0:原始

日が落ちようとしている。町は顔を変えてゆく。
自分は、いつまでここにいるのだろう。
いつかは、生家でないここを、自分の家と思う日が来るのだろうか。
おれは時折、この家の姿かたちをすっかり忘れてしまう。
いつまでも、馴染めないままでいる。

世話になりはじめてまだほんの間もないころ、情けないことに、帰り道もこの家のかたちも、なにもかもがわからなくなったことがあった。
利発そうな女学生が脇を自転車で通り過ぎてゆく。反しておれは、ずいぶんと腑抜けた表情をしていただろう。
このまま帰られなかったら、それなら、それでもよいと思った。
ほんのすこしの道具さえあれば文字は書ける。
それでじゅうぶんだ。
時代はめまぐるしく動く。おれはいつも、ぼんやりと取り残されているような気持ちだった。


「カチューシャかわいや、わかれのつらさ」


目的の邸宅を見つけられないまま、あてもなく、水の流れるように歩いているさなか、やさしい歌声を聞いた。
あまく透き通る声。
風のように、ほんのすこしの隙間さえあればどこまでも滑り込んでいけそうな、彼女の声だった。

「冨岡さん、おかえりなさい。どうしたんですか、迷子みたいなお顔をして」

「道がわからなくなった」

「ほんとうに迷子だったんですね。このあたりは似たお屋敷も多いから。こころ細かったでしょう」

「……いや、特には」

そう返すと彼女はなぜだかうれしそうに笑って、また鼻唄を奏でながら、おれの記憶ではもやがかり朧げな輪郭しか持たなかった玄関の奥へと歩いていく。
ああ、そういえばこんなふうだったかもしれない。
滲んでいた記憶の淵が、波紋の広がるように、じわじわとあざやかになってゆく。

彼女は、愛想のない言葉を投げてもいつも機嫌よさげにほほえむおんなだった。
幸福なのだろうと思った。


両親を亡くし、姉は遠くへ嫁いで行った。親戚の家に預けられたが肩身は狭く、とある作家から才筆を認められたことから、書生ぐらしをすることになった。
受け入れ先の先生が次々と死に、気味悪がられ、いよいよ露頭に迷うかと思ったとき、鱗滝先生と出会った。
うつくしい言葉を綴る方だった。
先生のところには同い年の書生――作品があたり、先日ここを発ってしまったが――と、先生のたからものの少女がひとりいた。
愛娘だと紹介されたが、血は繋がっていないらしい。
おおぶりのリボンに海老茶色の袴。自転車に跨れども行くあてはない、彼女はいわゆる天ぷら学生であった。
夢見る瞳で、未来を見つめている。


「ほら、あすこ、門を出て右へ行くと、若草色の日よけ暖簾の牛肉屋さんがあるでしょう。わたしなんかは、来たばかりのころはあれを目印にここを覚えたんです」

「歌が聞こえた」

「わたしの?」

「それで、帰ってこられた」

「それはよかった。お役に立てたようで、なんだかうれしい。おかえりなさい、元迷子の冨岡さん」

彼女はこころじゅうがいつも不思議な生命力に満ち満ちとしていて、おれよりも、よっぽど生きるのに向いているように見えた。

おれはでくのぼうのような根無草。
彼女は力を持て余す小鳥。
おれたち男という性が持ちうるすべての可能性をあげられたら、これを持ってどこまでも行けと渡せたのなら、彼女はどんな顔をして喜んで、どんな顔をして、どこへ、なにをしにゆくのだろう。
その折れそうな手足で、やわらかそうな肌で。

「今日の晩ご飯は、冨岡さんのすきなものをたくさん作りましたよ、元気出して、冨岡さん。ほら、かなしそうな顔をしないで」

邸宅のなかは何枚もの硝子戸でしきられているというのに、どこにいてもあちらこちらに夕日のかなしげな茜色が落ちていた。
沈みながら、太陽はなにを思うだろう。別れを惜しむように煌々と、終わりにむけて一層と力強くかがやきながら。

夢見る瞳に、おれが映っている。

原始、女性は実に太陽であった。
彼女は未だ、まぶしく燻る太陽だ。