今朝の目覚まし時計は家中に私の部屋まで聞こえてくるような妹の悲鳴だった。

 何があったのかと飛び起きてベッドから降りるよりも早くすごい勢いでドアが開けられ、続いて隣室のドアも開かれるた音がする。慌ただしく動き回っているエマの可愛らしい足音と誰かと会話しているらしい声を聞きながら、何事かとドアから顔を出して廊下を覗く。同じように顔を出しているイザナと目が合った。寝癖が凄いな。

「おはようお兄ちゃん。寝癖酷いよ」
「おはよ。お前も寝癖ヤベェぞ」

 欠伸混じりの声でそう言われたので反射で後頭部と毛先に手を当てたが、確かにどちらも触っただけで分かるぐらい好き放題色んな方向を向いていた。ヤバいな。昨日風呂上がりにろくに髪も乾かさずにみんなで人生ゲームをやっていたせいだ。

 自分の寝癖は気にしないことにしたのか鳥の巣としか形容しようのない頭を確認もせずに軽く伸びをしてから歩き出したイザナに続いて、つられたように飛び出した欠伸はそのままに私も手を引かれるようにして階段を下りる。有り得ないぐらい眠い。エマがどうしてそこまで慌てているのかを確認したら二度寝しよう。
 眠い眠いと言い合って、眠気覚ましにもならないが昨日の人生ゲームでのシンイチローくんの大敗に関して思い出す。会社が潰れて借金五兆で子供四人、更には奥さんに逃げられて悲惨なことになっていた。本人もめちゃくちゃ悲観していたし、居もしない奥さんに現実でも逃げられる未来を想像して震えていて、流石に可哀想になってしまったぐらいだ。

 また出てきた欠伸を噛み殺して伸びをして、階段を下りた時から手を繋ぎっぱなしだったせいで引っ張られたと文句を言うイザナを軽くあしらいながらリビングを覗いた。そうは言いつつ手を離さないんだから、本当にお兄ちゃんは私のこと大好きだよね。
 三人でお揃いで着ているパジャマ姿のまま戸棚からフライパンを取り出したエマと目が合った。そのすぐそばで兄が冷蔵庫を開けて卵やベーコンを取り出している。なんで兄がこっちにいるんだろう。

 同じ疑問を抱いたらしいイザナと共にそれでも二人に朝の挨拶をすれば、それぞれ忙しなくしながらも挨拶を返してくれた。そのままキッチンに立った兄がエマの背を押して洗面所に向かわせ、エマも兄に一つ二つ礼を言って慌ただしく走っていく。何も考えずにそれを見送っていれば、半身振り返った兄に顎で居間の方を示された。揃ってそちらを見たのだが、うん。昨晩の惨状そのままにかなり汚かった。眠いから寝るかみたいな感じで日付が変わってから解散したからね。

「お前らはそこの人生ゲームとか片付けとけ」
「はーい」
「仕方ねえな……片付けてやるからオレのベーコン多めに焼けよ」
「汚したのはテメェらだろうが。口動かす暇があるんならさっさと手動かせ。ぶん殴るぞ」

 我が兄ながらとんでもなく口が悪い上に猟奇的だ。イザナと目を見合わせて酷いねーと声を合わせながら、それでもあまり逆らうと本気で殴られそうだったので大人しく居間に足を向けた。大親友と言い兄と言い、なんで二言目には殴るが飛び出すんだろう。もっと平和的に話し合いで解決して、それでもどうにもならないならボコボコに殴るとかにするべき。

 イザナが人生ゲームを片付けてくれるようなので、私はちゃぶ台の上に放られたいくつかのビールの空き缶を回収していく。イザナとシンイチローくんが昨晩気分良く飲んでいたものだ。私とエマはジュースを飲んで寝る前に片付けたので、これこそ汚した当人たちに片付けて欲しいんだけど。


 そんな文句を言いながらも、ふと壁に掛けられた時計に目がいく。十時ね。ふーん。……ん?

「いや遅刻じゃん! ねえお兄! もう十時なんだけど!」
「今更気付いたのかよ……」
「は? 十時? ……うわマジか」

 私の声にそれぞれの反応を示した二人を無視して、空き缶を落ちていたコンビニの袋に突っ込んでいきながら時計を何度も見返したのだが時間は変わらなかった。普通に十時で、ついでにカレンダーも見たけれど平日だ。最悪じゃん。

 ヤバい。平日ということは普通に学校があって、現在の時刻が十時ということは普通に遅刻だ。しかも一限がもう終わる。今日の一限ってなんだっけ。英語? 余計最悪。必死でついて行ってるのが現状だから、一日休んだだけで全部パーになりそう。


 もういいや、学校のこと考えるのはやめよう。辛いだけだし、どうしようもないし。残念ながら私には時を巻き戻す能力は搭載されていないので、こうなった以上現実を受け止めるか目を逸らすかしかないのだ。

 ああ、なるほどね? 今分かった。なんで兄がこっちにいるんだろうとか言っていたけど、普通に待ち合わせ時刻に起きてる兆しのないイザナを迎えに来たのか。そういえば今日会う予定だとか昨日の夜言ってたわ。兄が訪ねてきた物音でエマも起きて、ヤバい遅刻だと悲鳴をあげたってところかな。思い返してみるとそんなことを叫んでいた気がしなくもない。


 現実逃避でしかないのだが状況を整理しながら、長々とため息をつく。現実から逃げ切れていない。というか、受験生の夏にこれとか泣きそうなんだけど。神様、もう二度と日付が変わっても馬鹿騒ぎしながら人生ゲームしたりなんてしませんから、謎のパワーで受験だけは乗り切らせてください……。私の馬鹿さに呆れた大親友が最近では一問間違える事に石抱をさせようとしてくるんです……。絶対今日も遅刻を理由に石抱させようとして来るよ。

 昨年夏に私が退院した後からは直接的な暴力は控えてくれるようになったが、その分私たちの間で主流になったのはレスバトルだ。まあ分かると思うんだけど、私は絶対に大寿くんに勝てない。勝てるわけなくない? 正論で言い負かされそうになって焦って何度も机をひっくり返して話を曖昧にしたよね。
 レスバでは負けるしかないので、負けるのが不服な私はなんとか状況をひっくり返そうと机をひっくり返して、新たに喧嘩の合図になったハンドベルを隠そうと必死になる。大寿くんもそれがよく分かっているから、最近は殴り合いもレスバも吹っ飛ばして石抱させようとしてくるのだ。本当に酷いよ。

 八割の確率で確定した未来に怯えつつ、しかし石抱のことを考えていると恐ろしくなってくるので空き缶を全部入れたビニール袋と昨晩適当につまみとして用意して無事に完食された柿ピーの乗っていた皿を持ってキッチンに向かった。イザナは背後でなにか鼻歌を歌いながら人生ゲームを片付けている。

 我が家で一番早起きの師範は今日も朝から町内のお友達とどこかに出掛けたらしく、兄が用意しているのは本人と未だに寝ているらしいシンイチローくんの分も入れた五人分の朝食だけだ。どうせ家で食べてきたくせにここでもまた食べるつもりらしい。そんなだからいつまで経っても痩せられないんだよ。


 シンクに皿を置いてビニール袋は適当に他の空き缶と纏めつつ、巨体をせせこましく動かして朝食を作るデブの大きな背中を見る。……いや、コイツなんか痩せたな?
 どこがどうと聞かれると返事には困るけれど、絶対に痩せてる。十八年間の妹生活は伊達じゃないので、物心ついた時からずっとデブだった兄の体型の変化には家族の中でも敏感な自信がある。その私が断言するんだから、兄は痩せたんだ。

「ねえ、お兄なんか痩せた? ダイエットしてんの?」

 食器棚から人数分の食器を出しつつ、まあそんな聞かれて困る話でもないだろうと話を振る。ついでに、まさか彼女とか出来たの? まあそんなわけないよねと笑えば、居間でイザナが少し驚いたように声を上げた。えっ、何? 若干慌ててそちらを振り返れば、ベーコンを皿に移し始めた兄が小さくため息をつくのが聞こえた。

「リコに言ってねえの?」
「言ってねえっつーか、別に話すことでもねえかなって思って」
「は? 何? え? ……え⁉︎」

 人生ゲームを箱にしまって立ち上がりこちらを見ながら驚いたような顔をしているイザナと、卵を割りながら呆れたような声を出す兄との間で視線を行ったり来たりさせる。そんな二人の様子に何となく言いたいことが分かってしまって言葉が上手く出なかった。

 うわうわうわ。えっ、冗談じゃなくて? 本気で言ってる?

「なんで? 教えてやればいいじゃん」
「教えたらこうなるの分かってただろ」
「あー、まあそれはなあ……」

 同情したような表情になったイザナが、人生ゲームをテレビ横の棚に仕舞いつつこちらを見遣る。その視線が全てのような気がして、逸らして逃げるようにして呆然と兄を見つめた。

 兄が? このデブが? いやだって、こんなデブだよ? 痩せろ痩せろって今まで言ってきたのに「オレはデブじゃねえ」とか言って、自分がデブであることも認めようとしなかったんだよ? そのレベルのデブだよ?


 目玉焼きを焼きつつ私を横目で見た兄が分かりやすいぐらいに再びため息をついて、イザナにシンイチローくんを起こしてこいと呼び掛けつつも渋々と言った感じで口を開いた。その反応を見ていると、嘘じゃないんだと認めざるを得なかった。

「オレ彼女出来たから、今ダイエット中」
「……えー…………?」

 初カノじゃんとか、いや私たちがこれまで何言ってもダイエット長続きしなかったくせにお前彼女が出来たらするのかよ、それで実際に痩せちゃってんのかよとか、もっと早く知りたかったんですけどとか、色々言いたいことはあった。でも衝撃のあまり逆に良く回る頭でなんとか絞り出せたのは、妙に間延びした声だけだった。

 そして結局、顔を洗って制服に着替えたエマがお姉ちゃんも早く着替えなきゃと部屋まで引っ張っていってくれるまで、私はシンクの前で立ち尽くしたままだったわけである。


 +


『あ? 何、彼女?』
「そう。お兄に彼女出来たらしいんだけど、蘭ちゃんなんか知ってる?」

 困った時には共通の知人を頼ろう。

 ということで、今私は高校の最寄り駅前で突っ立って蘭ちゃんに電話をしていた。ちょうど携帯を触っていたのかすぐに電話に出てくれた蘭ちゃんは、別に機嫌が良くもないけれど不機嫌でもなさそうな声で何事か思い出すように唸る。それから数秒、あ、と声を上げた。

『そういやサークルの女と良い感じだとか言ってたわ』
「えー……勘違いとかじゃなくて? イザナもグルで私のこと騙そうとしてない?」

 その線が一番強い気がすると言えば、兄相手に失礼な奴だなとケラケラ笑われた。勘違いでもドッキリでもないらしい。

 話している最中にもその子のことを思い出しつつあるのか、結構顔はイイとか胸がデカいとか蘭ちゃんは外見的特徴ばかりをどんどん上げていってくれる。可愛くて胸が大きくて身長は低くて正に清楚って感じで、話を聞いた限りだとめちゃくちゃ兄以外にもモテそうな子なんだけど。

 本当にドッキリじゃないんだよねと念を押したが、ドッキリだとしてもオレは関わってないと興味がなさそうに言われてしまった。まあでも私の知ってる兄はドッキリでダイエットが出来るようなやつじゃないんだよなあ……。

 しかもイザナとシンイチローくんと蘭ちゃんは知っていて、私とエマには言っていないというのが余計ガチっぽい。私たちが家を出る頃に起きてきて朝食を食べ始めたシンイチローくんによると、そういう話を妹に聞かせるのは恥ずかしいらしいのだ。いや意味わかんないんだけど。散々妹たちの恋バナ聞いておいてよく言うわ。


 私と同じように驚いてくれたエマと途中まで一緒に登校してきたけれど、電車を降りたあたりでどうにも真偽の程が気になってしまって蘭ちゃんに連絡を入れたというわけ。蘭ちゃんは相変わらず兄と仲がいいし、なんだかんだ言いつつ二人で泊まりに出掛けたり飲み歩いたりしているは知っているのだ。多分兄が相談事を持ちかけるとしても真っ先に頼るのは蘭ちゃんだろう。
 そう思って蘭ちゃんを選んだわけだけど、そこの所の判断は当たりだったらしい。実際に相手の子のことも知っていたし、今もこうやって話を聞かせてくれている。話を聞いて相手の子の解像度が上がっていく度に兄と顔も姿も知らないその子が付き合っているのは現実なのだと突き付けられるようだった。

「マジなんだ……」
『まあマジだろ。どうしたぁ? 兄貴に彼女が出来て寂しくなっちゃったか〜?』
「寂しい?」

 蘭ちゃんの言葉にぴしりと固まる。ちょうど駅から騒ぎながら出てきたこの近くの公立高の制服を着崩した男子生徒数名が、私を見て口を真一文字に引き結んで脱兎のごとく駆け抜けていく。喧嘩や殴り合いなどの暴力沙汰からはすっかり遠ざかったが、それでもまだこの辺りだと私はよく顔を知られているのだ。

 別に騒いでいたからって取って食いやしないのにと現実逃避をするように考えつつ、何度か蘭ちゃんの言葉を反芻する。寂しい。……寂しい? 私のこれった寂しさなの? なんというか、これまで彼女なんて一人も出来ずに嘆いていたはずの兄に彼女が出来て、遠くに行ってしまうように感じて……これは、うん。

「……寂しいのかも…………」
『あー? マジかよ。アハハ、ウケる』

 まさか私が素直に認めるとは思っていなかったのか、電話の向こうの蘭ちゃんは煩いぐらいに笑い出す。そのまま弾みで携帯を放したのか一瞬笑い声が遠のいて、すぐに戻ってきた。相当面白かったのか相変わらず笑いつつも、今度はどこか宥めるような優しい声で声を掛けられる。

『まあお前もアレじゃね? そろそろ兄離れする時期ってやつなんだろ』
「それマジって言ってる……?」
『マジで言ってる。リオだって人間なんだから、そのうちお前らきょうだい以外にも大切な人間の一人や二人出来んだよ。何も最初から結婚したいとか言って相手の女連れてきてる訳でもないんだし、予行練習みたいなもんだと思って兄離れした方が楽なんじゃねえの』
「まあ確かに……」
『だろ? で、ついでに竜胆に返事しちまえよ。もう一年待たせてんだろ』
「や、それは話変わってくるでしょ」

 本当にそれは色々と話が変わってくるぞ。

 兄離れをすることはちょっと真剣に考えるとして、だからといって竜胆くんへの返事を兄離れと同列に扱うことは難しい。正直そっちの方が重いし、適当に返事ができるものでもない。
 蘭ちゃんもそれは分かっていてなんとなくで言っただけだったのか、まあそうだろうなと返してきた。そうだよ。それに私が適当に返事したら蘭ちゃんは怒りそうだ。なんだかんだ言いつつ竜胆くんのこと大好きだもんね。

 そこまでは言わずにいたのだが、敏感に察したらしく何か失礼なことを考えていないかと聞かれた。別に失礼なことではないので考えてないよと返しておく。美しき兄弟愛ってやつだろう。良きかな良きかな。


 そのまま一言二言交わして、この後はデートがあるという蘭ちゃんに電話を切られた。蘭ちゃんは兄とは違って女の子が沢山寄ってくるので、多分前に偶然会った時に連れていた女の子とは違う女の子とのデートなのだろう。まあ性格は置いておいて顔だけなら本当にピカイチ、国宝級だからね。その顔に騙された女の子が寄ってくるのもよく分かる。

 そんなことを思いながら携帯をスカートのポケットにしまって、ひとつため息をついてから歩き出した。時間的に三限の終わりには間に合いそうで間に合わないぐらいだ。こうなったらもう遅刻を回避することは不可能なのでゆっくり行こう。今日は大親友が休みでありますように。石抱はしたくない。

 それにしても、あの兄に彼女か。蘭ちゃんがこんなくだらない嘘をつくとも思えないので、多分本当に出来たんだろう。衝撃的すぎる。
 ……まさか詐欺とかじゃないよね? 美人局ってやつ。父も母と付き合う前に付き合っていた歴代彼女たちには宗教勧誘されたり高い壺やよく分からない絵画を売り付けられたりしたと言っていたし、なんだか不安になってきた。

 大学は本当に色んな人がいると聞くし、なくもないんじゃないのか。どうしようもなく不安になってきて蘭ちゃんに確認のメールを送ったら「アイツ信用無さすぎじゃね」とだけ返ってきて、可能性があるのかないのかもよく分からなくてさらに不安になっただけだった。


 +


「それで、私どうするべきだと思う?」
「うるせえ知らねえ黙れ手を動かせ」
「頼れるの大寿くんだけなんだってば!」

 ここ最近の日課になりつつある勉強会は放課後の教室で開催されるので人は既に疎らにしかいない。なのでいくら騒いでも許されるってわけ。
 そういう思考の元でギャンと叫べば、煩わしそうに顔を上げた大寿くんがわざとらしくため息をついた。睨むように見つめられて、その視線の鋭さに気圧されたフリと泣き真似をすれば、一切遠慮することなく参考書で頭を叩かれた。酷すぎる。

 親しき仲にも礼儀ありって言うよねと咎めたのだが、まあ予想の通りに無視された。そのまま大寿くんは私の手元のプリントを覗き込んで下三つを指す。何を言われるのか分かってしまって思わず顔を顰めた。

「また似たような問題間違えやがって。馬鹿か? いや、馬鹿だったな」
「一人で聞いて一人で納得しないでよ……馬鹿じゃないもん」

 これでも結構頑張っているので、やれば出来る子の私はそれなりの成績をキープしているし、留年の危機に脅えていた頃と比べればかなり頭が良くなってもいるのだ。あんなに苦手だった英語はめちゃくちゃ力を入れたおかげである程度は読めて話せるぐらいにはなったし。
 大寿くんはその私の努力を一番近いところで見てきた人なので、一応分かってくれてはいるのだろう。以前よりかは学力の方面で貶されることは減った。まあだからといって褒めてもくれないんだけどね。

 出会った頃から変わらず容赦のない大親友に再び泣き真似をしていれば、面倒になってきたのか会話が前に戻された。この二年半ほどをほぼ毎日のように一緒に過ごしてきたおかげで、大寿くんの私のあしらい方がどんどん上達していっているらしい。竜胆くんが言っていたから確実にそうなのだろう。

「オレじゃなくてアイツに話せばいいじゃねえか」
「誰?」
「ヒモ」

 手元の参考書に視線を落とした大寿くんがなんとはなしに普通の顔でそう呟いて、逆に私はその言葉に眉を寄せた。間違えていると言われた問題にチェックを入れながら口を開く。アイツに相談出来るようなことじゃないのは分かっているだろうに。

「アイツにそんなこと話したらお兄の彼女寝取りかねないでしょ。それにヒモって言うけどたまにご飯食べさせたりしてあげてるだけだからね」
「それがヒモだ」
「衣食住のうち衣食しか与えてないから。……いやそれって結構与えてるな?」

 あと住む場所与えたらアウトになるってことじゃん。

 確かにヒモかもと思わず頭を抱えてしまった。同い年の男がヒモとかとんでもないし、更にその男が兄の彼女を寝取りそうなのもヤバい。前も誰かの彼女寝取ったとか言ってたし、うわ、本当にヤバいな。絶対に兄の彼女の話はアイツにだけはしないようにしよう。
 ヒモとは言い切れないが半分ヒモみたいな男を抱えている事実から目を逸らして、固く決意した。兄の彼女に会ったことはないし兄がそうやって誰かと付き合うのは妹としてなんだか寂しいけれど、友人に兄の彼女が寝取られるのは絶対に阻止しなくてはいけないことだと分かっているのだ。

 決意を新たにする私を横目に、大寿くんは面倒そうにしつつも一応会話は続けてくれるのか再び口を開いた。

「っつーか、彼女の有無なんていちいち妹に話すもんじゃねえだろ」
「そう? 兄さんもお兄ちゃんも話してくれるけど」
「テメェの一番上の兄貴のそれはフラれたって話じゃなくてか?」
「まあそれはそうだよね。お兄ちゃんも地方の局アナ引っ掛けてみたけどフッたら包丁持ち出されて刺されそうになったとかいう話ばっか」
「きょうだい揃って気狂いか」

 呆れたように落とされた言葉に思わずムッとしてしまう。一緒にしないで欲しいよ。私とイザナが気狂いだったとしても、イザナのアレはまた違うベクトルでしょ。私はめちゃくちゃ一途だからね。

 そう反論したのだが、大寿くんはもうその話には興味をなくしてしまったらしい。なんでもいいから手を動かせ、滑り止めすら落ちるぞと冷たく突き放された。
 酷いよ。そこはもっとこう、一緒に頑張ろうみたいなこと言えないの? 上手く行けばこのあと四年間も付き合いが確実に続く大親友だよ? 

「大寿くん……もうちょっと志望校のレベル落としてみない?」
「は? ふざけんな、テメェが他所受ければいいだけだろうが。オレはテメェと別の大学に行けるってんなら大歓迎だからな。志望校変えるってんなら勉強教えてやるよ」
「うわもうそんなこと言うんなら絶対同じ大学行ってやろうって気になるわ。追加で四年間よろしく!」

 この二年半ずっと大寿くんの進路希望調査票を丸写しにし続けていたせいで、気付いたら同じ大学を目指すことになってたんだよね。兄が起業したら秘書として雇ってもらおうと考えていたから、大学では経営とか経済とか学びたいなあと思っていたんだけど、まあ経営者を目指す大寿くんの進路を追えば私も学びたいことを学べそうってわけ。

 主体性がないのかと大寿くんにはめちゃくちゃキレられたけれど、実際希望進路とかを考えた時に別にそれで問題がないからと説明をしたら、「殴り倒したいです」って目で睨まれたのは良い思い出だ。うん、今も同じような顔で私を睨んでいるね。

「テメェのお守りを続ける気はねえ! オレの大学生活までめちゃくちゃにしたらぶん殴るからな!」
「と言いつつ〜?」
「死ね」
「えーん、大親友が酷いことばっかり言う! 良いもん落ちたら竜胆くんに養ってもらうから!」

 いつも通り容赦のない大親友にレスバトルの合図であるハンドベルを鳴らしてやろうかと思いつつも、どうせ私が負けて石抱させられそうになることは予想出来たのでやめた。私は賢い女なので、同じ失敗は繰り返さないのだ。まあ繰り返しすぎて学んだとも言えるが。

 せめてもの反抗として顔を手で覆って泣き真似をしたのだが、煩わしそうに鼻を鳴らして舌打ちをされる。指と指の隙間から大寿くんを見遣れば、パチリと目が合った後に手を動かせと低い声で言われた。ご立腹のようだ。

「そもそも養ってもらうだなんてどの口で言ってんだ」
「この口」
「プロポーズは断っておいて?」
「……断ったんじゃないもん」

 とうとう本気で私を黙らせることにしたのか、大寿くんは一切遠慮をせずに痛いところを突いてくる。そう言えば私が静かになると分かっているのだ。私としてもそんなところわざわざ突いてくるのも、そもそもそれを報告というか相談した人もかなり少なく他の人たちは言及なんてしたりしないため、いつまでも慣れずに押し黙ることしかできない。
 再び手元の参考書に視線を落として静かにペンを走らせ始めた大寿くんを見つめつつ、その体越しに差し込む夕陽に右手を翳した。小さな石のついた指輪が薬指で夕陽を反射してきらりと光る。その眩しさに目を細めつつ、誰に言うでもなく口を開いた。

「断ったんじゃなくて、こればっかりは仕方がないの」

 飛び出したのは案外弱々しい声で、大寿くんは聞こえているだろうに何も返してはくれなかった。


 +


 いつもは下ろしている背中の真ん中辺りまで伸びた髪をポニーテールにして、スカートじゃなくてショートパンツを履いて、お気に入りのサンダルじゃなくてスニーカーで足元を固めた。そこにイザナから借りたギャップを被れば変装は完成というわけ。

 万が一にも誰かにバレるわけにはいかないので帽子のつばを押さえて周囲からの視線を遮るようにしつつ、それでもチラチラと右斜め前方の謎のオブジェクトの前でさっきから時計を気にしているデブの背中を見る。結構離れたところに立っているのに、それでも褒め称えたくなるほどのデブ具合だった。別に褒めてないけど。


 先週会った時よりも、妹の私ぐらいにしか分からないだろうけど更に痩せた横っ腹や腕がどうにも気になる。本気でダイエットをしているらしいというのは久々に実家に帰って母から聞き出してはいたのだけれど、この目で本当に痩せていくところを見てしまうと衝撃が走るのだ。

 兄はどうしようもないデブで、ダイエットなんて強制されたって出来ないような人だ。少なくとも私の知っている兄はそう。
 だけど彼女が出来た途端に頑張って食事制限をしてジムにまで通って、痩せることに必死になっている。自分がデブだと認めることも出来ないような兄がだよ? そりゃ妹の私からしたら衝撃でしかないんだよ。彼女にデブは見苦しいから痩せろとか言われたのかなと探ってみてもそうじゃないっぽいしさ。

 兄が兄の意思で痩せることを選んで、実際にダイエットが成功しているわけだ。母に聞いた話だと自分からジムに通ったりもしているらしいし。
 もうぶっちゃけると、やっぱり寂しいんだよ。兄がどんどん変わってってなんか遠くに行っちゃうみたいでさ。デブがデブじゃなくなることにも違和感があるし。


 誰かと付き合うにしてもデブのままでいてほしい……でも健康上のリスクを考えるなら痩せた方が……と考え込んでいれば、高く澄んだ声で兄の名前を誰かが呼んだ。そのままポールに軽く寄りかかっていた私の目の前を可愛らしいワンピース姿の女性が駆けて行って、半身振り返った兄が嬉しそうにその名前らしきものを呼ぶ。このままでは兄の視界に入ると慌てて帽子のつばを引っ掴んで下を向いた。
 遅れてごめんねだとか全然待ってないだとか話す二人の声を聞きつつ、そろそろと顔を上げる。決して疚しい気持ちがあって尾行しているわけではないけれど、会えば確実になんでいるんだよと言われることは目に見えているから、なるべくバレたくないのだ。

 兄は見るからにデレデレと鼻の下を伸ばしていて情けない顔を晒していたが、彼女さんは彼女さんで淑やかに笑って兄の腕に触れたりしている。いや、めちゃくちゃ可愛いじゃん。本当に兄の彼女がこんなに可愛い子なのかと思わず凝視してしまったぐらいだ。私の天使エマには及ばないけれど、それでも十分すぎるぐらい可愛い。

 しばらく愕然と二人を見ていたのだが、心の内で燻っていた疑問がまた顔を出してきた。本当に美人局とかじゃないのこれ。兄は優しいし良い兄だし私も大好きだけど、だからといってあんなに可愛い子が寄ってくるとも思えない。悪いけど、兄にサークル一のかわいこちゃんを引き寄せる何かがあるかと言われると、ないとしか言えないだろう。痩せれば顔は絶対私に似て整ってると思うけど、今そこまで痩せてないし。もしかして彼女さんはデブ専?

 軽く彼女さんの顔を見たら帰ろうと思っていたのに、ぐるぐる考えれば考えるほどどうにも不安になってくる。二人元からはどこかに行く約束をしていたらしく時間を確認して歩き出したので、私も着いていくかどうか迷った。
 良い人にしか見えないけれど見た目が良い人に見える人こそ付き合ってみるとヤバいのだといつだったかイザナが言っていた。イザナはこれまでに色んなヤバい女を引っ掛けてきているので、その言葉は信用出来る。兄の彼女さんはどこからどう見ても可愛らしくて良い人そうで、だからこそ不安になってしまうのだ。蘭ちゃんも彼女さんがサークルで一番可愛い女の子なんだとわざわざ教えるために電話をしてくれた時に美女と野獣狙ってるかマルチ勧誘か相当なデブ専かの三択で賭けをしないかと誘ってきたし。

 あの時は流石になあと思って賭けには参加しなかったけれど、いざ彼女さんを見てみると私としてもその三択のどれかの線が強い気がしてきてしまった。本当に彼女さんには申し訳ないけれど、兄は恋愛経験がないから……。


 もういいや、こんなに考えるぐらいなら今日は一日中着けまわそう。

 そう思って、バレたら絶対怒られるけど背に腹はかえられないと意を決して立ち上がろうとしたのだが、後ろから伸びてきた手に肩を押さえられた。驚いてわっと間抜けな声を上げて振り返れば、私が驚いたことに驚いたようにしている竜胆くんと目が合った。

「もしかして気付かなかった?」
「うん、全然。すごい驚いた」

 そのまま竜胆くんは私の道を塞ぐようにして正面にしゃがみこんでそっと両手を握り込まれる。甘んじてそれを受け入れながら、少し名残惜しい気持ちで遠ざかっていく兄と彼女さんの背を見つめた。もう追い付けなさそうだ。
 というか、全然大きさが違うな。ただでさえも華奢そうなのにデブの隣に並んでいるせいで余計に可愛らしく見える。体格差から予想して身長はエマより少し大きいぐらいだろうか。


 本当になんであんな可愛らしい人がうちの兄にと眉を寄せれば、私の視線を追ってそちらを見た竜胆くんが短く声をあげた。まあ知ってるだろうけど知らないかもなと思って、一応兄と兄の彼女さんだと説明をしてあげる。竜胆くんもやっぱり兄に彼女が出来たことは知っていたのか、うんうんと頷いてくれた。

「兄貴からつける気みたいだって聞いたから来たけど、マジでつける気だったなら追い掛けるか? 一緒に行くけど」
「……ううん、いいや。お兄の幸せを祈ることにする」

 もう結構遠くに行っちゃったし、竜胆くんが来てくれたことで何となく諦めが着いたというか、兄が幸せならそれでいいかと思えたというか。私は竜胆くんと好き勝手やらせてもらってるのに兄のデートをつけ回すのはなんだか違う気がしてきた。それに竜胆くんにも兄たちを尾行させるのは申し訳ないし。

 それでも短くため息をつけば、そんな私に小さく笑った竜胆くんが再び兄たちを振り返る。私が見下ろす形になっているので、上からだとその表情がよく見えた。何かを思い出すように目を細めている。
 どうかしたのかと聞けば間延びした声と共に首が傾げられ、そのまま立ち上がった竜胆くんに手を引かれるようにして私もポールに寄りかかるのをやめてしっかりと立つことになった。流れるようにして腰を抱かれて近い位置にある顔を見上げれば、まだその瞳は兄たちの後ろ姿を見つめている。

「どうかした?」
「いや……あの女、どっかで見たことあんだよなあ」
「お兄と同じサークルの子だって蘭ちゃん言ってたよ。竜胆くんも大学で会ってたとか?」
「んー……なんかもっとこう、うわめんどくせえ絶対関わらねえようにしよって思った記憶が…………あ」

 無意識なのか腰に腕を回したのとは反対の空いた手で私の右手を触ったり揉んだりしていた竜胆くんが、ふと思い出したとばかりに声を上げた。そのまま思い出せたことが嬉しかったのか私を見下ろしてにっこりと笑う。

「イザナの元カノだ」
「えっ?」
「天竺の頃かな。アイツ全然家に帰らなかった時期あっただろ? もうその頃には別れてたはずなんだけど、相当面倒な女だったみたいで付け回されてたんだよ。実家まで知られるわけにはいかねえっつってたけど、いやまさか、リオに行くとはなあ」
「いや……えっ?」

 随分遠ざかった兄たちの背中と、しみじみと呟いてそちらを眺めている竜胆くんとを見比べる。めちゃくちゃ衝撃の発言だったんだけど。

 いや、イザナの元カノとか付け回されてたとか私は一切知らないし、そもそもイザナがこの交際に反対してないあたり、イザナも交際の事実こそ知れど相手は知らないんじゃないの? イザナは私とよく似てきょうだい思いだから、まさかそんな面倒な人と兄が付き合うのを良しとはしないはずだ。
 私だってそうなってくると話が違ってくるよ。幸せを祈るとか言ったけど普通に大丈夫なのかと心配していた気持ちがぶり返してきている。全然大丈夫じゃないでしょ。イザナ関係なくその人が兄に惚れたんだとしても、もし別れるってなったら付け回される可能性があるって事じゃん。


 慌ててバッグから携帯を取り出してイザナに確認のメールを送れば、一分と経たずに電話が掛かってきた。竜胆くんに今から電話するねとか何か言うよりも前に咄嗟に応答ボタンを押す。

『今どこだよ!』
「新宿駅からちょっと歩いたとこ。ねえ、アレほんとなの? 本当にイザナの元カノ?」
『エマと同じぐらいの背のキンキンした声の女ならそう! あの女マジで面倒だから絶ッ対に別れさせるわ。別れたらトンカチ片手に追いかけ回されるからな』
「お兄ちゃんが最低な別れ方したとかじゃなくて……?」
『あの女が浮気しやがったし面倒だったから別れたんだよ! チッ、アレだって分かってたなら絶対にもっと早く別れさせたのに……』

 ブツブツ文句を言いながら、それでも冷静に算段を立てているらしいイザナによって電話が切られる。電話越しに聞こえた物音からして本気で今からこちらに乗り込んできて別れさせるつもりのようだ。
 唖然としながら携帯の画面を見つめていれば、横から伸びてきた手によってパタリと画面が閉じられてバッグに仕舞われた。見上げた先にいる竜胆くんが少し笑いながら私を見ているのを確認して、ようやく頭が動き出す。

「えー……? つまり、何、すっごい面倒な女の子だってこと……?」
「まあそうなる」
「あんなに可愛いのに……人って分かんないなあ……」

 思わずそう呟けば、竜胆くんは吹き出して顔を逸らす。何かが笑いを誘ったらしい。


 本当なら今すぐ追い掛けたいぐらいなのだが、イザナが突っ込んでいくなら絶対に面倒事になることも予想できる。受験勉強の合間を縫って確保したせっかくの休みをその面倒事に当てていいものか。いや、兄のことも心配なんだけど、でもイザナが居れば何とかなりそうだし……。

 これがエマと鶴蝶くんだったら迷わず追い掛けて相手をボコボコにしてたんだけどなあと考えて悩んでいるうちに、笑いが収まったらしい竜胆くんに顔を覗き込まれた。そのまま帽子のつばを軽くあげて触れるだけのキスをされる。相変わらず竜胆くんはキスが好きなのだ。

「この後の予定は?」
「うーん……追い掛けるならあるけど……」
「追い掛けないなら?」
「ない」

 何も考えずに出てきたから特に予定もないのだ。今日はシンイチローくんも仕事だし、エマと鶴蝶くんは二人で遊びに行くと言っていたし。強いていえば道場で師範の手伝いをするぐらいかな。休むと決めた日には勉強はしたくないので今日は絶対にしないと決めているから、勉強はそもそも選択肢にない。

 竜胆くんは私が即答したことに再び笑みを浮かべ、内緒話をするように声を潜めて耳元で囁いてくる。良い声。やっぱり声も好きだな。

「ここに都合良くリコが見たいって言ってた映画のチケットがあって、オレは明日の昼まで暇で、今日は兄貴が帰ってこない。どうする?」
「……その聞き方、ズルくない?」
「じゃあもっとイイこと教えてやろっか。リコの好きな入浴剤買い足しておいたし、今ならお前の大好きな竜胆くんも一緒についてくる」
「……んふふ。エマに今日帰れないって連絡するからちょっと待って」

 一度喧嘩した時に入浴剤で釣られて一緒にお風呂に入って、結果として色々となし崩しになって仲直りしてからというものの竜胆くんは私を入浴剤で釣れると思っているところがある。そこまで安い女ではないんだけれども、今日はそこに私の大好きな竜胆くんまで一緒についてくると言うから釣られてあげることにした。
 竜胆くんはこういうところが案外可愛いのだ。やっぱり弟だからかなんなのか、おねだりが上手。普段は甘やかしてくれるばっかりなのに時折甘えてくるから、甘えられると私はつい色々と許してしまう。

 ニヤける頬をそのままに仕舞い込まれた携帯を取り出してエマにメールを送り、イザナと兄にも適当にファイトと連絡を送ってから携帯を閉じる。そちらは二人に任せることにしよう。私は今から竜胆くんとデートなので。

 最近は勉強ばかりでろくに二人きりの時間も取れていなくてこれが冬まで続くのかとなかなか憂鬱になっていたから、久々のデートにはまあ普通に胸が踊る。竜胆くんもそう思ってくれているらしく、流れるような動作で右手の薬指から指輪が引き抜かれて左手の薬指に嵌め直された。そのまま恭しくそこに唇が落とされる。

「今日はこっち」
「うん。……返事遅れてごめんね」
「別にいいよ。きょうだいに構いっきりなのは嫌だけど、こうやってオレとの時間だって作ってくれるだろ。それにオレはリコがそういう女の子だってこと知った上でこれ渡してるんだし」
「ありがと。全部終わったらちゃんと答えさせて。返事ももう、決まってるから」

 竜胆くんは笑って、何も言わずにキスをしてくれた。それが返事だ。


 一年以上前から保留にし続けている返事はもうとっくに決まっているし、竜胆くんもそれを知っている。知っていて、それでも答えられない私を尊重してくれているのが現状だった。

 本当なら私だってすぐに返事をしたいけれど、今するわけにはいかないのだ。あの子が帰ってきてくれるまでは絶対に私だけが幸せになるわけにはいかないし、そもそもその問題を片付けないまま返事をしたくなかった。欲張りかもしれないけれど、どちらにもきちんと向き合いたい。

 実家を出て佐野家に移ってもう一年になる。私はそれだけの期間ずっと大切な弟に会えていない。きょうだいたちの中であの子に会えたのはエマだけで、そのエマも携帯番号の書かれた紙を押し付けられたと思ったら唖然としているうちに去っていってしまったと言っているから、会う気なんてそもそもないのだろう。
 だけどあの子はそれでも私たちから離れられてなんていないし、私たちだってあの子の手を離す気は微塵もない。押し付けてきたくせに一切電話になんて出ないし、節目節目にも挨拶のひとつも寄越そうとしないし、耳に入ってくる噂はどれも悪いものばかりだ。毎日イザナとエマと持ち回りで残している留守電だって聞いているのかも分からない。

 それでもやっぱりあの子はどうしようもないぐらいに馬鹿で可愛い私たちの大切なきょうだいで、私たちはあの子がいなければ幸せになんてなれやしない。
 私たちの幸せには、マンジローが絶対に必要なのだ。


 だから竜胆くんに返事が出来ないなんて馬鹿みたいだけど、今は竜胆くんの待つという言葉に甘えさせて欲しい。今はただ足を止めて寄り道をして、後ろで立ち止まってしまっている弟を待っているだけなの。いつか必ずきちんと返事をするから。

 私の手を引いて歩き出した竜胆くんの背中を見つめ、ふとどうしようもなくその背に抱き着きたくなった。それで驚いたように私を呼んで欲しい。呆れたように笑って、仕方ないなと呟いて。オレが居なきゃダメダメだなって言ってくれれば、私はそうでしょって胸を張って返せる。あなたがいないとダメなんだよって何度だって伝えたい。
 ここが外でなければ多分この場で飛び付いていただろう。でもここは外なので、抱き着くのは竜胆くんの家に帰ってからのお楽しみかな。映画を見てご飯を食べたり買い物をしたりして、夕方ぐらいまで? なかなか先のことのように感じる。竜胆くんと一緒だと時間が過ぎるのが早く感じるのに、こういう時は遅くも感じる。複雑でしょ。

 そう考えているとやっぱり振り返って欲しくなってきて、足を止めた。手を繋いでいる私が止まったせいで竜胆くんも止まって予想通りに振り返ってくれたものだから、思わず笑ってその腕に自分の腕を絡めた。若干驚きつつも竜胆くんはそんな私を受け入れて、どうかしたのかと笑って聞いてくれる。

「ううん、どうもしてない」
「ならいいけど」

 こうしたかっただけだよと答えて腕に力を込めて、その肩に頭をくっつけた。歩きにくいと文句を言いながらも竜胆くんは私を引き剥がすようなことはしないし、私も離れたりなんてしない。この時間が長く続けばいいのにと思っているから、なるべくゆっくり歩きたいのだ。竜胆くんもそれを分かっているのだろう。

「竜胆くん」
「ん?」
「私の名前、呼んで」
「……いいよ、リコ」

 泣きたくなるぐらいあたたかい声で名前が呼ばれて、嬉しくてたまらなくなって腕は絡めたままぎゅっと手を繋いだ。竜胆くんも握り返してくれたことで余計に嬉しくなってきてしまって声を押し殺すようにして笑う。

 いつだったか竜胆くんは私が手を引いていれば歩いていけると言ってくれたけれど、私もそうなのだ。竜胆くんがこうして手を握って隣にいてくれれば、迷うことなく前に進める。何があったって膝をつかずに前に進もうと思える。
 やっぱり竜胆くんは私の星だ。あなたを目印にしていればきっと私は今後もずっと迷わずにいられるんだろう。でもほら、私は目が悪くなっちゃったから、いつだって見えるところにいてくれないと。見えるところにいて、手を引かなくなっていいから、隣で生きていてくれなきゃ。


 寄り道も回り道も何度だってしてしまうだろうけど、私の隣にはいつだって竜胆くんがいる。行き着く先も帰る場所も、ずっと変わらずに竜胆くんの隣なのだ。


 えへへと堪えきれずに笑えば私を見た竜胆くんも同じように笑って、それからまた名前を呼んでくれる。何度も何度も繰り返されたのにそれでもまだ壊れ物に触れるみたいに優しいそれに胸の奥が暖かくなって、だから私も愛してるの気持ちを精一杯込めて竜胆くんの名前を呼んだ。


 竜胆くん。私やっぱり、あなたの全部を愛してるみたい。あなたと目が合うだけで、あなたが私の名前を呼んでくれるだけで、泣きたいぐらい幸せだと思える。あなたが好きだと言ってくれるだけで、私の全部が報われるの。

 竜胆くんの腕の中で目覚められる明日の朝を今から待ち遠しく思いながら、ゆっくり一歩一歩を味わい尽くすようにして二人で歩く。一緒にいるだけで心の満たされる竜胆くんとの時間が、この幸福が、永遠に続いてくれればいいのにと思った。

渡る世間にデブはなし

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