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今日も伊之助は、放課後の窓際で退屈かつ不機嫌そうにペンを走らせている。組まれた足の片方がゆさゆさと揺れていた。
なにがあそこまで伊之助を突き動かしているのだろう。

あんなのらしくない。
近ごろの伊之助はどこかおかしい。この世界に、人間の世界に、無理矢理に順応する理由はどこにあるのだろうか。
そんなに不本意そうな顔をするくらいなら、舌打ちをしながら課題をこなすくらいなら、やめてしまえばいいのだ。

わたしのいらだちはほとんど嫉妬だった。
伊之助を引っ張りこむ見えないおおきなちからへの、焦げつくような劣情だった。

「伊之助、休憩にしたら」
「あ?なんで」
「……機嫌がよくなさそうだから」
「別によくも悪くもねぇよ」
「そんなことないでしょ、いらいらしてる」

伊之助はわたしを一度睨みつけると、すぐに視線をテキストへと移してしまう。
わたしは雲をつかまされたような気になって、ますます苦しくなる。
伊之助をおおきなちからによって変えていってしまうものが、それがたとえひささんの存在であっても、ほかのなにであっても、わたしは許せなかった。悔しかった。


「伊之助最近変だよ」
「変なのはおめぇのほうだろ。なににそんな焦ってんだ」
「わたしが焦るのは、伊之助が変だから」
「変じゃねえって」

「変だよ、急にまじめになっちゃって、お勉強ばっかり。なにが伊之助をそんなに変えちゃったの、伊之助になにがあったの」

「おれが変わるとおめぇになんか不都合があんのかよ。変わっちまうと困んのか?おめぇがすきなのは、自分と違うおれだろ。おれが知らねェもんを気にするみたいに、おめぇはなんもかも自分とは違うおれがものめずらしくてしょうがねえだけだ。気に食わねぇんなら、勝手にどっか行け」


違うよ、と言いたかったのに、勢いづいてしまった感情の制御がうまくできなくて、声がちぎれて言葉にならなかった。
わたしと伊之助は、出会ったときとはまるで逆のようだった。
わたしは伊之助に焦がれるばかりに本能で突き動く獣のようになっていたし、伊之助はここで暮らすうちに一介の高校生のようになった。

確かにわたしが伊之助をすきになったのは、自分たちとはなにもかもがまるで違う伊之助をうつくしいと思ったのがきっかけだったけれど、今伊之助をすきなのは、そんな単純な興味や探究心からではない。
しかし、わたしのだいすきな粗削りなやさしさが研ぎ澄まされていってしまうことをすこし惜しいと思ってしまっていることも確かで、そうして伊之助を磨き上げていくのが、わたしでないほかの誰かであるならば、それは到底許容できないことであった。
そういう否定しきれないやましい気持ちが、伊之助への反論を許さなかった。

「……ごめんなさい。そういうわけじゃないんだけれど、じょうずな伝え方が見当たらないの。言い訳になってしまいそうで」

「おれのこと、すきって言ったろ」

「……うん」

「おれとお前気持ちが違うって言ったのは、お前がお前のなかの完成されたおれみたいなもんをすきって言ってんだって思ったからだ。おれはお前がすきだから、お前と生きてくために、勉強もするしジュケンもするしシューショクもする。でも、そうなったらそれはもう、お前のすきなおれとは違う」

「ち、違うの、そうじゃないの。変わってほしくない理由。伊之助がわたしに構うのは、わたしが伊之助の知らないことをたくさん知っているからで、伊之助がわたしたちと同じになるたび、伊之助のなかでわたしが価値をなくしていく気がしてこわかったの。伊之助が今までの生き方を捨ててしまってここで生きていく覚悟を決めたように見えたのがいやだったのは、伊之助に大事なものを捨ててまで変わりたいと思わせたなにかがあるっていうことが、すごく、悔しかったからなの」


伊之助がわたしをすきと言ってくれた。
伊之助のすきは、わたしが想像していたかたちとは違った。わたしがほしかったものだったけれど、もう遅かった。
身勝手な言動で、ひどく失望させてしまったと思う。こんなの幻滅だ。伊之助はきちんと、人間の男女のかたちでわたしをすきと思ってくれていたのに。

気がつけば伊之助はテキストを閉じてノートの上に乱雑に重ね、頬杖をついたままわたしをじっと見つめていた。


「手前で手前に嫉妬すんなよ、みっともねえ。あと、複雑なことは言われなきゃわかんねえし、くだらないことで勝手にめそめそすんな」

「きらいにならないの?」

「はじめのころのおめぇより、猛進的でいいんじゃねえの。どいつもこいつもわかりづれぇんだよ」

「……それは人間の美徳だから」

「獣にも矜持ってもんがあんだ」

「伊之助、すき。伊之助がどこでどんなふうに生きようと、わたしは伊之助がすき」


口角を釣り上げて、伊之助は笑った。
伊之助。
いつかかつていた世界へ帰りたくなったとしても、ここじゃないどこかを恋しく思っても、それでもわたしの手を取ってくれるだろうか。
お互いがすがたや価値観のかたちを変えてしまったとしても、共に生きてくれるだろうか。
獣の世界と人間の世界。
世の中には、このふたつ以外にも、わたしたちの知らない世界がまだどこかにあるのかもしれない。
それでも、どこへ行ったって、ふたりでならうまくやっていけるような気がした。
わたしたちのこころは、ふたりでなら水のように柔軟で、どんな世界の型にだってきっと馴染んでいける。
どこへでもはだしで行ける。
荷物には、こころのまんなかだけを引っ提げて。どこへでも。どんななりゆきでも。