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遠くで足音がする。
誰かの革靴の、どこか聞き慣れた音。不思議とその足音は、私を追っているような気がした。
気になって振り向くと遠目に哀牙さんが見えた。人混みを掻き分けて、真っ直ぐ私に向かってくる。
……どうして?
あんなに何度も冷たく振り払ってきたのに。
どうしてあなたは、それでも私を追い掛けてきてくれるの?
哀牙さんはようやく私に追い付くと、乱れた呼吸を整えて、二度と離さないという意志を込めながら私の腕を掴んだ。
「名前殿! どうか我の話をお聞き下され!」
彼の必死な懇願が胸の奥に響く。
もうこれ以上逃げられない。そう確信した。
「……何ですか?」
「我は一日だって貴女を忘れたことは無かった!」
そんなに真っ直ぐな瞳で見ないで。
哀牙さんに別れを告げて、逃げて、遠くへ旅立って……あなたを忘れようと必死だった今までが、本当は間違っていたのではないかと思ってしまう。
「じゃあ何で会いに来てくれなかったの? 探偵だったらいくらでも私を探し出せたはずでしょ!」
「我は名前殿を探す為の手段に仕事を用いりたくなかった。貴女だけは我自身の手で見付けたかったのです!」
数日前にも聞いた言葉。きっとその気持ちに嘘偽りはない。
その探偵の仕事が、私達を引き裂いたと言っても過言ではない。彼はそれを知っていたからこそ、私との関わりにそれを持ち出さなかった。
でもまだ私は、あの時彼にぶつけられなかった本音を今こそ出してしまいたい。
「別れの原因はあなたじゃない! 今更そんな都合の良いこと言わないでよ……!」
こんな事を言ったら嫌われるかもしれない。それでも言わなければいけない。
だって、本当の気持ちを隠して言いたいことも言えない関係なんて、もう嫌だ。
「我は納得しておらぬ! だが貴女は別れを決意したというに、それでも縋り付くなど格好がつかないではありませぬか。その上拒絶されたら我は……そう思うと、手が伸ばせず……」
私の予想に反し、哀牙さんは私の言葉を嘲笑することもなく真剣に受け止めた。初めて吐露された彼の本音に、私の心に掛かっていた靄が少しずつ晴れていく。
彼の瞳から目が離せない。逸らしたら心ごと離れてしまいそうで、私は吸い込まれるようにその瞳を見つめていた。
「貴女にまた拒まれるくらいなら、遠くとも幸せを願える距離でありたかった」
ああ、あの時と同じ……泣きそうな顔。少しでも触れたら壊れてしまいそうな、私の前だけで見せる脆くて儚い姿。
でも今の彼は違う。切なく揺れる瞳を閉じ、端然たる面持ちで私と向き直り、胸に秘めた熱き想いをその唇で紡ぎ出す。
「我は今でも名前殿が好きだ。出会った時からずっと名前殿だけを想い続けていた。例え再び我から離れようとも、何度でも貴女をこの手で掴まえてみせる。我はこの生を終えるまで、名前殿以外を愛すつもりは毛頭ありませぬ!」
顔を耳まで真っ赤にさせて、街中に響きそうなほどの大音声で愛を叫ぶ人がどこに居るだろうか。それも、私に向かって。彼はこんなにも身を焦がす程の狂おしい情熱を見せる人だったのか。いや、きっと私が忘れていただけだ。
人には体温というものがある、という至って普通の生理現象を思い出したかのごとく、彼の熱烈な告白は私の体中を熱くさせた。
「もう一度、我とやり直して頂きたい。我はもう一瞬たりとも待てませぬ。どうか、お返事を!」
両方の手袋を外し、私に手を差し伸べる。ここで彼の手を振り払うなんてこの世で最も愚かな真似はしない。本当に心底呆れるくらい真摯で愛しい人だ。彼にここまで言わせる相手なんて、きっと世界中を探しても私しか居やしないだろう。
「……言うのが遅いんですよ、ばか」
私はまた可愛くない言葉を吐いて、哀牙さんの胸へ飛び込んだ。彼はそれに応えるように、私を自分の胸元へ強く押し付ける。耳元で鳴り響く彼の鼓動は私以上にドクドクと強く脈を打ち、これは本当に現実なんだと知らしめた。
哀牙さんの柔らかくて甘やかな香りが鼻腔を擽る。こうして抱き締め合った時ならではの温かさ、彼の広い背中に腕を回した時の感触、優しく私の背を撫でる彼の手つきの全てが懐かしく――目頭が熱くなり、目の前がちゃんと見えなくなって、ぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちた。
哀牙さんしか居ないと私自身も気付いていた。それでも私は彼みたいに、振り向いて貰えない恋を永遠に胸に秘める事は出来なかった。
でも、他の誰かと恋に落ちたとしても、きっとずっと哀牙さんが心に居た。
あなたの事を、忘れられなかったんだよ。
遠く離れても
(20170925)
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Smotherd mate