05

 順番に丼をそれぞれの前に置いて行き、最後に一番綺麗に盛り付けられた親子丼を茉白の前に慎重に置いたエマは、食卓を眺めてひとつ頷いてから緩く結っていた髪を解き、小首を傾げてイザナの言葉を復唱した。

「水子?」
「そう。生まれてすぐ死んじまったり、産まれる前に流れちまった赤ん坊のこと」
「聞いたことはあるけど……その子が今、ここにいるの?」
「ここっつーか、外。外のプレハブの影にさっきいた」

 ピッと障子の向こうに向けられた指を追い掛けて、ふむとひとつ頷いたエマはちらりと茉白に視線を向けた。身振り手振りを加えて万作に先日の案件で何が大変だったとかあれが強かっただとかを語っていた茉白は、エマの視線を受けて一度口を閉ざすと目尻を弛めて笑ってみせる。

「危ないものではないよ。まだ形を持ってすぐだし、人に悪さを出来るほどの力も考えもない。縁がないこの家に住み着くことも出来ないだろうから、今日一晩だけ、置いてあげてくれない?」
「うん、分かった。いいよ」
「ありがとうエマちゃん。おじいちゃんも大丈夫?」
「ワシらはそれほど見えんし」
「ありがと」

 家主の許可を無事に得たし、ひとまず明日の朝まではあの赤子の形をした影は放置されることになる。どうにかしてくれと言われたら茉白が影を抱えて敷地外に出る予定だったのだが、そうはならなくてイザナはそっと胸を撫で下ろした。
 あの影にどうにも茉白もイザナも同情心を過剰に煽られていて、特に言葉にして可哀想だと繰り返している茉白は危うい。とは言えアレを抱えて一晩過ごすのは「おばけ」が怖いイザナには拷問であるし、適任であるのは母胎になりうる茉白であることは言わずもがな。単純に言ってしまえばそのどちらもが嫌だったのだ。

 エマが席に着いてから四人揃って手を合わせ、いただきますと声にしてからそれぞれ食事を始める。二人きりでいれば黙食ばかりの茉白とイザナも、エマと万作に話を振られればあれやこれやと返事をするので食卓は和やかな空気に包まれた。お互い普段は二人きりでの食事ばかりなので、こうして時折四人で集まれば話は弾む。特にエマと茉白はお互いに聞かせたくて温めていた話題がいくつもあって、会話が途切れることはなかった。
 翌日の夕方までは佐野家に滞在する予定だと言ったイザナに万作が酒を勧め二人が飲み始めた頃に、ちょうど食事を終えてデザートの林檎を切り分けていたエマがそう言えばと声を上げた。その隣で食器を洗っていた茉白がその声に反応してそちらを見る。

「ニィと茉白ちゃんはおばけ退治してるんでしょ? 今ウチにいる子もおばけで、二人が退治するの?」
「ううん。あの子はおばけって言うか、魂みたいなものだから。必要なのは祓うことじゃなくて、供養することなの」
「魂」
「うん。例えばなんだけど、私とイザナがさっきお兄さんにお線香あげさせてもらったのはご挨拶したりお話したりっていう意図でやってるでしょ? 帰ってきたよって伝えるためっていうのもある」

 最後に残していたフライパンについた泡を丁寧に落としてから、蛇口を捻って水を止める。濡れた手をタオルで拭いながら、締める力が弱かったのかぽたりぽたりと水が一滴ずつ流れていく蛇口を物憂げに見下ろした。

 そんな茉白の横顔を見つめたエマは、見てはいけないものを見てしまったような気持ちになってすぐに自分の手元に視線を落とし、切り分けた林檎を更に兎の形に飾り切りにしていく。背後で男二人が密やかに会話をする声を聞きながら、兎は手早く量産されていった。

「それはお兄さんが良い魂だから出来ることで、お兄さんにもきっと届くこと。でも、悪いおばけになると私たちがどれだけ穏やかでいてくれますようにって願っても、私たちは頑張ってるよって伝えても、伝わらないし意味が無いの」
「つまり外にいる赤ちゃんは、真兄と同じ良い魂ってこと?」
「そういうこと。まあ魂に良い悪いなんてなくて、おばけにも良い悪いなんてないんだけどさ。でも、この世に未練があってずっと居座ろうとすると、どんどん悪い方に行っちゃう。本人だってもっと生きたかったーとか、誰かと何をしたかったーとか色々考えて、生きてる人もあの人ともっと一緒にいたかったー、生きてて欲しかったーって思うからね」


 人の思いは不滅で絶対だ。死者に向けられる思いはさらに強く、揺らがなくなる。だって何を向けても何を伝えようと思っても、もう相手はいないのだ。そうしているうちに、死者も死者との思い出も美化される。
 だからこそ形のない魂はこの世に留まる限り、自分どころか他者の思いまでを抱え込んでやがては変質してしまう。形がないということは形を与えられるということで、思うように歪められるということだから。

 茉白とイザナが祓うのは、そんな風にしてどうにもならないほどに歪んでしまった魂だ。二人はそれを「おばけ」と呼んで、その「おばけ」に悩んだ人たちからの依頼を受ける。まだ供養でどうにか出来る範疇ならば供養を勧めて知り合いの専門職に繋ぎをつけ、どうにもならない段階まで歪んでしまったのならば祓う。そうなった「おばけ」は、魂は、祓うことでしかこの世から解放してやれない。


 茉白とイザナがあの赤子の形をした影に同情してはならないと互いに言っていたのは、そちら側に引き摺り込まれる可能性を忌避していた以外にもそういう理由があるのだ。同情して可哀想だと憐れみすぎれば、その憐れみがあの影を「おばけ」に近付けかねない。父であったはずの男の恐怖心を押し付けられていたせいで既に影として形を持ってしまってはいるが、まだ供養でどうにか出来る範囲内である。あの哀れな赤子を「おばけ」として祓うことは、茉白もイザナも避けたいと思っている。

「界隈だとおばけも魂も一纏めにして『人ならざるもの』って呼ぶんだけど、私とイザナみたいな除霊師が祓うのは基本的におばけ。魂を供養する人たちは別にいて、それぞれ専門が別れてるの」
「おばけと魂、かあ。アレ、でも他にもまだなんかなかったっけ? 前にニィがなんか言ってた気が……あ、怪異とかいうやつかな」
「怪異は、こう、おばけの更に先? っていうのかな……おばけとは微妙に違うの。怪談とかあるでしょ。花子さんとかテケテケとか、学校でも聞くようなやつ」

 サッとくすねた林檎を齧りながら、シンクに凭れて人差し指を振って茉白は説明を続ける。包丁を置いて同じように林檎に口を付けたエマも、茉白の言葉に頷いた。エマの通う高校でもそういう話はよく聞く。小学校でも中学校でも耳にしていたし、学生はそう言う類の話が大好きな生き物だ。エマだって怖いものは怖いけれど、話を聞くことは嫌いじゃない。

「そういうのを一括りにしたのが怪異。おばけとは違う、人の噂とか想像とかが形になったもの。人の噂が先か怪異が先かなんて、それこそ考えるだけ無駄な話でもあるけどね」

 エマちゃんの学校にもそういう話はあるでしょと話をそちらに振った茉白は、追加の林檎に口を付けた。イザナと万作は酒のツマミに林檎を求めはしないだろうし、酒を飲める歳ではない茉白とエマとで林檎を全て食べてしまったって文句を言う者はいない。イザナが自分も食べたかったとか何か言ったら、明日の朝にでも茉白が手ずから芸術作品の如き飾り切りを見せてやるつもりだ。

 話を振られたエマはと言えば、斜め上を見ながら考え込む。学校で聞いたのは良く言えば普通の、悪く言えばありきたりな話ばかりだ。どこの高校にでもあるような怪談。その中でその道のプロである茉白に語れるような目新しい話はあったかどうか。

「……なくしものが見つかるおまじないがある、って先輩たちが噂してた」
「へえ。どういうタイプのおまじない?」
「なんだったかは忘れちゃったんだけど、花を使うんだって。その花を持って職員用トイレの一番奥の個室で、『アレを返してください』って言うと、次の日にはなくしものが見つかってる……だったかな」

 ありがちではあるが噂が出回る場所によっては方法も何もかもが変わってくるのがおまじない系の儀式だ。基本的にそう言った儀式系はぶち壊せば怒って「おばけ」や怪異を引き摺り出せる。そこを袋叩きにすれば解決なので、儀式系の人ならざるものと必殺全力脳筋スタイルの退治屋シロクロとは相性が良い。

 エマが今話したおまじないも正に退治屋シロクロにとって簡単かつ手短に終わりに出来る案件であり、人ならざるもの側からしても軽率な学生を簡単に養分に出来そうな案件だ。そもそもの数が多い分このまま放置していれば相対的に損をすることになるのは人だが、こちらが損をすることになる前にカタを付けてしまえばいい。


 摘み上げた林檎の欠片を電球に翳して透かし、ふふんとひとつ茉白が笑った。

「私たちが適当にやってもどうにかなりそうだし、そのおまじない、時間見つけて祓っておくよ」
「えっ、別にいいよ! 茉白ちゃんもニィも忙しいんでしょ? ウチ困ってないし」
「さっきの親子丼とこの林檎のお礼。あと、あの子を一晩でも敷地内に泊めてくれてありがとっていうのもあるから、エマちゃんは気にしないで。多分あの子はお礼が言えるまでにはなれないから、連れてきた私たちが責任持って恩を果たします」
「うーん、それならまあ……祓っても二人は危なくないんだよね?」
「うん。出てきて煽ってぶん殴るだけだから、すぐ終わるよ。それに同じようなおまじないはどうにかしたことあるし、今回苦戦するってこともないと思う」

 心配そうにするエマを横目に摘んでいた林檎を口に放り込んで再び笑い、舐めるようにしてちびちびと酒を飲みすすめるイザナを呼ぶ。気だるげに目線だけが二人に向けられ、ニコニコと笑う茉白を見た瞬間に嫌そうに表情が歪められた。茉白がその顔をする時はろくなことにならない。

 ふた月ほど前の案件なんてこうしてニコニコ笑う茉白を放置した結果、依頼人の実家にあった立派な蔵が修復不可能なレベルで全壊したのだ。まさか釘バットを槍投げでもするかのように投げ、手近なところにあったからと火をつけたマッチ片手に人ならざるものに迫るとは流石のイザナも思わなかった。あと少しで退治屋から一転、放火魔だ。


 どうせ今回もろくでもないことを思い付いて実行する気だろうとじとりと茉白を睨みはしたが、そんな睨みひとつで怯むような茉白ではない。エマと揃って林檎を口にしながら、いつも通り緊張感のない声で勝手に決めた予定を発表した。当然イザナはオレは認めてないと食ってかかる。

「第一、おまじない系だとか儀式系だとか言ったって種類が」
「あ、それはアレ、願いを叶えるタイプね。失せ物探し系だから分類的にはそっちでしょ」
「絶ッ対やらねえ!」
「やったことあるんだから平気だって。安心していいからね、エマちゃん。イザナはこんなこと言ってるけど、デビュー戦だっておまじない系だったんだよ。しかも今回と同じ、なくしものが見つかるおまじない! それにイザナが巻き込まれるのは大体おまじない系だから、なんなら私より慣れてるよ」
「だから嫌なんだよ! アイツら毎度毎度オレの方に寄ってきやがる!」
「怖がるからだって言ってるじゃん。怖がらなきゃ寄ってこないの。怖いって思わないで、こいつボコボコにしてやるって思ってればいいんだよ」
「それが出来たら苦労してねえんだよ……」

 怖いものは怖い。茉白と出会った幼きあの日に、猫のようで猫ではない「おばけ」を目視した瞬間からずっと、イザナにとって「おばけ」は恐怖の対象なのだ。


 酒が回ってきているせいか、普段は自分の目の前ではひた隠す情けなさの一端を覗かせた兄に分かりやすく興味を示したエマは、足取り軽くイザナの傍によるとそっとその顔を覗き込んだ。心做しか潤んでいる気のする瞳がぼんやりとエマを見つめ、グラスを手放した両手が腰に回され肩に顔が埋められる。今日は甘えたなニィなのだなと思わずエマの頬が緩み、そのまま嬉しそうにイザナの頭を撫で始めた。

 そんな二人を黙って見つめる万作と茉白はちらりと互いに視線を送ると、片やグラスを持ち、片や林檎を摘みながら肩を竦めた。久々の兄妹の触れ合い、暖かく見守ってやろうという考えは同じなのだ。

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