幕間小咄 十二
じりじりと身を焦がすように照り付ける太陽から逃れるべく、私は城の中庭の池で涼んでいた。去年の今頃は多聞山城で久秀殿と一緒に過ごしていたんだっけ。お祭りに連れて行って貰って、手筒花火を見て、手を繋がれて……なんだか遠い昔のように感じる。頭上にふわふわ浮かぶ回想を消すように首を左右に振った。
それに、楽しい思い出ばかりではない。
その半年後に久秀殿は単身で小谷城へ向かい、長政殿を焚き付けて信長様と敵対させ……金ヶ崎に始まり、姉川に続き、今があるのだ。
久秀殿がわからない。
あの男は何度も私を裏切り、何度も私を助けてくれた。どちらが本当の彼なのか――いや、どちらも本当の彼なのだ。もし私が信長様の家臣でなければ、久秀殿の生き方に付いていくのも楽しいと思えたのだろうか。
……何を莫迦な事を。
「名前よ、こんな所に居たのか」
「ひえっ!」
突如背後から声を掛けられ、吃驚して池に落ちそうになった。久秀殿が私の首根っこを掴んで引き寄せる。宗矩殿共々その猫みたいな扱いはやめて頂きたい。
「急に呼ばないで下さい。池に落ちる所でした」
「我輩何度も呼んだもん。なのにお主は我輩を無視して池の鯉ばかり見つめおって。……まさか遠回しに"恋は盲目"と伝え――」
「はいはいはい。用件は何ですか?」
久秀殿の言葉を遮って手早く話を聞き出すと着物の襟から一枚の文を取り出した。それを広げるでもなく私に差し出す。何だか胡散臭そうな気がしたので、手に取るでもなくそれを見つめた。
「それは?」
「お主の母親からの手紙だ。光秀が何やら大事そうに持っていたのでな、気になって問い質した後こっそり借りたのよ。ああ安心しろ、我輩は読んでいないぞ」
「私の母親から!?」
入手経路云々よりも最初の一言に心を全て持っていかれた。堺に居る母が美濃まで手紙を寄越したというのか。
「どうした、受け取らんのか?」
「私に読む資格があるかどうか……」
久秀殿が手紙をずいっと差し出してくるが、腕が鉛のように重く感じて動かない。
堺で母と再会した時、私は親子である事を認めなかった。あまつさえ『人違い』とまで言い捨てたのだ。そんな私に母からの手紙を読む資格などない。
「知っておるか名前よ。人はそれを"言い訳"と呼ぶ」
「……!」
「だが無理強いも良くないよな〜。どれ、鯉の餌にでもしてやるかな」
「だ、駄目です!」
咄嗟に久秀殿の手から文を抜き取り、隠すように胸元で握り締める。冗談だ、と久秀殿が笑った。
私はこの男の言う通り、自分に都合のいい逃げ道を作っていただけだ。母からの手紙に恨み言や嘆きの文句が書かれているかもしれない。そう思うと怖くて、とても読む勇気は出なかったのだ。
緊張する心を落ち着かせるように深呼吸する。そして逸る気持ちを押さえながら、ゆっくりと文を開いた。
筆跡にどこか懐かしさを感じる。一文字一文字を丁寧に読み、しっかりと目に焼き付ける。その文には、私が恐れていた恨み言などは一切無かった。ただ、私が居なくなってからの母親の胸中が、そして娘である私への愛がひたすら綴られていた。読む程に、子供の頃に与えられた母親の愛がそのまま私の心に溶け込んできた。
「何と書いておる?」
「両親は私をずっと探していた、私を忘れた日は無かったと。そしてこの文だけでなく、これまでも何度も手紙を書いた、とありました……」
「むっふふ、身の毛もよだつ程の美しき親子愛ではないか!」
両手を揉み合わせながら久秀殿が嫌味を言うが、手紙の内容で頭が一杯で言い返す事など忘れてしまった。
この手紙を信じて良いのだろうか。"口減らしとして捨てられた"のは私の単なる勘違いで、もし母の手紙が真実だとすると、織田に来てからの私の存在とは……何だったのだろうか。急に頭が重くなり、視界がぐらりと揺れた。
このような手紙一枚でこれまでの私の存在意義があやふやになるなど……そんな事は、認めたくない。
「久秀殿、他にも手紙は無かったのですか?」
「我輩が奪ったのはそれだけよ。後は光秀に聞け。それにしても傲慢な……」
「久秀殿、その文を返しなさ――名前!?」
久秀殿が言い終える前に彼の名を呼んだのは廊下に居た光秀殿だった。久秀殿と共にいる私の姿を見て驚愕の表情を浮かべた。
「……読んでしまったのですね」
「光秀殿、何故私にこの手紙を渡して下さらなかったのですか!」
光秀殿は廊下から中庭へ出てこちらに近付いてくる。その顔に困惑や動揺の色はなく、ただ成すべきことを為したという迷いなき表情だった。
「織田家家臣である貴女には必要ありません」
「以前にも何通か届いているようでしたが、それらはどうしたのですか? どこかに置いてあるのですか?」
「全て燃やしました」
「なっ……何故そのような事を!」
光秀殿は私の手から優しく文を抜き取る。それを丁寧に折り畳み、私に見せるようにしながら言った。
「名前、これは全てまやかしです。貴女の母を騙った悪質な文書に他なりません」
「しかし光秀殿……」
「騙されてはいけませんよ、名前」
そう言い残し、光秀殿は母の手紙を持って中庭から出て行った。残された私は呆然とし、その背を追うことすら出来なかった。
光秀殿の姿が見えなくなった後、久秀殿が『騙されてはいけませんよ〜名前〜!』と小馬鹿にしながら真似をし、不服そうに吐き捨てた。
「虫酸が走るほど必死よな〜」
「……何がですか?」
「さあて。騙しているのはどっちがという話よ」
久秀殿は私同様に光秀殿の言葉を疑っているようだ。私を騙す為の文などと言われてもあんな手紙を読んだ後では信じがたい。それに手紙には、家族でしか知り得ない幼い頃の事まで書かれていたのだ。
「……久秀殿。私はどうすれば良いのでしょうか」
「んん? どうした?」
「手紙には、今美濃に来ているともあったのです。今日の午の刻まで町に居るから、会いたいと」
「会っちゃえば〜?」
「軽く言わないで下さい。私は真剣に悩んでいるんです」
本当は、一年前に堺で出会った時、きちんと母と向き合って話をするべきだったのではないか? 私の勝手な意地で早まった事をしたのではないか?……いっその事手紙さえ読まなければ私は何も知らずにいられたのかもしれない。だが後悔は先に立たず、最早今となっては遅い。
あの日、父に置き去りにされたこと。
家族に捨てられた日のこと。
自らの命を助けるために故郷の技術を売ったこと。
それら全ての自分の記憶や行いが"間違っていた"と認めるのが怖い。
「母親に会った所で、お主やお主の生き様は変わるのか? 刀を握る織田家家臣から算盤を握る商家の娘へ戻るのか?」
「そんな事は……有り得ません」
久秀殿の言葉に目から鱗が落ちた。
そうだ、過去の事は過去に過ぎない。これからの未来は、私自身の目的は――信長様の天下布武を最後まで見届ける事は、変わらない。
「久秀殿、ありがとうございました。今はまだ会いに行かないことにします」
そう決めたのは、私のくだらない意地でも自尊心でも無い。私が織田家に仕えた時、自分の中で誓った言葉を思い出したからだ。
「日ノ本に泰平の世が訪れた時こそ、私は母や兄弟の元へ帰ろうと思います」
「良いのか〜? わざわざ美濃まで来たというのになあ〜」
「その謝罪含めて会いに行きますよ」
こうして、私は自分の気持ちに一区切り付けることにした。今はまだ刀を鈍らせるわけにはいかない。
それよりも私が気になるのは、光秀殿がこれまで母から届いた手紙を全て燃やし、此度の文すら強引な嘘を吐いてまで私から取り上げた事だ。理由もなくそのような非情な行為をする人とは思えない。何か……私の知らない所であるのだろうか。それとも考え過ぎだろうか。
「お主は幸せ者よ。家族の愛も仲間の愛も、我輩からの愛も知っておる」
「久秀殿のご両親は……」
「知らんのか? 悪は地獄から生まれ、地獄に落ちる運命と決まっておる。おっと早まるな、幸せの程度は他人に決められるものではないぞ」
私にとっては当たり前だったが、親の顔を知っているというのは幸せに値するものなのかもしれない。久秀殿にとってはそうではないようだが。
予想外の出来事もあったが、夏の暑さを大分忘れられた気がする。そろそろ池から離れることにしよう。
*
「……会いに行かぬのではなかったのか?」
「会いませんよ。でも無事に町を出れるか見届けるくらいは……って何で久秀殿まで付いて来ているんですか?」
私と久秀殿は賑やかな町から街道に続く通りにて、身を隠すように民家の壁に体をぴたりとつけていた。丁度良くすだれが下がっており身を隠すのに最適だ。
「お主も素直じゃないのう」
「放っといて下さい」
付いて来たことに対してとやかく言うのは辞めておく。あまり意味がない。
周りに聞こえないよう声を潜めながら会話しつつ、街道へ流れる人々を一人ずつ目で追う。だがどこにも母親らしき女性は見当たらない。
仕方なく通りへ出ると細身の町娘に声を掛けられた。
「あの、そこの御方。もしかして"お稲"という方の娘さんですか?」
「はい、そうです。貴女は?」
「私はお稲さんから頼まれごとをされました。このお守りを娘の名前さんに渡して欲しいと」
そう言って町娘は両手で丁寧にお守りを差し出した。手縫いの布袋に細長い紐が付いているそれを手に取ると中には何やら硬いものが入っている感触がした。紐の長さから察するに首から提げる掛守のようだ。
「して、その女性はどちらへ?」
「随分前に町を出て行かれましたが、それ以上のことは……」
「そうですか、わかりました。わざわざありがとうございました」
彼女に一礼し、久秀殿と共に城へ戻ることにした。
母は既に町を発っていた。そう聞いて、それまで感じていた焦りや不安が途端に消え去っていくのを感じた。なんだか拍子抜けしたような、どこか物足りないような気持ちになる。
「これで良かったんですよね、きっと」
「さてなあ。我輩としては感動的な親子の再会を目前にしつつ娘さんを我輩に下さいと挨拶したいものだったしの〜」
「またそんなこと言って……」
「やっと笑ったな、お主はその方が良い」
自然と漏らした笑みに久秀殿が頷いた。どうやら知らぬ内に私の心に広がっていた雨雲は、すっかり晴れていたようだ。
母から貰ったこのお守りは大事にしよう。きっと心の支えになる。掛守の紐を首に通し、着物の中にそっとしまいこんだ。
***
元亀元年八月。
信長様を中心に、重臣の皆と広間にて次なる動きを討議している時だった。勢い良く襖が開けて蘭丸殿が転がり込んで来る。信長様の下に跪き頭を下げて報告した。
「申し上げます! 京の西、野田福島で小少将らが蜂起! 雑賀孫市率いる鉄砲傭兵団も加わっている模様!」
姉川での戦いから二ヶ月も経たぬ内に届いた戦の報に、周りの家臣がざわつく。報告を続ける蘭丸殿の額から一筋の汗が伝い、床に落ちた。
「また、東では甲斐の武田信玄も動き出しており、織田包囲網が形成されつつあります」
『織田包囲網』――そう、今織田は一つの危機に面していた。
北は、朝倉家と同盟関係にある浅井家を裏切った結果、織田の敵に回った浅井と朝倉。西は、それを好機と言わんばかりに小少将に焚き付けられた三好三人衆、追加の雑賀衆。東は、甲斐の武田。
三方面から見事に牽制されているというのに、信長様は眉一つ動かさず悠然と構えていた。光秀殿は恐れ多くも信長様に申し上げる。
「長政殿が我らに敵したのは何かの気の迷い。この光秀にお任せ下さい。きっと長政殿を説得……」
「ならぬ。気の迷いなどと長政の意志を穢すな。長政は信長に背ききらねばならぬ」
しかし信長様は一蹴し、光秀殿を目に映すこと無くただ前だけを見据える。その瞳は遠い先の未来まで掴んでいるのように感じた。逃げ場など無いこの情勢で、だが敗北を感じさせぬ精悍な表情。だからこそ私は貴方について行ける。
「命令は一つ。全て絶やせ」
この宣言の後、私達は野田・福島城へ向けて進軍を開始した。
(20171001)
[
←
|
title
|→ ]
Smotherd mate