1:太陽の太陽

先生がしばらく家を留守にすることになった。
腰を痛めてしまったため、療養と休暇を兼ねて懇意にしている女性の元へ行くらしい。
おれたちふたりは一旦屋敷を出て、先生の伝手でとある篤志家の世話になると決まった。
留守のあいだ家を守り待っていると言ったものの先生の意思は固く、おれはまた家を失った。
先生は面倒見がよく、これまで何人もの作家志望の世話をしてきたらしい。
もう若くない。余生をしずかに過ごしたいと考えるのは自然なことだ。

「行ってまいります」
「行ってきます」

先生はいつもの奇妙な天狗の面をつけていて、その表情は窺い知れなかった。
頷いてくれた声はやさしかったけれど、体よく追い出されてしまったのだと思った。


自分の最低限の荷物と彼女のたくさんの着替えを持ち、自転車を引きながら歩いた。
先生の身を案じる以外では極めて冷静に見えた彼女は、日が暮れはじめると、何度も後ろを振り返るようになった。

「不安か」

彼女はこちらを見上げて、曖昧に笑う。
心配はないと言いたかったが無責任だと思ったし、なぐさめてほしいふうでもなかったから黙ることを選んだ。

女学校へ通い職業婦人になるのがかつての彼女の夢だったことは知っている。
それをよしとしなかった先生の気持ちをおもんぱかり、彼女はそっとその夢を閉じたのだ。
いつか良家に嫁ぐのだと思っていたし、彼女自身もそうとばかり思っていただろう。
それが書生とともに追い出されてしまったのだから、不安でないわけはなかった。

「書生さんの書生にはなれないのかしら」

「はあ」

「わたしが冨岡さんのお世話をするんです。そのかわりに、冨岡さんはわたしの面倒を見るんです。面倒を見るといっても、なにをしていただきたいわけでもないのです。ただ、どこへ行くのにも、わたしを連れて行ってくだされば、それだけでよいのです」

夕空がゆっくりと藤色に混色していく。
鴉が鳴く。ほかの鴉たちが共鳴するように声を上げる。波紋が広がるように響き渡る。
おれは、こころの端っこのほうにはじめて責任のかけらが生まれるのを感じた。
かけらはそれだけでずっしりと重たく、不思議な熱を孕んでいた。
あらゆる責任から逃れてきたように思う。そもそも、責任などとは無縁の共同体のなかにしか身を置いてこなかったのだ。

周りには優秀な者が多かった。
目まぐるしく変わってゆく社会にうまく順応できず、はみ出したような気持ちで生きてきた。

「どうかしら」
「いつまでも根無し草のままではいられないというわけだ」

おれの言葉が正解だとでもいうように、彼女はうんとまなじりを下げて満面の笑みを見せてくれた。
まだあどけなさの残る笑顔だった。

おれが足を止めたから、車輪の音の響いていたあたりは急にしんとしてしまった。
こんな返答じゃまるで婚姻の契りのようだと思い至り、内心わずかに憂慮した。
自立に憧れる彼女は、今の状況のなかどれだけやるせない気持ちでいるのだろう。
こうして男に頼らざるを得ないことを。社会へ放たれたときに、ひとりの力では立ってはいかれぬその身分を。

彼女のちいさな背中は夕映えのなかで機嫌よさげに揺れていた。
振り向いたほほえみが眩しかった。