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冬が終わり、春が過ぎて、夏がやって来た。
湿度の高い日が続いた。梅雨の気配を感じる時期になった。
わたしは相変わらず、唐突に泣きだしたくなるような日々のなかにいた。

広い駅の構内で、溢れかえるひとのなかで、今でもわたしは瞬時に彼だけを見分けられるのだと、そう気がついてしまったとき、時間はぴたりと動くのをやめてしまった。
彼は独特のウルフカットのロングヘアではなくて、短い髪型をしていた。
白いうなじがあらわになっていた。
目があって、逃げ出すこともできないまま、わたしはその場から動けずにいた。


「……なまえ」


冨岡さん、と代わりに返事をしたのはしのぶちゃんだった。
わたしは、やっぱり、なにも言えなかった。

義勇さんは、義勇さんの声をしていた。
あのころと変わらない、すこし鼻にかかった、あまくかすれた声だった。何度もわたしの名前をなぞった、わたしの脳をとろけさせる声。だいすきな声。
さよならは言わないでもらった。
聞かなくて済むように、わたしが黙って、出ていったのだ。
聞いてしまえば二度と立ち直れない気がした。
わたしは彼をあいしていた。苦しくなるほど。

「胡蝶、外してほしい。彼女に話しがある」
「伺いを立てるべきはわたしへではないでしょう。話し合うことには賛成ですが、彼女も今は混乱しているようですし、今日のところは解散しましょう。わたしを介して連絡を取り、後日仕切りなおすのが良策かと」

情けないことに、わたしはこの間、頷くことも顔を上げることもできなかった。
ただずっと、ワンピースの裾を握っていた。
義勇さんの視線がわたしの身体をなぞるのを感じる。それだけでわたしは苦しくなる。
こころがあの日々へ帰りたいと、帰りたくないと、騒いでいる。
わたしが彼のものだった日々。
わたしは彼のものだったのに、彼はわたしのものでないという気がいつもしていた。


結局、一度も口を開かないまま、今日はお開きということになった。
あちらが歩き出したのを確認して、わたしはやっと、彼の姿をまじまじと見つめた。
外はねの髪の毛。硬そうに見えるのに、触れるとやわい。
以前は長い髪を持ち上げないと見られなかった白いうなじが、今はこんなにも大勢の前で、無防備にさらされている。
いくつもの夜にこっそりとくちびるを寄せた、すこし湿ったやわらかいうなじ。とびきりあまいにおいのするところ。
彼はバックダーツの入った、グレーのスリムシャツを着ていた。
背骨のゆるやかなカーブ。ウエストがきゅっと細くて、おしりは平らでいつも冷たい。


しのぶちゃんが手を引いてくれて、わたしたちは再び歩き出す。
「ごめんね」とわたしはしばらくぶりに口をきいた。
一度だけ振り返ると、義勇さんもちょうど、こちらを振り返ったところだった。
もうずいぶんと距離があったから、義勇さんのほうからわたしが見えているかはわからなかった。