を回して体重をかけるようにして抱き締めた。しゃがみこんでいたリコちゃんは間抜けな声をあげた後に尻もちをついて、困ったようにオレの名前を呼ぶ。その声が、控えめに背を撫でる腕が、きっと今も困惑の色を乗せているであろう瞳が、今ここにはちゃんとある。

「え、なにやってんのタケミっち⁉︎ あーっ、ダメダメ、ニィもタケミっちのこと叩かないで!」
「妹が不審者に襲われてるんだから助けるのが兄の役目だろ!」
「や、お兄ちゃんそれ私のことも叩いてるからやめて。というかなに、ほんと……どうしたの? ヒナちゃん呼ぼうか? ……タケミっち?」

 突然の行動に慌てたのかリコちゃんの後ろにいたイザナくんがオレを叩いてきて、それを止めようとエマちゃんもしゃがみこんだ。咄嗟に腕を伸ばしてその二人のことも抱き締める。エマちゃんは混乱したようにぴしりと固まって、イザナくんはしばらく暴れたものの次第に静かになっていった。三者三葉に困惑しながらオレの名前が呼ばれる。
 それでもオレは、なんの言葉も返せそうにはなかった。涙が止まらなくて、なにか喋ろうとするとひっくり返ったような嗚咽しか出てこないのだ。


 マイキーくんに会って、撃たれて、話をして、タイムリープをする時のあの心臓の騒ぐ音がしたと思ったら十年前の六月三十日だった。混乱する頭でカレンダーに書かれたその数字を認識した瞬間には、もう家を飛び出してしまっていたのだ。

 十年前、二〇〇八年の六月三十日。四人が殺された日。

 もしかしたら、オレはあそこでマイキーくんと一緒に落ちて死んだのかもしれない。そしてこれは長い走馬灯のようなもので、タイムリープなんかではないのかも。ただただオレに都合のいい夢で、オレに助けてくれと言った万次郎が四人の名前を呼んだから、そこに意識が引っ張られているだけで。


 そんなことを考えたところでこの涙は止まりそうにないし、止め方だって分からなかった。驚いたようにシンイチローくんらしき人が声を上げて、駆け寄ってくる足音がする。どうかしたのかと聞かれて意味もなく涙でぐしゃぐしゃの顔を上げて、心配だったり困惑だったりの色を乗せた四人の瞳が揃ってオレに向けられているのが分かった途端に、情けなくてみっともないまるで子どものような泣き声が口からこぼれおちた。四対の瞳がぎょっと見開かれ、見合わされ、それからまたオレに向けられる。


 迷いつつもあやすように背に回された三人の腕とオレの頭を撫でるシンイチローくんの手が暖かくて、この四人は生きてるんだと、当たり前のことを思った。

幕引 グレゴリオの懺悔

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