「……ナナ?」

 まだ早朝の域を出ない時間に、知り合いの女から電話がかかってきた。こんな時間に何の用だとは思ったけれど、寄越される連絡に無意味なものがないことはよく知っていたから応答する。
 いつもは声を聞いただけで朗らかなその笑顔が思い浮かぶくらいに明るくオレの名前を呼んでから時間に合った挨拶が続くというのに、今日は何故か無言が続いた。耐えきれなくなって名前を呼んで、らしくもなく要件を尋ねてやる。

「おい、奈々帆? 寝惚けてんなら切るけど」
『……』
「…………今どこ」

 寝惚けてるわけではないのだろうなということは、耐え兼ねたのか漏らされた吐息で伝わってきた。ギリギリまで息を吸うことも吐くこともやめて、そこまでして何かを抑え込もうとしているのだろう。呆れるくらいに感情表現豊かなこの女にしては珍しいその行動に、どうにもならないほど嫌な予感がした。


 奈々帆をナナと呼ぶのは、真一郎──兄だと信じていた男がそう呼んでいたからだ。友人の妹で自分にとっても幼馴染みだと言って真一郎の店で引き合わされたその女はオレより三つも年下で、傍から見ても分かりやすいぐらいに真一郎に恋をしていた。あそこまでの想いを寄せられてナナの気持ちに気付かないのなんて真一郎ぐらいのものだ。

 ナナは引き際を見極めるのが上手い女だったから、いつだって不快にならない絶妙なバランスでオレに接する。人の懐に潜り込むのが上手いのだ。
 オレよりも高頻度で真一郎に会うことの出来るナナに何度も嫉妬して文句を言ったり嫌がらせじみたことをしたこともあったけれど、その度に困ったように笑われてその笑顔にどうにも敵愾心を削がれるのだ。計算でやっているのかと思ったこともあるが、本人にはその気はないらしいともこの何年間かの付き合いで分かってしまった。それに、ナナの傍は居心地が悪くない。

 もしナナが真一郎と結婚したらオレの義姉になるかもと思っていたから、まあお姉ちゃんも一人ぐらい居てもいいのかもしれないと考えたのもある。オレより年下というのが気になるが、ナナと真一郎は二人とも太陽みたいでお似合いに見えた。


 ナナは泣かない。いつも笑っている。数ヶ月前にナナにすら苛立って手を上げてしまった時だって少し怒りはしたけれど泣きはしなかった。オレはナナが泣いているところを一度も見た事がない。

 でも今、ナナは電話の向こう側で息すら殺すようにして泣いている。見てもいないのにそれが手に取るように分かってしまって、居ても立っても居られなくて財布をズボンのポケットに捩じ込んだ。どこにいるのかという問い掛けには何も返ってこないけれど、あのナナが泣くだなんて真一郎に何かあったとしか思えない。嫌な予感がずっとしている。

「ナナ、ひとまず家まで行くから、泣くなって」

 年下の女に泣かれた時にどうすればいいのかは真一郎に教えてもらっていなかった。だから分からないのだ。妹にも会わなくなって久しいし、これまで周りにいた女は泣く時はもっと自由に泣いた。記憶の中の妹も声を上げて泣いていたし、ナナのように押し込めるような泣き方をする女は初めてでどうすればいいのかが分からない。
 家まで行って顔を見せて直接言葉を掛けたところで、ナナは泣き止むのか。それすらも分からないけれど、でもやっぱりナナが泣いていると背中の辺りがむず痒くなるような、喉に何か突っかかっているような違和感があるのだ。ナナは泣かない方がいい。笑っていた方がいい。

 そこまでは言語化出来ずに泣くなとだけ言い募れば、大きく息を吐いて吸おうとする音がした。それでも息を吐きかけたその瞬間に失敗して、とうとうナナは誤魔化しきれなくなったのか声を震わせて泣き始める。もう一度泣くなと告げた声は、自分でも分かるくらい情けなかった。

『私、いま、病院で』
「は? 怪我したのか?」

 遮るようにして尋ねれば、違うのと何度も嗚咽混じりに呟かれる。よく聞けば、電話の向こう側からは誰かが慌ただしく駆ける音や叫ぶように怒鳴る声がした。嫌な予感が強まって意識せずに握り込んだ携帯電話からミシミシと軋む音がする。合わせるようにしてナナの泣き声も大きくなって、だんだんと心中が絶望感で満たされていく。ちゃんと話を聞いたわけでもないというのに、嫌な想像ばかりが頭を巡った。

『イザナくん、真ちゃんが……』
「……真一郎が?」
『し、死んじゃった。殺されちゃった……!』

 は、と息が詰まる。突然足の感覚を失ったように立っていられなくなって座り込むことしか出来なかった。目の前がチカチカする。血の気が引いて両手が震え出す。
 多くの人を巻き込んだ盛大なドッキリの可能性を考えて、真一郎ならばそんなことはしないだろうと即座に冷静な自分が否定した。もしもこれがドッキリなんて最低なものならナナはここまで泣いたりしない。なんでどうしてとうわ言のように呟いて、オレと電話をしていることなんて忘れてしまったのか狂ったように真一郎を呼んで泣いている。


 真一郎が死んだ。殺された。ナナは加害性を認識し、殺害されたのだと断じている。過失にしろ故意にしろ真一郎は殺されたのだ。あの真一郎が。オレのお兄ちゃんが。血が繋がっていなくたって家族だと言い切ったあの人が。オレがその手を振り払った真一郎が、死んだ。

 何も言えなくなって呆然と座り込んでいると、真一郎の太陽のような笑顔だけが思い出されてどうにもならなかった。胃のそこがぐるぐると回っているのではと錯覚するほどの吐き気と、地の底が抜けてしまったかのような絶望感。


 オレはもう二度と真一郎に会えない。もう二度と、永遠に、絶対に。死んだ人は天地がひっくり返りでもしなきゃ生き返ったりはしないのだ。奪われたものは戻ってこない。取り返せやしない。

 こんなことになってしまうならと考えたって全部今更だ。何もかもが遅かった。もっと早く会っていれば。もっと早く話していれば。真一郎から逃げるようなことをしなければ。ナナの優しさに甘えなければ。そうすればオレは真一郎に会えていたのだろうか。真一郎の手を取れていたのだろうか。真一郎は殺されることなく生きていたのだろうか。
 何もかもが結果の伴わない空想に過ぎず、それでもオレはその空想に縋る他なかった。

 ナナはまだ泣いている。

『真ちゃん、真ちゃん、真ちゃん……なんで? なんで、どうして真ちゃんが、なんで真ちゃんなの』
「ナナ」
『約束したのに、なんで……嫌だよぉ……』
「奈々帆」

 壁に爪を立てるようにして縋って何とか立ち上がる。財布とバイクの鍵と携帯。必要なのはそれだけだ。ハンカチなんてものは持っていないからこの手でも服の裾でも使えるものはなんでも使うしかない。ナナの涙を止めることは出来なくても、拭うことならオレにだって出来るはずだ。

 オレは示された機会を自分で捨てた。伸ばされた手を振り払った。それでも真一郎を失ったことに耐えられそうにもない。胸が張り裂けそうなほど苦しくて辛くて悲しいというのは、多分これのことだ。この痛みがそうなのだろう。
 オレですらこうなのだから、突然大好きな人を奪われたナナの苦しみと辛さと悲しさは、痛みはどれほどなのか。道徳の教科書ならばここで喪失感に順位をつけることなど間違っているというのかもしれないが、そうでもしなければやっていられないだろう。


 ナナ。真一郎を慕い、愛したナナ。待っていたはずの未来も有り得たかもしれない未来も何もかもを理不尽に奪われたナナ。オレよりも可哀想で惨めなナナ。

 悲しみに順位を付けず抱える喪失感に差がないとしたところで、オレたちはもう二度と真一郎には会えないのだ。ナナもオレも、真一郎に会う術を持たない。死者と生者の世界が本当の意味で交わることはない。
 だったら全てに順位をつけて差を作って、オレより苦しくて辛くて悲しがっているナナを慰めて抱き締めてそばにいよう。真一郎はこんな時にどうすればいいのかは教えてくれなかった。だけどナナが求めている「真ちゃん」にオレはなれないし、同じようにナナは真一郎との別れ方だなんて知らないし、オレの求める「真一郎」になれない。

 じゃあもう分からないなりに、お互いの求めるものになれないなりに、オレはオレ自身の望むことをするしかない。それがたとえ痛みの共有でしかなかったとしても、もう真一郎が教えてくれない以上オレは俺のやり方を探すしかないのだ。せめてこれ以上ナナが泣かないで済むやり方を探して、ナナの涙を拭い続けてやる。「真ちゃん」とは違くたって、それがオレにできる唯一の方法。

「奈々帆、オレ、今からそっちに行く」
『……』
「オレは真一郎の家族じゃないし、真一郎のダチにも嫌われてるから嫌がられるかもしれないけど、それでも奈々帆のそばにいる」
『……真ちゃんの家族だよ……弟でしょ』
「……そう思ってるのは真一郎と奈々帆だけだ」

 オレは真一郎の弟に会ったこともなければ、妹にだってもうずっと会っていない。そもそも血が繋がっていないオレは本当に真一郎たちと兄弟だと言えるのか。家族に何より必要な繋がりは血だ。夫婦ならばともかく、兄弟ならば尚更。
 それにオレを弟だと言ってくれた真一郎は殺されてしまった。真一郎の弟妹はオレを兄だと認めることはしないだろう。真一郎の大切にしていたものを取り返しのつかないほどにぶち壊した自覚がある。

 ナナがオレのことを真一郎の弟で家族だと言ってくれるのは、ナナが真一郎のことを一心に慕うが故だ。ナナはオレに出会ったその時に真一郎に弟だと紹介されたから、それを疑うことなく信じ続けている。真一郎が黒だと言えば白さえ黒になるような盲目さは持ち合わせていなくとも、真一郎の言ったことを無垢に信じる純粋さは有り余るほどにナナにあるのだ。

「ひとまず、会いに行く。……会いに行くから、泣くならオレがそっち着くまで待ってろよ」

 言葉も虚しく再び泣き出したナナは、やっばり真一郎の名前を繰り返している。だけどもうなんでもどうしても誰でもない誰かに尋ねる気力はないようだった。
 オレは泣けそうにもない。きっとまだナナと違って真一郎の死を認められてなんていないからだ。死んだ、殺されたと言葉にすることは出来ても受け止めることは出来そうにもない。本当は生きていて、それでオレの前に現れてくれるんじゃないか。病院に着いたら息を吹き返して、笑いかけてくれるんじゃないか。嫌に楽観的な思考だ。ナナが何もかも悟って知って傷付いて絶望している中で、オレは無理だと分かっていても期待して、これが全部夢であればいいと願っている。


 願いが叶わないことをどこかで知りながら。
ふたつおりのひとひら