「バイクなら運転出来るけど、後ろ、乗るか?」

 眉尻と目尻を一緒に緩めて、王子様のお手本みたいな笑顔を浮かべて、その人は機械臭い店の入り口の方を指差した。釣られてそちらを見れば、綺麗に磨かれた黒の車体が堂々と鎮座している。この人の愛車だ。私はバイクの名前なんて全然知らないけれど、いつだってこの人が暇さえあればピカピカに磨いているこのバイクが「バブ」と呼ばれることは知っていた。
 「バブ」は、この人にとっての相棒みたいなもの。この人にとって唯一無二なもの。

 指の先を目で追ったまま何も言わなくなった私に何を思ったのか、その人が照れたみたいに小さく笑ってから手を伸ばして髪を掻き混ぜるようにして頭を撫でてくれた。仕事中はほとんどずっと嵌めている機械油とか色んな汚れとかで色の変わったくたびれた軍手の感触じゃなくて、大きくて暖かい掌。

「まあ、白馬じゃねえけど」

 まるで言い訳をするみたいにそう呟いて、頭を撫でてくれていた掌が髪の束をくるくると指に巻き付けるのが、見えなくてもなんとなく感覚で分かった。何も遠慮のない触れ合いになんだかくすぐったい気持ちになる。
 あちこちに向かって跳ねるくせっ毛を必死で撫で付けてきた私の労力をこの人はこうしてすぐ無に帰すけれど、それでもこの人にこうされてしまうと文句なんて言えなかった。それどころか、簡単すぎるくらい簡単に嬉しくなってしまうのだ。我ながら単純な思考をしているとは思っても、自分でどうにかできることでもない。

 「バブ」をじっと見つめる。髪を梳いて指に巻き付けて弄ぶその手を甘受しながら、くぐもった空調の音と開きっぱなしのドアの向こう側から聞こえてくる車の排気音や小学校低学年ぐらいの男の子たちの賑やかな声に耳を澄ませた。「バブ」と同じぐらいかそれ以上にピカピカに磨かれた売り物のバイクがたくさん並べられているこの店は、夏休みも既に一週間ほど過ぎた平日の昼間だと言うのにお客さんが一人もいない。今は私とこの人の二人だけがここにいるから、二人とも黙ってしまえば外の音がよく聞こえる。商店街だって言うのに蝉の鳴き声までうるさいぐらいに聞こえるのはなんでなんだろう。

 別に、日頃から店主と客とも言えない女子中学生だけがこの店にいるのかと言えば決してそうではないのだ。逆に二人きりになれることなんて全然ない。良くも悪くもこの人は人気者で太陽のような人だから、気付けば周りに人が集まってくる。私はこの人の眩いぐらいの光に惹き付けられて寄ってきたちっぽけな子どもに過ぎない。その他大勢の一人だろう。
 だから、そんなこの人とこうして二人きりになれたのは嬉しいことでもあり、私としてはどうすればいいのか分からなくなってしまうようなことでもあった。今日だって誰かしらいるだろうと思ってお昼ご飯を食べてから家を出てここに向かってきたのに、この人以外誰もいなくて言葉で言い表せない程に驚いてしまったぐらいなのだ。


 来店した時から開きっぱなしだったドアから店内を覗き込んで、一人っきりで座り込んで真っ直ぐバイクに向き合うこの人の背中を見た時、思わず息を飲んでしまった。気配に気付いたのか振り返ったこの人が見上げるようにして私の方を見てしばらくしてから口角を上げて手招きした時にも、左手と左足が一緒に前に出てしまって笑われたし。
 招かれるままに入店して無造作に置かれた所々錆びたパイプ椅子に腰掛けた。無造作に差し出された元々誰かのために用意していたのに手を付けられなかった様子の、既に生温くなった未開封のペットボトルに口を付ける。

 私の来店に合わせて休憩を摂ることにしたらしくグッと伸びをして、それから少しの沈黙。気まずいものではなかったけれど、だんだんと二人きりなのだという事実に心が踊り出した。もう一度ペットボトルに口を付けて緊張のあまり渇いた喉を潤してから口を開く。

「フィリピンのどこに行ってたんだっけ」
「マニラ」
「楽しかった?」
「ああ。ナナもきっと気に入るよ」
「ほんと? じゃあさ、いつか連れてってよ。私一人だと迷子になっちゃうかもしれないけど、一回行ったことある真ちゃんと一緒なら海外でも大丈夫な気がする」
「いいぞ。もうちょっとナナが大きくなったら、一緒に行こう」

 未来の約束は好きだ。誰からも好かれる太陽のようなこの人と、それも二人きりの未来の約束。私たちの間には年齢の差というものが大きく跨っているけれど、それでもこの人が私と対等でいようとしてくれていることは日々の言動の端々からでもよく分かるし、何より好きな人と海外旅行の約束だなんて、心が踊らないはずがない。


 私は、幼馴染みのお兄さんである佐野真一郎のことが好きだった。

 初恋は叶わないと巷では言われているし、何よりこの人はモテるしで、十歳も年下のちんちくりんなんて恋愛対象ではないことは百も承知だ。それでももう何年もずっとこの人のことが好きだった。


 店内は空調が付けられてはいるけれど、ドアが全開にされていることもあってか蒸し暑い。額に浮かんだ汗をワンピースのポケットに入れていたハンカチでお行儀良く拭い、ペットボトルに再び口を付けて、緩急を付けて足を揺らしながらふと立ち上がったその人を見上げた。パイプ椅子の軋む音と蝉の鳴き声。どこか低いくぐもったような空調の機械音。

「髪、伸びたな。夏だから暑いだろ」
「うん。めちゃくちゃ暑い。でも伸ばした方が可愛くない?」
「オシャレは我慢ってやつか」
「そうだよ。もうちょっと伸びたらエマとおそろいの髪型も出来るようになりそうでしょ」

 カウンターに凭れて適当に投げ出されていたタオルで 額や首筋の汗を拭いながら、なるほどとその人は頷く。

「真ちゃんの誕生日パーティーでも、エマと一緒にとびっきりオシャレしてお祝いしてあげるからね」
「おっ、そりゃ嬉しいな。因みに今年のプレゼントは?」
「当日までお楽しみ! でも、私なりに真ちゃんが喜んでくれるもの選んだつもりだから期待しててくれていいよ」

 ほんの数日後に控えたその日を主役より待ち遠しく思いながら、悩みに悩んで選び抜いた誕生日プレゼントを手渡すその瞬間を考えて緩む頬をそのままに笑う。いつだって本気で喜んでくれるから、渡す側としてもそのリアクションを想像すると嬉しくなる。こういう所が人を惹きつける所以なんだろう。
 幼馴染みで家族ぐるみの付き合いをしていたから、昔から誕生日は当日にお互いの家で祝っていた。ここ数年で色々と状況と環境は変わって私たちはそれぞれ成長したけれど、それでもこのお祝いだけはここまでずっと変わってなんていない。今年も私のことも当日に家に招く前提で話を進めてくれているのが嬉しかった。

「周りに八月生まれの人が多いから、それぞれのお祝いの仕方考えるの結構大変なんだよ。特にマイキーなんて、毎年毎年真新しい方法で祝わなきゃすぐ拗ねるし」
「万次郎もナナに祝ってもらえるのは嬉しいと思ってるよ。照れ隠しだ」
「えー……」

 それならそれで拗ねたりしないでくれればいいのにとため息を吐けば、そんな私が面白かったのか少し笑ってからどこか遠くを見るようにして黒々とした目が細められる。

「万次郎と仲良くしてくれてありがとな。それと、アイツの件もナナには迷惑かけてるだろ。ごめんな」
「いや、いいよ。別にそんな……マイキーは幼馴染みだし、あの人のことも私がしたくてしてる事だから。それに他人の方が話せることってあると思うの」
「…………まだオレには会いたくないって?」
「……うん」

 寂しそうに眉を下げたその表情に思うことはあるけれど、うまい慰め方が分からなくて押し黙る。そうしてしまえば再び沈黙が訪れて、今度はそれに気まずさを感じた。

 言葉にした通りに他人だからこそ話せることもあるという以外に、私だけがあの人と今でも連絡を取り合っていることに理由はない。そもそもの話、元々連絡を取り合っていたのだって私とこの人だけだったのだ。その片方と連絡を絶ってしまえば、一本道しか残されなくなるのは当たり前のことだった。

 この人もそれは分かっているのだろう。だけど解決方法が時に任せる以外に見つからなくて、フィリピンまでわざわざ出掛けたりはするのに肝心の連絡は取れないでいる。

 「アイツ」だったり「あの人」だったりとはっきりと名前では呼ばずにいるその人のことは、私たち二人だけの秘密にしている。二人きりの未来の約束よりも重いし、頻繁に顔を合わせる幼馴染みに対して抱えるには大きすぎる秘密だ。でも周りに話すタイミングが今じゃないというのも事実で、話すに話せない状況になっていることもまた事実だった。
 多分でもきっとでもなくて、いつかは絶対に話をしなければならないことではあるのだと思う。所詮他人でしかない私は悲しいことにその枠組みには入れないけれど、この人たちは家族なわけだから、いつまでも目を逸らすわけにもいかない。

 でも私はそのいつかが訪れるまでは大好きなこの人と秘密を共有して、同じ事で悩むことができる。この先何があったって私だけのものにはなってくれない太陽のようなこの人と、この時ばかりは二人だけの秘密を抱えられる。浅ましい思考だとは分かっていても、それが嬉しかった。
 秘密の共有は親密さを加速させる。本当にそうならいいのに。このままこの人が私のことを好きになってくれればいいのに。

 私がそんな気持ちを抱えていることなんて露知らず、その人は私たちがどんな話をしているのか知りたがっているようだった。ポーカーフェイスを装っても全部顔に出ているからバレバレだ。カウンターに凭れて普通の顔をしているその人を見ていると可愛い人だなと笑ってしまいそうになった。

「真ちゃんの誕生日のこと、なんだかんだ言って気にしてたよ」
「マジで?」
「うん。変なこと言うと怒られそうだったから私からは何にも言ってないけど」

 誕生日プレゼントを買いたいから会いたいと言って誘い出した時も、この人の誕生日プレゼントだと分かっていてもちゃんと来てくれたし、買い物にも付き合ってくれた。自分からは何にも提案なんてしてくれなかったけれどどちらがいいかと意見を求めれば返事だってしてくれたから、きちんとその日のことを気にしてはいるはずだ。
 その話は当日に改めてしようと思って今はしなかったけれど、それでも嬉しかったのだろう。目尻が緩められ、同時に口角も綻ぶ。心底嬉しそうなその顔は弟を思う兄のもので、嫉妬のしようも無かった。私がなりたいものはこの人の弟ではないから、微笑ましさが勝る。

「あの人も恥ずかしがり屋だからさ、今年はやっぱり直接祝うのは難しいと思うけど、ちゃんと真ちゃんのこと大切に思ってるよ。そこは私が保証する」
「……ありがとな」

 そう言って照れ臭さを誤魔化すみたいにその人は頬を掻いて、それでもどこかくすぐったい空気に耐えられなかったのか話題の転換を図ることにしたようだった。今度は来月に控えた私の誕生日の話になる。

 誕生日プレゼントは基本的にみんなのセンスに任せているから、私からあれが欲しいこれが欲しいと言ったりはしない。それがたとえこの人からではなくとも貰えるだけで嬉しいし、どんなものだって大切にするから、私に贈りたいと思ったものを選んでくれるのが一番だ。
 今年もそのつもりでいるから、何が欲しいのかという問いには「真ちゃんの選んだもの」と返しておいた。毎年この問答を交わしている。

「あ、でも、ケーキは今年もお兄ちゃんが用意してくれるんだって。だから強いていえばケーキ以外かな」
「まだまだ範囲広いな……じゃあやりたいこととかは? どこに行きたいとか、あれしたいとか、これ見たいとか」
「んー……あ、海とか? でもそれはあれね、誕生日プレゼントとかじゃなくて、今度みんなで行こ。マイキーが圭介とかチームの人たちとかと行ったんだって、海」

 もう一人の幼馴染みの名前を上げてそう言えば思い当たる節があったのか、その人も頷いている。表情を見るに海に行くのも大丈夫なようだ。今度の約束は二人きりのものではないけれど、それでも訪れるであろう近い未来の約束は嬉しいものだった。

 後は? と尋ねられたので、視線を斜め上に向けて壁に掛けられた端のよれたポスターを見つめながら考えてみる。付き合いたいとかそういうのはなしだろう。プレゼントとして強請れるようなことじゃない。


 じゃあ他に何か、したいことやしてもらいたいことはあるか。夏休みの宿題はもうほとんど終わりまで見通しは立っているから手伝ってもらう余地はないし、どうせ今年もマイキーと圭介に写させてくれと家まで押し掛けられるのだろうなあとも予想している。それを止めてもらうとか。だけどこれに関しては、私も慣れているし夏の風物詩みたいなものだから特に気にしてはいないのだ。
 したいこともしてほしいことも沢山あるけれど、好きだという気持ちと関係のないことを敢えて選ぼうとするとすぐには思い浮かばなかった。悩むぐらいならやっぱり毎年のようにプレゼントを用意してもらった方がいい気がする。この人がくれるものなら私は特に何の意味もない綺麗なガラスの欠片でも、一本のペットボトルでも、一言二言何か書かれただけのメモ用紙でも、なんでも嬉しいのだ。この人はそんな風に私が思っていることを知らないだろうけれど。

 唸りながら悩む私を見兼ねたのか、同じように小さく唸ってからその人は唐突にあっと声を上げた。思わずそちらを見上げる。
 黒々とした瞳とぱちりと目が合う。黒曜石はこんな色をしているのだろうかと言葉にするでもなく思った。

「そういえばさ、昔から白馬に乗りたいっつってたんだろ」
「…………もしかして、お兄ちゃんに聞いた?」
「ウン。ナナは昔っから白馬が迎えに来るの待ってるーって」
「お兄ちゃんはなんで余計なことばっかり言うかな……」

 しかも、正確に言うなら『白馬に乗った王子様が迎えに来るのを待っている』だ。そこまで正確に伝えられるのも恥ずかしいけれど、こうして部分的にしか伝わっていない方が余計に恥ずかしいから伝えることからやめてほしい。

 大好きな人の口から出たまさかの言葉に暑さとはまた違った意味で頬が火照るのを感じながら、居た堪れなくなって目を逸らす。こんな場面で私を夢見がちだと揶揄う様な人でもないと分かっているから、どうしようもなく小っ恥ずかしい。
 私が照れているのを見て兄に聞いた話が本当なのだと悟ったのか、その人はなるほど、そうかそうかと呟いた。何もなるほどじゃないし、そうかそうかでもない。

「それ、小さい頃の話だから……」
「でもなあ……バイクなら運転出来るけど、後ろ、乗るか?」

 言い訳するために口を開いたのに、被せるようにして投げ掛けられた言葉のせいで続きが出てこなくなってしまった。頭が真っ白になって、思わず勢いをつけて見上げたその人は眉尻と目尻を一緒に緩めて、王子様のお手本みたいな笑顔を浮かべている。呆然としながら指し示された入口の方を目で追い、羨ましくなるぐらいこの人の愛を一身に受けてキラキラ輝く車体を見つめた。心臓がおかしな風に逸り出す。

 分かってない。この人は多分、なんにも分かってないのだ。


 何も言わなくなった私に何を思ったのか、その人は照れたみたいに小さく笑った。そしてカウンターから手を伸ばして、ここに来る前に頑張って抑え付けてきたくせっ毛を解き放つみたいにして、掻き混ぜるように頭を撫でてくる。仕事中はほとんどずっと嵌めている機械油とか色んな汚れとかで色の変わったくたびれた軍手の感触じゃなくて、大きくて暖かい掌。私の大好きな掌だ。
 いつもはそうされると照れてついやめてと言ってしまうけれど、今日ばかりは何も言えなかった。それどころか心臓があまりにも煩くて、この音が届いてしまっているのではないかとか、口を開いたら心臓ごと気持ちが飛び出してきてしまいそうだとか、そういうことを考えると口を開けそうにもなくなってしまう。


 頭の中で言われた言葉を反芻する。白馬は乗りこなせないけどバイクなら運転できるから後ろに乗るかって、それってつまり、この人は私がどうして白馬を待っているかなんて知らなくて、そもそも白馬じゃなくて王子様を待っていることなんてこれっぽっちも知らなくて、でも、白馬に乗りこなせるなら私を白馬の後ろにだって乗せてくれたということだ。

 息が上手く出来なくて、この人にはそんな意図はないと分かっていても嬉しくて嬉しくて気を抜いたら涙が溢れてきてしまいそうだった。でもこの人からはそんな私の表情なんて見えないみたいで、どこか焦ったみたいに、照れたみたいに言葉が漏らされる。

「まあ、白馬じゃねえけど」

 言い訳ですとばかりのその口ぶりが妙に愛おしくて、よく知りもしない感情なのになるほどこれが愛なのかと思う。私は知ってしまったのだろう。この人のことが好きで、多分愛しているのだ。今はまだ自信が無いから多分だけど、愛はきっとこういう感情だ。

「……それって、誕生日プレゼント?」
「いやいや、フツーに後ろ乗らねーかって誘ってるだけ! プレゼントはまた別で用意するよ」
「…………乗る」

 本当はもっと気の利いたことを言いたかったけれど、何とか絞り出せたのはそんなぶっきらぼうな一言だけだった。指二私の毛先を巻きつけて遊び出したその人の手の動きを甘んじて受け入れ、喜びと嬉しさのあまり潤む視界を誤魔化すように何度も瞬きをする。人は嬉しくて泣けるというのは本当らしい。

 私が泣きかけていることなんて気付きもせずに、その人は返事に満足してくれたのか子気味よく頭を撫でてくれる。女の子に対してのものとは思えないほどに粗雑な手付きなのは、私を女の子としてでなく妹して見ていることの表れなのだとはもう気付いている。
 だけど、今はまだそれでいい。いつかの未来で、私たちが二人でマニアに行く頃にでもこの気持ちがどういうものなのかを伝えられていればそれでいいのだ。

「そういえば私、バイクって人の後ろでも乗ったことないや」
「マジで? 兄貴には……あー、まあアイツ過保護だから危ないっつって嫌がりそうだな」
「うん。危ないからダメってずっと言われてたの……だからお兄ちゃんには内緒ね。真ちゃんが怒られちゃう」
「ナナのこと乗せたってバレたら確かにオレが怒られる」

 本当に過保護だからなあと呟いた後に、ふとその人は私の正面に回り込んで膝をついた。太陽よりも眩しいのではないかと錯覚するほどの笑顔を見せて、立てた左手の小指を向けられる。促される迄もなくその小指に自分の左手の小指を絡めた。

「二人だけの秘密。約束な」
「……うん」

 二人きりの未来の約束も、二人だけの秘密も、何より嬉しい。私のことを妹としか見ていなくても、所詮は友人の妹と兄の友人でしかなくても、幼馴染みの枠組みを越えられなくても、それでもやっぱり私はこの人のことがどうしようもないぐらい好きだ。好きで、きっと愛している。
 今はまだこの気持ちは伝えない。このままでいい。でもいつか訪れるであろうその未来で、年の差とかなんだとかの障害なんて全部蹴散らして乗り越えて、きちんと目を見て好きだと伝える。あなたが好きだのだと本心を余すことなく、全て。

「真ちゃんに私の初めて貰われちゃうね」
「……その言い方もオレが怒られるし誤解されるから、二人きりの時以外はやめておこうな」
「はーい」

 誤解とかじゃなくて他の初めても全部あげるよと言う勇気もなくて、今は大人しく返事をしておいた。
 そんな私にちょっと困ったみたいに笑って絡めていた小指が離される。そのままゆるりと両手を握られた。数秒見つめ合いどちらからともなく笑い出せば、幸福で心が満たされていく。


 煩いぐらいの蝉の鳴き声。くぐもった空調の機械音。開きっぱなしの扉の外側からは途切れることなく会話をする声や明るい笑い声が聞こえてくる。

 あまりにも平凡だ。平凡で、何よりも普通でありきたりで、だけどこんな日々がずっと続くことを願っている。他にはもう何もいらない。

 今はひとまず目前に控えたこの人の誕生日を祝って、この人たち家族の問題にも少しだけ介入したり秘密を共有したりして、そう遠くない未来に叶える二人だけの約束を数えてその日を待つ。それだけで幸せで満たされている。他に望めることなんて何も無い。私はもう十分たくさんのものをもらった。強いて言えば、この想いを伝える勇気が欲しいぐらいだ。

「夏休み終わる前には乗せてやるから、その時はスカートじゃなくてズボンで来いよ」

 それじゃ捲れて中見えるからと無遠慮に言って軽く膝を叩いてきたことに笑いながら、僅かに地面につかない足を真正面にしゃがみ込んだその人にぶつからないようにと気を遣いながら揺らした。最近テレビで見たCMで流れていた曲を軽く鼻歌で歌えば、どこか調子の外れた声が続く。大好きな声。この人の全部が好きだけど、この声は特に好きだ。暖かくて眠くなるような心地良さがある。

 きっとこの店にはもうすぐお客さんかこの人のお友達が来て、私たちの二人きりの時間は終わってしまうだろう。握られた手は放されて、ゆらゆら揺れるような楽しそうな歌声は途切れて、空調の音も笑い声に掻き消される。蝉の鳴き声すら気にならなくなるのかもしれない。
 賑やかなのは嫌いじゃない。特にこの人が中心にいる賑やかさは好きだ。私たちの太陽。私のお日様。

 だけど、今は。今だけは。

 これがたとえ終わりの見えた時間だったとしても、あとほんの少しだけでもこのまま二人きりでいたいと思った。たった数分でもいい。この幸福で満ち足りた時間が続いてくれますように。


 願いも祈りも、誰にも届きはしなかったけれど。
ふたつおりのひとひら