01

 この世にいる人間はある一定の基準を持って二分できる。というのが、茉白がこの長くもないが短くもないような気がする十八年の人生で学んだ一番の事だった。



 茉白は今、体を抱え上げられて走られている。己の足で走っていないから楽なものだ。それを目指して泡を食って絶叫した後に、流石だとさしもの茉白も賞賛したくなるような機敏な動きで自分を抱え上げて駆け出したその人の肩に決して振り落とされないようにしがみつきながら、火事場の馬鹿力とはまさにこれのことだろうと思うほどのスピードでめくるめく変わっていく周囲の景色を目を細めて見つめる。行きはのんびりと眺めていられた紅葉も、今となっては楽しむ余裕がない。
 まあ、そもそも今この場で周りの景色の綺麗さや風流さに触れようものなら、茉白を抱えて必死で足を動かしてくれている彼の途轍もない怒りを買うことになるだろう。茉白は予測出来る怒りを誘発するほどの馬鹿でもないので、黙って振り落とされないようにすることだけに気を遣った。


 茉白を抱えてひた走るこの人は元々足の速い人ではあるけれど、中でも逃げ足は特に速い。走ることにおいては才能をどこかに取り落としてきたとしか思えない茉白は、こうして突然抱えられて走られることにももうすっかり慣れっ子だった。手を引かれて走るんじゃ脚力に違いがありすぎて、逃げることにならないからだ。普段から自分たちの足以外にも逃亡手段は用意するようにしているのだが、不意打ちで逃亡の必要が出てくるといつもこうなるので自然に慣れてしまった。
 とは言え、茉白が振り落とされないようにとしがみつくのと同じく、絶対に振り落とさないようにとばかりに背中と腰に回った腕の力強さや燃えるような熱さには変わらずに照れてしまうのだが、それはもちろん茉白だけの秘密である。


 米俵のように抱え上げられた茉白の視界は、相変わらずビュンビュン通り過ぎていく紅葉の色と木々の色、それから差し込む眩い空の青色と、それらの和やかな景色には似合わないひとつの不審物──否、ひとりの不審者に支配されている。ザクザクと落ち葉を踏み締めながら猛然と走る二つの足音の騒々しさに細めていた目を元に戻し、茉白を抱え上げてただひたすらに駆け抜けるその人の太鼓のようにすら思えるほどの鼓動をちょうど腹の辺りに感じながら、スッと息を吸い込んだ。独特な秋の匂いが肺いっぱいに広がって、今の体勢の問題からかすぐに吐き出された。

 でもそのほんの少しの呼吸で茉白には十分だ。

「まだいるよ」
「だろーな」

 自分を抱えて走るその人のほんの少し苦しそうな呼吸の中に混ざって憮然と返された言葉に、見えないだろうとは思いつつ頷いてから慎重に右手を伸ばして己の後頭部で髪を纏めるのに使われていた簪を抜き取る。気付けばかなり伸びていた髪がはらりと広がってその人の顔にかかり、昨晩宿泊したホテルのシャンプーの匂いが強くなった。
 その人はその人で、同じものを使っているのにどうしてここまで匂いが残るんだろうと現実から逃げるように考えたあとにそんなことを考えている場合ではないと軽く頭を振って髪を避ける。視界不良は致命傷になる可能性もあるのだ。
 茉白はと言うとここで振り落とされれば目を瞑りたくなるほどの惨事に繋がるのは分かっていたので左手でより強くその人の肩というか首にしがみついたし、その人も声を掛けられた瞬間にはその後の茉白の行動は読めたので抱え上げる腕の力を強めた。そのまま、心做しか走るスピードを遅らせる。

「一応聞いとくけど、イザナ的にはアレ、生きてる人ではないよね?」
「絶対違う。もしアレが生身の人間なんだったとしたら、ここで仮装大会が開かれてるか、ハロウィンパーティーでもしてるかの二択だろ」
「うーん。どっちもなさそう」
「そういう事だ」

 同行者兼幼馴染み兼相棒であるイザナの示した見解に、茉白も再び頷いて自分たちの後ろ、茉白から見れば正面にいる不審者をまじまじと見つめた。そういう液体が風化したのか黒に近い色に所々変色した白襦袢と、そこから覗く枯れ枝のように細い上にあらぬ方向に曲がった手足と、それから横並びになって大きく見開かれた黒一色の三つの瞳。耐えることなく叫び声を漏らす紙のように白い唇と言い、なるほど確かに、見た目は明らかに異形だ。断じて人ではない。もしもこれが茉白やイザナと同じ人であったならば、この世の人という概念は大きく崩れることだろう。


 茉白とイザナがこの異形に遭遇したのは、本日のキャンプ地として定めたキャンプ場付近の森の中であった。まともな学生や社会人は各々のやることをやっているであろう平日の真昼間であったし、時期的にもキャンプに出向く客はそう多くない。イザナの運転するバイクから降りて、予約していたキャンプ場で間違いないことを念入りに確認してからテントを張ったり水場を確認したりして、二人は気紛れにすぐ側の森に踏み入った。立ち入り禁止だなんて立て看板はどこにもなかったし、何より外から見ても紅葉が綺麗だったのだ。どうやら一般客向けに開放されているようだし軽く見るぐらいなら問題ないだろうと判断して、二十分後にはその判断を悔いることとなる。

 森林の中での二人はといえば、色とりどりの落ち葉を踏み締めて足取り軽く鼻歌すら歌いながら歩く茉白と、その後ろを押し黙って歩きながらも都会では滅多に見れないほどの規模の紅葉に感心するイザナ。時折二人の間で交わされる会話と言えば目的地の名産品が美味しそうだとか道中のパーキングエリアで食べたうどんが案外美味しかっただとかそんなもので、普段とそう変わらず特別なことはなかった。

 二人はかなり若い身空ながら訳あって定住の地を持たずにこの二年弱放浪の旅のようなことを続けているわけだが、出会いは十三年ほど前に遡る。数年ほど離れた期間はあるが、それでも干支が一周する程度の付き合いだ。しかもこの二年弱は野宿するにしろホテルに泊まるにしろ誰かしらの家で厄介になるにしろ、ほぼほぼ片時も離れることなく四六時中共にいる。そんな二人が紅葉を見上げながらする会話だなんて、そうたいそれたものになるはずもない。

 紅葉を踏み締める二人分の足音と茉白の身振り手振りを加えた軽快な話し声の中に、それらとは別の音を聞き取ったのはイザナだった。スッと伸ばされた掌がイザナの方を振り返ってかき氷の大きさに関して言及していた茉白の口を塞ぎ、二人は自ずと足を止め会話が途切れる。
 そよ風が吹く度にざわめく木々や葉っぱの掠れる音。それから、地面に落ちた枯葉が踏み荒らされるような、猛然とこちらに向かって駆け抜けてくる足音。その足音が裸足であろうと判断したのは茉白もイザナもほとんど同時で、そう判断した瞬間にはイザナはこれまでの経験から無意識のうちに茉白の腰と背中に手を回して抱き上げる準備をしていた。

 あ、と声を漏らしたのは茉白とイザナのどちらだったか。かの高名な陸上選手の名前が思い浮かぶぐらいのスピードでこちらに駆け抜けてくる人──人? を視認した瞬間には茉白はイザナの肩と首に腕を回し、イザナはイザナで叫んだ後に茉白を米俵のように抱え上げて走り出していた。


 それからずっと、とは言っても五分ほどだが、二人は謎の不審者こと暫定人ならざるものに追い掛けられ続けている。人ならざるものに性別があるか否かは別として、姿形は恐らく女性。絶えず漏らされるか細い悲鳴のような叫び声も甲高く、女性説に拍車を掛ける。てんでバラバラな方向に折れ曲がった手足はあまりにも細すぎて、女性と判断するには少々材料不足感が否めない。

 そもそも何故あの足で走ってここまでのスピードを維持し続けられるのだろうか。人ひとりを抱えて走ることに慣れたイザナがスピードを落とす以前から徐々に距離を詰められていた。とても珍しいことだ。あの足で? と大きな疑問が茉白の頭に浮かぶ。
 膝より少し下の辺りで折れ曲がって──と言うよりかはねじ曲がって真後ろを向いた右足と、足を挫いたなんてレベルではないほどに足首の位置でほとんど直角に折れ曲がった左足で、暫定人ならざるものは猛然とイザナと茉白を追走しているのだ。茉白の疑問も最もなものだろう。
 だけれども、である。やっぱりこれは人じゃない。人じゃないなら人のルールに従う必要は無い。あちらこちらに折れ曲がった枯れ枝のように細い足で走り続けようと、黒目だけの目が三つもあろうと、──頭に鉈のようなものが突き刺さっていようと、人でないならば許される。東から日が昇って西に沈むのと同じことだ。人が人のルールに縛られても人ならざるもののルールに縛られないように、人ならざるものは人ならざるもののルールに縛られても人のルールには縛られない。

 茉白は己の疑問にそう結論付けて、そのまま流れるように上体を持ち上げると握り締めていた簪を徐に振りかぶり、その勢いのまま投擲した。ガラス細工で出来た淡い色の桜の飾りが揺れる簪が、二人を追い掛けていた人ならざるものの眉間に吸い込まれるように突き刺さる。
 一拍遅れて人ならざるものはぎゃあと聞くに絶えない悲鳴を上げて、思わずと言った様子で足を止めた。間髪置かずに引き抜かれた簪が地面に投げ捨てられて苛立たしげに踏み躙られていく。併せて描き毟られる眉間の傷口から流れる血液はまるで人の子のように赤く、それが余計に不気味さを煽った。劈くような奇声が迸って木々を揺らしているような気さえする。

 立ち止まった人ならざるものと、茉白の攻撃の第一段階が終了したことを悟ってまたスピードを出し始めたイザナ。距離がどんどん空いていくのはものの道理と言える。まあ繰り返しにはなるが道理が適用されるのはあくまでも人のみであり、人ならざるものが人のルールに従ってくれる保証などどこにもないわけであるが。

「あーあ。あの簪、貰い物だったのに」
「そこまで大事にしてた訳でもないくせによく言うな」

 大事なものは箱の中に仕舞って時折眺めるだけの茉白が普段使いしている時点で、あの簪にさして思い入れもなければ特別な感情を抱いてもいないことはすぐに分かる。鼻で笑うようにして言い切って、イザナはただひたすらに足を動かした。もうすぐ森を抜ける。簪で眉間を貫いただけでどうにかなるとは思えないが、森を抜けてしまえばこちらのものだという認識が二人にはあった。

「分かんないよ? 普段から使いたいってぐらい大事に思ってたのかも」
「お前に限ってそれはねえだろ」

 再び言い切って、それっきり沈黙が訪れる。徐々に人ならざるものの悲鳴とも怒声とも判断の出来ぬ奇声が遠ざかっていき、担ぎ上げた女にバレないようにとひっそりと安堵のため息が漏らされた。いい加減に慣れればいいのにと何度も言われるが、何度言われたってイザナがこういった事態に慣れることは無いのだろう。
 イザナに言わせれば、「生まれた時からこういう事象と隣り合わせです」「すっかり慣れていますし日常の一部です」という顔をしている茉白の方が自分より断然おかしい。巻き込まれることを承知することと、人の理から外れた事象に慣れることとは全くもって違うことなのだから。


 茉白は昔からそうだ。形に残らない美味しい食べ物や暖かい言葉なら直ぐに食べたり受け止めたりして自分のものにしてしまえるのに、人から分けてもらったデフォルメされた愛らしい動物のシールや綺麗な便箋は使えずにずっと大事に取っておいていた。端の寄れた紙製の菓子箱の中に大事に大事に仕舞い込んで、人からもらったもののまま、本当の意味で自分のものに出来ないままだ。
 触れないこと、手に入れないこと、見ているだけでいることで茉白の執着心は満たされるのだろう。

 その癖して執着というものから程遠いような側面も見せるから、イザナはその度に茉白に振り回されていることを実感せざるを得なくなる。そうして何度だって気付かされるのだ。

「いつものバット預けてるのにこんなに遭遇しちゃうなんてホント私たちってツイてないよね」
「いや、ここまで来ると逆に悪いもんがツイてるとしか思えねえだろ」
「私にはそんなもの見えないけど、イザナには見える感じ?」
「ものの例えだっつーの。厄みたいなやつだよ」

 今年は二人とも厄年ではないけれど、納得出来る話ではある。なるほどねと小さく呟いてから、空気が変わったのを察して体から力を抜いて茉白は目を瞑った。獣が逆立てていた尾を下ろすのと似ている。相手に有利なフィールドから抜け出す時はいつもこうだ。張り詰めていた糸が少し緩んで、気持ちに余裕が生まれる。だからイザナの言葉を反芻して、厄祓いは不得手だなと考えることが出来た。見えなくて形のないものを祓うのと、見えて形のあるものを祓うのとではやはり話が変わってくる。

 そう考えている間にも、踏み締める地面が積もった落ち葉からアスファルトへと変わった。森を抜けたのだ。イザナの表情にもようやく余裕が生まれ、茉白も再び目を開けて森の奥の方を見つめる。
 人ならざるものはようやく動き出したのかこれまでの比にならないほどのスピードで暴れ狂いながら二人を追ってきているが、もう追い付かれることはないだろう。ああいった類のものは境を大事にする。森の内と外。今回の境は正にそれだ。

 十分近く駆け抜け続けたイザナも自分たちのテントの傍に付き、ようやく足を止めると茉白を降ろして、自分は膝に手をついて大きく息を吸い込んだ。これよりもっと辛い環境を長い距離走ることにも慣れっ子だとはいえ、それは大抵身構えた運動だ。今回のような突然の人ならざるものとの邂逅、更には逃亡は体は勿論、何より心にダメージが募る。イザナは人ならざるもの──つまるところ、「おばけ」と称されるようなものはどうしようもなく苦手なのだ。

「なんでこんなとこにいんだよ……しかもまだ昼間だろーが……出てくんなら夜出てこい……」
「夜に出た方が普通に怖くない?」
「それはそうだけどよォ!」

 労うように背を撫でながら零された茉白の冷静な一言に恥も外聞も投げ捨ててワッと叫んだイザナは、そのままの勢いで半身をテントに突入してリュックを引き摺り出す。そのまま昼間から自分たちを追いかけ回してきた人ならざるものに文句を垂れつつ、リュックの中に手を突っ込んだ。定住の地を持たずに生きる上で必要最低限のものしか詰め込んでいないリュックの中身を全部ぶちまけるようにして一番底から取り出され陽の光に翳されたそれは、こういった時の武器としては恒例のバールのようなもの──ではない。
 手を伸ばしてそれを受け取った茉白も確かめるようにしてクルクルと肩を回し、ブンと音が残るような速度で右下から左上に向かって素振りをする。それを何度か繰り返した後に、満足気にひとつ頷いてみせた。問題ないらしい。

 普段メイン武器にしているのがバットにも関わらずフォームはほとんどテニスなのだが、そこに関してはイザナが指摘せずに流し続けてきた結果、茉白自身も何も気にしていない。基本的に二人きりでの仕事が殆どなため、他に指摘する人もいないのだ。

「うん。やっぱりこれもいいね。バットと比べると射程距離が短いのがマイナスポイントだけど」
「ほぼゼロ距離殴打しかしねえんだから射程距離なんてあってもなくても変わんねえだろ」

 まだ幼かった頃は茉白の人ならざるものに対してのゼロ距離殴打に対して延々と苦言を呈していたイザナも、今となってはそれが茉白の持ち味なのだと納得してしまっている。今でも人ならざるものに突っ込んでいく茉白を見ると嫌な意味で心臓が早鐘を打つし文句の一つや二つ言いたくもなるが、それはそれ、これはこれ。武器を与えておかなければ素手で飛び掛りそうな危うさもあるし、そうなるぐらいなら獲物を握らせた方がいい。


 もう一度空気を切り裂くようにして右腕を振り抜いて、ふと茉白の視線が森の入口と言っても過言ではないであろう場所に向けられた。恐らくもう少し距離のある場所ではフェンスなりなんなりで区切られているのだろうが、視界に入る限りはどこからでも入ってどこからでも出て行ける。なので名目上の入口を「癒しの森」と書かれた看板の辺りと定めた。定義付けは色々な意味で大切なのだ。
 呼吸の落ち着いたイザナも立ち上がってそちらを向き、思わず引き攣ったような短い悲鳴をあげた。看板のすぐ側の大きな紅葉の木から半身を覗かせて、恨めしげな黒目が二人を睨み付けている。

 逃げている間もずっと人ならざるものと見つめあっていた茉白とは違い、背を向けていたイザナはまじまじとそれを見つめるのはこの時が初めてになる。ひとつと半分がこちらに向けられた明らかに位置のおかしい瞳は、もしかしなくても三つ並んでいたような気がする。額に空いた穴から流れる鮮血が真っ白な顔を伝い、同じく紙のように白い唇を疎らに赤く染めている。風が吹く度にはらはらと舞っては落ちる紅葉と似た色に目が回りそうになった。夢に出てきそうだ。

 何度見ても慣れない人とは違う異形に血の気が引くのを感じながら、それでもなけなしの意地とプライドで茉白を庇うようにして一歩前に出た。人と人ならざるものが境で区切られるように、あの異形も境に区切られ縛られる。森の外には出て来られない。勿論それはイザナもよく分かっているが、庇わざるを得ない理由があった。

「どうすんだよ、アレ」
「どうするって……どうにかする?」
「金も出ねえのに?」
「まあタダ働きは嫌だけど、アレ放っておいたらずっとあそこに居そうじゃん。せっかく予約したキャンプ場なのに、あんなののせいで私たちが他所に移るとか絶対嫌」

 もしもここで放置を選べば、恐らくも何もなく確実に、イザナは速やかに荷物を纏め茉白を連れてキャンプ場を出るだろう。ただでさえもこういった類のことは苦手なのに、見られていると分かっている状況で呑気にキャンプをするなんて冗談じゃない。イザナがそういう思考をすることは茉白もよくよく分かっているので、退治を前提に動いていたわけだ。言葉にした通り、今日はここでキャンプをすると決めているから。
 うんうんと頷きながらついでに右手の獲物も振るって、茉白は自分の前に立つイザナの肩に手をかける。人ならざるものからやっと目を逸らしたイザナが目線だけ振り返り、その目を見て深くため息をついた。やる気だ。こうなった茉白は止まらない。

「これと次の案件が終わったら絶ッ対に厄祓い行くからな」
「了解了解」
「軽すぎンだろ……」

 わざとらしく大きなため息をついて、庇うように前に出していた腕を下げる。言いたいことは沢山あるが、だからといって自分がアレをどうにかする気だってない。物理担当の茉白と頭脳兼逃亡担当のイザナで役割分担は十年以上も前に済ませているのだ。
 それに、茉白が今からしようとしていることはイザナにだって出来なくもないが、単純にしたくない。見ているだけで最悪な気持ちになるのに、獲物を振り被ってアレをぶん殴りに行くなんて元不良のイザナでも絶対にゴメンだった。

 そもそもあの程度の異形に後れを取る茉白ではないわけだ。それをこれまでに何度だって証明されている以上は、絶対に言葉になんてしない心配も不安も飲み込む他ない。

「えーっと、装備ヨシ、視界ヨシ、頭に異常ナシ! 確認お願いしまーす」
「問題ナシ。今日は服白いから返り血には気を付けろよ」

 獲物──言わせるところの「スパナのようなもの」を握り直して己を見下ろしひとつ頷いた茉白にイザナもGOサインを出す。幼い頃に何も考えずに動いた茉白が色々仕出かしてからは恒例となった相互確認だが、突発的な事態では着の身着のまま突っ込んでいくことになることだって多いのだ。正直こうして確認できる余裕があることの方が稀なぐらいだ。

 イザナの忠告に聞いているのか聞いていないのか曖昧な返事をした茉白が軽やかに森の入口へ向かうのをしっかり見つめながら、イザナは再びため息をついた。正直ああいった類のものが存在していた森のそばでキャンプを行うなんて最悪でしかないのだが、そうと決めたら絶対譲らない茉白がここでのキャンプを望んでいる時点で拒否権なんてものはもうない。傍若無人の権化とすら称されたことのあるイザナに逆らえない相手はおらずとも、逆らえない場面はある。例えば今とか。


 怪鳥のように耳障りな奇声を発して掴みかかろうと腕を伸ばしてきた人ならざるものの頭に向かって、「えいっ」と気の抜けた掛け声と共にスパナのようなものを振り下ろした茉白の背中に、再び漏らされたイザナの大きなため息が届くことはなかった。振り下ろすんならさっきまでの素振り意味ねえじゃねえか、という呟きもまた同様である。


 倒れ込んだ人ならざるものの体が泡のように消えていくのを背に、イザナを振り返って満面の笑みでピースサインをする茉白のなんと呑気なことやら。まあ、何を思っていたって第一声は返り血がついていないことを褒める言葉だった時点でイザナは十分茉白に毒されていると言えるけれど、この場にそれを指摘する人はいないのだ。


 +


 この世には、見える人と見えない人がいる。物理的に見える見えないではなく、「それ」を見ることが出来る人と見ることの出来ない人がいる、という意味だ。


 イザナの預けられた児童養護施設「あおぞら園」には子供たちの間でまことしやかに語り継がれるひとつ噂があった。曰く、園の入口に一番近く一番大きな桜の木の下には女の子の幽霊が出るそうな。時間帯の指定も条件の指定もない、ただただ「幽霊が出る」というだけの話を聞いた時に、歳の割には大人びていたイザナは鼻で笑ってしまった。
 幽霊が出る? だからなんだ。どうせ勝手に園の外に出ないようにさせるために大人たちが適当なことを言っているだけに違いない。そもそも幽霊なんてものは存在していないだろう。だって見えないし、見たことがない。

 離れて暮らす妹のエマにいつだったか歌って聞かせた「お化けなんてないさ」を思い出してほんの少し痛む胸に気付かないふりをしながら、イザナはそうやって幽霊の噂で怖がる施設の子供たちを見下して笑っていた。笑っていられたのだ。


 山導茉白に出会うまでは。


 いつも一人でいるか職員の後をついて回っているかの年下の金髪の女。イザナが自分よりも早くから「あおぞら園」に居た茉白に最初に抱いた印象はそれだけだった。妹よりも年上ではあるけれどイザナからすれば茉白は十分年下のチビでしかない。
 勿論、お互いに見た目からして分かるほどに異国の血が流れていたものだからひっそりと同族意識のようなものを抱いてもいた。それをからかってくる同じ施設の子供たちに対しての反応も揃って無視一択であったし、茉白がどう思っていたかは置いておいて少なくともイザナは茉白に対して筆舌に尽くし難い感情を抱いていたわけだ。あれはもしかしたら初恋もあったのかもしれない、と当時を振り返ると思いもするぐらいにはごちゃごちゃな感情。

 とは言え、結局のところイザナも茉白もあの頃はチビのガキだった。いくら大人びていたってイザナも七歳だ。ランドセルを背負いだして一年も経っていない。茉白に至ってはまだ五歳という幼なさであり、イザナには妹よりも大きくて妹よりも笑わないし話さないしそもそも妹でもない生き物への対応の仕方というものがどうにも分からなかった。

 だから二人が初めて会話をしたのは、イザナが「あおぞら園」に入って一ヶ月ほど経った秋めくある日であった。疎らにオレンジ色の葉を纏った桜の木の下で蹲る小さな女の子の姿に「桜の木の下には女の子の幽霊が出る」という噂を思わず思い出してしまい、いやいやそんなわけないだろと否定のために近寄って、二人は出会ったのだ。

 思い返せばイザナの人生は多分ここでどうしようもないぐらいに狂ってしまったのだろう。

 蹲る茉白と暫し見つめ合い、その手元にいる六本足の猫を見た瞬間。それが見えてしまった瞬間に、イザナはもう「見える側」になった。見える見えないで二分されるこの世界の中で圧倒的少数派に分類されてしまったわけだ。

「ここの猫って六本も足生えてんのかよ」
「コレ、ねこちゃんじゃないよ」
「は? 猫だろ? 猫だよな?」
「おばけっていうんだよ」

 五歳の少女がするにはあまりにも似合わない真面目くさったその表情を、イザナはこれまでも、きっとこの先も忘れることなんてないだろう。秋の柔らかい陽射しを受けてキラキラ輝いた金の髪と、ほんのり赤く染った頬と、柔らかそうな唇をこれまでに忘れたことがないように。その小さな掌が撫でさする六本足に三対六個の瞳をした猫の形の異形が「わん」と鳴いた瞬間にそれまでの短い人生で形成されてきた常識がぶち壊されてしまったのと同じように。


 それからイザナは十三年間ずっと「おばけ」が苦手だ。ついでに「おばけ」を見なかった日もない。怖がるから寄ってくるんだよと茉白は言うけれど、怖がらないというのも土台無理な話だ。多分、この先イザナが人ならざるものに対する恐怖心を捨てられる可能性は、イザナが茉白を諦める可能性と同じぐらいゼロに近い。


 +


「次の依頼先の近くに良い神社あるらしいから、厄祓いの予約しといた」
「えっ、イザナ本気で言ってたの?」
「逆に聞くがなんで冗談だと思った?」
「おばけと一緒で厄も頑張れば私たちで祓えるかもしれないから……?」
「オレらのやり方だとバットとスパナでお互いのことタコ殴りにして祓うことになんだろうが。そもそもオレらの専門は除霊であって厄祓いじゃねえ」
「やれば出来るかも! 退治屋ついでに厄祓いも仕事にしようよ!」
「無理だっつってんだろ! これ以上仕事増やすな! 大人しく厄祓いされてろ!」
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