04

「わーっ、おかえり茉白ちゃん!」
「エマちゃーん! ただいまぁ!」
「怪我してない? 無茶してない?」
「してないよお、元気無敵完璧! エマちゃんも誰かに嫌なことされたりしなかった? 泣いちゃいたいぐらい悲しい気持ちにならなかった?」
「茉白ちゃんに会えなくて泣いちゃいたいぐらい悲しくなっちゃったけど、嫌なことは誰にもされなかったよ」
「えー、エマちゃん可愛いー! 私もエマちゃんに会えなくて悲しかったし辛かった……! お揃いだねえ」
「お揃いだねえ。ね、茉白ちゃん、ギュッてしていい?」
「全然いいよ。チューもする?」
「んーん、チューはニィが見てるから……今はギューだけ」


 きゃあきゃあと騒いで抱き締め合い、額をくっつけながら互いを見つめ合う女子二人。その周囲だけ花や星のエフェクトが散っているような錯覚にとらわれたイザナは手の甲で目元を擦り、エマの祖父である万作は深々とため息をついた。イザナと茉白が佐野家を訪ねる度に恒例となっている女子二人の触れ合いとはいえ、回数を重ねるに連れ色々と危ない雰囲気になっていっているような気がするのは決して男連中の勘違いではないのだ。


 敷地内のいつもの駐車スペースにバイクを止めに行ったイザナを待つこともなくインターホンを押した茉白を飛び付くようにエマが出迎え、その後は居間から万作、外からはイザナが玄関に来るまで延々と抱き締め合っていた。仲良きことは美しきかなと言ってしまえばそれまでだが、距離感が友人のそれではないことが問題だ。抱き締めてもいいかと聞きながら抱き締め合ってキスまで匂わせて、確実に家族の前で堂々とすることではないだろう。

 エマに関しては相思相愛という言葉を体現するかのように仲のいい交際相手が居るにも関わらず、そしてそれを茉白も知っているにも関わらず、この二人は対面すると外聞も距離感も頭から吹っ飛んでしまう。生まれた時からの親友というわけでもなければ幼馴染みだったと言うわけでもない、二年ほど前にイザナを介して互いの名前を知っただけの仲であるというのに、水を得た魚のようにイチャコライチャコラと。


 妹と幼馴染みの中がいいことを喜べばいいのか距離が近すぎることを妬めばいいのか。そんな二つの相対する複雑な気持ちに支配されながらも、万作のどうにかしろという視線を受けたイザナはギリギリまで二人に近寄ると手を伸ばして茉白の首根っこを掴み、自分に向かって引き倒す。わあだかぎゃあだか悲鳴をあげた後にイザナの胸に倒れ込んできたその体を受け止めて、シッシッと追い払うように空いた手をエマに向けて振った。

「ここでやんな。ひとまず中に入れ」
「えー、ニィのケチ」
「イザナのケチ」
「いいから」

 名残惜しそうにエマに向かって手を伸ばす茉白はイザナが肩を抱くようにして押さえ込み、そんな茉白に向かって眉を下げて手を伸ばすエマのことは万作が背をつつくようにして引き離す。生き別れた姉妹や母子の再会でもあるまいに、そこまで悲しそうな顔をされると引き離すのは可哀想な気がしてきてしまう。だがイザナと万作も、二人を引き離すことに関してはプロと言っても差し支えないので躊躇いを見せることはしない。
 二人が思うに、やるならやるでせめて室内でやってくれればいいのだ。玄関でやられるとイザナが中に入れないし、万作が外に出られないだろう。


 兄の指示には従わずとも祖父の命令には従うことにしたエマが室内に入っていけば自然と茉白も大人しくなり、勝手知ったる表情で靴を脱いでお邪魔しますと一応声を上げると、当たり前の顔をしてイザナの手を引いた。気付いていて手を振り払うことをしないイザナも、以前訪れた時から変わっていない佐野家の廊下を手を引かれるままに進んでいく。

 これもまた「あおぞら園」で暮らしていた頃の、茉白の姉ごっこの延長線上にある行動だ。当時から色々なことに興味を示し様々な場所に行きたがった茉白は、理由もなくことある事にイザナの手を引いて歩いたものだ。今でもその癖は残っていて、肩の力を抜くことが出来る場所では時折顔を出す。普段は危険な事象に首を突っ込む茉白を引っ張ってイザナが走ることが多い分、茉白がイザナの手を引いて歩くことは稀であり、稀であるが故にイザナも無下には出来ずにここまで放置して来ている。


 住宅地のど真ん中にあるには目立つが、それでも立派で所々に生活の暖かみを感じる和造りの佐野家を歩いていると、茉白もイザナも「帰ってきたな」とついしんみりしてしまう。
 ここを実家だと思ってくれていいという万作のかつての言葉を正面から受け止めることは出来なかったが、一応心の内では帰る場所だとは思っているのだ。ただ帰る場所、帰る家というのがよく分からないだけで。


 二人はそれぞれ血の繋がった家族というものを知らず、帰る家を持たない。馴染みの定食屋と店主は落ち着く場所と師匠にこそなれど家族にはならず、「あおぞら園」は最後まで帰る家にならなかった。

 「あおぞら園」に入るまで過ごしていたはずの家の記憶はもう朧気で、当時共に過ごしていたはずの家族の記憶もあるかないかで言えばないに近い。特に茉白は母に教えてもらったことは覚えていても、母の顔や背格好は欠片も記憶にない。父は一緒に暮らしていたのかどうかさえ分からず、鏡で自分の顔を見ると時折「私は両親のどちらに似ているのだろう」と考えるぐらいだ。その考察に関しても、大抵は知らぬものが分かるはずがないと数秒で終わる。茉白は両親に関してそこまで興味がない。

 ではイザナはと言えば、母だと思っていた女のことはよく覚えている。その手を離れて「あおぞら園」に入ったのは既に物心着いて物の分別も分かるようになった頃であるし、思春期に入ってからも一度会っている。その時に話した内容が内容であったこともあってか、忘れたくても忘れられないのだ。
 それに彼女は、血の繋がらない妹によく似ている。


 己の手を引く幼馴染みと先程まで仲睦まじく抱き合っていた妹を思い出しながら大人しくイザナが歩いていれば、ふと茉白が声を上げ足を止めた。見下ろすようにして見つめた先にある視線は縁側の外を向き、夕陽を浴びて輝く金の睫毛が驚きを表すように何度か震える。何かを伝えようとでもするかのように握られていた手を引っぱって抱き着かれ、その旋毛を何秒か見下ろした後に、パシパシと腰の辺りを叩く小さな手に従って縁側の外を見た。
 今は誰も使っていない母屋の傍のプレハブ小屋。特に見た目には手を入れられていないそこはかつて佐野家の男兄弟が自室として使っていた場所で、今でもエマや万作が定期的に空気を入れ替えて家具などに積もるホコリを払っている。

 茉白の視線を追って、イザナは己の踏み入らない、踏み入ることの出来ないこの家の聖域を見つめる。何かあったのかと周辺を見渡し、何も無いのではと判断してそう言うために開いた口が、ある一点を目にした途端に中途半端に固まった。咄嗟に握り潰すようにして茉白の掌を握る。

「は……? ……ンだ、アレ」

 混乱に満ち満ちた声で零されたのは誰かに何かを尋ねると言うよりかは、口にすることでその光景から目を逸らそうとするような言葉だ。そっと視線をイザナに移した茉白は、内緒話でもするかのようにイザナの問いの答えを小さな声で囁く。

「私たちが可哀想って思い過ぎて、着いてきちゃったのかも」
「ここまで……?」
「きっとあの子には、距離の概念なんてないから」

 イザナから目を逸らして再びプレハブ小屋の方を見た茉白が、自分たちを照らす夕陽に眩しそうに目を細めながらも形のいい下がり眉を更に下げた。母が子のやんちゃを叱る数秒前の表情によく似たそれに、どこからか子猫が鳴くような声が応えてみせ、ビクリと肩を跳ねさせたイザナは恐怖から逃れるように茉白を抱き締める。

 困惑と恐怖に満ちた一対と憐れみと同情に満ちた一対の、それぞれ色合いと淡さの違ったあわせて二対の紫色の瞳が向けられる先では、日が落ちるにつれ広がる影の中でじゃれるようにして形のない何かが這いずり回っている。それはまるで覚えたてのハイハイを繰り返す赤子のようで、無邪気に母と父の後を追う稚児のようで、悪意なきまま誰かを呪える無垢さの塊のようで、そしてその全てだった。

「私たちは同情しすぎたし、目的地がここだったから……迷子にはならなかったんだね」
「……だから、この家の中でもあそこか」
「うん。母屋には来ないよ。お父さんに邪険にされたから同情した私たちに着いてきてみたら、すごく居心地のいい場所を見つけて、ああやって楽しくなってはしゃいでるんだろうね」

 無害とはいえ連れてきちゃったことをエマちゃんとおじいちゃんに謝らなくちゃと呟いた茉白がイザナに抱き着いた体勢のまま歩き出し、恐怖心を全面に押し出すことも出来なくなって呆然としているイザナも茉白に引っ張られるようにして居間に向かって歩き出す。
 惚れた女に情けない姿を見せたくないというプライドもどこかへと吹っ飛んで、茉白の肩に触れていない方の手で口元を覆い隠した。言葉にし難い感情がイザナの頭と胸の中をぐるぐると回っていて、きっと茉白が共に歩いてくれていなければここで足を止めていただろう。

 だって、あそこは。あの場所は。


 後ろ髪を引かれるように思わず顔だけ振り返ればカタリと耳元のピアスが揺れて、また応えるように子猫が鳴くみたいな声がした。同じタイミングで茉白もイザナを呼ぶ。

「見ない方がいい。私たち、見れば見るほど同情しちゃう」
「……ウン」

 珍しく大人しい返事をしたイザナが振り切るようにして前を向き、もう振り返らなかったプレハブ小屋のその影では、明確な形を持った這う影が楽しげに遊んでいた。


 泣けない子どもが一人で夜を明かし続けたその場所で、泣けずに終わった赤子の影が笑っている。
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