永禄の変
永禄八年五月某日。
信長様率いる織田軍は、天下布武の為に京への上洛を始めた。
だがしかし、我々が辿り着いた京の二条御所は、燃え盛る炎に包まれていた。
その炎の中に、人影が一つ。目を凝らして見ると、それは不気味に両手を天に掲げて笑っていた。
「天下の運命は、我輩のものだ!」
狂ったように笑う男。そこへ歩み寄る信長様の後を、私と光秀殿も付いて行く。男は我々の姿を見るやいなや、狂気に歪んだ笑顔を見る見る蒼白させた。その様子を見て、信長様は嬉々として高らかに笑った。
男の名は松永久秀。
室町幕府第十三代将軍、足利義輝を二条御所にて殺害した張本人。
松永は今、織田軍によって捕らえられ我々が見張る陣幕の内に居る。これから奴の処遇が決まる所なのだが……。
松永は両手首を後ろ手に縛られて、信長様の前へ突き出される。自由を奪われながらも信長様に食ってかかろうとする気概には感心すら覚える。
「信長! さっさと我輩を殺せ! お主の作る未来など興味はない!」
吠えるように叫んで信長様に一歩踏み出すが、左右に居た兵に拘束され、それ以上は近付けない。地に尻をつき信長様を睨む松永は死を眼前にしても尚儚さとは程遠い様相だ。
信長様は未だ小言を喚く松永の背後へゆっくりと回り、刀を振りかざす。
いよいよ首が斬られるのか、と目を見張る。風を切り裂く音、続いて布のようなものが落ちる音が聞こえた。
だが、信長様が刀で斬り落としたものは松永の首ではなく、後ろ手に縛っていた縄だった。私も隣の光秀殿も、周りに居た秀吉殿、長政殿、勝家殿らも驚いて何も言葉が出て来なかった。
「――許す」
信長様の言葉に耳を疑った。将軍を暗殺した上で許されるなんて、前代未聞ではないだろうか。しかし信長様は、この松永という男に何かを期待しているように見えた。
「うぬの未来は、信長の手中にある」
その言葉に一同が控えめにざわつく。
つまり松永は信長様に生かされ、織田軍の傘下に入るという事だ。松永は悔しそうに歯を食いしばって信長様を凝視する。どう考えても大人しく信長様の配下に加わりそうには見えない。
「後悔する事になるぞ! 我輩の運命は、我輩だけのものだ!」
負け犬の遠吠えというに相応しい。信長様は、微かに口角を上げて言った。
「……なら、愉しみだ」
そう一言だけ残して信長様は陣幕から去って行った。後は兵達に任せて私達も信長様の後に付いて行く。決して振り返ることはしなかった。
何かが起こりそうな、そんな不安を抱かせる雰囲気を松永は纏っていた。
――それが杞憂で終わればいいのだけど。
翌日。
織田軍の拠点となった本圀寺にて私は朝を迎えた。
「……ん?」
枕元に見慣れない小物が置いてある。……ああ、そうだった。彼にこれを返さなければいけない。
私は顔を洗ってから、早朝のため音を立てぬよう静かに廊下を歩く。縁側から中庭へ出ると、私が探していた人物が松の木の下に立っていた。
「お早うございます、松永殿」
「これはこれはお嬢さん。よく寝れたかね?」
「いいえ。いつ寝首をかかれるかと思うと、怖くて夜も眠れませんでした」
わざと嫌味をこぼすと松永殿は楽しそうに笑った。予想していた反応と違ったので少しばつが悪い。
朝から可愛いお嬢さんと話せるなんて早起きは三文の得だな、と松永殿が言った。昨日の信長様への態度とは打って変わって上機嫌だ。
「ところで昨日、このようなものを拾ったのですが」
私は持っていた布の結び目を解き、茶入を差し出す。丸みを帯びた漆塗りの茶入れは黒に近い焦茶色で、その表面に上から垂れるような土色が差してある。
松永殿は目の色を変え、私の手ごと目の前に持っていった。
「これは我輩の九十九髪茄子!」
「唐物茶入ですよね」
「ほう、これを知っておるのか。物知りなお嬢さんだ」
松永殿は私の手から布もろとも茶入を受け取ると、再び大事そうに包んだ。
「それなりに茶を学んでおります。九十九髪茄子は茶人の間では喉から手が出るほど欲しいと言われる代物」
昨日、二条御所でこの唐物茶入を拾った時は目を疑った。場違いな所に茶器があるなんて私は夢でも見ているのかと思ったが、茶人としても名の通っている松永久秀が居たのだから現実に違いない。少し煤けていたが、布で丁寧に拭いたら元通り鮮やかな艶色を取り戻したので安心した。持ち主の元へ戻した方が、茶入も喜びを感じる事だろう。
「わざわざ綺麗にした上で返しに来てくれるなんて、我輩、お主の事気に入っちゃったかも」
「え」
「お主、名は何と言う?」
「え、ええと」
あれ、なんだろうこの人。調子狂うな。
ずいずいと期待するような眼差しで私に迫るこの男は、昨日信長様を噛みつかんばかりの勢いで睨みつけていた男と本当に同一人物なのだろうか。
「名前、そんな所で何をしているのです」
どうすべきか戸惑っていたその時、後ろから声を掛けられた。振り返ると、そこに居たのは光秀殿。私と松永殿の奇妙な組み合わせに怪訝な表情を浮かべていた。
「いえ、何でもありません」
「そろそろ朝餉です。行きましょう」
「我輩と名前の逢瀬を邪魔するなよ〜」
光秀殿が私の名を呼んだせいで名乗る前に知られてしまった。『逢瀬』という言葉に光秀殿が私を疑いの眼差しで見てくるので、違います、と刺々しく否定する。
早速私の名前を嬉々として呼ぶ男に少しばかり不愉快になりつつ、私達は広間へと向かった。何が逢瀬か。誤解を招く事は言わないで欲しいものだ。
広間へ入ると、すでに何人かが集まっていた。女中たちは忙しなく朝食の準備をしていたので私も少しだけ手伝う。
「座って待っておればいいではないか。我輩の隣に」
「好きでやってるから良いんです」
席に座る松永殿の前にお膳を用意すると私に聞こえるように呟いた。それをさらりと受け流す。というか私の席はあなたの隣ではない。
「律儀ついでに、我輩の口にも飯を運んでくれんか?」
「それは私の運命にございませんので」
『運命』という言葉にぴくりと反応し、松永殿は口を閉じた。松永殿がその言葉に重きを置いているのは勿論知っている。
私は腰を上げてその場から離れる。今度こそ私の嫌味は通じたはずだ。信長様が許そうとも私は許さないという、小さな抵抗を。
しかし、私が別の方への食事を運んでいる時に松永殿に目を向けると、くっくっく、と肩を震わせて上機嫌に笑う奴が居たのだった。
やがて食事が始まり、周りは談笑を始める。私は二度もこの男を楽しませる羽目になり、悔しい気持ちでいっぱいだった。
「名前、何かありましたか?」
「お市様」
隣のお市様から声を掛けられ、私は箸を止めた。お市様は心配そうな表情で私の顔色を伺う。
「具合でも悪いのですか?」
「だ、大丈夫ですよ。いつも通りです」
「そう。なら、良かった」
口に含んだ料理を飲み込み、元気よく答える。そんな私の様子に安心したお市様に柔らかな笑みが戻った。
いけない。私情もその辺にしておかないと、私が子どもと思われてしまう。
朝餉が終わり、女中達と片付けを行う。
洗い物を終えて廊下へ出ると、松永殿に出会った。というより、私を待っていたと言う方が正しいだろう。にやにやと薄気味悪い笑みを浮かべて私に近付いて来る。
「……何か御用でしょうか」
「そう睨むなよ〜。可愛いだけだぞ〜?」
この男の嬉しそうな表情は嫌いだ。何か悪い事を企んでいる気がしてならない。
「主人の為に牙を剥くだけが忠犬ではないぞ?」
「人を飼い犬扱いしないで下さい。自分の立場をご存知ですか?」
馬鹿にするような言葉に、つい頭に血が上る。
私だけでなく織田軍は全体的にピリピリしている。それも全部この男のせいだというのに、まるでわかっていないような態度に腹が立つ。
「まあまあ、喧嘩をしに来たわけではない。むしろ今朝のお礼に来たんだがな」
「そのように見えませんでしたけどね」
「朝から噛み付いてきたのはお主の方であろう?」
ぐっ、と言葉を飲み込む。確かにそうだ。言い返す事が出来ない。
何となく気まずい空気になり、私は松永殿から視線を反らした。
「歯型も残らぬ可愛いものだったから、許しちゃうけどね〜」
声色を変えてご機嫌に言う松永殿。そんな事を言っても、別に私は謝るつもりなんて毛頭ない。
「とにかく、あの九十九髪茄子は我輩にとって大事な茶入だから感謝しとるのよ。手に入れるのに一千貫も出したからのう」
「い、いっせ……!?」
その額の大きさに目が飛び出るかと思った。まさかそこまで価値が膨らんでいたとは知らず色んな後悔がこみ上げる。
「今度、礼に我輩が茶を入れてやろう。今は道具が無いから無理だが、その時は楽しもう〜」
それだけ言うと、松永殿はひらひらと私に手を振って背を向けた。ゆらゆらと波間に揺れる葉のように歩きながら私から遠ざかって行く。
その背中を見つめながら、もしかしたら私はとんでもなく変な人に目を付けられたのかもしれない、と複雑な気持ちになった。
(20161009)
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Smotherd mate