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陽のあたる窓際で、伊之助は不機嫌そうに頬杖をつきながらペンを滑らせていた。
時折白いカーテンが風でおおきく膨らんで、伊之助の姿は見えなくなってしまう。
そうなると、次にその姿を見るまでわたしは不安でたまらなくなってしまう。
伊之助が風にさらわれてしまったらどうしようと思うと、心配でいてもたってもいられなくなってしまうのだ。

「伊之助、勉強をしているの?えらいね」
「したくてしてるんじゃねぇ」
「それならもっとえらいよ」
「褒めたってなんもやらねぇからな」
「なにかが欲しいわけじゃないよ。伊之助だってそうでしょ」

向かいの席に座って、伊之助の机に肘をつく。
ラピスラズリ色のまつ毛が、夕映にきらきらと輝いている。
ペンを握る手が、以前のようにでたらめではなくなっていた。今も正しいわけではないけれど、よくよく見なければ誤りに気がつかないくらいには矯正されている。

「ババアが、ダイガクには行っとけって」

「それで伊之助は、行きたいって思ったの?」

「ダイガクなんか行かなくたって生きていけるって言った。山にはそんなもんなかったって。そしたら、お前はもう山では生きていけないんだって言われた」

「どうして」

「ひとの手がはいっちまったから」

そう言って、伊之助はテキストを乱暴にめくった。光沢のある用紙にしわがついた。このページはきっともう、のしたって元には戻らない。


伊之助の育ての親のひささんは、ゆたかな白髪の、もの腰やわらかなおばあさまだ。
ひささんは、伊之助を人間の世界に引き入れたことに強い責任を感じているのだと思う。
いつかは置き去ることになる伊之助がここでうまく生きていけるように、彼女は知っていることの限りを伊之助に伝えようとしているのだ。きっと。

「同じとこ」
「同じところ?」
「同じダイガクにすれば、皆とまた一緒にいれんだろ」
「……そうだね。うん、伊之助。がんばろうね」

わたしはこころのどこかで、もしも伊之助が元の世界へ帰りたくなってしまうときが来たら、共にどこかの山奥で暮らしていくのもいいと思っていた。
どうやって食べていけばいいのかはわからないけれど、伊之助のためならば、今持っているものをすべて捨ててしまっても構わないと思っていたのだ。
しっかりしているのはむしろ伊之助のほうだった。
この世界で生きていく覚悟を、伊之助はとっくに固めてしまっているようだった。


その日は遅くまでふたりで勉強をした。
伊之助は存外真面目に問題集を解き進めていたようだったけれど、わたしは伊之助の適当にひとくくりにした髪の毛が、ひと房だけ頬に垂れていることばかりを気にしていた。


ひささんは、持ちうるすべての知識を伊之助に引き継ぎ終わったとき、なにを思うのだろう。
わたしは、伊之助に教えてあげられることがなくなったとき、彼のなかでどんな存在になってしまうのだろう。
無自覚なのかもしれないけれど、伊之助は努力してこの世界に順応しようとしている。
わたしが伊之助にしてあげられることはきっともうほとんどない。
悟られないよう努めて利発ぶってみせるのは、そうでもしないと伊之助との時間が終わってしまうような気がして、おそろしかったからだ。