6:お嬢さんはあまのじゃく

背中にやわらかなぬくみを感じた。
白く細い腕が伸びてきて、腰元をそろそろと伝い、胸元に手のひらが添えられる。
どうしたものか、とおれは沈思する。


すこし前、夕食後のこと。
部屋のまんなかに敷かれた二組の布団を前にして、彼女は極めて冷静に見えた。
女中部屋はぎゅうぎゅうで、客間は今このひと部屋しかないというところまでは理解ができたが、すこしの隙間もなく、まるで一枚の布のように合わせられた布団たちに、おれは正直動揺した。
お館さまがふたりはいい仲だと仰っていたから、と言い訳じみたつぶやきをこぼした女中をなだめてとっとと追い返してしまった彼女は、寝返りをたくさんうてますね、と楽しげに笑うのだった。

彼女は掛け布団の上にころりとうつ伏せに寝転がると、こちらへちいさく手招きをする。

「お話聞かせてくださいな」
「どんなだ」
「今まででいちばん遠くへ行ったときのお話。あるいは、今までで、いちばんわくわくしたときのお話」

同じようにとなりに並んでみると、彼女の肩のちいささや、手首の華奢な様子が改めて目にとまる。
ミルクのような、おしろいのようなやわらかいかおりがした。菫や藤のようなあまい花のにおいにも似ていた。

「作り話でもいいわ」
「なににもなれない、世界からはみ出したおとこの話をしよう」
「うん、聞かせて」
「主人公はおんながいいだろうか」
「ううん、いいの、そのまま聞かせて」

おれが話しているあいだ、彼女はおれの瞳やくちびるを、濡れたまなざしで見つめていた。それはいつものような、夢見る瞳とは違う色をしていた。

吐息の熱さもわかる距離で、彼女がおれを見つめる。
羽のようにやわらかなまつげが触れて、そのあと、同じくらいにやわい肌が押し当てられた。
おれのくちびるに触れた、すこし濡れた、鴇色のくちびる。
彼女がおれ以上に瞳を揺らしていたものだから、おれはなにも、言えなかった。

「もう眠ります。明日も早いわ」

彼女に倣い、おれも無言で布団へ入った。
夜なのに空がほのあかるくて、夜目が効くほうではないおれにも、彼女の白いうなじがはっきりと見えた。
眠れないようで、忙しない衣擦れの音が聞こえる。おれもすぐに眠れそうにはなかった。

先ほどのくちびるの感触を思い出してみる。しっとりと濡れた、夢のようにやわらかな肌。揺れる瞳。わずかのすきまを漂う熱い吐息。
彼女は一体なぜ、くちびるを合わせようとなど思ったのだろう。
こころもとない身分で生きていくことへの不安からか。単なる気まぐれだろうか。それとも。


するすると高い衣擦れの音が響いて、彼女がおれの小指の先を握った。
背中を向けていた彼女は、いつのまにか天井を向いており、そしてその身体を、二組の布団の境目ぎりぎりまでに寄せていた。
彼女のいる右側だけがやけにあたたかくてここちよく、そうしているうちに寝落ちてしまっていたようだった。

そして、背中のぬくみに目を覚ましたのだ。

意識を手放していたのはほんのすこしのあいだだったと思う。
そろそろと伸ばされた手のひらに触れてみると、やわらかな肌がぐっと強張るのがわかった。
身体を向けなおすと、自分の布団などはうっちゃらかして、むきだしの身体を横たえる彼女と視線がかち合う。
彼女のちいさな顔はおれの作る影のなかにあって、瞳の色から感情を読み取ることはむつかしかった。

「触られるのはいや」
「滅茶苦茶だ。おれは黙って触られていればいいのか」
「……そうよ」

なんて滅茶苦茶なやつだと一瞬思ったが、彼女の声はとてもせつなげで、やはりなにか事情のあることと思った。

「わたし、据え膳じゃないの」

「わかる」

「手が触れたとき、こわかったわ。冨岡さん、おとこのひとみたいで」

「おとことして見ていなかったということか」

「ちがうの。わたしはあなたを男性だときちんと理解した上で、その上で、あなたを冨岡さんとして見ているんです。でも、あなたはわたしをおんなとしてしか見ていない。わたしはおんなという記号。いきもの。肌を重ねても、わたしはただ一方的に消費されてしまうだけだわ」

「決めつけられるのはあまりいい気分じゃない」

「おんなって、そういうものなのよ。かなしいいきものなのよ」

それきり、おれたちはなにもいわなかった。
おれの伸ばした腕に頭を乗せて、ややうつぶせぎみに頬を肩口へ寄せたまま、彼女はしずかに眠りについた。ほどなくして、おれのまぶたも落ちてきて、長い一日も終わりを迎えた。


夢のなかでもう一度、夢のようなくちづけをした。
そのなかでのおれはえらく饒舌で、こころと喉が直結していて、息を吐くようになんだってほんとうのことを言えた。

すきだと言うと、彼女はうんと目を細めて、花が開くようにほほえんだ。なんと返されたのか、そこで目が覚めたのか、夢の終わりはよく思い出せなかった。